孟嘗君
田文の登場
田文の父の田嬰は斉の宣王の異母弟で、薛(現在の山東省棗荘市滕州市)に領地を持っていた。田嬰には子が40人もおり、田文の母は身分が低かった。さらに田文が生まれたのは5月5日で、この日に生まれた子は後に親を殺すと信じられていたため、田嬰は田文を殺そうとしたが、母は密かに田文を匿って育てた(ただしこの逸話は史実かどうか意見が分かれる)。田文が成人した後に初めて父に引き合わされた際、田嬰は怒りの声を上げた。すると田文は殺さねばならない理由を訊いた。田嬰が「5月5日に生まれた子は門戸の高さにまで成長すると親を殺す」という言い伝えを伝えたところ、田文は「門戸の高さを高くすれば良い」と返した。これには田嬰も思うところあって田文を許し、田文は田嬰の屋敷に住むようになったが、これまでの経緯もあって冷遇されていた。
ある日、田文は田嬰に「玄孫の孫」は何と言うか聞いた。田嬰がわからないと答えると田文は、斉の領土は増えていないにもかかわらず、わが家が富を得ていること、今では続柄がよくわからないような血縁者が多いこと、そのような血縁者たちのために財産を残すのはおかしいと答えた。
そこで田嬰は食客を屋敷に招き、田文にその世話をさせることにした。すると食客の間で田文の評判が非常に高くなり、やがてそれが諸侯の間にまで知れ渡るほどまでになったので、田嬰は田文を跡継ぎに立てることにした。
父の跡を継いだ田文は、何でも一芸あれば拒まずと積極的に食客を迎え入れ、その数は数千を数えた。ある時、田文が食事の時に食客との間に衝立を置いたところ、食客の一人が「料理に差をつけているから隠すのだろう」と言い立てた。これを聞いた田文はその客に料理がまったく同じだと言うことを示した。疑ったことを恥じた客は自刎して果てた。
鶏鳴狗盗
このことが更に田文の名声を高め、湣王2年(紀元前299年)に秦の昭襄王は田文を宰相として迎え入れようとした。田文はこれに応えて秦に入ったが、ある人が昭襄王に、田文は当代一流の人材であるが斉の人間であるから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いない。斉に帰せば秦の脅威となると進言、昭襄王はこれを容れて田文が滞在している屋敷を包囲させ、田文の命は危うくなった。
田文は食客を使って昭襄王の寵姫に命乞いをしたが、寵姫は田文の持つ宝物「狐白裘(こはくきゅう)」と引き替えなら昭襄王に助命を頼んでも良いという。しかし、田文は秦に入国する前に昭襄王にこれを献上していた。悩んでいた所、食客の一人である狗盗(犬のようにすばしこい泥棒)が名乗り出て、昭襄王の蔵から狐白裘を盗んできた。これを寵姫に渡すと、その取り成しによって屋敷の包囲は解かれ、田文はひとまず危機を逃れることができた。
しかし昭襄王の気がいつ変わるかわからない。そこで田文は急いで帰国の途に着き、夜中に国境の函谷関までたどり着いた。しかし関は夜間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開けないのが規則だった。すでに気の変わった昭襄王は追っ手を差し向けており、田文もそれを察して困っていたところ、食客の一人である物真似の名人が名乗り出た。そして彼が鶏の鳴きまねをすると、それにつられて本物の鶏も鳴き始め、これによって開かれた函谷関を抜けて、田文は秦を脱出することができた。昭襄王の追っ手は夜明け頃に函谷関へ着いたが、田文らが夜中に関を通ったことを知ると引き返した。こうして田文一行は虎口を脱した。
常日頃、学者や武芸者などの食客は、田文が盗みや物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満だったが、このときばかりは田文の先見の明に感心した。「つまらない才能」あるいは「つまらない特技でも、何かの役に立つ」を意味する鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事はここから来ている。
秦から斉への帰途、趙の村に立ち寄ったとき、田文は村人から背の低いことを馬鹿にされた。これに怒った田文は、食客と共に村人を皆殺しにしたという。
斉の宰相と馮驩
斉に帰った田文は宰相になり、湣王3年(紀元前298年)に匡章を統帥とする韓・魏との連合軍で秦を討った(函谷関の戦い)。
田文は、宣王の子の湣王のもとで宰相として内外の政治に当たり、斉の国力を高めた。しかし国が富強になると湣王は増長し、他国に強圧的な外交を行うようになる。そしてそれを諌める田文と、「田文あっての斉」という風評を疎ましく思うようになり、宰相を罷免される。
