アレクサンドル・デュマ・ペール

連載小説
さて、フランスではエミール・ド・ジラルダンのLa Presse『プレス』とアルノー・デュタクのLe Siècle『世紀』が1836年に発行されて、新聞という新しいメディア時代の到来が告げられていた。新聞は定期購読者を資金源とし、購読者をつなぎとめる有力な武器として、今で言うテレビの連続ドラマの原型として連載小説(La suite au prochain numéro 「次号に続く」)という手法を生み出した。バルザックを始め、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエなどと並んでアレクサンドル・デュマも作家として新聞小説でも花形になった。

1836年に小説と新聞の結合を象徴した連続小説はどのように生まれたか?バルザック、サンド、ヴィニー、デュマ、シュー、およびカーの小説や短編は、『パリ評論』と『両世界評論』という主要な隔月刊の文学雑誌にすでに登場していた。1836年の新しさは、主に政治を扱う日刊紙に連載小説を持ち込んだことであった。それまで主に演劇、音楽、芸術批評の専用だった新聞の「最下欄」に侵入したからだ。1830年、7月王政の出現で、検閲と出版物の印紙税が廃止されたため新聞が作られた。パリの日刊紙は当時、80フランという高額の予約購読料で独占的に販売されていた。1836年、エミール・ド・ジラルダンが『ラ・プレス』をアルマン・デュタック(彼の以前の共同経営者)が『世紀』を立ち上げた。『世紀』は、予約購読料を40フランに設定し、連載小説で読者を魅了した。彼らは大衆紙を発明したのだ。1836年から1845年の間、主要な日刊紙はそれを真似て発行部数を2倍にする。新聞が発行号ごとにバラ売りされるのはその後である。1846年、『世紀』は32,885人の加入者、『ラ・プレス』は22,170人、『ル・コンスティチュショナル』は24,771人に達した。これらの予約は家族、世帯、読書クラブ、および貸本業者によって行われているため、ミシュレ―によると、新聞全体で1,500,000人の読者が読んでいたという。さらに、連載小説は地方及び外国の新聞に再掲載される。これらの連載は、その後、本として印刷される。 連載小説の読者は誰か?特に中流階級と一般大衆である。読み書きのできない人にはその号が読み上げられるのだ。
デュマは劇作家の後、最初に歴史研究、ニュース、旅行の印象を書く。1831年から1836年まで、彼は『両世界評論』に『フランスの歴史:歴史的情景』(1831~1832年)を、『ラ・プレス』で『歴史的風景』と『イタリア旅行の印象』を出版する。
デュマは1838年の初めに一時的にジラルダンと揉めて、2か月後に連載小説を求めた『世紀』に移った。アメリカ人作家ジェイムズ・クーパーの"The Pilot: A Tale of the Sea"『水先案内人』を下敷きにした最初の本格的連載小説Le Capitaine Paul『ポール船長』であった。5月30日から6月23日までの19回連続で発行され、新聞に3週間で5,000人の購読者の増加をもたらした。これは、アメリカ独立戦争で反乱軍の側に参加したスコットランド人のポール・ジョーンズ少将(1747-1792)の生涯からの想像上のエピソードである。さて、この年からオーギュスト・マケとの実り多いコラボレーションの時代が始まる。2人は1838年に会い、様々な作品を産み落としていく。1843年にデュマがサン・ジェルマン・アン・レーに移ったとき、配達夫を使ってマケと頻繁に連絡をとり、次々にアイディアを求めた。1844年コメディ・フランセーズが受け入れた戯曲『摂政の娘』が検閲によって差し止められたとき、デュマはマケとともに、クールティル・ドゥ・サンドラスの『ダルタニャン氏の覚え書き』から、有名な『三銃士』を生むアイデアを引き出す。連載は、『世紀』に1844年3月14日から始まる。ユーゴーは「心を掴むドラマ、熱い情熱、真の対話、輝く文体」と賞賛する。彼の成功は、ウージェーヌ・シューの成功に匹敵する。突然、すべての新聞がアレクサンドルを求め、彼はすべての契約を受け入れる。『ジュルナル・デ・デバ』のために『モンテ・クリスト伯』を書き始め(連載は1846年1月15日まで続く)、1844年、アレクサンドルは『パリ評論』のために、世界的な小説である『フェルナンド』(デュモン、1844、3巻)を書いた。La Reine Margot『王妃マルゴ』は、『ラ・プレス』に連載されたバルザックのPaysans『農民』が購読の更新時に読者を飽きさせたため、1844年12月25日から代わりに連載された。1845年、『世紀』に『三銃士』の続編『二十年後』が登場。La Démocratie pacifique『ラ・デモクラシー・パシフィック』新聞に『赤い館の騎士』が連続される。これらの連載小説のほぼすべてが成功を収めた。それらを印刷する日刊紙には、新しい購読者が増える。デュマは1日12~14時間働いていた。

