春申君
生涯
秦の人質
黄歇が国政に最初に登場したのが頃襄王25年(紀元前274年)、頃襄王の命を受けて秦に使いに行った時である。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。翌年、楚は和平の証として太子完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。
頃襄王35年(紀元前264年)、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相の范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である公子顛(昌文君)を代わりに人質に要求したことで話はまとまり[2]、黄歇は楚へと帰国することができた。その3カ月後に太子完が即位して楚王となった。
令尹として
黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号した。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
考烈王5年(紀元前258年)、趙の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
考烈王15年(紀元前248年)、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。『戦国策』によれば、これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる[3]。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。
同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。
最期
春申君の食客のひとりに趙の人の李園がいた。李園の妹の李環は美人でいずれ考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身籠った。これに対して、李園は考烈王に嗣子がないこと[4]に付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は要職についた。
その後、李園は事の露見を恐れて、春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。
考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が病死する。葬儀に向かう春申君は棘門(城門の名前)で待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害され、城外にその首を捨てられた。そして、一族郎党皆殺しとなった。
李園の妹が産んだ子が即位し、幽王となった。
死後
春申君と幽王に関しての話は『史記』に拠る。これとよく似た話が呂不韋と始皇帝の間にもあり、この二つの話を史実ではないと考える歴史家もいる(また日本にも白河法皇と平清盛、土岐頼芸と斎藤義龍などの似たような伝承がある)。
なお、幽王は在位10年目の紀元前228年に死に、幽王の同母弟の哀王が継ぐが在位2カ月目で庶兄[5]の負芻に襲撃され殺された。
司馬遷は、『史記』春申君列伝で春申君の最期について「かつて秦の昭襄王を説き伏せて、身を投げて楚の太子を帰国させた輝かしい栄智を持った春申君が、晩年に李園ごときに翻弄されたときには老いぼれていたのだ」と記した後に、古語に言う「当に断ずべくして断ぜざれば、返りて其の乱を招く(決断すべきときに決断しないと、逆に災難をこうむる)」を挙げて評している。
黄歇(前314—前238年),楚国人,春秋战国时期楚国大臣,官任楚国相国。
黄歇游学博闻,擅长辞辩。楚考烈王元年(前262年),以黄歇为相,赐其淮河以北十二县,封为春申君。黄歇明智忠信,宽厚爱人,以礼贤下士、招致宾客、辅佐治国而闻名于世,与魏国信陵君魏无忌、赵国平原君赵胜、齐国孟尝君田文并称为“战国四公子”。
前238年,楚考烈王病逝,黄歇奔丧时,李园令人埋伏于棘门之内,杀害春申君及其全家。
生涯
秦の人質
黄歇が国政に最初に登場したのが頃襄王25年(紀元前274年)、頃襄王の命を受けて秦に使いに行った時である。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。翌年、楚は和平の証として太子完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。
頃襄王35年(紀元前264年)、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相の范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である公子顛(昌文君)を代わりに人質に要求したことで話はまとまり[2]、黄歇は楚へと帰国することができた。その3カ月後に太子完が即位して楚王となった。
令尹として
黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号した。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
考烈王5年(紀元前258年)、趙の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
考烈王15年(紀元前248年)、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。『戦国策』によれば、これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる[3]。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。
同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。
最期
春申君の食客のひとりに趙の人の李園がいた。李園の妹の李環は美人でいずれ考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身籠った。これに対して、李園は考烈王に嗣子がないこと[4]に付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は要職についた。
その後、李園は事の露見を恐れて、春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。
考烈王25年(紀元前238年)、考烈王が病死する。葬儀に向かう春申君は棘門(城門の名前)で待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害され、城外にその首を捨てられた。そして、一族郎党皆殺しとなった。
李園の妹が産んだ子が即位し、幽王となった。
死後
春申君と幽王に関しての話は『史記』に拠る。これとよく似た話が呂不韋と始皇帝の間にもあり、この二つの話を史実ではないと考える歴史家もいる(また日本にも白河法皇と平清盛、土岐頼芸と斎藤義龍などの似たような伝承がある)。
