还是modelpress写得比O号好。
O号很公式化又有点敷衍的感觉。
比如对最后一幕的描写,一看就能看出是谁写的。
平野紫耀は恒例となっている「死ぬなよ!」というメッセージを伝え、最後にステージを去った。
平野紫耀传达了已成惯例的“死ぬなよ”这一讯息,最后离开了舞台。
最後は平野がコンサートの最後にファンに向けて伝えていた「死ぬなよ」を放ち、観客の胸を熱くさせた。
平野在演唱会的最后对饭讲出他一直都在传达的“死ぬなよ”,使观众的心头发热。
————————
「TOBE」東京ドーム4公演完走で22万⼈動員 近距離ファンサ・ド派手パフォーマンスで圧倒…平野紫耀名言「死ぬなよ」飛び出す<to HEROes ~TOBE 1st Super Live~ライブレポ/セットリスト>
2024.03.17 21:33
3月17日、「TOBE」所属アーティストが出演する「to HEROes ~TOBE 1st Super Live~」(読み:トゥヒーローズ トゥービー ファースト スーパーライブ)の最終公演が東京ドームにて開催された(最終公演はPrime Videoで世界独占配信)。ここでは同日の公演の様子をレポートする。<ライブレポ>
同舞台の幕開けを華々しく飾ったのは、7人組グループ・IMP.。ピンクと黒を基調とした衣装で登場すると、YouTubeでのMV公開からわずか1日で200万回再生を突破したデビュー曲「CRUISIN’」を披露し、さっそく観客のボルテージを上昇させた。
次に現れた北山宏光は、黄色のマウンテンパーカーに身を包み、ポップコーンを使った身動きでチャーミングに登場したかと思った次の瞬間、パーカーの下に隠れていたカジュアル衣装を披露するとともに、バイクで客席の間を駆け抜ける“近距離パフォーマンス”で迫力満点のステージを作り上げた。
三宅健は最新曲「BOY」でしっとりしとした歌声とアンニュイなダンスで大人の色気を発揮。そしてゴンドラに乗ったNumber_iは“頂上”から「FUJI」でパワフルな歌声を聞かせ、地上に降臨。神宮寺勇太が煽りで盛り上げるとともに客席と生配信を視聴しているファンに向けて挨拶し「生配信も初めての経験だよね。この時間を共有できるっていうことが素晴らしいよね」とメンバーとしみじみとステージでの時間を噛み締めていた。
その後、Number_iの紹介のもと、3月14日にお披露目した新たな後輩「wink first」がステージに姿を現し、一人ずつ自己紹介。初々しい爽やかな魅力全開のパフォーマンスとともに会場に癒しをもたらした。一方、その柔らかな雰囲気を変えるかのように、大東立樹は研修生とともに軽やかかつダイナミックなダンスで会場の視線を一気に集めた。
ライブ中盤では1組ずつ登場し、それぞれのアーティストの色が表われるステージに。IMP.はラメやレザー素材があしらわれたブラックの衣装にチェンジし、7人ならではの迫力のある踊りを取り入れたクールな楽曲から「SHAKE ME UP」で多幸感いっぱいの明るい雰囲気まで、幅広い顔を見せた。
北山はMCトークから“北山ワールド”全開。パンダの被り物を身に着け客席前に登場し、会場がどよめく中、ファンとの交流を楽しみながらほんわかとしたトークで和ませる。しかしステージでは、曲の世界観や歌詞に合わせ、ルーレットや3D感溢れる獣を映像に映し出し、目からも耳からも楽しめる演出で圧倒した。
また、北山とIMP.によるMCトークでは、スクショタイムを設けるほか、鈴木大河のMCに北山がツッコむなどわちゃわちゃとした雰囲気に。続く三宅はしなやかな踊りで4曲をソロパフォーマンス。曲間のトークにてマイクを持つと、自身のメンバーカラーであるオレンジに染まった会場を見渡し「本当にきれい」と感極まりながら「ずっと会いたかったよね?」「(僕も)会いたかったよ」とファンの心にしっかり寄り添い愛を伝えていた。
最後はNumber_iが怒涛の5曲立て続けのパフォーマンスで観客を一気に自分たちの世界観へと連れ込む。最後に披露した1stシングル「GOAT」では、炎やカラフルなライトをふんだんに使ったド派手なステージで会場を熱気に包んだ。
Number_i作詞のチャリティソング披露
またライブ中盤には、メンバーをシャッフルしたダンスコラボコーナーにて、神宮寺、IMP.メンバーによるボックスの中で舞うセクシーなパフォーマンスから、平野紫耀のソファを駆使したソロダンス、岸優太&三宅のアクロバティックな踊りなど様々な組み合わせとテイストの違う“舞”で魅了した。
さらに、「令和6年能登半島地震」を受け、「自分たちに何かできることはないか」と考え、Number_iが作詞を手掛けたチャリティソング「Be on Your side」を三宅、北山らをはじめとする「TOBE」アーティストで想いを込めて歌唱し、ステージ上から被災地へエールを届けた。
そしてアンコールでは、ライブTシャツを着たアーティストたちがそれぞれトロッコに乗って笑顔で登場。Number_iは「GOAT」の“歌割りチェンジ”で自分以外のパートで歌唱しながらメンバーそれぞれてんやわんや状態で楽しく歌い上げた。
その後約3分間、センターステージに向かうまでの各方向に伸びた花道に散らばったメンバーたちが、観客に手を振ったりうちわやボードに応えながらファンサービスをたっぷり披露し、ファンとの時間を楽しんだ。