宰相を罷免されたことで、田文のもとにいた3000人の食客も立ち去っていったが、馮驩(ふうかん)[5]という食客だけは残った。馮驩は田文を斉の宰相に復職させるため策[6]を用いて宰相に復職させた。田文が斉の宰相に復職すると、馮驩は立ち去った食客たちを呼び戻すように進言した。しかし田文は自分が貧窮していたときに立ち去った食客を詰った。それに対し馮驩は好悪の情で去ったのではなく自分の識見を活かせなくなったので去っただけと諭して呼び戻すことを認めさせた。
田文と馮驩については、『史記』「孟嘗君伝」に記されている。
狡兎三窟
田文が宰相を罷免され領地の薛にいたときに、馮驩が「狡兎(すばしっこい兎)は逃げるための穴を3つ持っているが、君(田文)には逃げる穴が領地である薛1つしかないため、枕を高くして眠ることができない。君のために穴をもう2つ掘ってまいりましょう」と告げた。
馮驩はまず魏の恵王に謁見し、田文を魏の宰相にすれば富国強兵に繋がることを進言した。恵王はこの進言を容れ田文のために上席の地位を空け、田文に使者を送った。続いて、馮驩は湣王に謁見し、魏が田文を宰相にしようとしていること、田文に詫びて復職させる策を伝えた。魏の使者が頻繁に田文のもとに出入りしていることを知った湣王は、馮驩の思惑通り田文に宰相に復職するよう詫びの使者を送った。馮驩は湣王が信頼できないと考えており、田文に斉王の宗廟を薛に建立する許可を湣王に得るように進言し、湣王はこれを認めた。宗廟が完成すると馮驩は「ようやく逃げる穴が3つになりました。君は枕を高くして眠れます」と答えた。
「狡兎三窟(こうとさんくつ)」の故事はここから来ている。
その死
宰相に復職したものの、湣王の不興を察した田文は、自ら隠棲することにした。
しかし、その後も民や諸侯からの評判が高く、また斉に田文がいる限り覇は無いと見た秦が強力な工作をしたこともあって、湣王の猜疑心は増々大きくなり、殺されかねない情勢となってきた。そして遂に湣王17年(紀元前284年)、田文は魏に逃げ、その宰相に迎えられた。
その後、湣王に恨みを持っていた燕の昭王の意向を受けた楽毅の主導で、趙・魏・韓・秦・燕の五国連合軍が成立し、湣王の斉軍に大勝した。そして斉に攻め込んだ楽毅により湣王は殺され、斉は滅亡寸前にまで追い詰められたが、田単の知略によって復興し、やがて田文も再び斉に迎えられた。
襄王5年(紀元前279年)、田文は死去し、諡して孟嘗君と呼ばれるようになった。
子孫
その死後、彼の息子たちが跡目争いをしている隙を突いて本家の襄王は魏と連合して薛を攻めて、孟嘗君の子孫は消息不明となった。
前漢の劉邦が薛を通過したとき、孟嘗君の子孫を探し出し、その結果として孟嘗君の孫である田陵と田国を見つけた。劉邦は両人に領地を与えようとした。しかし、両人はお互いに譲り合っていたため、まとまらなかった。終いに両人は野に下って、沛郡竹邑県(現在の安徽省淮北市濉渓県)に住居を構えて、田国の系統が薛氏と改称し、代々が州郡の長官を勤めた。その末孫が呉に仕えた薛綜であるという。
評価
司馬遷は史記で薛の旧跡を訪れた。そこには乱暴者が多かった。その理由を聞くと、「孟嘗君の招きで任侠が集まり、鶏鳴狗盗の類まで薛に移ってきた。その数は6万戸におよぶ」とのことだった。孟嘗君は客好きをもって知られるが、その評判は大げさではない、と評している。
田文(生卒年不详),即孟尝君。妫姓田氏,名文,又称文子、薛文、薛公。战国时齐国临淄(今山东省淄博市临淄区)人。父亲靖郭君田婴子,祖父齐威王。
后得父赏识令主持家务,广罗宾客,名声闻于诸侯。父死袭封于薛(今山东省滕州市张汪镇官桥镇境内)。食客数千人,诸侯宾客及亡人有罪者,乃至鸡鸣狗盗之徒,无贫贵贱,皆招致之。齐湣王时,任齐相,采取远交近攻策略,联合韩、魏攻楚、燕。齐湣王七年(前294年)因田甲叛乱事,田文退居薛邑。齐湣王十七年(公元前284年),田文任魏相,发兵联合燕、赵攻齐。
齐襄王继位后,他居薛,中立于诸侯,无所属。死后诸子争立。齐、魏共灭薛,绝嗣无后。或传一度入秦为相,遭谗被囚,赖其宾客盗狐白裘以赂秦昭王幸姬,才得以出关逃回。
田文の登場
