グナエウス・ポンペイウス
生涯
青年期と父の死
父はグナエウス・ポンペイウス・ストラボで、プルタルコスによれば、人々に憎まれていた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。父ストラボは紀元前92年までにプラエトルを務め、紀元前89年の執政官として同盟市戦争の北部戦線を担当し、アスクルムの戦い (紀元前89年)に勝利して凱旋式を挙行している。このときポンペイウスも父の配下として働いた。

父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。

紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが奪い合い、ローマ市を脱出したスッラがローマへ進軍、占領する事件が起きた。マリウスを追放したスッラは第一次ミトリダテス戦争へと出征したが、翌紀元前87年、執政官のルキウス・コルネリウス・キンナとグナエウス・オクタウィウスの両名が争い、ローマ市を脱出したキンナはマリウスを呼び戻してローマ市を占領した。

父ストラボはオクタウィウス側につき、コッリナ門でキンナ軍と対峙した。プルタルコスによれば、この最中にポンペイウス暗殺計画があり、騒動となった軍を父の代わりに立て直したという。キンナ軍を一度は撃退したが、父ストラボは雷に打たれて死んだとも伝わる。
紀元前86年、父がアスクルムの戦利品を横領したとして訴追されたが、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)、グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに弁護され無罪となり、裁判を主宰したアンティスティウスの娘と結婚した。キンナはスッラに対抗するため味方を必要としており、ポンペイウスの持つピケヌム人脈を手に入れるため弁護させたとする説もある。

キンナは紀元前84年、アンコーナで起こった暴動によって死んだが、ポンペイウスもこのときアンコーナにいたと考えられており、スッラ側かと疑われたためピケヌムに引き払った。

スッラの帰還と栄誉
紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラは、マリウスやキンナ亡き後のローマを制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。スッラは独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった。
スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州やアフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。

これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、難色を示したスッラに対して強気な姿勢を示して認めさせた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。

ヒスパニア遠征
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。

元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。

ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。
ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。

執政官就任
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。

ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。
ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。
執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
海賊征討戦
紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニウス法」と称される法案をプレブス民会に提出した。すなわち、「ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限をポンペイウスに3年間期限で付与する」というものであった。元老院議員の多くは反対に回ったものの、ガイウス・ユリウス・カエサルら一部の元老院議員がこれに賛成し、票を持つローマ市民は海賊の被害が甚大であったこともあって、ガビニウス法は可決された。

ポンペイウスの海賊討伐の戦略は、まず地中海全域を13の作戦海域に区分した上で、それぞれに軍団長及びローマ軍団を配備し、自らは60隻の軍船を率いる遊撃部隊の指揮を執って、支援を必要とする作戦海域へ駆けつけるというものであり、各軍団は海戦で海賊を撃退した後にこれを追って海賊の根拠地を叩き潰す形をとった。まずはヒスパニア、ヌミディアやサルディニアなどの地中海西部海域の海賊を征討し、わずか40日程度でこれを達成した。西部海域で征討した海賊を追って地中海東部海域へ侵攻して、エジプト・エーゲ海等を制圧して、海賊の最大の根拠地であったキリキア沿岸を陥落させたが、わずか49日間であった。結果、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐して、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達したという。
それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなった。キケロはポンペイウスの海賊征討戦について「冬に準備を行い、春に行動を起して、夏までに全てを終わらせた」とその周到さを称えたように、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示した。

霊媒
日本では口寄せという名でも知られている 。また霊媒者(れいばいしゃ)、霊媒師(れいばいし)などとも呼ばれる。

概要
霊媒には、その能力をあくまで私的にだけ用いる人と、その能力で宗教的役割などを果たす人とがいる。

霊媒は意図的に自らを通常とは異なった意識状態に置く。この状態は「トランス状態」(や「変性意識状態」)と呼ばれている。その間に超自然的存在が当人の身体に入り込み、人格が超自然的な状態(霊格)に変化する、と考えられている。トランスに入る時の入りかたとしては、素質的に、いわば自然発生的に起きる例もあるが、修行として人工的にその状態を促進させる場合が多い[2]。断食や籠り(不眠)などで、意識下(無意識)の活動を活発化させるための準備が行われ、暗示による人格変換が起きる。このトランス状態になると、自動言語(舌語り。自分の口が自分の意思とは関係なしに動く)や自動書記といった超常的な能力が働くようになる[2]。