「TOBE」東京ドーム公演、最終日にサプライズ発表
最後にメインステージに集結したメンバーを代表し、北山が「この感謝の気持ち、世界にも伝わっているでしょうかね」と呼びかけると「僕たちとしては新たな一歩を踏み出したわけですけども、ちょっとここでもう一歩目の発表をしたいなと思います」と宣言し、会場中にどよめきが。するとモニターには「単独公演決定 東京/有明アリーナ」の文字が映し出され、6月13日~23日に有明アリーナにて三宅、北山、Number_i、IMP.の単独公演を行うことを発表。このサプライズに大きな歓声が飛び交った。
さらにもう一つの発表として4月26日より「to HEROes ~TOBE 1st Super Live~」のアーカイブ配信が決定したことを報告。フィナーレを迎え、メンバーそれぞれカメラアピールしたりファンに感謝を伝えながら会場を去る中、最後は平野がコンサートの最後にファンに向けて伝えていた「死ぬなよ」を放ち、観客の胸を熱くさせた。
約3時間にわたる「TOBE」アーティストによる初の東京ドームコンサート。「こんなこともできるの!?」とエンターテインメントの可能性を最大限に引き出した華やかな演出と、アーティスト一人ひとりの洗練したパフォーマンス、そして何より一人でも多くのファンを楽しませようとする彼らの熱い想いが存分に伝わってきたライブだった。
タイトルには、“この時代に生きる全員が「主役」であり、全員が「HERO」になれるよう”という想いが込められている。本公演は、14日~17日に各日1公演、全4公演を実施し、計22万人を動員した。(modelpress編集部)
セットリスト
1.CRUISIN’/IMP.
2.SWITCHing/IMP.
3.JOKER/北山宏光
4.乱心-RANSHIN-/北山宏光
5.BOY/三宅健
6.Ready To Dance/三宅健
7.FUJI/Number_i
8.Candy/wink first
~大東立樹&研修生ダンスブレイク~
9.FROW/IMP.
10.I Got It/IMP.
11.IMP./IMP.
12.SHAKE ME UP/IMP.
13.ROCKIN’PARTY/IMP.
~MC~(北山宏光)
14.赤い夜に/北山宏光
15.BET/北山宏光
16.THE BEAST/北山宏光
17.NE:Oera(※「O」はストローク付き)/北山宏光
18.消えないメロディー/大東立樹
~ダンスコラボコーナー~
・神宮寺・影山拓也・ 松井奏・ 鈴木大河・ 横原悠毅
・平野紫耀
・岸優太・三宅健
・北山宏光・基俊介・椿泰我・wink first
・大東立樹・佐藤新
19.Be on Your side
~MC~(北山宏光&IMP.)
20.mydoll/三宅健
21.iDOLING/三宅健
~MC~(三宅健)
22.I’m good/三宅健
23.ジェットコースター/三宅健
24.Blow Your Covert/Number_i
25.Rain or Shine/Number_i
26.Is it me?/Number_i
27.Midnight City/Number_i
28.GOAT/Number_i
<アンコール>
29.CRUISIN’/IMP.
30.乱心-RANSHIN-/北山宏光
31.Ready To Dance/三宅健
32.GOAT/Number_i
O号很公式化又有点敷衍的感觉。
比如对最后一幕的描写,一看就能看出是谁写的。
平野紫耀は恒例となっている「死ぬなよ!」というメッセージを伝え、最後にステージを去った。
平野紫耀传达了已成惯例的“死ぬなよ”这一讯息,最后离开了舞台。
最後は平野がコンサートの最後にファンに向けて伝えていた「死ぬなよ」を放ち、観客の胸を熱くさせた。
平野在演唱会的最后对饭讲出他一直都在传达的“死ぬなよ”,使观众的心头发热。
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「TOBE」東京ドーム4公演完走で22万⼈動員 近距離ファンサ・ド派手パフォーマンスで圧倒…平野紫耀名言「死ぬなよ」飛び出す<to HEROes ~TOBE 1st Super Live~ライブレポ/セットリスト>
2024.03.17 21:33
3月17日、「TOBE」所属アーティストが出演する「to HEROes ~TOBE 1st Super Live~」(読み:トゥヒーローズ トゥービー ファースト スーパーライブ)の最終公演が東京ドームにて開催された(最終公演はPrime Videoで世界独占配信)。ここでは同日の公演の様子をレポートする。<ライブレポ>
同舞台の幕開けを華々しく飾ったのは、7人組グループ・IMP.。ピンクと黒を基調とした衣装で登場すると、YouTubeでのMV公開からわずか1日で200万回再生を突破したデビュー曲「CRUISIN’」を披露し、さっそく観客のボルテージを上昇させた。
次に現れた北山宏光は、黄色のマウンテンパーカーに身を包み、ポップコーンを使った身動きでチャーミングに登場したかと思った次の瞬間、パーカーの下に隠れていたカジュアル衣装を披露するとともに、バイクで客席の間を駆け抜ける“近距離パフォーマンス”で迫力満点のステージを作り上げた。
