東北大学と連携協定を締結
2024年2月16日(金)、大阪公立大学と東北大学は、両大学のそれぞれの特色及び教育研究資源を活かし、相互に連携及び協力することで、有為な人材の育成や教育の充実、研究の推進に寄与することを目的に連携協定を締結し、締結式を行いました。https://t.cn/A6YSrRpu
2024年2月16日,大阪公立大学与东北大学缔结合作协定,并举行了签约仪式。为了培养更优秀的人才,优化教育,推进各项研究,两校将利用各自特色和教育研究资源,相互合作。
2024年2月16日(金)、大阪公立大学と東北大学は、両大学のそれぞれの特色及び教育研究資源を活かし、相互に連携及び協力することで、有為な人材の育成や教育の充実、研究の推進に寄与することを目的に連携協定を締結し、締結式を行いました。https://t.cn/A6YSrRpu
2024年2月16日,大阪公立大学与东北大学缔结合作协定,并举行了签约仪式。为了培养更优秀的人才,优化教育,推进各项研究,两校将利用各自特色和教育研究资源,相互合作。
今川氏真の歴史
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
時代に適さなかった?
今川氏真の生涯
今川氏真誕生時の時代背景とは
今川氏真は、1538年(天文7年)に駿河国(現在の静岡県中部・北東部)守護である今川家の嫡男として誕生しました。
母の「定恵院」(じょうけいいん)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護である「武田信虎」(たけだのぶとら)の長女で、今川氏真が誕生する前年の1537年(天文6年)に今川義元に嫁いでいました。
この婚姻は、今川氏と武田氏の「甲駿同盟」(こうすんどうめい)によるもので、当時まだ家督を継承したばかりの今川義元は、定恵院との結婚で武田氏との関係を強固にする必要があったのです。
しかし、父である今川義元は武田氏との同盟を強めたことで、「駿相同盟」(すんそうどうめい)を結ぶ相模国(現在の神奈川県)の「北条氏綱」(ほうじょううじつな)との関係を悪化させてしまいます。
そのため、今川氏真が誕生した頃の今川家は、北条軍の駿河侵攻に苦戦を強いられることに。
さらに、今川家臣団の内部抗争も抱えていた他、尾張国(現在の愛知県西部)の織田氏による侵攻にも備えなくてはならず、当時の今川家は窮地に立たされていたのです。
ところが、1545年(天文14年)に関東管領(室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名)の上杉氏と同盟を結ぶと、今川義元は北条氏に対して一気に形勢逆転し、領土を取り返します。
その後、北条氏は関東への侵攻に転換したため、今川義元はピンチを切り抜け、東海で勢力を伸ばしていきました。
今川家の衰退を止められなかった今川氏真
1554年(天文23年)、今川氏真は北条氏綱の跡を継いだ「北条氏康」(ほうじょううじやす)の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。これにより、今川氏、武田氏、北条氏が婚姻関係で繋がり、「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。
1558年(永禄元年)頃に父の今川義元から家督を譲られ、今川氏真は今川家12代当主として領国経営を任されるのです。
しかし、家督継承直後の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で父の今川義元が戦死し、重臣も多数失うなど、今川氏真は織田信長に大敗を喫します。
この敗戦がきっかけで、父が築いてきた今川家の体制は大きく崩れ、家臣や領民達から不満の声が上がるようになっていきました。
また、今川家臣として戦っていた「松平元康」(のちの徳川家康)が「岡崎城」(愛知県岡崎市)に入り、今川家からの独立を目指すと、これに追従して多くの家臣が離反を表明。
今川氏真は経済政策などを打ち出し、領内の混乱を収めようとしましたが、父のように当主としての才覚を発揮できず、今川家の衰退を止めることはできませんでした。
その後、武田氏との同盟が解消されると、甲斐の「武田信玄」、三河の徳川家康から侵攻を受け、駿河の領土は制圧されてしまいます。
1569年(永禄12年)に「掛川城」(静岡県掛川市)を開城して徳川家康に降伏したことで、駿河・遠江両国を失い、大名としての今川家は滅亡の道を辿りました。
文化人として暮らした後半生
その後、今川氏真は正室・早川殿の実家である関東の北条家を頼りましたが、武田氏と北条氏が再び同盟を組むと、徳川家康の臣下として戦国期を過ごしました。
こうして、かつて人質となっていた徳川家康と今川家の関係は、完全に逆転してしまったのです。そして、この頃から今川氏真は文化人として道を歩み始めます。
今川氏真は428首からなる私歌集「今川氏真詠草」(いまがわうじざねえいそう)の他、多くの和歌を残しました。
