「源義経」(みなもとのよしつね)と言えば、鎌倉幕府の将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の弟。「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平家を滅ぼした最大の功労者であったにもかかわらず、兄・頼朝からの信頼を得ることができず、悲劇的な最期を遂げました。剣術に優れ、戦術も天才的。そんな義経に一体何が起こったのでしょうか。その生涯を見ていきましょう。
「源義経」が誕生したのは、1159年(平治元年)。父は、平安時代末期の武将「源義朝」(みなもとのよしとも)。母は絶世の美女と言われた妾の「常盤御前」(ときわごぜん)で、近衛天皇の中宮「九条院」(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ:召使い)をしていたと伝えられています。
義朝の3男は、あの鎌倉幕府の初代将軍「源頼朝」。義経は9男で、頼朝にとっては腹違いの弟になります。義経の幼名は「牛若丸」(うしわかまる)、「牛若」(うしわか)、または「九郎」(くろう)と言いました。
義経が生まれたのは、まさに「平治の乱」(へいじのらん)が起こった頃。父・義朝が率いる源氏が大敗し、この乱によって父・義朝は、平家の棟梁であった「平清盛」(たいらのきよもり)に敗れて、討死。
さらに、義朝の長男「源義平」(みなもとのよしひら)は斬首刑で、次男の「源朝長」(みなもとのともなが)も討死し、3男の頼朝は伊豆に流罪とされたのです。
実は、幼い義経もこのときに殺されるはずでした。しかし、絶世の美女であった母・常盤御前が清盛に見初められて密約。常盤御前は、3人の子ども「今若」(いまわか)、「乙若」(おとわか)、牛若(のちの義経)の命を助ける代わりに、清盛の妾となったのです。さらに、将来武士になって反旗を翻さないよう、3人の息子は寺へ出家させろという条件が言い渡されました。こうして、平氏一極の時代が訪れたのです。
「義経記」によると、義経が京都の「鞍馬寺」(くらまでら)に預けられたのは、7歳のとき。仏教で太陽という意味の「遮那王」(しゃなおう)という名で呼ばれました。学問僧として期待され、学問に励む日々。のちに再会する兄・頼朝は流刑で遠くの地にいたため、ほとんど面識のない状態でした。
義経は、15歳まで鞍馬寺で学問に打ち込んだものの、自らの出自を知り、清盛に対して怒り心頭。義経記によると、父・義朝の乳兄弟の子で、源氏の血が途絶えることを憐れんだ僧侶が、義経の部屋に忍び込み、平家が敵だということを伝えたと書かれています。
家系図をたどり、真実を知った義経は平家打倒の野心を抱き、夜ごと鞍馬寺を抜け出して、奥にある「僧正が谷」(そうじょうがたに)で武芸に打ち込むようになったのです。
やがて義経の奇行は平家にも伝わることになり、16歳になった義経は、鞍馬山からこつ然と姿を消しました。
鞍馬山を出て、諸国を転々としていた義経は、奥州と京都を行き来する豪商人「金売吉次」(かねうりきちじ)と出会い、陸奥の話を聞くのです。陸奥は広大な国で、18万騎もの郎党がいると聞いた義経は、興味津々。吉次と共に、奥州平泉を目指します。
そして、奥州藤原氏の3代目当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)と出会うのです。秀衡は奥州藤原氏の全盛期を築いた人物。義経は秀衡に匿われ、秀衡のもとで武術を磨きました。
なぜ秀衡は、平氏の敵であった義経を匿ったのでしょうか。それは、義経が兄・頼朝にとっても、平氏にとっても意味のある人物だったからです。義経を手中とすることによって、奥州を治める藤原氏は有利になるとの考えから、快く義経の滞在を受け入れました。
そんな中、1180年(治承4年)、ついに「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の息子「以仁王」(もちひとおう)が平家追討を発令。こうした混乱を機に、摂津源氏の「源頼政」(みなもとのよりまさ)に続いて、兄・頼朝が挙兵します。兄の挙兵を聞きつけた義経は、すぐに出陣。別れを惜しんだ秀衡は、義経に頼れる武人を付け、「黄瀬川」(きせがわ)へと送り出します。
