日本は国家崩壊の一歩手前? 元・税務調査官が紐解く、世界の「脱税」の歴史
国が成り立つために必要な「税金」だが、我々を常に悩ませる存在と言っても過言ではないだろう。市民税に固定資産税、消費税などありとあらゆるものに税金は課されている。しかし税金に悩まされているのはどうやら現代人だけではなかったようだ。古代ギリシャやエジプト、中国・秦の人々が生きていた時代にも税金から逃れるための「脱税」はおこなわれていたという。
「世界中の太古の文献に、脱税に関する記述がでてきます。たとえば、中国を最初に統一した秦の時代の古文書に、脱税に関する罰則が記されているものがありました」
今回ご紹介する書籍『脱税の世界史』(宝島社)の著者は、元税務調査官の大村大次郎氏。同書は「脱税」を通じて世界史をたどるという、少し変わった視点の歴史書(?)だ。先述した中国・秦の始皇帝は「人頭税」を15歳~65歳までの男女に課していたそうだが、遺跡から戸籍をごまかさないよう注意を促す文書が発見されている。このことから年齢をごまかし、嘘の戸籍申告をする者が多くいたと考えられている。
「国家とは税金である」(同書より)
大村氏が同書の冒頭でこう言い切っているように、戦争や革命など国家を揺るがす事象が起きる前には「税制の破綻」がある。第7章「ヨーロッパ市民革命は脱税から始まった」や第8章「脱税業者が起こしたアメリカ独立戦争」の内容は興味深い。
フランス革命は贅沢三昧の王室に業を煮やした民衆が起こした革命と歴史で学ぶが、実際は聖職者と貴族がフランス国内の90%の富を独占していたといわれている。しかも聖職者と貴族に限っては税金も免除されていた。フランスでは土地にかけられる「タイユ税」、現代でいうところの固定資産税に近い税金が国民(主に農民)に課されており、かなり大きな負担となっていた。もちろん貴族と聖職者、及び官僚はタイユ税を免除されていた。
「実は、ルイ16世は、かなり国民思いの国王だったようなのです。というのも、この財政危機に際し、これ以上、国民から税を取らずに、貴族や教会(聖職者)に税を払ってもらおうと考えたからです」(同書より)
ルイ16世は財務長官にスイスの銀行家であるジャック・ネッケルを起用して財政の立て直しを図るが、もちろん貴族と聖職者の反感を買った。ネッケル氏は対抗して「国家の歳入・歳出を公開する」という苦肉の策を講じたのだが、怒りの矛先が王室へと向かってしまいルイ16世は処刑されてしまうことになる。
ユダヤ人を大量虐殺したナチスのヒトラーも節税には苦労していたようだ。ヒトラーの著書『我が闘争』で得た収入は現代の日本でいうと25億円ほど。収入の半分くらいの印税を納めなければならないのだが、実際は3分の1程度しか支払っていなかったという。1933年にナチスが政権を握ると、ミュンヘンの税務署長が忖度して滞納額を帳消しにしたそうだ。
ヒトラーは私たちになじみ深い税金徴収の原型をこの頃に作っている。「源泉徴収」と「扶養控除」の制度だ。労働者にとっては年に1回大きな税金を払うのではなく、毎月少しずつ税金が徴収される負担を感じにくい制度と言えるだろう。国としては会社があらかじめ天引きしてくれるため、取り立ての必要がないというメリットもある。
「労働者は手取り額しか見ませんので、もし手取り額が思ったより少なかったとしても、税金が高いのか、給料が安いのか簡単に判断がつきません。
そのため増税をしやすいのです」(同書より)
国が税金を徴収するシステムは古代も現代とさほど変わらないようだ。むしろ現代の日本よりも先進的だと大村氏が語るのが古代ローマの税制である。古代ローマでは持っている財産によって税率が変わる仕組みがあり、贅沢品(宝石や豪華な馬車など)には最高10倍の税金が課せられていた。
「『富裕層ほど税率を高くする』という累進性を世界各国が採り入れ始めたのは、20世紀に入ってからのことです。日本の消費税などは、現在でも、米もダイヤモンドも同じ税率という非常に雑な仕組みになっています」(同書より)
さらに古代ローマには「戦争税」というものもあった。戦争時、富裕層は国家に融資する義務が課せられていたのだが、戦争に勝って戦利品があった場合は融資した額に応じて「配当」があったという。どの時代も国は税を徴収するために四苦八苦していたようだ。