霊媒の言葉は「われは〜の神である」とか「われは〜の霊である」といったように一人称的な形式をとる。

霊媒に憑依する存在は、神仏にはじまり、祖霊、死霊、動物霊まで、多岐にわたる。

霊媒の行う自動筆記は、霊や魂などから受け取った超自然的なメッセージを、意識によるコントロールや抑制なしで、書き取ったと言われている。

文化人類学においては、霊媒を「シャーマン」という言葉で理解し、その一類型だと考えだとする。
超心理学
超心理学においては、死者と交信できる心霊的能力を持つと考えられる人物のことをmedium霊媒と呼んでいる 。 死者とテレパシーのように交信をする人を「mental medium 心理的霊媒」と呼び、物体浮揚など物理的な現象を引き起こす人を「physical medium 物理的霊媒」と呼んでいる。物理的霊媒に関して説明すると、かつて欧米では暗闇の部屋でしか交霊会を開かずそこで物理的不可思議な現象を呈示していた者が多数いたわけなのだが、そういう人物を調査してみたところ詐術だと発覚した事例も多い、が、信憑性は明らかでない人物も多い。

生死について、「肉体の死後も何らかの意識的存在が残っているのだ、それは死後も生存しているのだ」とする考え方(=サバイバル仮説)と、その対立仮説として「肉体の死後にそれは生き残っていないのだ」とする考え方(=ノン・サバイバル仮説)があるが、超心理学では超ESP仮説(心霊的に得たとされる情報も、ESPを用いれば実在する人や物から情報を読み取ることができる、そういう考え方で説明しうる、とする仮説)が提示されており、厳密な実験によって霊媒によって通常の能力では得られるはずのない、死者に関する正確な情報が得られた場合でも、それを死後生存によるものと解釈することは可能だとしても、死後生存の証拠だと断定することはできない、という理屈になってしまっているので、死後生存の証明は実際上かなり困難だ、と考えられている。

超心理学的研究によって、「霊媒」と呼ばれていない一般人でも、何らかのpsi的な能力というのは多少なりともある、と理解されるようになってからは、超心理学では霊媒という語は、それ以前のような意味に限定されるものではなくなってきた。
霊媒の歴史
霊媒は古代から現代まで、洋の東西を問わず存在してきた。

日本の東北地方のイタコやオカミサマ[1]、あるいは南西諸島のユタ、カンカカリヤー[
、また行者、祈祷師、あるいは現代の新宗教の教祖などでも霊媒に分類可能な人物は多い。これは上で述べたような、能力を宗教的役割などに用いている人、ということになる。

聖書の中でも『サムエル記 上』28で、サウルが口寄せの女を捜し出すよう求めた。

サムエル記の該当箇所を読むには右の[表示]をクリック
「わたしのために、口寄せの女を探し出してくれ。わたしはその女に尋ねよう」

家来たちは言った。「ご覧ください、エンドルにひとりの口寄せがおります」

サウルは姿を変え、他の着物に着替え、ふたりの従者とともに行き、夜のうちにその女のところに着いた。そしてサウルは言った。「わたしのために口寄せの術をおこなって、わたしがこれからあなたに告げる人を呼び起こしてください」。

(中略)

女は言った。「あなたのために誰を呼び起こしますか?」

サウルは言った。「サムエルを呼び起こしてください」

女はサムエルを見て、大声で叫んだ。

(中略)
女はサウルに言った。「神のようなかたが地からのぼられるのが見えます」

サウルは彼女に言った。「その人はどんな様子をしていますか」

女は言った。「ひとりの老人がのぼってこられます。その人は上着をまとっておられます」。サウルはその人がサムエルであると知り、ひれ伏した。

サムエルはサウルに言った。「なぜわたしを呼び起こして、わたしを煩わすのだ」

サウルは言った。「わたしはとても悩んでいるのです。ペリシテ人がわたしに対していくさを起こし、神はわたしから離れ、預言者も夢もわたしに答を与えてくれないのです。だから、わたしがしなければならないことを知るためにあなたを呼んだのです」