フランス文学史には、1845年から1855年までのデュマに匹敵できるような多作な作家は、いまだかつていなかった。8巻、10巻に及ぶ小説がひっきりなしに新聞社や出版社に押しよせる。フランスのすべての歴史がそこを通って行く。『三銃士』の続篇には、『二十年後』と昔を懐しむ『ブラジュロンヌ子爵』がつづくことになる。もうひとつの三部作(『女王マルゴ』、『モンソローの奥方』、『四十五人隊』)は、ヴァロワ王朝の人々を舞台に登場させる。『女王マルゴ』はカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ・ド・ナヴァールの闘争の物語である。『モンソローの奥方』はアンリ三世の時代をきわめて面白く語っている。『四十五人隊』はディアーヌ・ド・モンソローがダンジュに対して、彼女の恋人ビュッシー・ダンボワーズの死の限みを晴らす話である。 これと同時に、デュマはもう一つの連作(『女王の首飾り』、『騎士メーゾン・ルージュ』、『ジョゼフ・バルサモ』、『アンジュ・ピトゥー』、『シャルニー伯爵夫人』)で、フランス君主政体の衰退と没落を描いていた。ここで、われわれはデュマの〈歴史的帝国主義〉について語ってもいいと思う。デュマは初期のうちから、彼の小説の領域にフランスの歴史全体を併合する計画を抱いていた。「わたしの最初の望みは」と彼自身がいっている。「限りないものだ。わたしの最初の熱望は、いつも不可能なことに向けられている。どうしてこれを達成させたらいいのか?誰もしないように仕事をして、生活からあらゆる無駄を省き、睡眠を斥けて......」こうして読者を驚かすような、5、600冊の作品が生れたのだ。[20]

1846年5月31日、デュマは医師の回顧録の最初の部分である『ジョゼフ・バルサモ』を『ラ・プレス』で出版し始めたが、1846年9月6日にその連載を放棄した。加入者は激怒し、ジラルダンとヴェロンは彼を訴えた。1847年2月19日、デュマは損害賠償で6,000フランの判決を受け、8巻をジラルダンに、6巻をヴェロンに提供した。また、デュマは「歴史劇場」の特権を獲得し『女王マルゴ』を初演(1847年2月20日)として採用した。大衆は、彼のヒーローを生身の人間の演技で観るのを待ち焦がれ、大挙して押し寄せた。歴史劇場は金鉱の可能性があった。しかし、デュマは1847年7月25日に完成披露する「モンテ・クリスト」という城をポール・マルリーに建てた。自ら招いた経済的必要により、彼は大車輪で書くことを余儀なくされた。

1848年、アレクサンドルは、『ラ・プレス』で『ジョゼフ・バルサモ』の続きを書き、『王妃の首飾り』の出版を開始した。デュマは、王室の評判を落とすために首飾りの事件を扇動したのはバルサモだと想像している。この連載は大成功をおさめる。 1848年革命はデュマの生活を台無しにする。革命は彼から収入を奪い(数ヶ月間劇場が開けなくなったため)、彼はパリを後にした。彼は、立法選挙に出馬するが落選する。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトの対抗馬ルイ・ウジェーヌ・カヴァニャックを支援した。