同書は「脱税と歴史」が主たる構成となっているが、現代の税制も絡めた考察は我々に「今のままでいいのか?」と疑問を投げかける。国家が滅ぶ典型的な道筋として「官僚の腐敗→税収減→埋め合わせのための増税→民が疲弊→国家が崩壊」という流れがあるそうだ。日本はすでに「埋め合わせのための増税」、もしくは「民が疲弊」あたりまできていないだろうか? などと考えてしまった。
国が成り立つために必要な「税金」だが、我々を常に悩ませる存在と言っても過言ではないだろう。市民税に固定資産税、消費税などありとあらゆるものに税金は課されている。しかし税金に悩まされているのはどうやら現代人だけではなかったようだ。古代ギリシャやエジプト、中国・秦の人々が生きていた時代にも税金から逃れるための「脱税」はおこなわれていたという。
「世界中の太古の文献に、脱税に関する記述がでてきます。たとえば、中国を最初に統一した秦の時代の古文書に、脱税に関する罰則が記されているものがありました」
今回ご紹介する書籍『脱税の世界史』(宝島社)の著者は、元税務調査官の大村大次郎氏。同書は「脱税」を通じて世界史をたどるという、少し変わった視点の歴史書(?)だ。先述した中国・秦の始皇帝は「人頭税」を15歳~65歳までの男女に課していたそうだが、遺跡から戸籍をごまかさないよう注意を促す文書が発見されている。このことから年齢をごまかし、嘘の戸籍申告をする者が多くいたと考えられている。
「国家とは税金である」(同書より)
大村氏が同書の冒頭でこう言い切っているように、戦争や革命など国家を揺るがす事象が起きる前には「税制の破綻」がある。第7章「ヨーロッパ市民革命は脱税から始まった」や第8章「脱税業者が起こしたアメリカ独立戦争」の内容は興味深い。
フランス革命は贅沢三昧の王室に業を煮やした民衆が起こした革命と歴史で学ぶが、実際は聖職者と貴族がフランス国内の90%の富を独占していたといわれている。しかも聖職者と貴族に限っては税金も免除されていた。フランスでは土地にかけられる「タイユ税」、現代でいうところの固定資産税に近い税金が国民(主に農民)に課されており、かなり大きな負担となっていた。もちろん貴族と聖職者、及び官僚はタイユ税を免除されていた。
「実は、ルイ16世は、かなり国民思いの国王だったようなのです。というのも、この財政危機に際し、これ以上、国民から税を取らずに、貴族や教会(聖職者)に税を払ってもらおうと考えたからです」(同書より)
ルイ16世は財務長官にスイスの銀行家であるジャック・ネッケルを起用して財政の立て直しを図るが、もちろん貴族と聖職者の反感を買った。ネッケル氏は対抗して「国家の歳入・歳出を公開する」という苦肉の策を講じたのだが、怒りの矛先が王室へと向かってしまいルイ16世は処刑されてしまうことになる。
ユダヤ人を大量虐殺したナチスのヒトラーも節税には苦労していたようだ。ヒトラーの著書『我が闘争』で得た収入は現代の日本でいうと25億円ほど。収入の半分くらいの印税を納めなければならないのだが、実際は3分の1程度しか支払っていなかったという。1933年にナチスが政権を握ると、ミュンヘンの税務署長が忖度して滞納額を帳消しにしたそうだ。
ヒトラーは私たちになじみ深い税金徴収の原型をこの頃に作っている。「源泉徴収」と「扶養控除」の制度だ。労働者にとっては年に1回大きな税金を払うのではなく、毎月少しずつ税金が徴収される負担を感じにくい制度と言えるだろう。国としては会社があらかじめ天引きしてくれるため、取り立ての必要がないというメリットもある。
「労働者は手取り額しか見ませんので、もし手取り額が思ったより少なかったとしても、税金が高いのか、給料が安いのか簡単に判断がつきません。
そのため増税をしやすいのです」(同書より)
国が税金を徴収するシステムは古代も現代とさほど変わらないようだ。むしろ現代の日本よりも先進的だと大村氏が語るのが古代ローマの税制である。古代ローマでは持っている財産によって税率が変わる仕組みがあり、贅沢品(宝石や豪華な馬車など)には最高10倍の税金が課せられていた。
「『富裕層ほど税率を高くする』という累進性を世界各国が採り入れ始めたのは、20世紀に入ってからのことです。日本の消費税などは、現在でも、米もダイヤモンドも同じ税率という非常に雑な仕組みになっています」(同書より)