三宅健は最新曲「BOY」でしっとりしとした歌声とアンニュイなダンスで大人の色気を発揮。そしてゴンドラに乗ったNumber_iは“頂上”から「FUJI」でパワフルな歌声を聞かせ、地上に降臨。神宮寺勇太が煽りで盛り上げるとともに客席と生配信を視聴しているファンに向けて挨拶し「生配信も初めての経験だよね。この時間を共有できるっていうことが素晴らしいよね」とメンバーとしみじみとステージでの時間を噛み締めていた。
その後、Number_iの紹介のもと、3月14日にお披露目した新たな後輩「wink first」がステージに姿を現し、一人ずつ自己紹介。初々しい爽やかな魅力全開のパフォーマンスとともに会場に癒しをもたらした。一方、その柔らかな雰囲気を変えるかのように、大東立樹は研修生とともに軽やかかつダイナミックなダンスで会場の視線を一気に集めた。
ライブ中盤では1組ずつ登場し、それぞれのアーティストの色が表われるステージに。IMP.はラメやレザー素材があしらわれたブラックの衣装にチェンジし、7人ならではの迫力のある踊りを取り入れたクールな楽曲から「SHAKE ME UP」で多幸感いっぱいの明るい雰囲気まで、幅広い顔を見せた。
北山はMCトークから“北山ワールド”全開。パンダの被り物を身に着け客席前に登場し、会場がどよめく中、ファンとの交流を楽しみながらほんわかとしたトークで和ませる。しかしステージでは、曲の世界観や歌詞に合わせ、ルーレットや3D感溢れる獣を映像に映し出し、目からも耳からも楽しめる演出で圧倒した。
また、北山とIMP.によるMCトークでは、スクショタイムを設けるほか、鈴木大河のMCに北山がツッコむなどわちゃわちゃとした雰囲気に。続く三宅はしなやかな踊りで4曲をソロパフォーマンス。曲間のトークにてマイクを持つと、自身のメンバーカラーであるオレンジに染まった会場を見渡し「本当にきれい」と感極まりながら「ずっと会いたかったよね?」「(僕も)会いたかったよ」とファンの心にしっかり寄り添い愛を伝えていた。
最後はNumber_iが怒涛の5曲立て続けのパフォーマンスで観客を一気に自分たちの世界観へと連れ込む。最後に披露した1stシングル「GOAT」では、炎やカラフルなライトをふんだんに使ったド派手なステージで会場を熱気に包んだ。
Number_i作詞のチャリティソング披露
またライブ中盤には、メンバーをシャッフルしたダンスコラボコーナーにて、神宮寺、IMP.メンバーによるボックスの中で舞うセクシーなパフォーマンスから、平野紫耀のソファを駆使したソロダンス、岸優太&三宅のアクロバティックな踊りなど様々な組み合わせとテイストの違う“舞”で魅了した。
さらに、「令和6年能登半島地震」を受け、「自分たちに何かできることはないか」と考え、Number_iが作詞を手掛けたチャリティソング「Be on Your side」を三宅、北山らをはじめとする「TOBE」アーティストで想いを込めて歌唱し、ステージ上から被災地へエールを届けた。
そしてアンコールでは、ライブTシャツを着たアーティストたちがそれぞれトロッコに乗って笑顔で登場。Number_iは「GOAT」の“歌割りチェンジ”で自分以外のパートで歌唱しながらメンバーそれぞれてんやわんや状態で楽しく歌い上げた。
その後約3分間、センターステージに向かうまでの各方向に伸びた花道に散らばったメンバーたちが、観客に手を振ったりうちわやボードに応えながらファンサービスをたっぷり披露し、ファンとの時間を楽しんだ。
「TOBE」東京ドーム公演、最終日にサプライズ発表
最後にメインステージに集結したメンバーを代表し、北山が「この感謝の気持ち、世界にも伝わっているでしょうかね」と呼びかけると「僕たちとしては新たな一歩を踏み出したわけですけども、ちょっとここでもう一歩目の発表をしたいなと思います」と宣言し、会場中にどよめきが。するとモニターには「単独公演決定 東京/有明アリーナ」の文字が映し出され、6月13日~23日に有明アリーナにて三宅、北山、Number_i、IMP.の単独公演を行うことを発表。このサプライズに大きな歓声が飛び交った。
さらにもう一つの発表として4月26日より「to HEROes ~TOBE 1st Super Live~」のアーカイブ配信が決定したことを報告。フィナーレを迎え、メンバーそれぞれカメラアピールしたりファンに感謝を伝えながら会場を去る中、最後は平野がコンサートの最後にファンに向けて伝えていた「死ぬなよ」を放ち、観客の胸を熱くさせた。
約3時間にわたる「TOBE」アーティストによる初の東京ドームコンサート。「こんなこともできるの!?」とエンターテインメントの可能性を最大限に引き出した華やかな演出と、アーティスト一人ひとりの洗練したパフォーマンス、そして何より一人でも多くのファンを楽しませようとする彼らの熱い想いが存分に伝わってきたライブだった。
タイトルには、“この時代に生きる全員が「主役」であり、全員が「HERO」になれるよう”という想いが込められている。本公演は、14日~17日に各日1公演、全4公演を実施し、計22万人を動員した。(modelpress編集部)
セットリスト
1.CRUISIN’/IMP.