1850年はデュマにとって不吉な年になった。歴史劇場は閉鎖を余儀なくされ、1850年12月20日に破産を宣言され控訴する。一方、政府は連載小説に含まれる進歩的なメッセージを恐れて、印紙条例の法律を復活させた。新聞は連載小説の出版を週3日に減らすことを余儀なくされる。1851年、デュマにとってこの年は悲しい終わりを迎える。ルイ・ナポレオンの12月2日のクーデターを認めないからだ。また、12月11日、前年度の破産判決が確認され、判決を通告されたデュマは、身柄拘束を避けるためパスポートを10日に査証させてブリュッセルに居を構えた。デュマは時々秘密裏にパリに戻る。ブリュッセルに到着するとすぐに、デュマはちゃっかりベルギーの出版社で彼の回顧録を発行する。
一方、1852年6月12日に開かれたデュマの債務の主張手続きは、1853年4月18日に債務訴訟により結審し、強制和議への道が開かれた。デュマはパリに戻ることができた。デュマは自分の文学日刊誌「銃士」を設立し、1853年11月21日から印刷を始めた。そこに『回想』の継続を不定期に出版した。その後、週刊新聞『モンテ・クリスト』(1857年4月27日-1860年5月10日)を設立した。しかし、どちらの新聞も思ったように販売部数を伸ばせず、掲載した小説も以前のような精彩を欠くようになる。失意のデュマは旅に出てインスピレーションを得ようと計画した。1858年の夏、彼はロシア、そしてコーカサスへの長い旅行記を引き受けた。ロシア帝国での絵のような冒険と、バクーから黒海へのコーカサスの渡航中の物語を書いた。帰ると出版社のミシェル・レヴィのために署名した契約のおかげで(1859年12月)大金を受け取ると、たちまち彼はギリシャから聖地エルサレムまでの地中海旅行のためにスクーナー船を購入した。

1860年5月9日にマルセイユを出発した彼はシチリア島に渡り、契約金の残りを友人のガリバルディの軍隊の武器を購入するために気前よく差し出した。また、その独立戦争のためにガリバルディよりもガリバルディアン派の新聞「L’Independente」を発刊する。その使命は、イタリアからブルボンの雑草を根絶することである。しかし、当のガリバルディはシチリア王国をイタリア王国と統合する国民投票後引退してしまう。残されたデュマは戦いを続け、反ブルボンの小説『ラ・サン・フェリーチェ』を書いた。

晩年
最後の最後までデュマはデュマであった。グルメな彼は、小説がかけなくなると死後出版となる『料理大辞典』を書いていた。
スペインでの長い滞在の後、彼は息子の別荘であるディエップの近くのピュイに移る。1870年9月、脳卒中により半麻痺状態になった後、1870年12月5日に亡くなった。

小デュマよりジョルジュ・サンドヘ

ピュイにて、1870年12月6日

父は昨日、12月5日の月曜、夜10時に苦しみもなく亡くなりました。この死を第一番に知らせるべきなのは、あなただとつねづね思っておりましたが、それも今はかなわぬようです。父は他の誰よりもあなたを愛し、あなたを賛美しておりました......

後になって戦争が終ってから、彼女は同情の気持ちを伝えることができた。

激動の時代、近代哲学の冒険者たちは何と格闘したのか?『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』
5/10(金) 7:00

NHK出版デジタルマガジン
哲学研究の第一人者が集結し、西洋哲学史の大きな見取り図を示すシリーズの第二弾『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』が5月10日に刊行されました。著者に上野修さん、戸田剛文さん、御子柴善之さん、大河内泰樹さん、山本貴光さん、吉川浩満さんをむかえ、デカルトからカント、ヘーゲルを中心としたドイツ観念論までの近代哲学を扱います。刊行を記念し、斎藤哲也さんによる「はじめに」の全文を特別公開します。
『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』より
 『哲学史入門』第二巻へようこそ!

 古代ギリシア哲学からルネサンス哲学までを扱った第一巻に続き、本巻では一七世紀から一九世紀までの西洋近代哲学史に入門します。指南役に迎えるのは、上野修さん、戸田剛文さん、御子柴善之さん、大河内泰樹さんの四人。この四方に、それぞれ一七世紀の哲学、イギリス経験論、カント哲学、ドイツ観念論について、インタビュー形式で語っていただくという本です。

 念のために申し添えますと、第二巻だからといって、第一巻を読んでいないと理解できないということはありません。また、どの巻にも言えることですが、各章の内容は独立しているので、興味のある哲学者やトピックが扱われている章から読むことができます。

 デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲルといったビッグネームが次々に登場する近代哲学は、高校倫理の教科書でもかなりの紙数を割いて取り上げられているし、入門書も数多く刊行されています。

 ただ、メジャーゆえの宿命と申しましょうか、定型的な図式に嵌められやすいのも近代哲学史です。デカルト、スピノザ、ライプニッツを代表とする大陸合理論と、ロック、バークリ、ヒュームと連なるイギリス経験論とが対立し、それをカントが統合する。そのカントが遺した課題をドイツ観念論が引き受け、ヘーゲルに至って近代哲学は完成する―――。
なんともわかりやすい整理ですが、こうした図式的な説明は、後世につくられた一つの見方にすぎません。