そして義経は、22歳にして初めて兄・頼朝と感動的な対面を果たし、ついに宿敵・平家滅亡のために動き出したのです。
義経が圧倒的に強かったことを物語る、いくつかのエピソードがあります。
まずは、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)との出会い。乱暴で怪力無双な弁慶は、「1,000本の太刀を奪おう」と決意し、京の五条橋の上で、最後の1本である1,000本目を狙っていたところ、18歳の義経(牛若丸)が笛を吹きながらやってきました。弁慶は襲撃しますが、ものの見事に返り討ちに遭い、降参。弁慶は義経の家来となるのですが、このことから、義経の剣術の腕が圧倒的に優れていたことが分かるのです。
また義経は、兵法の極意が書かれているという、中国の兵法書「六韜三略」(りくとうさんりゃく)を読破し、天才的な戦術家とも言われていました。
例えば「一ノ谷の戦い」では、突然崖を駆け下りて平氏本陣を奇襲。のちに、「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)と言われる奇想天外の奇襲攻撃で平氏を大混乱に陥れ、同時に平氏側の陣に火が回ったことで敗走を余儀なくさせたのです。わずかの騎兵で義経が大勝利を収めた戦いでした。
瀬戸内海における「屋島の戦い」では、当初、頼朝は大軍で包囲して平氏を追い詰めようと考えます。しかし、食糧不足で断念。大役を任された義経は、おのれの命を省みず、暴風雨の中、通常3日はかかる道のりを船を使って数時間で移動します。平氏側も義経達の船団が来ることを予想して陣を固めていましたが、まさかの平氏の背後に回りこみ奇襲攻撃。本陣に着いた義経は、民家に火を放つことで大軍であることを装い、平氏をかく乱。平氏側が少人数で攻められたと気づいたころには、陣営は焼き払われてしまい、こちらも義経が勝利を収めました。
そして「壇ノ浦の戦い」では水軍を編成して、平氏と一騎討ち。一時追い込まれた義経でしたが、船を操作する人員に狙いを定めて矢を射るよう指示をします。それが命中し、舵取りを失った平氏の船は沈み、形勢逆転し、勝利。ついに義経は、平家を滅亡させたのです。
「源義経」が誕生したのは、1159年(平治元年)。父は、平安時代末期の武将「源義朝」(みなもとのよしとも)。母は絶世の美女と言われた妾の「常盤御前」(ときわごぜん)で、近衛天皇の中宮「九条院」(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ:召使い)をしていたと伝えられています。
義朝の3男は、あの鎌倉幕府の初代将軍「源頼朝」。義経は9男で、頼朝にとっては腹違いの弟になります。義経の幼名は「牛若丸」(うしわかまる)、「牛若」(うしわか)、または「九郎」(くろう)と言いました。
義経が生まれたのは、まさに「平治の乱」(へいじのらん)が起こった頃。父・義朝が率いる源氏が大敗し、この乱によって父・義朝は、平家の棟梁であった「平清盛」(たいらのきよもり)に敗れて、討死。
さらに、義朝の長男「源義平」(みなもとのよしひら)は斬首刑で、次男の「源朝長」(みなもとのともなが)も討死し、3男の頼朝は伊豆に流罪とされたのです。
実は、幼い義経もこのときに殺されるはずでした。しかし、絶世の美女であった母・常盤御前が清盛に見初められて密約。常盤御前は、3人の子ども「今若」(いまわか)、「乙若」(おとわか)、牛若(のちの義経)の命を助ける代わりに、清盛の妾となったのです。さらに、将来武士になって反旗を翻さないよう、3人の息子は寺へ出家させろという条件が言い渡されました。こうして、平氏一極の時代が訪れたのです。
「義経記」によると、義経が京都の「鞍馬寺」(くらまでら)に預けられたのは、7歳のとき。仏教で太陽という意味の「遮那王」(しゃなおう)という名で呼ばれました。学問僧として期待され、学問に励む日々。のちに再会する兄・頼朝は流刑で遠くの地にいたため、ほとんど面識のない状態でした。
義経は、15歳まで鞍馬寺で学問に打ち込んだものの、自らの出自を知り、清盛に対して怒り心頭。義経記によると、父・義朝の乳兄弟の子で、源氏の血が途絶えることを憐れんだ僧侶が、義経の部屋に忍び込み、平家が敵だということを伝えたと書かれています。