2.SWITCHing/IMP.
3.JOKER/北山宏光
4.乱心-RANSHIN-/北山宏光
5.BOY/三宅健
6.Ready To Dance/三宅健
7.FUJI/Number_i
8.Candy/wink first
~大東立樹&研修生ダンスブレイク~
9.FROW/IMP.
10.I Got It/IMP.
11.IMP./IMP.
12.SHAKE ME UP/IMP.
13.ROCKIN’PARTY/IMP.
~MC~(北山宏光)
14.赤い夜に/北山宏光
15.BET/北山宏光
16.THE BEAST/北山宏光
17.NE:Oera(※「O」はストローク付き)/北山宏光
18.消えないメロディー/大東立樹
~ダンスコラボコーナー~
・神宮寺・影山拓也・ 松井奏・ 鈴木大河・ 横原悠毅
・平野紫耀
・岸優太・三宅健
・北山宏光・基俊介・椿泰我・wink first
・大東立樹・佐藤新
19.Be on Your side
~MC~(北山宏光&IMP.)
20.mydoll/三宅健
21.iDOLING/三宅健
~MC~(三宅健)
22.I’m good/三宅健
23.ジェットコースター/三宅健
24.Blow Your Covert/Number_i
25.Rain or Shine/Number_i
26.Is it me?/Number_i
27.Midnight City/Number_i
28.GOAT/Number_i
<アンコール>
29.CRUISIN’/IMP.
30.乱心-RANSHIN-/北山宏光
31.Ready To Dance/三宅健
32.GOAT/Number_i
田単
概略
斉の将軍となる
斉の公族の田氏の遠縁にあたり、湣王の頃に斉の都の臨淄の市場の役人となった。
紀元前284年、燕の将軍の楽毅率いる5カ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒に立て籠もった。田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨へ逃れることができた。
快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が相国の淖歯に殺害され、その子の襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。
策略の数々
その最中の紀元前279年、燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位した。恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵の楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。
次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。
続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。
火牛の計
城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。
次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。
そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。
田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして都の臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。
その後
安平君への封爵との前後は不明ながら、復興後の田単は斉の宰相の就任したが、民衆に施しを行うなど善政を敷き、ある時道中に寒さに凍えていた老人に自身の着物を貸し与えた事があった。これを知った襄王は、田単が人心を得て斉の王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、田単を誅そうとしたが、配下の諫めによって思い留まった。しかし襄王の側近たちは田単を疎み、田単と親交のあった貂勃を罠に嵌め、連座で田単をも失脚させようと試みた。これを受けた襄王は、田単に対し威圧的な態度で事を問い質した。しかしその後当の貂勃が自ら襄王に掛け合い、田単が燕を打ち破った功績や、その際王族という立場を以て自らが王を名乗る事もできたにも拘わらず、それを行わずして襄王を迎え入れた忠誠心を訴えたため、襄王は田単を讒言した側近たちを処刑し、田単への加増を行ったという。
その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(『史記』「趙世家」)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていない。
司馬遷も「『孫子』の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評し、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが窺える。