なお、幽王は在位10年目の紀元前228年に死に、幽王の同母弟の哀王が継ぐが在位2カ月目で庶兄[5]の負芻に襲撃され殺された。
司馬遷は、『史記』春申君列伝で春申君の最期について「かつて秦の昭襄王を説き伏せて、身を投げて楚の太子を帰国させた輝かしい栄智を持った春申君が、晩年に李園ごときに翻弄されたときには老いぼれていたのだ」と記した後に、古語に言う「当に断ずべくして断ぜざれば、返りて其の乱を招く(決断すべきときに決断しないと、逆に災難をこうむる)」を挙げて評している。
黄歇(前314—前238年),楚国人,春秋战国时期楚国大臣,官任楚国相国。
黄歇游学博闻,擅长辞辩。楚考烈王元年(前262年),以黄歇为相,赐其淮河以北十二县,封为春申君。黄歇明智忠信,宽厚爱人,以礼贤下士、招致宾客、辅佐治国而闻名于世,与魏国信陵君魏无忌、赵国平原君赵胜、齐国孟尝君田文并称为“战国四公子”。
前238年,楚考烈王病逝,黄歇奔丧时,李园令人埋伏于棘门之内,杀害春申君及其全家。
一夜(下)
夏目漱石
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝らんじゃでも焚たき込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様さんようの解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい。
「珊瑚さんごの枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児じ」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心かんじんじゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。
「描えがけども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀ぎんわんを叩たたく。葛餅を獲えたる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左みぎひだりへ馳かけ廻る。
「蟻の夢が醒さめました」と女は夢を語る人に向って云う。
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽うろたえんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚おうようにふかしている。
五月雨さみだれに四尺伸びたる女竹めだけの、手水鉢ちょうずばちの上に蔽おおい重なりて、余れる一二本は高く軒に逼せまれば、風誘うたびに戸袋をすって椽えんの上にもはらはらと所択えらばず緑りを滴したたらす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。
床柱とこばしらに懸かけたる払子ほっすの先には焚たき残る香こうの煙りが染しみ込んで、軸は若冲じゃくちゅうの蘆雁ろがんと見える。雁かりの数は七十三羽、蘆あしは固もとより数えがたい。籠かごランプの灯ひを浅く受けて、深さ三尺の床とこなれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣おもむきがある。「ここにも画が出来る」と柱に靠よれる人が振り向きながら眺ながめる。
女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇きぬうちわを軽かろく揺ゆるがせば、折々は鬢びんのあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉まゆの常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私わたしも画えになりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛くずの葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣ゆかたの襟えりをここぞと正せば、暖かき大理石にて刻きざめるごとき頸筋くびすじが際立きわだちて男の心を惹ひく。
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後うしろへ廻まわして体をどうと斜めに反そらす。丈たけ長き黒髪がきらりと灯ひを受けて、さらさらと青畳に障さわる音さえ聞える。
「南無三、好事こうず魔多し」と髯ある人が軽かろく膝頭を打つ。「刹那せつなに千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲のみ殻がらを庭先へ抛たたきつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋ひを伝う雨点うてんの音のみが高く響く。蚊遣火かやりびはいつの間まにやら消えた。
「夜もだいぶ更ふけた」
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床ふしどに入る。
三十分の後のち彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹はいふきを攀よじ上のぼった事も、蓮はすの葉に下りた蜘蛛くもの事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主ぬしである事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
昔むかし阿修羅あしゅらが帝釈天たいしゃくてんと戦って敗れたときは、八万四千の眷属けんぞくを領して藕糸孔中ぐうしこうちゅうに入いって蔵かくれたとある。維摩ゆいまが方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃くるみの裏うちに潜ひそんで、われを尽大千世界じんだいせんせかいの王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆ぞくりゅうかいかのうちに蒼天そうてんもある、大地もある。一世いっせい師に問うて云う、分子ぶんしは箸はしでつまめるものですかと。分子はしばらく措おく。天下は箸の端さきにかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈みつればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到いたるものは、いたずらに茫々ぼうぼうたる時に身神を限らるるを恨うらむに過ぎぬ。日月は欺あざむくとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖ふえるのみじゃ。蜀川しょくせん十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜を描えがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。