この和歌集によると、1575年(天正3年)に京都へ旅をして社寺を参詣する様子が伝えられています。また、京都では桶狭間で争った織田信長と対面しており、このとき織田信長の前で蹴鞠(けまり)を披露したというエピソードも。
さらに、今川氏真は1591年(天正19年)までの間に京都へ移住し、文化人として「仙巌斎」(せんがんさい)と称しています。徳川家康に庇護されながら、京都で公家などの文化人と交流し、和歌会や連歌の会に頻繁に参加するなど、文化人としての人生を謳歌していました。今川氏真という人物は、戦や政治よりも文芸に秀でた人間だったのでしょう。
1613年(慶長18年)に正室である早川殿の最期を看取ったあと、1614年(慶長19年)に今川氏真は77歳でこの世を去りました。
このような今川氏真の文化人としての才覚は、その後の今川家にも受け継がれ、泰平の世となった江戸時代に活かされることとなります。
今川氏真の子や孫も徳川家に出仕し、朝廷や公家との交渉役として能力を発揮したことで、高家旗本(こうけはたもと:幕府の儀式などを司る役職の旗本)の家柄となっていったのです。
文芸に現(うつつ)を抜かす「暗君」と呼ばれた今川氏真でしたが、結果的には今川家の未来を明るくした人物でもありました。
今川氏真の辞世の句と墓所
後半生を文化人として過ごした今川氏真は、生涯で1,700首にも及ぶ和歌を詠んでおり、辞世の句も残しています。
「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」という句で、「この世も人も恨まない。時代に合っていなかったということが、我が身の罪であるのだから」といった内容です。
今川氏真自身も、戦国の世が自分の性格に合っていないことを自覚していたのでしょう。戦国大名のもとに生まれていなければ、今川氏真の人生は大きく変わっていたかもしれません。
また、晩年を子や孫のいる江戸で過ごした今川氏真は、正室の早川殿とともに眠る墓所が東京都に残されています。
今川氏真の孫である「今川直房」(いまがわなおふさ)が高家旗本として出世した際、朝廷より与えられた知行地にあった寺院を今川家の菩提寺とし、「観泉寺」(かんせんじ:東京都杉並区今川)と改めました。
そして、江戸(杉並区下井草)にあった今川氏真と早川殿の墓所を移転させ、今川氏真を観泉寺の開基としたと伝えられています。現在、観泉寺付近の地名となっている「今川」の由来にもなりました。境内の今川氏真以降歴代当主が眠る「今川氏累代の墓」は、東京都の旧跡に指定されています。
三星堆遺跡
概要
紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである。三星堆遺跡自体は、1929年の春に当地の農民が溝を掘っていた際に玉器を見つけたことで、1931年にイギリス人牧師であるVyvyan Henry Donnithorneによって発見されていた。しかし、長く本格的な発掘はなされず、1980 - 1981年に、初めて四川省文物委員会等により本格的な発掘調査が行われて、大規模な住居跡が発見された。以後、発掘が継続して行われ、1985年10月までに、東・西城壁跡が発見されて、本遺跡が古蜀王国の都城跡と見られるようになった。さらに、1986年には本遺跡の上限が約5,000年前と見られるようになった。また、各種の貴重な玉器・金器・青銅器等が出土し、以上の成果により、1988年1月、国務院は本遺跡を全国重点文物保護単位に指定した。発掘調査はさらに継続され、1996年秋には日中合同の磁気探査などの科学的調査が行われた。2005年に基本的な発掘調査を終え、現在整理研究中である。以上の発掘調査で、本遺跡は東城壁跡約1,100メートル(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180メートル・西城壁跡約600メートルが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、のべ2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4,800 - 4,000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。第2・3期は4,000 - 3,200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。第4期は3,200 - 2,800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5,000 - 6,000メートル、南に2,000 - 3,000メートルに広がり、総面積約12平方キロメートルで、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6平方キロメートルである。