田文の父の田嬰は斉の宣王の異母弟で、薛(現在の山東省棗荘市滕州市)に領地を持っていた。田嬰には子が40人もおり、田文の母は身分が低かった。さらに田文が生まれたのは5月5日で、この日に生まれた子は後に親を殺すと信じられていたため、田嬰は田文を殺そうとしたが、母は密かに田文を匿って育てた(ただしこの逸話は史実かどうか意見が分かれる)。田文が成人した後に初めて父に引き合わされた際、田嬰は怒りの声を上げた。すると田文は殺さねばならない理由を訊いた。田嬰が「5月5日に生まれた子は門戸の高さにまで成長すると親を殺す」という言い伝えを伝えたところ、田文は「門戸の高さを高くすれば良い」と返した。これには田嬰も思うところあって田文を許し、田文は田嬰の屋敷に住むようになったが、これまでの経緯もあって冷遇されていた。
ある日、田文は田嬰に「玄孫の孫」は何と言うか聞いた。田嬰がわからないと答えると田文は、斉の領土は増えていないにもかかわらず、わが家が富を得ていること、今では続柄がよくわからないような血縁者が多いこと、そのような血縁者たちのために財産を残すのはおかしいと答えた。
そこで田嬰は食客を屋敷に招き、田文にその世話をさせることにした。すると食客の間で田文の評判が非常に高くなり、やがてそれが諸侯の間にまで知れ渡るほどまでになったので、田嬰は田文を跡継ぎに立てることにした。
父の跡を継いだ田文は、何でも一芸あれば拒まずと積極的に食客を迎え入れ、その数は数千を数えた。ある時、田文が食事の時に食客との間に衝立を置いたところ、食客の一人が「料理に差をつけているから隠すのだろう」と言い立てた。これを聞いた田文はその客に料理がまったく同じだと言うことを示した。疑ったことを恥じた客は自刎して果てた。
鶏鳴狗盗
このことが更に田文の名声を高め、湣王2年(紀元前299年)に秦の昭襄王は田文を宰相として迎え入れようとした。田文はこれに応えて秦に入ったが、ある人が昭襄王に、田文は当代一流の人材であるが斉の人間であるから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いない。斉に帰せば秦の脅威となると進言、昭襄王はこれを容れて田文が滞在している屋敷を包囲させ、田文の命は危うくなった。
田文は食客を使って昭襄王の寵姫に命乞いをしたが、寵姫は田文の持つ宝物「狐白裘(こはくきゅう)」と引き替えなら昭襄王に助命を頼んでも良いという。しかし、田文は秦に入国する前に昭襄王にこれを献上していた。悩んでいた所、食客の一人である狗盗(犬のようにすばしこい泥棒)が名乗り出て、昭襄王の蔵から狐白裘を盗んできた。これを寵姫に渡すと、その取り成しによって屋敷の包囲は解かれ、田文はひとまず危機を逃れることができた。
しかし昭襄王の気がいつ変わるかわからない。そこで田文は急いで帰国の途に着き、夜中に国境の函谷関までたどり着いた。しかし関は夜間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開けないのが規則だった。すでに気の変わった昭襄王は追っ手を差し向けており、田文もそれを察して困っていたところ、食客の一人である物真似の名人が名乗り出た。そして彼が鶏の鳴きまねをすると、それにつられて本物の鶏も鳴き始め、これによって開かれた函谷関を抜けて、田文は秦を脱出することができた。昭襄王の追っ手は夜明け頃に函谷関へ着いたが、田文らが夜中に関を通ったことを知ると引き返した。こうして田文一行は虎口を脱した。
常日頃、学者や武芸者などの食客は、田文が盗みや物真似の芸しか持たないような者すら食客として受け入れていたことに不満だったが、このときばかりは田文の先見の明に感心した。「つまらない才能」あるいは「つまらない特技でも、何かの役に立つ」を意味する鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事はここから来ている。
秦から斉への帰途、趙の村に立ち寄ったとき、田文は村人から背の低いことを馬鹿にされた。これに怒った田文は、食客と共に村人を皆殺しにしたという。
斉の宰相と馮驩
斉に帰った田文は宰相になり、湣王3年(紀元前298年)に匡章を統帥とする韓・魏との連合軍で秦を討った(函谷関の戦い)。
田文は、宣王の子の湣王のもとで宰相として内外の政治に当たり、斉の国力を高めた。しかし国が富強になると湣王は増長し、他国に強圧的な外交を行うようになる。そしてそれを諌める田文と、「田文あっての斉」という風評を疎ましく思うようになり、宰相を罷免される。
宰相を罷免されたことで、田文のもとにいた3000人の食客も立ち去っていったが、馮驩(ふうかん)[5]という食客だけは残った。馮驩は田文を斉の宰相に復職させるため策[6]を用いて宰相に復職させた。田文が斉の宰相に復職すると、馮驩は立ち去った食客たちを呼び戻すように進言した。しかし田文は自分が貧窮していたときに立ち去った食客を詰った。それに対し馮驩は好悪の情で去ったのではなく自分の識見を活かせなくなったので去っただけと諭して呼び戻すことを認めさせた。