 第一巻の「はじめに」でも申し上げたように、哲学史の語り方は一つではありません。哲学者やトピックの選び方、つなげ方次第で、無数の哲学史を語ることが可能です。

 その点で、本巻は他の二つの巻にも増して、既存の哲学史を問い直すことに力点が置かれています。予告編として、ちょっとだけ触りを紹介しましょう。

 たとえば上野さんは、一七世紀の哲学者であるデカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツという四人を「絶対」へのこだわりという共通性から読み解いていきます。戸田さんは、その後に続くイギリス経験論の哲学者たちの「知識観の変化」に着目します。この二つの章では、「大陸合理論vs.イギリス経験論」という教科書的な図式とは異なる哲学史の見方を楽しんでください。

 反教科書的な哲学史語りという点では、後半も共通しています。御子柴さんは「大陸合理論とイギリス経験論の統合としてのカント哲学」という見方は時代遅れだと指摘し、理性主義者かつ形式主義者カントの凄みを熱量たっぷりに語ってくれます。大河内さんは「ドイツ観念論」というラベルの難点を示すとともに、正・反・合という「ヘーゲル弁証法」の通俗的な理解を一刀両断しています。
巻末には、哲学を愛好する盟友であり、「哲学の劇場」コンビとして知られる山本貴光さん、吉川浩満さんを招いた哲学史トークを収載しています。どうすれば哲学史を身近に感じられるのか。哲学をどうやって学んでいけばいいか。さらには哲学の役割から哲学史の拡張まで、哲学史と仲良くつきあうコツやヒントが満載です。

 本巻も前巻と同様、登場いただく研究者の語り口や息づかいが聞こえてくるような、臨場感あふれる構成を心がけました。手前味噌になりますが、「こんな哲学史講義が大学で聞けたら、絶対面白いはず!」という内容になったと思います。

 各章の冒頭には、インタビューを読むうえで最低限知っておいたほうがいい基礎知識と、インタビューの読みどころを添えたイントロダクションを設けました。こちらで肩慣らしをして、インタビュー本編にお進みください。すでにある程度、哲学史に親しんでいる読者は、イントロダクションを飛ばしていきなり本編を読んでもかまいません。

 また章末には、指南役が推薦する三冊のブックガイドを掲載しています。ピンと来たものがあったら、本書の次に手にとってみてください。
             
 冒頭に記したとおり、興味ある章から読んでもらってかまいませんが、そのうえで、あらためて一巻から三巻までを通しで読んでもらうと、西洋哲学史のダイナミックなうねりや流れが伝わってくるはずです。願わくば、シリーズ三冊を完走していただければ幸いです。前置きはこのくらいにして、そろそろ近代哲学史の門をくぐりましょう!

斎藤哲也
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。

国富論
第3篇
第3篇は経済史に位置づけられる。ローマ帝国没落後のヨーロッパの発達史をたどる。アダム・スミスは、国富を示す生活資料の主要部分、すなわち食料を生産する農業にまず資本を投下し、その発展が商工業の発展へとつながることを自然としたが、実際にヨーロッパでは都市への特権付与などによる転倒が起こったとする。そして、その不自然な発達史を裏支えした理論が重商主義であるとした。

この第3篇は全5篇の中で最も短いが、第4篇で展開する重商主義批判に繋がる点では重要な篇といえる。

第4篇
第4篇は経済学史などに位置づけられる。旧来の学説、具体的には重商主義、重農主義への批判だが、ほとんどは前者への批判に割かれている。スミスは重農主義に対しては批判しつつも影響を脱し切れておらず、農業を重視する生産的労働と不生産的労働などにも投影されている。

重商主義は金銀貨幣を富と解釈し、その蓄蔵を志向する。しかし、国内商業では、売り手に富が蓄蔵される一方、買い手は損失を出すことになる。そこで重商主義では、国際貿易で財貨を稼ぐことを重視し、輸出の奨励と輸入の抑制のための政策が採られるとともに、植民地拡大を目指し、軍事費も増大することになる。

しかし、スミスは重商主義政策を輸入抑制のための2政策、輸出奨励のための4政策、計6つに分類し、この第4篇では1章ずつを割いて批判した。批判した論点の中では植民地論の比重が明らかに大きいが、これは当時のアメリカ植民地の情勢(初版刊行から約4か月後にアメリカ独立宣言が出された)と強く結びついている。