家系図をたどり、真実を知った義経は平家打倒の野心を抱き、夜ごと鞍馬寺を抜け出して、奥にある「僧正が谷」(そうじょうがたに)で武芸に打ち込むようになったのです。
やがて義経の奇行は平家にも伝わることになり、16歳になった義経は、鞍馬山からこつ然と姿を消しました。
鞍馬山を出て、諸国を転々としていた義経は、奥州と京都を行き来する豪商人「金売吉次」(かねうりきちじ)と出会い、陸奥の話を聞くのです。陸奥は広大な国で、18万騎もの郎党がいると聞いた義経は、興味津々。吉次と共に、奥州平泉を目指します。
そして、奥州藤原氏の3代目当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)と出会うのです。秀衡は奥州藤原氏の全盛期を築いた人物。義経は秀衡に匿われ、秀衡のもとで武術を磨きました。
なぜ秀衡は、平氏の敵であった義経を匿ったのでしょうか。それは、義経が兄・頼朝にとっても、平氏にとっても意味のある人物だったからです。義経を手中とすることによって、奥州を治める藤原氏は有利になるとの考えから、快く義経の滞在を受け入れました。
そんな中、1180年(治承4年)、ついに「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の息子「以仁王」(もちひとおう)が平家追討を発令。こうした混乱を機に、摂津源氏の「源頼政」(みなもとのよりまさ)に続いて、兄・頼朝が挙兵します。兄の挙兵を聞きつけた義経は、すぐに出陣。別れを惜しんだ秀衡は、義経に頼れる武人を付け、「黄瀬川」(きせがわ)へと送り出します。
そして義経は、22歳にして初めて兄・頼朝と感動的な対面を果たし、ついに宿敵・平家滅亡のために動き出したのです。
義経が圧倒的に強かったことを物語る、いくつかのエピソードがあります。
まずは、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)との出会い。乱暴で怪力無双な弁慶は、「1,000本の太刀を奪おう」と決意し、京の五条橋の上で、最後の1本である1,000本目を狙っていたところ、18歳の義経(牛若丸)が笛を吹きながらやってきました。弁慶は襲撃しますが、ものの見事に返り討ちに遭い、降参。弁慶は義経の家来となるのですが、このことから、義経の剣術の腕が圧倒的に優れていたことが分かるのです。
また義経は、兵法の極意が書かれているという、中国の兵法書「六韜三略」(りくとうさんりゃく)を読破し、天才的な戦術家とも言われていました。
例えば「一ノ谷の戦い」では、突然崖を駆け下りて平氏本陣を奇襲。のちに、「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)と言われる奇想天外の奇襲攻撃で平氏を大混乱に陥れ、同時に平氏側の陣に火が回ったことで敗走を余儀なくさせたのです。わずかの騎兵で義経が大勝利を収めた戦いでした。
瀬戸内海における「屋島の戦い」では、当初、頼朝は大軍で包囲して平氏を追い詰めようと考えます。しかし、食糧不足で断念。大役を任された義経は、おのれの命を省みず、暴風雨の中、通常3日はかかる道のりを船を使って数時間で移動します。平氏側も義経達の船団が来ることを予想して陣を固めていましたが、まさかの平氏の背後に回りこみ奇襲攻撃。本陣に着いた義経は、民家に火を放つことで大軍であることを装い、平氏をかく乱。平氏側が少人数で攻められたと気づいたころには、陣営は焼き払われてしまい、こちらも義経が勝利を収めました。
そして「壇ノ浦の戦い」では水軍を編成して、平氏と一騎討ち。一時追い込まれた義経でしたが、船を操作する人員に狙いを定めて矢を射るよう指示をします。それが命中し、舵取りを失った平氏の船は沈み、形勢逆転し、勝利。ついに義経は、平家を滅亡させたのです。
「どうする家康」姥捨て山、猿の妹…於大の方だからこその家康一喝!ネット喝采「よー言うた 彼女の役目」
嵐の松本潤(40)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は今月3日、第34話が放送された。話題のシーンを振り返る。