さらに古代ローマには「戦争税」というものもあった。戦争時、富裕層は国家に融資する義務が課せられていたのだが、戦争に勝って戦利品があった場合は融資した額に応じて「配当」があったという。どの時代も国は税を徴収するために四苦八苦していたようだ。
同書は「脱税と歴史」が主たる構成となっているが、現代の税制も絡めた考察は我々に「今のままでいいのか?」と疑問を投げかける。国家が滅ぶ典型的な道筋として「官僚の腐敗→税収減→埋め合わせのための増税→民が疲弊→国家が崩壊」という流れがあるそうだ。日本はすでに「埋め合わせのための増税」、もしくは「民が疲弊」あたりまできていないだろうか? などと考えてしまった。
【公演Note230922】
公演名:HKT48 TeamH『目撃者』
堺萌香生誕祭
日時:2023年9月22日 18時30分~20時半
場所:福岡県博多市 HKT48劇場
整理番号、入場順:81番
座席:センターブロック 5列目真ん中右
出演:荒巻美咲・石橋颯・市村愛里・伊藤優絵瑠・運上弘菜・川平聖・栗原紗英・堺萌香・坂本りの・豊永阿紀・最上奈那華・梁瀬鈴雅・山内祐奈・今村麻莉愛・江口心々華・福井可憐
本当に幾つもの幸運が重なり、行ける事になったHKT48の推しメン、オイモチャン(堺萌香)の生誕祭。2018年2月から推させてもらっているが、生誕祭は参加した事が無かったので、どうしても行きたかった。座席は5列目の真ん中ちょい右。4列目と5列目の間に1.5mくらいの通路があり、見やすいと同時に見つけて貰いやすい席。当日のMobile Mailで、オイモチャンから「私以外のメンバーみんなにもちゃんとcallして」とのお願い通り、公演ド頭からいもだち(堺オタの総称)全開。中泰ではもう経験する事が無くなった、会場一体での重低音Callに、MC毎にいろんなメンバーからお褒めの言葉を頂けた。Unitは《腕を組んで》と《⭐︎の向こう側》。《美しい人》ではオイモチャンの初台詞も聞けたり、《摩天楼、、、》《ずっとずっと》では立ち位置が目の前だった。
卒業しそうな雰囲気は無いが、同期がここまで辞めてしまうとオイモチャンも、と思ってしまう。弘菜の手紙に笑ったり泣いたりしながら楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がついたら終わって外に出てうどん屋ウエストでグツグツと煮え過ぎるもつ鍋を眺めていた。公演は良く見ている方だと思うが、あまりこう言う経験は過去に1度、2017年3月末のN3公演千秋楽くらいしか無い。
この日は座席、周囲の人、その他諸々において巡り合わせが良く、公演中もオイモチャンがかなり何度も正面に来て、欲しいところでレスを頂けた。この公演に参加出来て、本当にラッキーだった。
【気になった曲】摩天楼、ずっとずっとが楽し過ぎるのは当たり前なので、他に気になった曲を。
《憧れのポップスター》:
最早定番となった出だしの「あ〜xx可愛い」Call、センターの弘菜コールが力一杯出来てちょっと嬉しかった[可爱]
《⭐︎の向こう側》:
個人的には48曲の中でもかなりmelodyが好きな曲。重低音がたまらない。この曲でオイモチャン見たいなあと思っていたのですが、出てきた時は沸いた[哈哈]
《Pioneer》:
現時点では今年イチバン気持ち良い大重低音Call曲。やっぱりこういう熱血曲は最高だ[哈哈]
【気になったメンバー】
・栗原紗英
向こうは絶対覚えて無いと思うけど、じーな(神志那結衣)推し時代の元2推し。すっかりお姫様キャラが板についているが、《サボテンとゴールドラッシュ》で段取りを間違えてしまってあたふたしたのがなんか可愛かった。
・豊永阿紀
とてもしっかりしたキャプテンで、特に歌唱力もMCが抜群。「あまりこういう事普段は言わないけど、同期のお姉ちゃん達(オイモ、弘菜、8月に卒業したODA)が同じTeamに居て助けてくれたから、私はTeamHのキャプテンが出来ている」とのコメントが、生誕祭MC部分のクライマックスだった。
・梁瀬鈴雅