田文と馮驩については、『史記』「孟嘗君伝」に記されている。
狡兎三窟
田文が宰相を罷免され領地の薛にいたときに、馮驩が「狡兎(すばしっこい兎)は逃げるための穴を3つ持っているが、君(田文)には逃げる穴が領地である薛1つしかないため、枕を高くして眠ることができない。君のために穴をもう2つ掘ってまいりましょう」と告げた。
馮驩はまず魏の恵王に謁見し、田文を魏の宰相にすれば富国強兵に繋がることを進言した。恵王はこの進言を容れ田文のために上席の地位を空け、田文に使者を送った。続いて、馮驩は湣王に謁見し、魏が田文を宰相にしようとしていること、田文に詫びて復職させる策を伝えた。魏の使者が頻繁に田文のもとに出入りしていることを知った湣王は、馮驩の思惑通り田文に宰相に復職するよう詫びの使者を送った。馮驩は湣王が信頼できないと考えており、田文に斉王の宗廟を薛に建立する許可を湣王に得るように進言し、湣王はこれを認めた。宗廟が完成すると馮驩は「ようやく逃げる穴が3つになりました。君は枕を高くして眠れます」と答えた。
「狡兎三窟(こうとさんくつ)」の故事はここから来ている。
その死
宰相に復職したものの、湣王の不興を察した田文は、自ら隠棲することにした。
しかし、その後も民や諸侯からの評判が高く、また斉に田文がいる限り覇は無いと見た秦が強力な工作をしたこともあって、湣王の猜疑心は増々大きくなり、殺されかねない情勢となってきた。そして遂に湣王17年(紀元前284年)、田文は魏に逃げ、その宰相に迎えられた。
その後、湣王に恨みを持っていた燕の昭王の意向を受けた楽毅の主導で、趙・魏・韓・秦・燕の五国連合軍が成立し、湣王の斉軍に大勝した。そして斉に攻め込んだ楽毅により湣王は殺され、斉は滅亡寸前にまで追い詰められたが、田単の知略によって復興し、やがて田文も再び斉に迎えられた。
襄王5年(紀元前279年)、田文は死去し、諡して孟嘗君と呼ばれるようになった。
子孫
その死後、彼の息子たちが跡目争いをしている隙を突いて本家の襄王は魏と連合して薛を攻めて、孟嘗君の子孫は消息不明となった。
前漢の劉邦が薛を通過したとき、孟嘗君の子孫を探し出し、その結果として孟嘗君の孫である田陵と田国を見つけた。劉邦は両人に領地を与えようとした。しかし、両人はお互いに譲り合っていたため、まとまらなかった。終いに両人は野に下って、沛郡竹邑県(現在の安徽省淮北市濉渓県)に住居を構えて、田国の系統が薛氏と改称し、代々が州郡の長官を勤めた。その末孫が呉に仕えた薛綜であるという。
評価
司馬遷は史記で薛の旧跡を訪れた。そこには乱暴者が多かった。その理由を聞くと、「孟嘗君の招きで任侠が集まり、鶏鳴狗盗の類まで薛に移ってきた。その数は6万戸におよぶ」とのことだった。孟嘗君は客好きをもって知られるが、その評判は大げさではない、と評している。
田文(生卒年不详),即孟尝君。妫姓田氏,名文,又称文子、薛文、薛公。战国时齐国临淄(今山东省淄博市临淄区)人。父亲靖郭君田婴子,祖父齐威王。
后得父赏识令主持家务,广罗宾客,名声闻于诸侯。父死袭封于薛(今山东省滕州市张汪镇官桥镇境内)。食客数千人,诸侯宾客及亡人有罪者,乃至鸡鸣狗盗之徒,无贫贵贱,皆招致之。齐湣王时,任齐相,采取远交近攻策略,联合韩、魏攻楚、燕。齐湣王七年(前294年)因田甲叛乱事,田文退居薛邑。齐湣王十七年(公元前284年),田文任魏相,发兵联合燕、赵攻齐。
齐襄王继位后,他居薛,中立于诸侯,无所属。死后诸子争立。齐、魏共灭薛,绝嗣无后。或传一度入秦为相,遭谗被囚,赖其宾客盗狐白裘以赂秦昭王幸姬,才得以出关逃回。
泥棒
夏目漱石
寝ようと思って次の間へ出ると、炬燵こたつの臭においがぷんとした。厠かわやの帰りに、火が強過ぎるようだから、気をつけなくてはいけないと妻さいに注意して、自分の部屋へ引取った。もう十一時を過ぎている。床の中の夢は常のごとく安らかであった。寒い割に風も吹かず、半鐘はんしょうの音も耳に応こたえなかった。熟睡が時の世界を盛もり潰つぶしたように正体を失った。