田单(dān),妫姓,田氏,名单,临淄(今山东省临淄区)人。战国时期齐国名将,齐国远房宗室。
初任市掾,管理临淄市场秩序。乐毅率领五国军队,攻打齐国。危亡之际,田单坚守即墨,以火牛阵大破燕军,收复失地七十余城,拜为相国,封为安平君。
后来,受到齐王猜忌,前往赵国出将入相,封号都平君,死后葬于安平城内。
概略
斉の将軍となる
斉の公族の田氏の遠縁にあたり、湣王の頃に斉の都の臨淄の市場の役人となった。
紀元前284年、燕の将軍の楽毅率いる5カ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒に立て籠もった。田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨へ逃れることができた。
快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が相国の淖歯に殺害され、その子の襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。
策略の数々
その最中の紀元前279年、燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位した。恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵の楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。
次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。
続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。
火牛の計
城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。
次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。
そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。
田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして都の臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。
その後
安平君への封爵との前後は不明ながら、復興後の田単は斉の宰相の就任したが、民衆に施しを行うなど善政を敷き、ある時道中に寒さに凍えていた老人に自身の着物を貸し与えた事があった。これを知った襄王は、田単が人心を得て斉の王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、田単を誅そうとしたが、配下の諫めによって思い留まった。しかし襄王の側近たちは田単を疎み、田単と親交のあった貂勃を罠に嵌め、連座で田単をも失脚させようと試みた。これを受けた襄王は、田単に対し威圧的な態度で事を問い質した。しかしその後当の貂勃が自ら襄王に掛け合い、田単が燕を打ち破った功績や、その際王族という立場を以て自らが王を名乗る事もできたにも拘わらず、それを行わずして襄王を迎え入れた忠誠心を訴えたため、襄王は田単を讒言した側近たちを処刑し、田単への加増を行ったという。
その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(『史記』「趙世家」)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていない。
司馬遷も「『孫子』の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評し、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが窺える。
田单(dān),妫姓,田氏,名单,临淄(今山东省临淄区)人。战国时期齐国名将,齐国远房宗室。
初任市掾,管理临淄市场秩序。乐毅率领五国军队,攻打齐国。危亡之际,田单坚守即墨,以火牛阵大破燕军,收复失地七十余城,拜为相国,封为安平君。
后来,受到齐王猜忌,前往赵国出将入相,封号都平君,死后葬于安平城内。
森の紫陽花
泉鏡花
千駄木せんだぎの森もりの夏なつぞ晝ひるも暗くらき。此處こゝの森もり敢あへて深ふかしといふにはあらねど、おしまはし、周圍しうゐを樹林きばやしにて取卷とりまきたれば、不動坂ふどうざか、團子坂だんござか、巣鴨すがもなどに縱横たてよこに通つうずる蜘蛛手くもでの路みちは、恰あたかも黄昏たそがれに樹深こぶかき山路やまぢを辿たどるが如ごとし。尤もつとも小石川こいしかは白山はくさんの上うへ、追分おひわけのあたりより、一圓いちゑんの高臺たかだいなれども、射いる日ひの光ひかり薄うすければ小雨こさめのあとも路みちは乾かわかず。此この奧おくに住すめる人ひとの使つかへる婢をんな、やつちや場ばに青物あをもの買かひに出いづるに、いつも高足駄たかあしだ穿はきて、なほ爪先つまさきを汚よごすぬかるみの、特ことに水溜みづたまりには、蛭ひるも泳およぐらんと氣味惡きみわるきに、唯たゞ一重ひとへ森もりを出いづれば、吹通ふきとほしの風かぜ砂すなを捲まきて、雪駄せつたちやら/\と人ひとの通とほる、此方こなたは裾端折すそはしをりの然しかも穿物はきものの泥どろ、二にの字じならぬ奧山住おくやまずみの足痕あしあとを、白晝はくちうに印いんするが極きまり惡わるしなど歎かこつ。