すらっとしたルックスと30種類の楽器が弾ける非凡な音楽センス。歌割りがオイモチャンとペアになることが何度かあり、並んだ時にその身長差に皆がざわついた。表現力はえぐっちゃん(江口心々華)に次いで6期生No.2では。HKTメンはノウハウがあるのか、長い手足をうまく活かしているメンバーが多いが、鈴雅ちゃんもピカイチ。
【MVP】堺萌香
一見地味に見えるかも知れないが、丁寧さや物腰(の柔らかさ)、人の気持ちを大事にしている人。他人のコメントの中のオイモチャンを知るたび、自分の選球眼に狂いはない、と自信を持たせてくれる。《美しい人》の台詞が心に響いて落涙する日が来るとは思ってもみなかった。
【裏MVP】運上弘菜
《目撃者》のイントロ、真っ先に身体を起こした弘菜の顔を見た瞬間、劇場で見るのはもうこれが最後なんだと思うとブワッと涙が吹き出した。お手紙コーナーでの可愛いらしい「おとぼけ」でちょっとだけ湿っぽくなった雰囲気をパッと明るく変えたのはアイドル、運上弘菜の真骨頂だったと思う。可愛くて、面白くて、そして超絶美しい
弘菜については昔から今までず〜〜〜っと思っている事がある。10月5日の卒業コンサートを見て、思いが変わらなければ、記録として書き残したい。
公演名:HKT48 TeamH『目撃者』
堺萌香生誕祭
日時:2023年9月22日 18時30分~20時半
場所:福岡県博多市 HKT48劇場
整理番号、入場順:81番
座席:センターブロック 5列目真ん中右
出演:荒巻美咲・石橋颯・市村愛里・伊藤優絵瑠・運上弘菜・川平聖・栗原紗英・堺萌香・坂本りの・豊永阿紀・最上奈那華・梁瀬鈴雅・山内祐奈・今村麻莉愛・江口心々華・福井可憐
本当に幾つもの幸運が重なり、行ける事になったHKT48の推しメン、オイモチャン(堺萌香)の生誕祭。2018年2月から推させてもらっているが、生誕祭は参加した事が無かったので、どうしても行きたかった。座席は5列目の真ん中ちょい右。4列目と5列目の間に1.5mくらいの通路があり、見やすいと同時に見つけて貰いやすい席。当日のMobile Mailで、オイモチャンから「私以外のメンバーみんなにもちゃんとcallして」とのお願い通り、公演ド頭からいもだち(堺オタの総称)全開。中泰ではもう経験する事が無くなった、会場一体での重低音Callに、MC毎にいろんなメンバーからお褒めの言葉を頂けた。Unitは《腕を組んで》と《⭐︎の向こう側》。《美しい人》ではオイモチャンの初台詞も聞けたり、《摩天楼、、、》《ずっとずっと》では立ち位置が目の前だった。
卒業しそうな雰囲気は無いが、同期がここまで辞めてしまうとオイモチャンも、と思ってしまう。弘菜の手紙に笑ったり泣いたりしながら楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がついたら終わって外に出てうどん屋ウエストでグツグツと煮え過ぎるもつ鍋を眺めていた。公演は良く見ている方だと思うが、あまりこう言う経験は過去に1度、2017年3月末のN3公演千秋楽くらいしか無い。
この日は座席、周囲の人、その他諸々において巡り合わせが良く、公演中もオイモチャンがかなり何度も正面に来て、欲しいところでレスを頂けた。この公演に参加出来て、本当にラッキーだった。
【気になった曲】摩天楼、ずっとずっとが楽し過ぎるのは当たり前なので、他に気になった曲を。
《憧れのポップスター》:
最早定番となった出だしの「あ〜xx可愛い」Call、センターの弘菜コールが力一杯出来てちょっと嬉しかった[可爱]
《⭐︎の向こう側》:
個人的には48曲の中でもかなりmelodyが好きな曲。重低音がたまらない。この曲でオイモチャン見たいなあと思っていたのですが、出てきた時は沸いた[哈哈]
《Pioneer》:
現時点では今年イチバン気持ち良い大重低音Call曲。やっぱりこういう熱血曲は最高だ[哈哈]
【気になったメンバー】
・栗原紗英
向こうは絶対覚えて無いと思うけど、じーな(神志那結衣)推し時代の元2推し。すっかりお姫様キャラが板についているが、《サボテンとゴールドラッシュ》で段取りを間違えてしまってあたふたしたのがなんか可愛かった。
・豊永阿紀
とてもしっかりしたキャプテンで、特に歌唱力もMCが抜群。「あまりこういう事普段は言わないけど、同期のお姉ちゃん達(オイモ、弘菜、8月に卒業したODA)が同じTeamに居て助けてくれたから、私はTeamHのキャプテンが出来ている」とのコメントが、生誕祭MC部分のクライマックスだった。
