#苍井翔太[超话]#
转自3/1 X:
1. 今天也要加油呀!
2. 请一定要多多关照☺️
转推:
こちら、ご寄稿いただいたのはなんと、声優の蒼井翔太さん!大切な人生での思い出を共有していただきました。胸に迫ります。
3. 这几天真的
在睡觉前,闭上眼睛,就能看到大家来玩的场景☺️
超级开心☺️
4. 转推:
【ライブレポート掲載情報】
BARKSにて #蒼井翔太# LIVE 2024 WONDER lab. DETONATORのオリジナルライブレポートが掲載されました✨
https:/➕/www.barks.jp/news/?id=1000245178
是非ご覧ください
#ワンラボDETONATOR#
5. 昨天配信时偶然遇到了巴布桑‼️
感谢你来看我的演唱会ー☺️
猫耳朵ー!
#バブリーナ#
6. 请多关照!
转推:
◤AnimeJapan2024トークステージ開催◢
東京ビッグサイトにて開催されるAnimeJapan2024 KING AMUSEMENT CREATIVEブースにてトークステージ開催が決定しました!
◆日時:3/23(土)14:45~15:20
◆登壇:#蒼井翔太# さん(アレン役)、#栗坂南美# さん(リーズ役)
お楽しみに!✨
#できそこ#
7. 4月1日转眼就快到了呀☺️
好期待呀‼️
转推:
◤キービジュアル第2弾解禁✨◢
TVアニメ「出来損ないと呼ばれた元英雄は、実家から追放されたので好き勝手に生きることにした」
4月1日からテレ東・BSテレ東・AT-X・U-NEXTほかにて放送&配信開始も決定!
詳細は➡dekisoko-anime.com
#できそこ#
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6. 请多关照!
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◆日時:3/23(土)14:45~15:20
◆登壇:#蒼井翔太# さん(アレン役)、#栗坂南美# さん(リーズ役)
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4月1日からテレ東・BSテレ東・AT-X・U-NEXTほかにて放送&配信開始も決定!
詳細は➡dekisoko-anime.com
#できそこ#
#八木莉可子[超话]#
20240302【ig】yagirikaco_official
フジテレビ系
「ザ・ノンフィクション」
居場所をさがして ~僕と家族とシェアハウス~
語りをさせていただきました。
明日、3月3日(日) 14:00~14:55
放送となっております。
皆さま、是非ご覧ください
------------------------------------------------------
居場所のない若者たちがたどり着き、肩を寄せ合って暮らすシェアハウスがある。都内で4カ所のシェアハウスを運営する荒井佑介さん(34)は、10代の頃から周囲と折り合いが悪く、家族の中にも居場所を見つけられずにいた。そんな自身の経験から、若者たちの居場所をつくり、自立支援を行うシェアハウスの運営を始めたのだ。荒井さんの元に集まってくるのは、家出、家庭内暴力、ひきこもり…など、心に傷を負った若者ばかりだ。居場所がない実家を飛び出して上京、所持金もなく、公園で野宿をしていたタクヤさん(仮名・23)は、シェアハウスに入居してからも、なかなか自立に向けて動き出せずにいた。親との関係がうまくいかず、心に傷を追った彼は、ある日、シェアハウスから姿を消してしまう。タクヤさんは、誰にも言えない、ある事情を抱えていた…感情的に怒ることが多かった親の影響で、人と関わることが「怖い」と感じるようになったと語るユウタさん(仮名・25)。大学時代に、就職活動の面接におじけづき、実家にひきこもるようになってしまった。「このままでは前に進めない…」社会とのつながりを取り戻すため、実家を飛び出したユウタさん。入居後、少しずつ他の住人とも会話ができるようになった彼は、再び就職活動をスタートさせるのだが…シェアハウスの暮らしで、心の傷を癒やし、人生をやり直そうと懸命に生きる若者たちを見つめた…
#フジテレビ
#ザノンフィクション
20240302【ig】yagirikaco_official
フジテレビ系
「ザ・ノンフィクション」
居場所をさがして ~僕と家族とシェアハウス~
語りをさせていただきました。
明日、3月3日(日) 14:00~14:55
放送となっております。
皆さま、是非ご覧ください
------------------------------------------------------
居場所のない若者たちがたどり着き、肩を寄せ合って暮らすシェアハウスがある。都内で4カ所のシェアハウスを運営する荒井佑介さん(34)は、10代の頃から周囲と折り合いが悪く、家族の中にも居場所を見つけられずにいた。そんな自身の経験から、若者たちの居場所をつくり、自立支援を行うシェアハウスの運営を始めたのだ。荒井さんの元に集まってくるのは、家出、家庭内暴力、ひきこもり…など、心に傷を負った若者ばかりだ。居場所がない実家を飛び出して上京、所持金もなく、公園で野宿をしていたタクヤさん(仮名・23)は、シェアハウスに入居してからも、なかなか自立に向けて動き出せずにいた。親との関係がうまくいかず、心に傷を追った彼は、ある日、シェアハウスから姿を消してしまう。タクヤさんは、誰にも言えない、ある事情を抱えていた…感情的に怒ることが多かった親の影響で、人と関わることが「怖い」と感じるようになったと語るユウタさん(仮名・25)。大学時代に、就職活動の面接におじけづき、実家にひきこもるようになってしまった。「このままでは前に進めない…」社会とのつながりを取り戻すため、実家を飛び出したユウタさん。入居後、少しずつ他の住人とも会話ができるようになった彼は、再び就職活動をスタートさせるのだが…シェアハウスの暮らしで、心の傷を癒やし、人生をやり直そうと懸命に生きる若者たちを見つめた…
#フジテレビ
#ザノンフィクション
兄たち(下)
太宰治
「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、肘ひじで私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いただいた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうであって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造ミステフィカシオンの悪癖が、争われなかったのであろうと思います。
兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴さかなもあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やがて小さい珠数じゅずを手首にはめて歩いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰つまぐっては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ蹌踉そうろうと乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇ちゅうちょなくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。
私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せて、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇プライドの高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇ばらとを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎だっとの如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。
「おじさん(私は兄を、そう呼んでいました。)を知ってるだろう? おじさんを忘れちゃいけない。はい、これはおじさんから。」口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機嫌でした。兄は、そのとき、二十八歳でした。私は六つ下の二十二歳でありました。
そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以もって、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそうになりました。
それから、二月ふたつき経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰たんを指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風プレッシュウの趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造ミステフィカシオンをやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達だての気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。
死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に萎縮いしゅくしてしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭どうこくをはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。
太宰治(だざい おさむ,1909年6月19日—1948年6月13日),本名津岛修治(つしま しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。
太宰治
「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、肘ひじで私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いただいた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうであって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造ミステフィカシオンの悪癖が、争われなかったのであろうと思います。
兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴さかなもあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やがて小さい珠数じゅずを手首にはめて歩いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰つまぐっては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ蹌踉そうろうと乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇ちゅうちょなくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。
私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せて、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇プライドの高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇ばらとを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎だっとの如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。
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それから、二月ふたつき経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰たんを指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風プレッシュウの趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造ミステフィカシオンをやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達だての気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。
死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に萎縮いしゅくしてしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭どうこくをはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。
太宰治(だざい おさむ,1909年6月19日—1948年6月13日),本名津岛修治(つしま しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。
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