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどの古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。江戸幕府初代将軍を単独主役にした大河は1983年「徳川家康」以来、実に40年ぶり。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
第34話は「豊臣の花嫁」。打倒・豊臣秀吉(ムロツヨシ)を誓ったはずの石川数正(松重豊)が豊臣方に出奔し、徳川家中に衝撃が走る。敵に手の内を知られたも同然となり、徳川家康(松本潤)は追い詰められるが、未曽有の大地震(天正地震)が発生。両軍、民の救出が先決となる。秀吉は妹の旭(山田真歩)を家康の正室にし、さらに老いた母まで人質に差し出し、上洛を迫る。屈服か、全面対決か。家康は“究極の2択”を迫られる…という展開。
於愛の方(広瀬アリス)の進言に、家康は「秀吉にひざまずけと申すか」「要らん女子(おなご)を押し付けとるんじゃ。ここを姥捨て山とでも思っとるらしい」「わしの正室は1人じゃ。猿の妹ではない」と言い放った。
於大の方(松嶋菜々子)の「人を思いやれるところが、そなたの取り柄と思うておったがの」に、家康は「思いやりなんぞで、国を守れるものか。これは、わしと秀吉の駆け引きじゃ」。母は「女子は男の駆け引きの道具ではない」と息子を諌めた。
第3話(1月22日)、家康に「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ」と助言した於大から一転。「だからこそ、せめて、蔑ろにされる者を思いやれる心だけは失うなと申しておる」。於愛は、秀吉に離縁を強いられた旭の夫(副田吉成、通称・甚兵衛)が行方不明だと伝えた。
評定の結果、数正が出奔した“真意”を知り、家康は上洛を決断。旭に「もうおどけなくてよい。つらい気持ちを押し隠し、両家の間を取り持とうと、懸命に明るく振る舞ってくれたのに。老いた母君まで来させることとなり、誠に申し訳ない」「そなたのおかげで、我が家中が少しだけ明るくなった。礼を言うぞ。そなたは、わしの大事な妻じゃ」。報われた旭は泣き崩れた。
SNS上には「母上、よー言うた」「於大様も歳を取られたのか、それとも瀬名に感化されたのか」「思えば、今川から岡崎へ瀬名が来た時も、三河の作法を厳しく躾けつつ、反感を持つ家中に受け入れ体制を作ってくれた。家康の母として」「かつて『妻や子など打ち捨てなされ』と叱咤した於大様は自身や我が子が政略に散々利用される運命を受け入れてはいるけれど、それでも政略の道具とされる人たちの悲しみや苦しみを無視するなと伝えるのは、やはり彼女にしかできない役目なんだろうな」「於大の『人を思いやれるところが、そなたの取り柄と思うておったがの』が強烈に胸を打つ。(織田信長に粛清された兄・)水野信元(寺島進)のことを忘れるわけがない。それでも、我が子のことはよく理解している。駆け引きの道具にされる者のつらさを分からないはずかないと信じている。めちゃくちゃ良いな、この於大」などの声が上がった。
明日10日は総合テレビ「ラグビーワールドカップ2023 1次リーグ・プールD 日本×チリ」(後7・30~10・30)のため、休止。次回第35話は「欲望の怪物」(9月17日)が放送される。
嵐の松本潤(40)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は今月3日、第34話が放送された。話題のシーンを振り返る。
<※以下、ネタバレ有>
「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどの古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。江戸幕府初代将軍を単独主役にした大河は1983年「徳川家康」以来、実に40年ぶり。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となる。
第34話は「豊臣の花嫁」。打倒・豊臣秀吉(ムロツヨシ)を誓ったはずの石川数正(松重豊)が豊臣方に出奔し、徳川家中に衝撃が走る。敵に手の内を知られたも同然となり、徳川家康(松本潤)は追い詰められるが、未曽有の大地震(天正地震)が発生。両軍、民の救出が先決となる。秀吉は妹の旭(山田真歩)を家康の正室にし、さらに老いた母まで人質に差し出し、上洛を迫る。屈服か、全面対決か。家康は“究極の2択”を迫られる…という展開。