夏目漱石(なつめ そうせき,1867年2月9日~1916年12月9日),本名夏目金之助,笔名漱石,取自“漱石枕流”(《晋书》孙楚语)[1],日本近代作家,毕业于东京大学英文科[7]。夏目漱石在日本近代文学史上享有很高的地位,被称为“国民大作家”。他对东西方的文化均有很高造诣,既是英文学者,又精擅俳句、汉诗和书法。写小说时他擅长运用对句、迭句、幽默的语言和新颖的形式。他对个人心理的描写精确细微,开启了后世私小说的风气之先。他的门下出了不少文人,芥川龙之介也曾受他提携。他一生坚持对明治社会的批判态度。1916年12月9日,夏目漱石因病去世。
夏目漱石
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝らんじゃでも焚たき込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様さんようの解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい。
「珊瑚さんごの枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児じ」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心かんじんじゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。
「描えがけども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀ぎんわんを叩たたく。葛餅を獲えたる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左みぎひだりへ馳かけ廻る。
「蟻の夢が醒さめました」と女は夢を語る人に向って云う。
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽うろたえんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚おうようにふかしている。
五月雨さみだれに四尺伸びたる女竹めだけの、手水鉢ちょうずばちの上に蔽おおい重なりて、余れる一二本は高く軒に逼せまれば、風誘うたびに戸袋をすって椽えんの上にもはらはらと所択えらばず緑りを滴したたらす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。
床柱とこばしらに懸かけたる払子ほっすの先には焚たき残る香こうの煙りが染しみ込んで、軸は若冲じゃくちゅうの蘆雁ろがんと見える。雁かりの数は七十三羽、蘆あしは固もとより数えがたい。籠かごランプの灯ひを浅く受けて、深さ三尺の床とこなれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣おもむきがある。「ここにも画が出来る」と柱に靠よれる人が振り向きながら眺ながめる。
女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇きぬうちわを軽かろく揺ゆるがせば、折々は鬢びんのあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉まゆの常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私わたしも画えになりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛くずの葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣ゆかたの襟えりをここぞと正せば、暖かき大理石にて刻きざめるごとき頸筋くびすじが際立きわだちて男の心を惹ひく。
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後うしろへ廻まわして体をどうと斜めに反そらす。丈たけ長き黒髪がきらりと灯ひを受けて、さらさらと青畳に障さわる音さえ聞える。
「南無三、好事こうず魔多し」と髯ある人が軽かろく膝頭を打つ。「刹那せつなに千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲のみ殻がらを庭先へ抛たたきつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋ひを伝う雨点うてんの音のみが高く響く。蚊遣火かやりびはいつの間まにやら消えた。
「夜もだいぶ更ふけた」
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床ふしどに入る。
三十分の後のち彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹はいふきを攀よじ上のぼった事も、蓮はすの葉に下りた蜘蛛くもの事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主ぬしである事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
昔むかし阿修羅あしゅらが帝釈天たいしゃくてんと戦って敗れたときは、八万四千の眷属けんぞくを領して藕糸孔中ぐうしこうちゅうに入いって蔵かくれたとある。維摩ゆいまが方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃くるみの裏うちに潜ひそんで、われを尽大千世界じんだいせんせかいの王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆ぞくりゅうかいかのうちに蒼天そうてんもある、大地もある。一世いっせい師に問うて云う、分子ぶんしは箸はしでつまめるものですかと。分子はしばらく措おく。天下は箸の端さきにかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈みつればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到いたるものは、いたずらに茫々ぼうぼうたる時に身神を限らるるを恨うらむに過ぎぬ。日月は欺あざむくとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖ふえるのみじゃ。蜀川しょくせん十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜を描えがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。
夏目漱石(なつめ そうせき,1867年2月9日~1916年12月9日),本名夏目金之助,笔名漱石,取自“漱石枕流”(《晋书》孙楚语)[1],日本近代作家,毕业于东京大学英文科[7]。夏目漱石在日本近代文学史上享有很高的地位,被称为“国民大作家”。他对东西方的文化均有很高造诣,既是英文学者,又精擅俳句、汉诗和书法。写小说时他擅长运用对句、迭句、幽默的语言和新颖的形式。他对个人心理的描写精确细微,开启了后世私小说的风气之先。他的门下出了不少文人,芥川龙之介也曾受他提携。他一生坚持对明治社会的批判态度。1916年12月9日,夏目漱石因病去世。
#FANTASTICS[超话]#
近畿大学
@kinkidaigakuPR
EXILE HIROさんから、卒業生へのスペシャルなプレゼント
FANTASTICSによるパフォーマンス!