三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3・4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を証明する有力な証拠となった。
考古遺物
出土する考古遺物は全て三星堆博物館(中国語版)が所蔵している。日本語名で表すことを基本とするが、確認できないものが多い。
青銅人頭像
青銅製の頭部および頸部で構成された人頭像は、様々に異なる造形物が数多く出土している。
貼金銅人頭像
「戴金面罩銅人頭像」などとも称。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像のことで、様々に異なる造形物が数多く出土している。三星堆文化の代表的な考古遺物として紹介されることが多い。頭頂の形によって「平頂貼金銅人頭像」「丸頂貼金銅人頭像」などと呼び分ける。
青銅縦目仮面
世界最大の青銅製仮面。異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つ。中国語名は「青铜纵目面具(青銅縦目面具)」、日本語名は「青銅縦目仮面」「縦目青銅仮面」「青銅縦目面具」など。幅138センチメートル、高さ64.5センチメートル。大きな耳と、奇妙に突き出した眼(瞳孔)を具えており、はるか彼方をも見通す神の顔を表したものと考えられている。突出した瞳孔は長さ16.5センチメートル、径9センチメートル。額の中央に穴が開いているが、後述する「青銅戴冠縦目仮面」に見られるような額飾り(冠)が取り付けられているのが本来の形で、それが失われたものと考えられている。口は微笑みをたたえている。1986年に二号祭祀杭より出土した。二展庁展示品。
青銅戴冠縦目仮面
大きな耳と突出した眼を具えた神の頭部をかたどった仮面で、額から真上に向けて伸張する長大な額飾り(冠)を有する。日本語名は「青銅戴冠縦目仮面」「青銅戴冠縦目面具」など。殷代晩期のもので、幅78センチメートル、高さ82.5センチメートル。1986年に二号祭祀杭より出土。二展庁展示品。
青銅神樹
三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土した青銅製の扶桑樹。中国語名「青铜神树(青銅神樹)」(雅名「通天神樹」)、日本語名「青銅神樹」。殷代晩期のもので、全高396センチメートル、像高(樹高)384センチメートル。3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しており、それぞれの枝に1羽、全部で9羽の霊鳥が留まっている。枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っている。
青銅立人像
世界最大の青銅製人物立像。直線的な造形をした高さ約260センチメートルの像。殷代晩期のもので、全高261センチメートル、像高172センチメートル、総重量180キログラム。1986年に二号祭祀杭より出土した。丈の長い衣裳を身にまとった祭司の姿であり、巨大な両手で何かを抱え持っていたと思われるが、その何かは欠損している。他の出土物から推定して、儀杖であった可能性が高い。三展庁展示品。。
青銅大鳥頭(中国語版)
鵜の頭部をかたどった高さ40.3センチメートルの祭具。中国語名「青铜大鸟头(青銅大鳥頭)」。
青銅人身形器(中国語版)
全高46.4センチメートル。人体をかたどった青銅製立像であるが、頭部は無く、用途は推測しがたい。中国語名「青铜人身形器(青銅人身形器)」。
儀杖を持つ祭司像
権威の象徴と思われる儀式用の杖を両手で抱え持つ4人の祭司をかたどった青銅製の小さな立像。
概要
紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである。三星堆遺跡自体は、1929年の春に当地の農民が溝を掘っていた際に玉器を見つけたことで、1931年にイギリス人牧師であるVyvyan Henry Donnithorneによって発見されていた。しかし、長く本格的な発掘はなされず、1980 - 1981年に、初めて四川省文物委員会等により本格的な発掘調査が行われて、大規模な住居跡が発見された。以後、発掘が継続して行われ、1985年10月までに、東・西城壁跡が発見されて、本遺跡が古蜀王国の都城跡と見られるようになった。さらに、1986年には本遺跡の上限が約5,000年前と見られるようになった。また、各種の貴重な玉器・金器・青銅器等が出土し、以上の成果により、1988年1月、国務院は本遺跡を全国重点文物保護単位に指定した。発掘調査はさらに継続され、1996年秋には日中合同の磁気探査などの科学的調査が行われた。2005年に基本的な発掘調査を終え、現在整理研究中である。