於愛の方(広瀬アリス)の進言に、家康は「秀吉にひざまずけと申すか」「要らん女子(おなご)を押し付けとるんじゃ。ここを姥捨て山とでも思っとるらしい」「わしの正室は1人じゃ。猿の妹ではない」と言い放った。
於大の方(松嶋菜々子)の「人を思いやれるところが、そなたの取り柄と思うておったがの」に、家康は「思いやりなんぞで、国を守れるものか。これは、わしと秀吉の駆け引きじゃ」。母は「女子は男の駆け引きの道具ではない」と息子を諌めた。
第3話(1月22日)、家康に「主君たる者、家臣と国のためならば己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ」と助言した於大から一転。「だからこそ、せめて、蔑ろにされる者を思いやれる心だけは失うなと申しておる」。於愛は、秀吉に離縁を強いられた旭の夫(副田吉成、通称・甚兵衛)が行方不明だと伝えた。
評定の結果、数正が出奔した“真意”を知り、家康は上洛を決断。旭に「もうおどけなくてよい。つらい気持ちを押し隠し、両家の間を取り持とうと、懸命に明るく振る舞ってくれたのに。老いた母君まで来させることとなり、誠に申し訳ない」「そなたのおかげで、我が家中が少しだけ明るくなった。礼を言うぞ。そなたは、わしの大事な妻じゃ」。報われた旭は泣き崩れた。
SNS上には「母上、よー言うた」「於大様も歳を取られたのか、それとも瀬名に感化されたのか」「思えば、今川から岡崎へ瀬名が来た時も、三河の作法を厳しく躾けつつ、反感を持つ家中に受け入れ体制を作ってくれた。家康の母として」「かつて『妻や子など打ち捨てなされ』と叱咤した於大様は自身や我が子が政略に散々利用される運命を受け入れてはいるけれど、それでも政略の道具とされる人たちの悲しみや苦しみを無視するなと伝えるのは、やはり彼女にしかできない役目なんだろうな」「於大の『人を思いやれるところが、そなたの取り柄と思うておったがの』が強烈に胸を打つ。(織田信長に粛清された兄・)水野信元(寺島進)のことを忘れるわけがない。それでも、我が子のことはよく理解している。駆け引きの道具にされる者のつらさを分からないはずかないと信じている。めちゃくちゃ良いな、この於大」などの声が上がった。
明日10日は総合テレビ「ラグビーワールドカップ2023 1次リーグ・プールD 日本×チリ」(後7・30~10・30)のため、休止。次回第35話は「欲望の怪物」(9月17日)が放送される。
嫦娥奔月
昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。
昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。
一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。
もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。
さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。
ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。
昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。
昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。
一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。
もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。
さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。
ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。
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