・梁瀬鈴雅
すらっとしたルックスと30種類の楽器が弾ける非凡な音楽センス。歌割りがオイモチャンとペアになることが何度かあり、並んだ時にその身長差に皆がざわついた。表現力はえぐっちゃん(江口心々華)に次いで6期生No.2では。HKTメンはノウハウがあるのか、長い手足をうまく活かしているメンバーが多いが、鈴雅ちゃんもピカイチ。
【MVP】堺萌香
一見地味に見えるかも知れないが、丁寧さや物腰(の柔らかさ)、人の気持ちを大事にしている人。他人のコメントの中のオイモチャンを知るたび、自分の選球眼に狂いはない、と自信を持たせてくれる。《美しい人》の台詞が心に響いて落涙する日が来るとは思ってもみなかった。
【裏MVP】運上弘菜
《目撃者》のイントロ、真っ先に身体を起こした弘菜の顔を見た瞬間、劇場で見るのはもうこれが最後なんだと思うとブワッと涙が吹き出した。お手紙コーナーでの可愛いらしい「おとぼけ」でちょっとだけ湿っぽくなった雰囲気をパッと明るく変えたのはアイドル、運上弘菜の真骨頂だったと思う。可愛くて、面白くて、そして超絶美しい
弘菜については昔から今までず〜〜〜っと思っている事がある。10月5日の卒業コンサートを見て、思いが変わらなければ、記録として書き残したい。
劉備と孫権は、なぜ土地を分け合ったのか。関羽と魯粛の会談「短刀会」は、どちらが得した?
単刀会(たんとうかい)をご存じだろうか? 単刀赴会とも呼ばれるもので、西暦215年に行われた、魯粛(ろしゅく)と関羽(かんう)による会見である。益州を得た劉備(蜀)と、孫権(呉)との間で、荊州南部(荊南)の帰属をめぐる紛争に決着をつけようというものであった。
「荊州問題」は、さかのぼること数年前に端を発していた。
赤壁大戦後に孫権軍の周瑜(しゅうゆ)が、劉備軍の加勢も得て南郡(江陵)を1年かけて攻略し、曹仁(そうじん)を荊北(襄陽)へと追い払った。ここから、両軍の紛争につながる駆け引きが始まる。重ねて注意したいのは、ここで出てくる「荊州」とは南郡や江夏郡を中心とした荊州南部(荊南)のこと。襄陽を中心とする北部(荊北)は依然、曹操軍が領していた。
やや複雑なので、正史『三国志』(先主伝・孫権伝・周瑜伝・魯粛伝)や引用文の『江表伝』などから時系列を追っていきたい。
▼209年(赤壁の戦いの1年後)、孫権が周瑜を南郡(江陵)太守に、程普を江夏郡の太守に任命。周瑜は共闘の礼として劉備に公安県を預けた(駐屯させたとも受け取れる)。
同年、劉備は周瑜の手勢を借りて荊南の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を攻略。のち孫権と会見、これら四郡の借り受けたとされる。
周瑜や呂範は「劉備を呉に引き留めるべき」と言ったが、孫権は魯粛の言葉に従い、劉備を帰して先の四郡を守らせた。さらに孫権は妹(孫夫人)を劉備に嫁がせて手なずけようした。
▼210年、周瑜が益州(蜀)遠征の準備中に急逝。後任の魯粛は、孫権の許可を得て劉備に江陵を預けた。以後、江陵には関羽が駐在。魯粛は陸口(長沙)に駐在した。孫権は蜀遠征を劉備に提案するが、劉備は自分が蜀を欲しいため、言葉巧みに中止させる。
▼211年、劉備は関羽を江陵に残し、自軍のみで益州(蜀)に遠征。孫権は立腹したが、魯粛がそれをなだめた(その間、孫権は曹操軍と合肥・濡須口で交戦。荊州を魯粛・劉備に任せざるを得なかった)。3年後(214)、劉備は劉璋を降伏させ、蜀を攻略。
▼215年、孫権は諸葛瑾を使者として「荊南を返せ」と劉備に要求。「涼州を取ってから」との劉備の返答に業を煮やし、呂蒙に兵2万を預けて三郡(長沙・零陵・桂陽)を奪い取らせた。(215年・地図参照)
▼これに対し、関羽が3万の兵で益陽に進軍し、魯粛や甘寧と対峙していた。孫権も陸口まで出張って劉備にプレッシャーをかける。劉備も公安まで戻り、両軍にらみ合いになった。
あわや孫権・劉備は一触即発。赤壁以来つづけてきた同盟崩壊の危機となる。そこで魯粛は関羽に「会見」を申し入れた。それまで同様、あくまで劉備側とは「交渉」で状況を打開しようとしたのである。
■短刀会は結局、なんら成果がなかった?