嘗かつて雨あめのふる夜よ、其その人ひとの家いへより辭じして我家わがやに歸かへることありしに、固もとより親おやいまさず、いろと提灯ちやうちんは持もたぬ身みの、藪やぶの前まへ、祠ほこらのうしろ、左右さいう畑はたけの中なかを拾ひろひて、蛇じやの目めの傘からかさ脊筋せすぢさがりに引ひつかつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路みちの、ともすれば、ぬかるみの撥はねひやりとして、然さらぬだに我わが心こゝろ覺束おぼつかなきを、やがて追分おひわけの方かたに出いでんとして、森もりの下したに入いるよとすれば呀や、眞暗まつくら三寶さんばう黒白あやめも分わかず。今いままでは、春雨はるさめに、春雨はるさめにしよぼと濡ぬれたもよいものを、夏なつはなほと、はら/\はらと降ふりかゝるを、我われながらサテ情知なさけしり顏がほの袖そでにうけて、綽々しやく/\として餘裕よゆうありし傘からかさとともに肩かたをすぼめ、泳およぐやうなる姿すがたして、右手めてを探さぐれば、竹垣たけがきの濡ぬれたるが、する/\と手てに觸さはる。左手ゆんでを傘かさの柄えにて探さぐりながら、顏かほばかり前まへに出だせば、此この折をりぞ、風かぜも遮さへぎられて激はげしくは當あたらぬ空そらに、蜘蛛くもの巣すの頬ほゝにかゝるも侘わびしかりしが、然さばかり降ふるとも覺おぼえざりしに、兎とかうして樹立こだちに出いづれば、町まちの方かたは車軸しやぢくを流ながす雨あめなりき。
蚊遣かやりの煙けむり古井戸ふるゐどのあたりを籠こむる、友ともの家いへの縁端えんばたに罷來まかりきて、地切ぢぎりの強煙草つよたばこを吹ふかす植木屋うゑきやは、年とし久ひさしく此この森もりに住すめりとて、初冬はつふゆにもなれば、汽車きしやの音おとの轟とゞろく絶間たえま、凩こがらしの吹ふきやむトタン、時雨しぐれ來くるをり/\ごとに、狐きつね狸たぬきの今いまも鳴なくとぞいふなる。然さもあるべし、但たゞ狸たぬきの聲こゑは、老夫をぢが耳みゝに蚯蚓みゝずに似にたりや。
件くだんの古井戸ふるゐどは、先住せんぢうの家いへの妻つまものに狂くるふことありて其處そこに空むなしくなりぬとぞ。朽くちたる蓋ふた犇々ひし/\として大おほいなる石いしのおもしを置おいたり。友ともは心こゝろ強がうにして、小夜さよの螢ほたるの光ひかり明あかるく、梅うめの切株きりかぶに滑なめらかなる青苔せいたいの露つゆを照てらして、衝つと消きえて、背戸せどの藪やぶにさら/\とものの歩行あるく氣勢けはひするをも恐おそれねど、我われは彼かの雨あめの夜よを惱なやみし時とき、朽木くちきの燃もゆる、はた板戸いたど洩もる遠灯とほともし、畦あぜ行ゆく小提灯こぢやうちんの影かげ一ひとつ認みとめざりしこそ幸さいはひなりけれ。思おもへば臆病おくびやうの、目めを塞ふさいでや歩行あるきけん、降ふりしきる音おとは徑こみちを挾さしはさむ梢こずゑにざツとかぶさる中なかに、取とつて食くはうと梟ふくろふが鳴なきぬ。
恁かくは森もりのおどろ/\しき姿すがたのみ、大方おほかたの風情ふぜいはこれに越こえて、朝夕あさゆふの趣おもむき言いひ知しらずめでたき由よし。
曙あけぼのは知しらず、黄昏たそがれに此この森もりの中なか辿たどることありしが、幹みきに葉はに茜あかねさす夕日ゆふひ三筋みすぢ四筋よすぢ、梢こずゑには羅うすものの靄もやを籠こめて、茄子畑なすばたけの根ねは暗くらく、其その花はなも小ちひさき實みとなりつ。
棚たなして架かくるとにもあらず、夕顏ゆふがほのつる西家せいかの廂ひさしを這はひ、烏瓜からすうりの花はなほの/″\と東家とうかの垣かきに霧きりを吐はきぬ。強しひて我われ句くを求もとむるにはあらず、藪やぶには鶯うぐひすの音ねを入いるゝ時ときぞ。
日ひは茂しげれる中なかより暮くれ初そめて、小暗をぐらきわたり蚊柱かばしらは家いへなき處ところに立たてり。袂たもとすゞしき深ふかみどりの樹蔭こかげを行ゆく身みには、あはれ小ちひさきものども打うち群むれてもの言いひかはすわと、それも風情ふぜいかな。分わけて見詰みつむるばかり、現うつゝに見みゆるまで美うつくしきは紫陽花あぢさゐなり。其その淺葱あさぎなる、淺あさみどりなる、薄うすき濃こき紫むらさきなる、中なかには紅くれなゐ淡あはき紅べにつけたる、額がくといふとぞ。夏なつは然さることながら此この邊あたり分わけて多おほし。明あかるきより暗くらきに入いる處ところ、暗くらきより明あかるきに出いづる處ところ、石いしに添そひ、竹たけに添そひ、籬まがきに立たち、戸とに彳たゝずみ、馬蘭ばらんの中なかの、古井ふるゐの傍わきに、紫むらさきの俤おもかげなきはあらず。寂じやくたる森もりの中なか深ふかく、もう/\と牛うしの聲こゑして、沼ぬまとも覺おぼしき泥どろの中なかに、埒らちもこはれ/″\牛うし養やしなへる庭にはにさへ紫陽花あぢさゐの花はな盛さかりなり。
