“我们是给王打渔的公乘得和旧将曼,后世的君子们,你们好啊!”谁能想到,这段带有几分纯真和几分可爱的文字居然源自一块两千多年前的大石头上!
1974年深秋,正在河北省平山县三汲乡附近开展田野调查工作的河北省考古队队员从乡亲们口中得知附近村庄有位老乡曾挖出一块刻有文字的大石头。
据学者对石头文字的破译,作出了第一版释文:“监罟尤(囿)臣公乘得,守丘亓(其)臼(旧)将曼,敢谒后尗(俶)贤者。”意思是:“为国王监管捕鱼的池囿者公乘得,看守陵墓的旧将曼,敬告后来的贤者。”
释文一出,立刻引起考古界的巨大轰动——这块石头出土的地方,一定有古代国王的陵墓!由此,一个消失多年的神秘古国——如今我们口口相传的“千乘中山“重新出现在人们的视野当中。
刻石上的文字为我们带来了两千多年前一段被遗忘的故事。于考古界而言,“守丘刻石”正为研究者们扣响了那段神秘历史的大门,一个被黄土深埋了2300多年的神秘王国终于露出了她丰腴的身姿。
相隔千年,见字如面。
图一、”守丘刻石“实物图片
图二、”守丘刻石“石刻译文
图三、”守丘刻石“铭文拓片
#千乘中山##来自2300年前的漂流瓶#
1974年深秋,正在河北省平山县三汲乡附近开展田野调查工作的河北省考古队队员从乡亲们口中得知附近村庄有位老乡曾挖出一块刻有文字的大石头。
据学者对石头文字的破译,作出了第一版释文:“监罟尤(囿)臣公乘得,守丘亓(其)臼(旧)将曼,敢谒后尗(俶)贤者。”意思是:“为国王监管捕鱼的池囿者公乘得,看守陵墓的旧将曼,敬告后来的贤者。”
释文一出,立刻引起考古界的巨大轰动——这块石头出土的地方,一定有古代国王的陵墓!由此,一个消失多年的神秘古国——如今我们口口相传的“千乘中山“重新出现在人们的视野当中。
刻石上的文字为我们带来了两千多年前一段被遗忘的故事。于考古界而言,“守丘刻石”正为研究者们扣响了那段神秘历史的大门,一个被黄土深埋了2300多年的神秘王国终于露出了她丰腴的身姿。
相隔千年,见字如面。
图一、”守丘刻石“实物图片
图二、”守丘刻石“石刻译文
图三、”守丘刻石“铭文拓片
#千乘中山##来自2300年前的漂流瓶#
#柚
『不死身ラヴァーズ』では最高の親友に
青木柚が松居大悟監督と映画館を語る
──『不死身ラヴァーズ』の物語に最初に触れた際の感想を聞かせてください。
青木柚(以下:青木) 映画の脚本を読み、合わせて原作マンガも読ませてもらって最初に感じたことは、“まぶしいなぁ”というものでした。「好き」を伝え続ける主人公があまりにピュアで突き抜けていて、すごくまぶしく感じたんです。同時にふと自分が10代だった頃を振り返り、“自分も考える前に好きという衝動的な感情は多かったかもしれない”と懐かしくなったり。今の自分の視点だけではなく、ふと昔の自分の視点でもこの物語を受け止めていることに気づき、面白いなと思いました。りのとじゅんがたくさんの時間を重ねていく中では、切ない瞬間も増えてきて。放課後に疲れ果てるまで遊んだ後の帰り道のような。あの思い返すとどこか締めつけられるような時間を、この作品に感じました。
──物語に自身の経験を重ねてみる、それはほかの作品でもよくしていることですか。
青木 そうかもしれません。例えば、脚本を読んでグッときたとして。“どうして今、自分はグッときたんだろう?”と、その理由が知りたくなる時があるんです。それで、昔のことを思い返してみたり、“誰かこんな人が近くにいたかもしれない”と似ている人を探してみたり。そういうことはよくあります。ただ、グッときた理由をあえて言葉にしたくない時もあって、そういう時はそのままにしておきます。でも基本的には、映画で描かれることをよその物事だとは思わず、自分が生きている世界の物事だと思って受け取ってみたい。そういう感覚は割と持っていたいなと思います。
──例えば、SF映画の脚本だとしても?