「肅邀羽相見、各駐兵馬百歩上、但請將軍單刀倶會。」(魯粛伝)
魯粛と関羽は、それぞれ短刀一本を帯び、側近数名ずつを連れただけで顔を合わせた。なんとも緊張感に満ちた会見である。
小説『三国志演義』では、この短刀会の場面は、ただ関羽の豪胆さを示すために描かれる。魯粛は関羽を宴席に招き、三郡返還に応じない場合は潜ませていた兵で殺そうと企むのだが、いざ関羽が来るとビビッて実行できない。関羽は「蜀の問題は俺にはわからん。国家の大事はこんな宴席で決めるべきではない」と投げやり。
そして宴もたけなわになると、魯粛の腕をつかんで岸辺まで引っ張っていって、甘寧らが手出しできないうちにその場から舟に乗って立ち去ってしまう。
正史(魯粛伝)では、もちろん様相が異なる。魯粛が「わが方が荊州を貸与したのは、劉備殿が基盤も持たなかったからだ。いま蜀を得たのに劉備殿は土地を返そうとしない」と、切々と関羽に説き、関羽はそれにただ耳を傾けているだけだったらしい。「演義」とは異なり、魯粛が豪胆な人であったことがわかるが、ただこの会見だけで劉備側が完全譲歩したのかはわからない。
結果的に、この領土問題を一応解決したのは曹操の漢中侵攻だった。知らせを受け、慌てた劉備は孫権に譲歩案を申し入れた。湘江(湘水)を大まかな分岐点として荊南を分割。東側の江夏郡および長沙・桂陽を孫権が、西側の南郡(江陵)および武陵・零陵を劉備が領有するというかたちで話がまとまったのである。
特筆すべきは、一度は奪われた三郡のうち零陵が劉備領に返されたところで、劉備にとって大きなメリットといえた。
■孫権は本当に劉備に土地を貸していた?