見逃した方は配信でぜひ。
LDH JAPAN会長兼社長、EXILEのHIRO(54)が23日、大阪・東大阪市で行われた近大の卒業式にサプライズで登場し、卒業生に熱いメッセージを送った。メッセージの後、HIROは「LDH流のみなさんへのお祝いがあります」と話し、EXILE一族のFANTASTICSがHIROからのサプライズとしてパフォーマンスを披露した。
HIROは卒業生の手紙のメッセージでFANTASTICSのパフォーマー、中尾翔太さんが18年に胃がんのため、22歳の若さで亡くなったことに触れ「22歳の青年の生涯は思いもしない結末になったが、彼の人生の物語には決してムダなことは1つもない」と話し、「22年間という短い時間でしたが、たくさんの夢と情熱がギラギラ燃えていて、ともに夢を見たFANTASTICSのメンバーにつながり、いまもなお広がっている」としじみと語った。
FANTASTICSのリーダー佐藤大樹(29)は「翔太は病気と最後まで闘い続けた。彼が抱いていた夢のパワーが、そこにあったからだと身近で感じた。翔太がかなえられなかった夢を背負って、活動しています。僕らは“9人”がFANTASTICSです」とあいさつした。
ステージではZOOからEXILE、FANTASTICSへと歌い継がれる「Choo Choo TRAIN」(チュー チュー トレイン)を披露。卒業生約5500人が大きな声援を送った。ステージが終わると、卒業生からは「ありがとう!」の声が上がった。
近畿大学
@kinkidaigakuPR
EXILE HIROさんから、卒業生へのスペシャルなプレゼント
FANTASTICSによるパフォーマンス!
見逃した方は配信でぜひ。
LDH JAPAN会長兼社長、EXILEのHIRO(54)が23日、大阪・東大阪市で行われた近大の卒業式にサプライズで登場し、卒業生に熱いメッセージを送った。メッセージの後、HIROは「LDH流のみなさんへのお祝いがあります」と話し、EXILE一族のFANTASTICSがHIROからのサプライズとしてパフォーマンスを披露した。
HIROは卒業生の手紙のメッセージでFANTASTICSのパフォーマー、中尾翔太さんが18年に胃がんのため、22歳の若さで亡くなったことに触れ「22歳の青年の生涯は思いもしない結末になったが、彼の人生の物語には決してムダなことは1つもない」と話し、「22年間という短い時間でしたが、たくさんの夢と情熱がギラギラ燃えていて、ともに夢を見たFANTASTICSのメンバーにつながり、いまもなお広がっている」としじみと語った。
FANTASTICSのリーダー佐藤大樹(29)は「翔太は病気と最後まで闘い続けた。彼が抱いていた夢のパワーが、そこにあったからだと身近で感じた。翔太がかなえられなかった夢を背負って、活動しています。僕らは“9人”がFANTASTICSです」とあいさつした。
ステージではZOOからEXILE、FANTASTICSへと歌い継がれる「Choo Choo TRAIN」(チュー チュー トレイン)を披露。卒業生約5500人が大きな声援を送った。ステージが終わると、卒業生からは「ありがとう!」の声が上がった。
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