— 『サムエル記 上』第28章
古代イスラエルでは、一般的に言えば口寄せ、霊媒は神に忌み嫌われるものとして禁じられていた(イザヤ書 8:19-20)。そして心霊術への嫌悪感はキリスト教へと引き継がれることになり、そうしてキリスト教では人に憑く霊は専ら悪魔や悪霊だと見なされてきた。

西欧のキリスト教圏において、霊界とのやりとりが表だって蘇ってきたのは、1848年にニューヨークのフォックス姉妹が、彼女らが暮らす家で以前殺害された人の霊と叩音(rapping)によって交信するという事件以降のことである。この家には大勢の人々が訪れ、超自然的な存在の働きを確信したという。この姉妹は霊的能力が認められて、例えば今は亡き親類の霊を呼び出してくれ、といったような依頼に応じることになり、トランス状態に入って霊と交信した。これをきっかけとして人々は心霊実験を熱心に行うようになり、欧米のヴィクトリア朝の各家庭では、table-turning(テーブル・ターニング。コックリさんのようなもの)がきわめてポピュラーに行われるようになり、やがて物体が浮揚するのを見せる者も出てきて、既存宗教の枠組みには入りきらない、超自然的な存在への好奇心が人々の心をとらえるようになったのであり、こうした物理的心霊現象に対する科学的探究心が超心理学へとつながっていくことになった。

超心理学的な枠組みでの研究は1920年以降になってからさかんに行われるようになったわけであるが、超心理学では通常「霊媒」と言うと、19世紀中ごろに米国で興った近代スピリチュアリズム運動以降の能力者のことを指している。

霊媒の能力に接する会をséanceとかsittingと言い、日本語では交霊会と言う(降霊会という字を当てることもある)。
交霊会における人々の、霊界と交信したいという気持ちはきわめてまじめで真剣なものだった。大切な子を失ったり、最愛の妻や夫を亡くした人などが、そうした死者とコミュニケーションをとろうとしたのである。やがて二度にもわたって世界大戦が起き、非常に多数の人が亡くなるという悲惨なことが起きると、人々はふたたび熱心に交霊会を行うようになった。というのは、これらの大戦では大切な家族の臨終に立ち会うこともできないまま死別し、辛い思いを味わった人があまりにも多かったのである。

キリスト教の伝統が根強い欧米においては、超自然的な霊界との通信というのは、spirit healing(心霊治療)の現代版とも言えるNew Thoughtニュー・ソートやメンタル・サイエンスへとつながり、唯物論的な世界観に対する不満を表明している。

かつての心理的霊媒の著名人物としては、レオノーラ・パイパー、アイリーン・ギャレットなどがいる。パイパーについては心理学者のウィリアム・ジェームズが、またギャレットについては生理学者のカレル[要曖昧さ回避]などが実験的研究を行った。

柏挙の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

背景
呉は元々、春秋時代に大きな力を持つ楚の東にある小さな国だった。楚は北にある大国の晋とたびたび争っていた。晋は楚の拡大を阻止するために呉と手を組み呉の兵を鍛え、戦車の使い方を教えた。呉は次第に力をつけ紀元前584年には初めて楚を破り、州来を併合した。この後70年の間に10度戦い大半を呉が勝利した。

楚の平王の治世中、腐敗した役人費無忌(ひむき)は王に太子建の妃との結婚を誘発した。太子建が王になった後に復讐されるのを恐れた費無忌は太子建を追い出し太傅の伍奢(ごしゃ)と長男の伍尚を殺すよう平王に讒言した。伍奢の次男の伍子胥は呉に逃げ復讐を誓った。費無忌は後に嚢瓦と沈尹戌に殺された。呉において伍子胥は公子光の信頼できる部下となり公子光の従兄弟の呉王僚を暗殺するのを手助けした。公子光は王位に着き呉王闔閭となった。
呉楚の戦い
『春秋左氏伝』は、紀元前4世紀に編纂された初期の中国史の物語の一つで、戦争の詳細が説明されている。紀元前506年、楚の昭王の治世の間に、闔閭は楚を侵略することに決めた。闔閭は自ら軍を率いて弟の夫概、伍子胥と共に向かった。楚の令尹嚢瓦に王が囚われていた小国の唐と蔡が呉に加わった。呉軍は淮河から船を出し、漢江の東岸へと向かった。これに対し嚢瓦と司馬の沈尹戌は呉と向かい合い漢江の西に楚軍で率いた。沈尹戌が出した案は嚢瓦が漢江沿で主要軍を率いて防衛、沈尹戌が楚の北の国境にある方城の軍を率いて淮河に残された呉船を破壊し呉軍の3つの退路を塞ぎ、呉軍を挟み撃ちにするというものだった。嚢瓦は計画を受け入れ沈尹戌は方城に出発した。しかし、沈尹戌が出国後、史皇は嚢瓦に「楚の人々はあなたを憎み、沈尹戌を好いています。沈尹戌の計画に従えば、沈尹戌は勝利と信用を勝ち取りあなたの運命は決まるでしょう」と言った。嚢瓦は川を渡りすぐに攻撃することにした。両軍隊は小別山(現在の漢川の南東)と大別山の間で3度戦い、呉軍は勝利した。敗戦を確信し嚢瓦は逃げようとしたが、沈尹戌に止められた。