そもそも「荊州を貸与した」というのは、主に孫権陣営の見方で、劉備陣営にその気はなかったのかもしれない。ただ赤壁の戦いと、その後の四郡支配は孫権の助力あってこそという負い目はあったのだろう。
いっぽうで、孫権陣営も元々は荊州を支配していたわけではなかったし、統治を任せておいて「返還」を要求するというのも、今ひとつ説得力に欠けた。こうした互いの正当性と利害関係のせめぎあいの結果が、荊南分割だったのであろう。そう考えると「短刀会」は、単に関羽がやり込められただけではなかったのかもしれず「演義」の描写も嘘ばかりではないのかもしれない。
孫権としては、おそらく荊南四郡すべてを手のうちに収めたかったところだろうが、妥協せざるを得なかった。ただ少なくとも荊州の半分の権益は確保できたから良しとしたのだろう。ただし、当初は支配下に置いて曹操の備えにしようと考えていた劉備が、ここまで大きくなるとは想定外で、最大の誤算だったに相違ない。
その後の展開について、魯粛はどう考えていたのだろうか。それも2年後の217年、彼が46歳で急逝し、わからなくなった。いずれにせよ彼の死で劉備との和平政策が破綻の兆しを見せたのは確かであった。
後任として陸口に赴任した呂蒙は周瑜にも似た武断派であったが、最初のうちは関羽と親密に接し、孫権側からも関羽を懐柔しようと縁談が持ち込まれた。だが、それを関羽が断ったことで両陣営の関係は悪化の一途をたどってゆく。
「土地とは、ただ徳のある者に帰すのみで、なんら所有が定まっているものではない」(夫、土地者、惟德所在耳。何常之有)
魯粛伝にある、この言葉は短刀会の座にあった一人の人物が発したものだ。おそらく関羽の側近と思われ「演義」では周倉の役割となっている。両陣営の利害がぶつかり合う場ゆえに、魯粛と関羽の一喝で声の主は「場違い」として退席させられるのみで、なんら意味を持たない。
しかし、誰もがハッとする一言であったからこそ、この言葉は正史に書き留められたように思える。「土地」とは本来、誰のものなのか・・・。権力者が弱者をねじ伏せ、奪う行為は正当化されて良いのか。徳あるものが所有者なら誰もが納得するのか。膨大な『三国志』の短い一節ながら、現代人も無関係ではいられない問題である。
上永哲矢
単刀会(たんとうかい)をご存じだろうか? 単刀赴会とも呼ばれるもので、西暦215年に行われた、魯粛(ろしゅく)と関羽(かんう)による会見である。益州を得た劉備(蜀)と、孫権(呉)との間で、荊州南部(荊南)の帰属をめぐる紛争に決着をつけようというものであった。
「荊州問題」は、さかのぼること数年前に端を発していた。
赤壁大戦後に孫権軍の周瑜(しゅうゆ)が、劉備軍の加勢も得て南郡(江陵)を1年かけて攻略し、曹仁(そうじん)を荊北(襄陽)へと追い払った。ここから、両軍の紛争につながる駆け引きが始まる。重ねて注意したいのは、ここで出てくる「荊州」とは南郡や江夏郡を中心とした荊州南部(荊南)のこと。襄陽を中心とする北部(荊北)は依然、曹操軍が領していた。
やや複雑なので、正史『三国志』(先主伝・孫権伝・周瑜伝・魯粛伝)や引用文の『江表伝』などから時系列を追っていきたい。
▼209年(赤壁の戦いの1年後)、孫権が周瑜を南郡(江陵)太守に、程普を江夏郡の太守に任命。周瑜は共闘の礼として劉備に公安県を預けた(駐屯させたとも受け取れる)。
同年、劉備は周瑜の手勢を借りて荊南の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を攻略。のち孫権と会見、これら四郡の借り受けたとされる。
周瑜や呂範は「劉備を呉に引き留めるべき」と言ったが、孫権は魯粛の言葉に従い、劉備を帰して先の四郡を守らせた。さらに孫権は妹(孫夫人)を劉備に嫁がせて手なずけようした。
▼210年、周瑜が益州(蜀)遠征の準備中に急逝。後任の魯粛は、孫権の許可を得て劉備に江陵を預けた。以後、江陵には関羽が駐在。魯粛は陸口(長沙)に駐在した。孫権は蜀遠征を劉備に提案するが、劉備は自分が蜀を欲しいため、言葉巧みに中止させる。
▼211年、劉備は関羽を江陵に残し、自軍のみで益州(蜀)に遠征。孫権は立腹したが、魯粛がそれをなだめた(その間、孫権は曹操軍と合肥・濡須口で交戦。荊州を魯粛・劉備に任せざるを得なかった)。3年後(214)、劉備は劉璋を降伏させ、蜀を攻略。
▼215年、孫権は諸葛瑾を使者として「荊南を返せ」と劉備に要求。「涼州を取ってから」との劉備の返答に業を煮やし、呂蒙に兵2万を預けて三郡(長沙・零陵・桂陽)を奪い取らせた。(215年・地図参照)
▼これに対し、関羽が3万の兵で益陽に進軍し、魯粛や甘寧と対峙していた。孫権も陸口まで出張って劉備にプレッシャーをかける。劉備も公安まで戻り、両軍にらみ合いになった。
あわや孫権・劉備は一触即発。赤壁以来つづけてきた同盟崩壊の危機となる。そこで魯粛は関羽に「会見」を申し入れた。それまで同様、あくまで劉備側とは「交渉」で状況を打開しようとしたのである。
■短刀会は結局、なんら成果がなかった?