スミスは輸入の制限を有害なものとした。他方で国防をより上位に置き、航海条例を高く評価している。ゆえに無条件に規制の全廃を主張したわけではないし、規制をなくすことで損害を被る人々のために、改革の速度を漸進的とすべきことも主張した。また、輸出奨励金も有害なものとし、輸出を奨励する政策は、不利な産業に過度の資本を投入させるものとして批判している。同様に植民地支配にしても、植民地から安く買いたたいて高く売りつけたところで、不利な産業への資本の偏重を促進することで、自国の産業発展を歪めることになるとした。また、植民地の防衛に本国の税金が投入されるというコスト面からも、植民地支配の非効率性を指摘した。
そして、アメリカ植民地については、彼らの代表権(イギリス議会の議席)を認めて取り込む案と、植民地を放棄し、同盟国とする案とを示した。とはいえ、スミスは前者の実現困難性に触れており、アメリカの伸長に伴って課税額に応じた代表数が拡大すれば、イギリスの首都がアメリカ大陸に移転する事態が起こりうると懸念した。

見えざる手
『国富論』に登場する「見えざる手」 (invisible hand) という言葉は広く知られており、ジョン・ケネス・ガルブレイスは経済学の隠喩の中で最も有名なものとまで位置付けている。

しかし、直接的にこの単語が『国富論』の中で登場するのは、第4篇2章の1か所だけである。

この「見えざる手」の背後にある思想は、人々が利己的に行動することこそが、市場を通じて公益の増大にもつながるということである。この着想は、私悪が公益につながるというバーナード・デ・マンデヴィルの思想から影響を受けたといわれている。

ただし、スミスが市場に無条件で全てを委ねる「自由放任主義」(レッセフェール)を礼賛したという理解は正しくない。スミスが説く利己心はあくまでも「同感」とセットになって「正義の法」に反しないものであり、まったくの好き勝手に振る舞うこととは異なる。

スミスの考えに沿えば、独占などが行われていないフェアな市場で自己の利益を最大化するには、他者の批判を招く行為に出て今後の取引に差し障ることは避けようとするはずであり、好き勝手に振る舞うことは、むしろ自己の利益を最大化することにはつながらないのである。

また、「自然的自由」「自由競争」といった表現ならばスミスの書き物には頻出するが、「自由放任」という表現は一切登場しない。
しかしながら、スミスの「見えざる手」は曲解され、『国富論』の初期の擁護者となった新興の資本家たちは、レッセフェール以外のスミスの主張を無視した。そして、人道的な政策(児童労働の禁止など)に反対する資本家たちまで、政府によるあらゆる規制に反対するものとして、スミスを引用する始末であった。

第5篇
第5篇は財政学や経済政策論にあたる。第4篇までの議論によって、国家の不適切な介入を峻拒したスミスが、国家の役割について扱ったのが本篇である。前半で国家経費論が論じられ、後半が国家収入論で、租税や公債が論じられる。

スミスは国家の役割を国防、司法、公共事業の3点に絞った。こうした国家論をフェルディナント・ラッサールは夜警国家と批判したが、この批判は失当である。また、20世紀末に新自由主義が台頭すると、小さな政府の権威付けにスミスが担ぎ出されるようになった。しかし、第5篇においてスミスが論じる国家の役割は決して小さなものではなく、そのコストも安価なものではない。
まず国防について、野蛮な国々の脅威から文明国を守るためには、規律や練度の点で民兵組織よりも常備軍が適切であることを説いているが、それはそのコストを国民が負担することをも意味する。

次に司法については、国家が担当するとしつつ、権力分立の考えに則って、行政権から分けるべきとした。

最後に公共事業については、インフラストラクチャー整備のための公共工事のほか、教育が含まれる。スミスはオックスフォード大学在学中に失望した記憶から、高等教育においては各教授がより良い授業を提供し、学生を多く獲得できるように競争すべきと考えた。しかし、分業には負の側面があることに踏み込み、分業の細分化された作業に従事する一般民衆は愚昧になる危険を抱えている一方、教育のための時間や費用を自己で捻出するのが難しいと判断したのである。
スミスは、このように国家の3つの役割を規定し、これに主権者の威厳を保つための費用を加えたものを歳出とし、その財源について論じた。スミスは国有地などの国家独自の収入源を増やすことは、民間の土地などを減らすことになるとして否定的であった。スミスが推すのは租税であり、租税の4原則に照らして様々な税を検討した上で、地代税と奢侈品税を他の税目よりも評価した。

最後に、公債や貨幣改悪も有害なものと位置付け、特に戦争を理由とする公債発行には強く否定的であった。

スミスは第5篇で再びアメリカ植民地に言及し、植民地を手放すことを示唆しつつ、『国富論』を締めくくった。


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