すると忽然こつぜんとして、女の泣声で眼が覚さめた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽うろたえるといつでも泣声を出す。この間家うちの赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯気ゆけに上あがって、引きつけたといって五分ばかり泣声を出した。自分がこの下女の異様な声を聞いたのは、それが始めてである。啜すすり上あげるようにして早口に物を云う。訴えるような、口説くどくような、詫わびを入れるような、情人じょうじんの死を悲しむような――とうてい普通の驚愕きょうがくの場合に出る、鋭くって短い感投詞かんとうしの調子ではない。
自分は今云う通りこの異様の声で、眼が覚めた。声はたしかに妻さいの寝ている、次の部屋から出る。同時に襖ふすまを洩もれて赤い火がさっと暗い書斎に射した。今開ける瞼まぶたの裏に、この光が届くや否や自分は火事だと合点がってんして飛び起きた。そうして、突然いきなり隔へだての唐紙からかみをがらりと開けた。
その時自分は顛覆返ひっくりかえった炬燵こたつを想像していた。焦こげた蒲団ふとんを想像していた。漲みなぎる煙と、燃える畳たたみとを想像していた。ところが開けて見ると、洋灯ランプは例のごとく点ともっている。妻と子供は常の通り寝ている。炬燵こたつは宵よいの位地にちゃんとある。すべてが、寝る前に見た時と同じである。平和である。暖かである。ただ下女だけが泣いている。
下女は妻の蒲団の裾すそを抑おさえるようにして早口に物を云う。妻は眼を覚まして、ぱちぱちさせるばかりで別に起きる様子もない。自分は何事が起ったのかほとんど判じかねて、敷居際しきいぎわに突立つったったまま、ぼんやり部屋の中を見回みまわした。途端とたんに下女の泣声のうちに、泥棒という二字が出た。それが自分の耳に這入はいるや否や、すべてが解決されたように自分はたちまち妻の部屋を大股おおまたに横切って、次つぎの間まに飛び出しながら、何だ――と怒鳴どなりつけた。けれども飛び出した次の部屋は真暗である。続く台所の雨戸が一枚外はずれて、美しい月の光が部屋の入口まで射し込んでいる。自分は真夜中に人の住居すまいの奥を照らす月影を見て、おのずから寒いと感じた。素足すあしのまま板の間へ出て台所の流元ながしもとまで来て見ると、四辺あたりは寂しんとしている。表を覗のぞくと月ばかりである。自分は、戸口から一歩も外へ出る気にならなかった。
引き返して、妻の所へ来て、泥棒は逃げた、安心しろ、何も窃とられやしない、と云った。妻はこの時ようやく起き上っていた。何も云わずに洋灯を持って暗い部屋まで出て来て、箪笥たんすの前に翳かざした。観音開かんのんびらきが取とり外はずされている。抽斗ひきだしが明けたままになっている。妻は自分の顔を見て、やっぱり窃られたんですと云った。自分もようやく泥棒が窃った後で逃げたんだと気がついた。何だか急に馬鹿馬鹿しくなった。片方を見ると、泣いて起しに来た下女の蒲団が取ってある。その枕元にもう一つ箪笥がある。その箪笥の上にまた用箪笥が乗っている。暮の事なので医者の薬礼やくれいその他がこの内に這入っているのだそうだ。妻に調べさせるとこっちの方は元の通りだと云う。下女が泣いて縁側えんがわの方から飛び出したので、泥棒もやむをえず仕事の中途で逃げたのかも知れない。
そのうち、ほかの部屋に寝ていたものもみんな起きて来た。そうしてみんないろいろな事を云う。もう少し前に小用こように起きたのにとか、今夜は寝つかれないで、二時頃までは眼が冴さえていたのにとか、ことごとく残念そうである。そのなかで、十とおになる長女は、泥棒が台所から這入はいったのも、泥棒がみしみし縁側えんがわを歩いたのも、すっかり知っていると云った。あらまあとお房ふささんが驚いている。お房さんは十八で、長女と同じ部屋に寝る親類の娘である。自分はまた床へ這入はいって寝た。
明くる日はこの騒動で、例よりは少し遅く起きた。顔を洗って、朝食あさめしをやっていると、台所で下女が泥棒の足痕あしあとを見つけたとか、見つけないとか騒いでいる。面倒めんどうだから書斎へ引き取った。引き取って十分も経たったかと思うと、玄関で頼むと云う声がした。勇ましい声である。台所の方へ通じないようだから、自分で取次に出て見たら、巡査が格子こうしの前に立っていた。泥棒が這入ったそうですねと笑っている。戸締とじまりは好くしてあったのですかと聞くから、いや、どうもあまり好くありませんと答えた。じゃ仕方がない、締しまりが悪いとどこからでも這入りますよ、一枚一枚雨戸へ釘くぎを差さなくちゃいけませんと注意する。自分ははあはあと返事をしておいた。この巡査に遇あってから、悪いものは、泥棒じゃなくって、不取締ふとりしまりな主人であるような心持になった。