11月19日(旧暦)、両軍は柏挙に布陣した。夫概は闔閭に攻撃の許可を求め、嚢瓦は無能で兵士には戦う気力がなく、攻撃すれば逃げるはずだと述べた。闔閭は拒否したが、夫概は従わず私兵5000で攻撃した。予想通り楚の兵は逃げ、楚軍は引き回された。史皇は殺され嚢瓦は鄭に逃げた。夫概は楚軍を清発川へと追いやり、彼らの半分が川を渡るまで待ってから再び攻撃して敗北させた。その後、呉軍は食事をしていた楚の兵士に追いつき雍よう澨せい川で再び楚を破った。楚の兵士たちは逃げ出し、呉軍は彼らの食事を食べ、沈尹戌の追跡を再開した。沈尹戌は楚軍が敗れたことを知り、兵を救うため、まず夫概を破った。しかし、楚軍は呉軍に囲まれ負傷し、勝つ見込みがないと考えた沈尹戌は部下の呉句卑に首を楚の国都郢に持ち帰るように命じた。5度の戦いに全て敗戦した楚軍は壊滅した。
呉の入郢とその後
前線の敗戦を知った楚の昭王は、異母兄の子期(公子結)や子西(公子申)といった主な武官の反対や民の生存を無視し少数で逃げ出した。楚軍は昭王が逃げ全軍が壊滅したことを知り、子期は王を守るため駆けつけ、子西は兵を西に逃がした。11月29日、呉軍は郢に入ると焼き討ち・虐殺・略奪と呉軍の残虐行為は続いた。楚の兵と民は重傷を負い、首都は壊滅させられ楚は滅亡した。呉が台頭し、この戦いは孫武を天下に知らしめた。

昭王ははじめ雲夢に逃げたが雲夢の人は彼が王だということを知らず射かけた。昭王は鄖うんに逃げたが鄖公鬬とう辛しんの弟の鬬とう懐かいが昭王を殺そうと企てたため、随に逃げ庇護下に置かれた。
伍子胥は郢えいに入ると平王の墓を暴き300回鞭打ちし、また昭王を探した。随ははじめ昭王を闔閭に引き渡そうとするが占いの結果が好ましくなかったため拒否する。昔、伍子胥と申包胥は親友であったが、伍子胥が楚を出るとき「必ず楚を滅ぼす」と言い、申包胥は「必ず守る」と答えた。郢の陥落後、楚の役人でありかつ伍子胥の旧友だった申包胥は、援助を求めるために秦に行った。 最初は秦の哀公は援助を拒んだが、申包胥が宮殿の中庭で泣いて7日間過ごした後、秦の哀公は彼の献身に動かされ、楚を助けるために軍隊を送ることに同意した。

越が呉を攻める機会と考え、呉の領土に入った。申包胥は秦軍と楚の残党を率いて呉を破った。また、楚の子西に率いられた軍も呉を破った。楚秦連合軍は呉の属国の唐を滅ぼし、援助を絶った。呉に帰った闔閭の弟の夫概が反乱を起こしたため、闔閭は楚から撤退した。以後、呉と楚は何度も戦ったが大規模なものにはならなかった。紀元前504年呉が楚を脅かしたため、楚は鄀じゃくに遷都し次第に安定した。呉楚の間に大きな戦はなく、呉は越に目を向けた。


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