「肅邀羽相見、各駐兵馬百歩上、但請將軍單刀倶會。」(魯粛伝)
魯粛と関羽は、それぞれ短刀一本を帯び、側近数名ずつを連れただけで顔を合わせた。なんとも緊張感に満ちた会見である。
小説『三国志演義』では、この短刀会の場面は、ただ関羽の豪胆さを示すために描かれる。魯粛は関羽を宴席に招き、三郡返還に応じない場合は潜ませていた兵で殺そうと企むのだが、いざ関羽が来るとビビッて実行できない。関羽は「蜀の問題は俺にはわからん。国家の大事はこんな宴席で決めるべきではない」と投げやり。
そして宴もたけなわになると、魯粛の腕をつかんで岸辺まで引っ張っていって、甘寧らが手出しできないうちにその場から舟に乗って立ち去ってしまう。
正史(魯粛伝)では、もちろん様相が異なる。魯粛が「わが方が荊州を貸与したのは、劉備殿が基盤も持たなかったからだ。いま蜀を得たのに劉備殿は土地を返そうとしない」と、切々と関羽に説き、関羽はそれにただ耳を傾けているだけだったらしい。「演義」とは異なり、魯粛が豪胆な人であったことがわかるが、ただこの会見だけで劉備側が完全譲歩したのかはわからない。
結果的に、この領土問題を一応解決したのは曹操の漢中侵攻だった。知らせを受け、慌てた劉備は孫権に譲歩案を申し入れた。湘江(湘水)を大まかな分岐点として荊南を分割。東側の江夏郡および長沙・桂陽を孫権が、西側の南郡(江陵)および武陵・零陵を劉備が領有するというかたちで話がまとまったのである。
特筆すべきは、一度は奪われた三郡のうち零陵が劉備領に返されたところで、劉備にとって大きなメリットといえた。
■孫権は本当に劉備に土地を貸していた?
そもそも「荊州を貸与した」というのは、主に孫権陣営の見方で、劉備陣営にその気はなかったのかもしれない。ただ赤壁の戦いと、その後の四郡支配は孫権の助力あってこそという負い目はあったのだろう。
いっぽうで、孫権陣営も元々は荊州を支配していたわけではなかったし、統治を任せておいて「返還」を要求するというのも、今ひとつ説得力に欠けた。こうした互いの正当性と利害関係のせめぎあいの結果が、荊南分割だったのであろう。そう考えると「短刀会」は、単に関羽がやり込められただけではなかったのかもしれず「演義」の描写も嘘ばかりではないのかもしれない。
孫権としては、おそらく荊南四郡すべてを手のうちに収めたかったところだろうが、妥協せざるを得なかった。ただ少なくとも荊州の半分の権益は確保できたから良しとしたのだろう。ただし、当初は支配下に置いて曹操の備えにしようと考えていた劉備が、ここまで大きくなるとは想定外で、最大の誤算だったに相違ない。
その後の展開について、魯粛はどう考えていたのだろうか。それも2年後の217年、彼が46歳で急逝し、わからなくなった。いずれにせよ彼の死で劉備との和平政策が破綻の兆しを見せたのは確かであった。
後任として陸口に赴任した呂蒙は周瑜にも似た武断派であったが、最初のうちは関羽と親密に接し、孫権側からも関羽を懐柔しようと縁談が持ち込まれた。だが、それを関羽が断ったことで両陣営の関係は悪化の一途をたどってゆく。
「土地とは、ただ徳のある者に帰すのみで、なんら所有が定まっているものではない」(夫、土地者、惟德所在耳。何常之有)
魯粛伝にある、この言葉は短刀会の座にあった一人の人物が発したものだ。おそらく関羽の側近と思われ「演義」では周倉の役割となっている。両陣営の利害がぶつかり合う場ゆえに、魯粛と関羽の一喝で声の主は「場違い」として退席させられるのみで、なんら意味を持たない。
しかし、誰もがハッとする一言であったからこそ、この言葉は正史に書き留められたように思える。「土地」とは本来、誰のものなのか・・・。権力者が弱者をねじ伏せ、奪う行為は正当化されて良いのか。徳あるものが所有者なら誰もが納得するのか。膨大な『三国志』の短い一節ながら、現代人も無関係ではいられない問題である。
上永哲矢
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