巡査は台所へ廻った。そこで妻さいを捉つらまえて、紛失ふんじつした物を手帳に書き付けている。繻珍しゅちんの丸帯が一本ですね、――丸帯と云うのは何ですか、丸帯と書いておけば解るですか、そう、それでは繻珍の丸帯が一本と、それから……
下女がにやにや笑っている。この巡査は丸帯も腹合はらあわせもいっこう知らない。すこぶる単簡たんかんな面白い巡査である。やがて紛失の目録を十点ばかり書き上げてその下に価格を記入して、すると〆しめて百五十円になりますねと念を押して帰って行った。
自分はこの時始めて、何を窃とられたかを明瞭めいりょうに知った。失なくなったものは十点、ことごとく帯である。昨夜ゆうべ這入ったのは帯泥棒であった。御正月を眼前に控ひかえた妻は異いな顔をしている。子供が三箇日さんがにちにも着物を着換える事ができないのだそうだ。仕方がない。
昼過には刑事が来た。座敷へ上あがっていろいろ見ている。桶おけの中に蝋燭ろうそくでも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶こおけまで検しらべていた。まあ御茶でもおあがんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。
泥棒はたいてい下谷、浅草辺あたりから電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。たいていは捉つかまらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費きみつひは警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ――警察の力ならたいていの事はできる者と信じていた自分は、はなはだ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
出入でいりのものを呼んで戸締りを直そうと思ったら生憎あやにく、暮で用が立て込んでいて来られない。そのうちに夜になった。仕方がないから、元の通りにしておいて寝る。みんな気味が悪そうである。自分もけっして好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締とりしまるべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。
それでも昨日きのうの今日きょうだから、まあ大丈夫だろうと、気を楽に持って枕に就ついた。するとまた夜中に妻さいから起された。さっきから、台所の方ががたがた云っている。気味がわるいから起きて見て下さいと云う。なるほどがたがたいう。妻はもう泥棒が這入はいったような顔をしている。
自分はそっと床を出た。忍び足に妻の部屋を横切って、隔へだての襖ふすまの傍そばまでくると、次の間では下女が鼾いびきをかいている。自分はできるだけ静かに襖を開けた。そうして、真暗な部屋の中に一人立った。ごとりごとりと云う音がする。たしかに台所の入口である。暗いなかを影の動くように三歩みあしほど音のする方へ近ちかづくと、もう部屋の出口である。障子しょうじが立っている。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云った。しばらくしてまたごとりと云った。自分はこの怪しい音を約四五遍聞いた。そうして、これは板敷の左にある、戸棚とだなの奥から出るに違ないという事をたしかめた。たちまち普通の歩調と、尋常の所作しょさをして、妻の部屋へ帰って来た。鼠ねずみが何か噛かじっているんだ、安心しろと云うと、妻はそうですかとありがたそうな返事をした。それからは二人とも落ちついて寝てしまった。
朝になってまた顔を洗って、茶の間へ来ると、妻が鼠の噛った鰹節かつぶしを、膳ぜんの前へ出して、昨夜ゆうべのはこれですよと説明した。自分ははあなるほどと、一晩中無惨むざんにやられた鰹節を眺めていた。すると妻は、あなたついでに鼠を追って、鰹節おかかをしまって下されば好いのにと少し不平がましく云った。自分もそうすれば好かったとこの時始めて気がついた。
夏目漱石
寝ようと思って次の間へ出ると、炬燵こたつの臭においがぷんとした。厠かわやの帰りに、火が強過ぎるようだから、気をつけなくてはいけないと妻さいに注意して、自分の部屋へ引取った。もう十一時を過ぎている。床の中の夢は常のごとく安らかであった。寒い割に風も吹かず、半鐘はんしょうの音も耳に応こたえなかった。熟睡が時の世界を盛もり潰つぶしたように正体を失った。