此時このとき、白襟しろえりの衣紋えもん正たゞしく、濃こいお納戸なんどの單衣ひとへ着きて、紺地こんぢの帶おび胸むな高たかう、高島田たかしまだの品ひんよきに、銀ぎんの平打ひらうちの笄かうがいのみ、唯たゞ黒髮くろかみの中なかに淡あはくかざしたるが、手車てぐるまと見みえたり、小豆色あづきいろの膝ひざかけして、屈竟くつきやうなる壯佼わかもの具ぐしたるが、車くるまの輪わも緩ゆるやかに、彼かの蜘蛛手くもでの森もりの下道したみちを、訪とふ人ひとの家いへを尋たづね惱なやみつと覺おぼしく、此處こゝ彼處かしこ、紫陽花あぢさゐ咲さけりと見みる處ところ、必かならず、一時ひとときばかりの間あひだに六度むたび七度なゝたび出いであひぬ。實げに我われも其日そのひはじめて訪とひ到いたれる友ともの家いへを尋たづねあぐみしなりけり。
玉簾たますだれの中なかもれ出いでたらんばかりの女をんなの俤おもかげ、顏かほの色いろ白しろきも衣きぬの好このみも、紫陽花あぢさゐの色いろに照てり榮はえつ。蹴込けこみの敷毛しきげ燃立もえたつばかり、ひら/\と夕風ゆふかぜに倘徉さまよへる状さまよ、何處いづこ、いづこ、夕顏ゆふがほの宿やどやおとなふらん。
笛ふえの音ねも聞きこえずや、あはれ此このあたりに若わかき詩人しじんや住すめる、うつくしき學士がくしやあると、折をりからの森もりの星ほしのゆかしかりしを、今いまも忘わすれず。さればゆかしさに、敢あへて岡燒をかやきをせずして記きをつくる。
泉镜花(いずみ きょうか,Izumi Kyouka,1873年11月4日—1939年9月7日),日本小说家。原名镜太郎。主要作品有《夜间巡警》《外科室》《妇系图》《歌行灯》等。1873年,出生于金泽市下新町二十三番地,从小受到传统艺术的熏陶,曾在教会学校北陆英和学校受教育。青年时期由于爱好文学,拜在作家尾崎红叶门下。1893年,发表处女作《冠弥左卫门》。1895年,发表《夜间巡警》和《外科室》,受到好评,被视为“观念小说”的代表作。小说《妇系图》(1907)、《歌行灯》(1910),是他的代表性作品。1909年,参加后藤宙外等人组织的文艺革新会,标榜反自然主义文学。大正年代发表了《天守物语》、《棠棣花》和《战国新茶渍》等剧本,被称为唯美主义戏剧的杰作。他以追求美的观念和浪漫主义丰富了日本文学。1937年,成为帝国艺术院院士。在1939年7月发表了绝笔之作《缕红新草》,9月即去世,终年六十六岁。
泉鏡花
千駄木せんだぎの森もりの夏なつぞ晝ひるも暗くらき。此處こゝの森もり敢あへて深ふかしといふにはあらねど、おしまはし、周圍しうゐを樹林きばやしにて取卷とりまきたれば、不動坂ふどうざか、團子坂だんござか、巣鴨すがもなどに縱横たてよこに通つうずる蜘蛛手くもでの路みちは、恰あたかも黄昏たそがれに樹深こぶかき山路やまぢを辿たどるが如ごとし。尤もつとも小石川こいしかは白山はくさんの上うへ、追分おひわけのあたりより、一圓いちゑんの高臺たかだいなれども、射いる日ひの光ひかり薄うすければ小雨こさめのあとも路みちは乾かわかず。此この奧おくに住すめる人ひとの使つかへる婢をんな、やつちや場ばに青物あをもの買かひに出いづるに、いつも高足駄たかあしだ穿はきて、なほ爪先つまさきを汚よごすぬかるみの、特ことに水溜みづたまりには、蛭ひるも泳およぐらんと氣味惡きみわるきに、唯たゞ一重ひとへ森もりを出いづれば、吹通ふきとほしの風かぜ砂すなを捲まきて、雪駄せつたちやら/\と人ひとの通とほる、此方こなたは裾端折すそはしをりの然しかも穿物はきものの泥どろ、二にの字じならぬ奧山住おくやまずみの足痕あしあとを、白晝はくちうに印いんするが極きまり惡わるしなど歎かこつ。
嘗かつて雨あめのふる夜よ、其その人ひとの家いへより辭じして我家わがやに歸かへることありしに、固もとより親おやいまさず、いろと提灯ちやうちんは持もたぬ身みの、藪やぶの前まへ、祠ほこらのうしろ、左右さいう畑はたけの中なかを拾ひろひて、蛇じやの目めの傘からかさ脊筋せすぢさがりに引ひつかつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路みちの、ともすれば、ぬかるみの撥はねひやりとして、然さらぬだに我わが心こゝろ覺束おぼつかなきを、やがて追分おひわけの方かたに出いでんとして、森もりの下したに入いるよとすれば呀や、眞暗まつくら三寶さんばう黒白あやめも分わかず。今いままでは、春雨はるさめに、春雨はるさめにしよぼと濡ぬれたもよいものを、夏なつはなほと、はら/\はらと降ふりかゝるを、我われながらサテ情知なさけしり顏がほの袖そでにうけて、綽々しやく/\として餘裕よゆうありし傘からかさとともに肩かたをすぼめ、泳およぐやうなる姿すがたして、右手めてを探さぐれば、竹垣たけがきの濡ぬれたるが、する/\と手てに觸さはる。左手ゆんでを傘かさの柄えにて探さぐりながら、顏かほばかり前まへに出だせば、此この折をりぞ、風かぜも遮さへぎられて激はげしくは當あたらぬ空そらに、蜘蛛くもの巣すの頬ほゝにかゝるも侘わびしかりしが、然さばかり降ふるとも覺おぼえざりしに、兎とかうして樹立こだちに出いづれば、町まちの方かたは車軸しやぢくを流ながす雨あめなりき。
蚊遣かやりの煙けむり古井戸ふるゐどのあたりを籠こむる、友ともの家いへの縁端えんばたに罷來まかりきて、地切ぢぎりの強煙草つよたばこを吹ふかす植木屋うゑきやは、年とし久ひさしく此この森もりに住すめりとて、初冬はつふゆにもなれば、汽車きしやの音おとの轟とゞろく絶間たえま、凩こがらしの吹ふきやむトタン、時雨しぐれ來くるをり/\ごとに、狐きつね狸たぬきの今いまも鳴なくとぞいふなる。然さもあるべし、但たゞ狸たぬきの聲こゑは、老夫をぢが耳みゝに蚯蚓みゝずに似にたりや。