以上の発掘調査で、本遺跡は東城壁跡約1,100メートル(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180メートル・西城壁跡約600メートルが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、のべ2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4,800 - 4,000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。第2・3期は4,000 - 3,200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。第4期は3,200 - 2,800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5,000 - 6,000メートル、南に2,000 - 3,000メートルに広がり、総面積約12平方キロメートルで、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6平方キロメートルである。
三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3・4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を証明する有力な証拠となった。
考古遺物
出土する考古遺物は全て三星堆博物館(中国語版)が所蔵している。日本語名で表すことを基本とするが、確認できないものが多い。
青銅人頭像
青銅製の頭部および頸部で構成された人頭像は、様々に異なる造形物が数多く出土している。
貼金銅人頭像
「戴金面罩銅人頭像」などとも称。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像のことで、様々に異なる造形物が数多く出土している。三星堆文化の代表的な考古遺物として紹介されることが多い。頭頂の形によって「平頂貼金銅人頭像」「丸頂貼金銅人頭像」などと呼び分ける。
青銅縦目仮面
世界最大の青銅製仮面。異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つ。中国語名は「青铜纵目面具(青銅縦目面具)」、日本語名は「青銅縦目仮面」「縦目青銅仮面」「青銅縦目面具」など。幅138センチメートル、高さ64.5センチメートル。大きな耳と、奇妙に突き出した眼(瞳孔)を具えており、はるか彼方をも見通す神の顔を表したものと考えられている。突出した瞳孔は長さ16.5センチメートル、径9センチメートル。額の中央に穴が開いているが、後述する「青銅戴冠縦目仮面」に見られるような額飾り(冠)が取り付けられているのが本来の形で、それが失われたものと考えられている。口は微笑みをたたえている。1986年に二号祭祀杭より出土した。二展庁展示品。
青銅戴冠縦目仮面
大きな耳と突出した眼を具えた神の頭部をかたどった仮面で、額から真上に向けて伸張する長大な額飾り(冠)を有する。日本語名は「青銅戴冠縦目仮面」「青銅戴冠縦目面具」など。殷代晩期のもので、幅78センチメートル、高さ82.5センチメートル。1986年に二号祭祀杭より出土。二展庁展示品。
青銅神樹
三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土した青銅製の扶桑樹。中国語名「青铜神树(青銅神樹)」(雅名「通天神樹」)、日本語名「青銅神樹」。殷代晩期のもので、全高396センチメートル、像高(樹高)384センチメートル。3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しており、それぞれの枝に1羽、全部で9羽の霊鳥が留まっている。枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っている。
青銅立人像
世界最大の青銅製人物立像。直線的な造形をした高さ約260センチメートルの像。殷代晩期のもので、全高261センチメートル、像高172センチメートル、総重量180キログラム。1986年に二号祭祀杭より出土した。丈の長い衣裳を身にまとった祭司の姿であり、巨大な両手で何かを抱え持っていたと思われるが、その何かは欠損している。他の出土物から推定して、儀杖であった可能性が高い。三展庁展示品。。
青銅大鳥頭(中国語版)
鵜の頭部をかたどった高さ40.3センチメートルの祭具。中国語名「青铜大鸟头(青銅大鳥頭)」。
青銅人身形器(中国語版)
全高46.4センチメートル。人体をかたどった青銅製立像であるが、頭部は無く、用途は推測しがたい。中国語名「青铜人身形器(青銅人身形器)」。
儀杖を持つ祭司像
権威の象徴と思われる儀式用の杖を両手で抱え持つ4人の祭司をかたどった青銅製の小さな立像。
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