すると忽然こつぜんとして、女の泣声で眼が覚さめた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽うろたえるといつでも泣声を出す。この間家うちの赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯気ゆけに上あがって、引きつけたといって五分ばかり泣声を出した。自分がこの下女の異様な声を聞いたのは、それが始めてである。啜すすり上あげるようにして早口に物を云う。訴えるような、口説くどくような、詫わびを入れるような、情人じょうじんの死を悲しむような――とうてい普通の驚愕きょうがくの場合に出る、鋭くって短い感投詞かんとうしの調子ではない。
自分は今云う通りこの異様の声で、眼が覚めた。声はたしかに妻さいの寝ている、次の部屋から出る。同時に襖ふすまを洩もれて赤い火がさっと暗い書斎に射した。今開ける瞼まぶたの裏に、この光が届くや否や自分は火事だと合点がってんして飛び起きた。そうして、突然いきなり隔へだての唐紙からかみをがらりと開けた。
その時自分は顛覆返ひっくりかえった炬燵こたつを想像していた。焦こげた蒲団ふとんを想像していた。漲みなぎる煙と、燃える畳たたみとを想像していた。ところが開けて見ると、洋灯ランプは例のごとく点ともっている。妻と子供は常の通り寝ている。炬燵こたつは宵よいの位地にちゃんとある。すべてが、寝る前に見た時と同じである。平和である。暖かである。ただ下女だけが泣いている。
下女は妻の蒲団の裾すそを抑おさえるようにして早口に物を云う。妻は眼を覚まして、ぱちぱちさせるばかりで別に起きる様子もない。自分は何事が起ったのかほとんど判じかねて、敷居際しきいぎわに突立つったったまま、ぼんやり部屋の中を見回みまわした。途端とたんに下女の泣声のうちに、泥棒という二字が出た。それが自分の耳に這入はいるや否や、すべてが解決されたように自分はたちまち妻の部屋を大股おおまたに横切って、次つぎの間まに飛び出しながら、何だ――と怒鳴どなりつけた。けれども飛び出した次の部屋は真暗である。続く台所の雨戸が一枚外はずれて、美しい月の光が部屋の入口まで射し込んでいる。自分は真夜中に人の住居すまいの奥を照らす月影を見て、おのずから寒いと感じた。素足すあしのまま板の間へ出て台所の流元ながしもとまで来て見ると、四辺あたりは寂しんとしている。表を覗のぞくと月ばかりである。自分は、戸口から一歩も外へ出る気にならなかった。
引き返して、妻の所へ来て、泥棒は逃げた、安心しろ、何も窃とられやしない、と云った。妻はこの時ようやく起き上っていた。何も云わずに洋灯を持って暗い部屋まで出て来て、箪笥たんすの前に翳かざした。観音開かんのんびらきが取とり外はずされている。抽斗ひきだしが明けたままになっている。妻は自分の顔を見て、やっぱり窃られたんですと云った。自分もようやく泥棒が窃った後で逃げたんだと気がついた。何だか急に馬鹿馬鹿しくなった。片方を見ると、泣いて起しに来た下女の蒲団が取ってある。その枕元にもう一つ箪笥がある。その箪笥の上にまた用箪笥が乗っている。暮の事なので医者の薬礼やくれいその他がこの内に這入っているのだそうだ。妻に調べさせるとこっちの方は元の通りだと云う。下女が泣いて縁側えんがわの方から飛び出したので、泥棒もやむをえず仕事の中途で逃げたのかも知れない。
そのうち、ほかの部屋に寝ていたものもみんな起きて来た。そうしてみんないろいろな事を云う。もう少し前に小用こように起きたのにとか、今夜は寝つかれないで、二時頃までは眼が冴さえていたのにとか、ことごとく残念そうである。そのなかで、十とおになる長女は、泥棒が台所から這入はいったのも、泥棒がみしみし縁側えんがわを歩いたのも、すっかり知っていると云った。あらまあとお房ふささんが驚いている。お房さんは十八で、長女と同じ部屋に寝る親類の娘である。自分はまた床へ這入はいって寝た。
明くる日はこの騒動で、例よりは少し遅く起きた。顔を洗って、朝食あさめしをやっていると、台所で下女が泥棒の足痕あしあとを見つけたとか、見つけないとか騒いでいる。面倒めんどうだから書斎へ引き取った。引き取って十分も経たったかと思うと、玄関で頼むと云う声がした。勇ましい声である。台所の方へ通じないようだから、自分で取次に出て見たら、巡査が格子こうしの前に立っていた。泥棒が這入ったそうですねと笑っている。戸締とじまりは好くしてあったのですかと聞くから、いや、どうもあまり好くありませんと答えた。じゃ仕方がない、締しまりが悪いとどこからでも這入りますよ、一枚一枚雨戸へ釘くぎを差さなくちゃいけませんと注意する。自分ははあはあと返事をしておいた。この巡査に遇あってから、悪いものは、泥棒じゃなくって、不取締ふとりしまりな主人であるような心持になった。