件くだんの古井戸ふるゐどは、先住せんぢうの家いへの妻つまものに狂くるふことありて其處そこに空むなしくなりぬとぞ。朽くちたる蓋ふた犇々ひし/\として大おほいなる石いしのおもしを置おいたり。友ともは心こゝろ強がうにして、小夜さよの螢ほたるの光ひかり明あかるく、梅うめの切株きりかぶに滑なめらかなる青苔せいたいの露つゆを照てらして、衝つと消きえて、背戸せどの藪やぶにさら/\とものの歩行あるく氣勢けはひするをも恐おそれねど、我われは彼かの雨あめの夜よを惱なやみし時とき、朽木くちきの燃もゆる、はた板戸いたど洩もる遠灯とほともし、畦あぜ行ゆく小提灯こぢやうちんの影かげ一ひとつ認みとめざりしこそ幸さいはひなりけれ。思おもへば臆病おくびやうの、目めを塞ふさいでや歩行あるきけん、降ふりしきる音おとは徑こみちを挾さしはさむ梢こずゑにざツとかぶさる中なかに、取とつて食くはうと梟ふくろふが鳴なきぬ。
恁かくは森もりのおどろ/\しき姿すがたのみ、大方おほかたの風情ふぜいはこれに越こえて、朝夕あさゆふの趣おもむき言いひ知しらずめでたき由よし。
曙あけぼのは知しらず、黄昏たそがれに此この森もりの中なか辿たどることありしが、幹みきに葉はに茜あかねさす夕日ゆふひ三筋みすぢ四筋よすぢ、梢こずゑには羅うすものの靄もやを籠こめて、茄子畑なすばたけの根ねは暗くらく、其その花はなも小ちひさき實みとなりつ。
棚たなして架かくるとにもあらず、夕顏ゆふがほのつる西家せいかの廂ひさしを這はひ、烏瓜からすうりの花はなほの/″\と東家とうかの垣かきに霧きりを吐はきぬ。強しひて我われ句くを求もとむるにはあらず、藪やぶには鶯うぐひすの音ねを入いるゝ時ときぞ。
日ひは茂しげれる中なかより暮くれ初そめて、小暗をぐらきわたり蚊柱かばしらは家いへなき處ところに立たてり。袂たもとすゞしき深ふかみどりの樹蔭こかげを行ゆく身みには、あはれ小ちひさきものども打うち群むれてもの言いひかはすわと、それも風情ふぜいかな。分わけて見詰みつむるばかり、現うつゝに見みゆるまで美うつくしきは紫陽花あぢさゐなり。其その淺葱あさぎなる、淺あさみどりなる、薄うすき濃こき紫むらさきなる、中なかには紅くれなゐ淡あはき紅べにつけたる、額がくといふとぞ。夏なつは然さることながら此この邊あたり分わけて多おほし。明あかるきより暗くらきに入いる處ところ、暗くらきより明あかるきに出いづる處ところ、石いしに添そひ、竹たけに添そひ、籬まがきに立たち、戸とに彳たゝずみ、馬蘭ばらんの中なかの、古井ふるゐの傍わきに、紫むらさきの俤おもかげなきはあらず。寂じやくたる森もりの中なか深ふかく、もう/\と牛うしの聲こゑして、沼ぬまとも覺おぼしき泥どろの中なかに、埒らちもこはれ/″\牛うし養やしなへる庭にはにさへ紫陽花あぢさゐの花はな盛さかりなり。
此時このとき、白襟しろえりの衣紋えもん正たゞしく、濃こいお納戸なんどの單衣ひとへ着きて、紺地こんぢの帶おび胸むな高たかう、高島田たかしまだの品ひんよきに、銀ぎんの平打ひらうちの笄かうがいのみ、唯たゞ黒髮くろかみの中なかに淡あはくかざしたるが、手車てぐるまと見みえたり、小豆色あづきいろの膝ひざかけして、屈竟くつきやうなる壯佼わかもの具ぐしたるが、車くるまの輪わも緩ゆるやかに、彼かの蜘蛛手くもでの森もりの下道したみちを、訪とふ人ひとの家いへを尋たづね惱なやみつと覺おぼしく、此處こゝ彼處かしこ、紫陽花あぢさゐ咲さけりと見みる處ところ、必かならず、一時ひとときばかりの間あひだに六度むたび七度なゝたび出いであひぬ。實げに我われも其日そのひはじめて訪とひ到いたれる友ともの家いへを尋たづねあぐみしなりけり。
玉簾たますだれの中なかもれ出いでたらんばかりの女をんなの俤おもかげ、顏かほの色いろ白しろきも衣きぬの好このみも、紫陽花あぢさゐの色いろに照てり榮はえつ。蹴込けこみの敷毛しきげ燃立もえたつばかり、ひら/\と夕風ゆふかぜに倘徉さまよへる状さまよ、何處いづこ、いづこ、夕顏ゆふがほの宿やどやおとなふらん。
笛ふえの音ねも聞きこえずや、あはれ此このあたりに若わかき詩人しじんや住すめる、うつくしき學士がくしやあると、折をりからの森もりの星ほしのゆかしかりしを、今いまも忘わすれず。さればゆかしさに、敢あへて岡燒をかやきをせずして記きをつくる。
泉镜花(いずみ きょうか,Izumi Kyouka,1873年11月4日—1939年9月7日),日本小说家。原名镜太郎。主要作品有《夜间巡警》《外科室》《妇系图》《歌行灯》等。1873年,出生于金泽市下新町二十三番地,从小受到传统艺术的熏陶,曾在教会学校北陆英和学校受教育。青年时期由于爱好文学,拜在作家尾崎红叶门下。1893年,发表处女作《冠弥左卫门》。1895年,发表《夜间巡警》和《外科室》,受到好评,被视为“观念小说”的代表作。小说《妇系图》(1907)、《歌行灯》(1910),是他的代表性作品。1909年,参加后藤宙外等人组织的文艺革新会,标榜反自然主义文学。大正年代发表了《天守物语》、《棠棣花》和《战国新茶渍》等剧本,被称为唯美主义戏剧的杰作。他以追求美的观念和浪漫主义丰富了日本文学。1937年,成为帝国艺术院院士。在1939年7月发表了绝笔之作《缕红新草》,9月即去世,终年六十六岁。
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