巡査は台所へ廻った。そこで妻さいを捉つらまえて、紛失ふんじつした物を手帳に書き付けている。繻珍しゅちんの丸帯が一本ですね、――丸帯と云うのは何ですか、丸帯と書いておけば解るですか、そう、それでは繻珍の丸帯が一本と、それから……
下女がにやにや笑っている。この巡査は丸帯も腹合はらあわせもいっこう知らない。すこぶる単簡たんかんな面白い巡査である。やがて紛失の目録を十点ばかり書き上げてその下に価格を記入して、すると〆しめて百五十円になりますねと念を押して帰って行った。
自分はこの時始めて、何を窃とられたかを明瞭めいりょうに知った。失なくなったものは十点、ことごとく帯である。昨夜ゆうべ這入ったのは帯泥棒であった。御正月を眼前に控ひかえた妻は異いな顔をしている。子供が三箇日さんがにちにも着物を着換える事ができないのだそうだ。仕方がない。
昼過には刑事が来た。座敷へ上あがっていろいろ見ている。桶おけの中に蝋燭ろうそくでも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶こおけまで検しらべていた。まあ御茶でもおあがんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。
泥棒はたいてい下谷、浅草辺あたりから電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。たいていは捉つかまらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費きみつひは警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ――警察の力ならたいていの事はできる者と信じていた自分は、はなはだ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
出入でいりのものを呼んで戸締りを直そうと思ったら生憎あやにく、暮で用が立て込んでいて来られない。そのうちに夜になった。仕方がないから、元の通りにしておいて寝る。みんな気味が悪そうである。自分もけっして好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締とりしまるべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。
それでも昨日きのうの今日きょうだから、まあ大丈夫だろうと、気を楽に持って枕に就ついた。するとまた夜中に妻さいから起された。さっきから、台所の方ががたがた云っている。気味がわるいから起きて見て下さいと云う。なるほどがたがたいう。妻はもう泥棒が這入はいったような顔をしている。
自分はそっと床を出た。忍び足に妻の部屋を横切って、隔へだての襖ふすまの傍そばまでくると、次の間では下女が鼾いびきをかいている。自分はできるだけ静かに襖を開けた。そうして、真暗な部屋の中に一人立った。ごとりごとりと云う音がする。たしかに台所の入口である。暗いなかを影の動くように三歩みあしほど音のする方へ近ちかづくと、もう部屋の出口である。障子しょうじが立っている。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云った。しばらくしてまたごとりと云った。自分はこの怪しい音を約四五遍聞いた。そうして、これは板敷の左にある、戸棚とだなの奥から出るに違ないという事をたしかめた。たちまち普通の歩調と、尋常の所作しょさをして、妻の部屋へ帰って来た。鼠ねずみが何か噛かじっているんだ、安心しろと云うと、妻はそうですかとありがたそうな返事をした。それからは二人とも落ちついて寝てしまった。
朝になってまた顔を洗って、茶の間へ来ると、妻が鼠の噛った鰹節かつぶしを、膳ぜんの前へ出して、昨夜ゆうべのはこれですよと説明した。自分ははあなるほどと、一晩中無惨むざんにやられた鰹節を眺めていた。すると妻は、あなたついでに鼠を追って、鰹節おかかをしまって下されば好いのにと少し不平がましく云った。自分もそうすれば好かったとこの時始めて気がついた。
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