青木 SFでもそうだと思います。SFってまったく違う世界の話のようでいて、実は自分たちの世界と地続きにあると感じられる瞬間が多いと思っていて。僕が素敵だなと思うSF映画は、壮大な設定や世界観の中に垣間見える人の生活感というか。きっとどんな物語にも自分たちが身に覚えのある感情や、生きていく中で抱く違和感みたいなものが含まれている。あとはそれをどう人の目に触れさせるか。いろいろなアウトプットの形があって面白いですよね。
──松居監督とは映画『アイスと雨音』(2017)でも一緒に仕事をされていて、その作家性もよくおわかりかと。松居監督がこの物語を撮るイメージはすぐに浮かびましたか。
青木 タイトルとあらすじだけを最初に聞いた時には、“こんなにピュアなラブストーリーを撮られるんだ!”と少し驚きましたが、脚本を読み進めるうちに“あ、これは松居監督が撮る作品だ”と思える雰囲気を感じて。これまでの松居監督作品では男の子が突っ走るイメージが強くありましたが、今回突っ走るのは女の子のほう。でも、芯の部分は変わっていない気がして。僕は松居監督の作品を観ると、理屈ではなく湧き上がってくる人間のエネルギーみたいなものを大切にされているんだなといつも感じます。今回の映画もまさに、整理されていない生命力みたいなものに満ちていると感じられるものでした。
──『アイスと雨音』は74分間全編をワンカットで撮影され、映画ですが演劇的な作り方だったかと思います。『不死身ラヴァーズ』の作り方はまた違っていたのでは?
青木 確かに全体の進み方は違っていましたが、松居監督の居方はまったく変わっていなくて、そこが僕としてはうれしかったです。松居監督はリハーサルから現場まで、ずっと近い距離にい続けてくださる方です。特にリハーサルの時の監督の居方が印象に残っています。りの役の見上愛さん、りのが恋する甲野じゅん役の佐藤寛太君、僕の3人が集まって本読みと立ち稽古をする日が1日だけあって。3人のバランスや空気感を3人で共有する時間だったのかなと思います。松居監督は僕ら3人がお芝居しているのをものすごく近くから、靴も脱いで裸足で座って見ているんです。「え、近っ!」って言いたくなるぐらい(笑)、体感としては松居監督に覗き込まれているようでした。“松居監督は今、僕らの何を見ているんだろう?”と興味が湧きましたし、同時に“ああ、『アイスと雨音』の時も松居監督はこうだった”と懐かしくて。改めて、自分にとって信頼できる方で、役の近くにもいてくれる監督だと思いました。
──本作で演じた主人公の親友・田中の人物像はどう感じていましたか。
青木 田中はあまりカテゴリーに縛られず、物事を俯瞰することに長けている人なのかなと思っていました。その俯瞰する姿勢が弱さから来るものなのか、それとも意志を持ってそうしているのか、そのすべては僕にははっきりわかりません。でも、田中のそういうスタンスは僕自身もとても理解できますし、純粋にこういう人が友だちにいたらいいなと思いました。田中のフラットな感じが魅力的だなと。
──田中は核心を突く言葉をたびたび放ちます。その言葉をこれ見よがしに言うわけでも上っ面で言うわけでもない。そのトーンや温度が絶妙だと感じました。
青木 本当ですか? そう感じていただけてうれしいです。確かに田中の台詞には“これは刺さる人にはものすごく刺さる”という言葉もありました。そういう言葉って脚本上や文字だけで読んでいる時にはすんなり入ってくることが多い気がしますが、それを実際に僕ら俳優が言う。つまりは生身の人を通した瞬間に、良くも悪くも核心が散らばっていく可能性があるとも思っていて。僕としては脚本や言葉が持つ力をただただ信じて、純粋に表現と向き合えたらと思っています。田中という人物を自分の近くに感じられていたら、特に何かを加える必要はないのかなと。なんというか…その言葉に溶け込むような感覚であれたらと思っていました。今回の田中に限らず、どの役を演じる時も、そういった感覚は失わないようにしています。
──余計なことをしないというのは、実は難しいものでしょうね。
青木 自分ができているかわかりませんが…。より俯瞰してくれている監督を信じて取り組んでいます。今回の現場でも本番の1テイク目を撮り終わってから、松居監督が「もう1回行こうか」と言う時がありました。その時の松居監督の目が印象的なんです。独特の熱い目をされていて。
──松居監督が「もう1回行こうか」と言う時、次のテイクでめざすべき具体的なゴール地点も合わせて示されるんですか。
青木 全部は言わないです。これは僕の勝手な想像ですが、多分松居監督は、“これを言葉にしたらなんか違うものになってしまう”という感覚を持たれていると思うんです。すべてを言葉にして説明するよりも、言葉にできない、言葉にしたくない感覚のほうを大切にされているのかなと、僕は勝手に想像しています。その松居監督の思いを汲み取りたい。そんな思いでいました。
──完成した映画『不死身ラヴァーズ』はいかがでしたか。『アイスと雨音』とはまた違う松居監督作の魅力を感じることもあったのでしょうか。
青木 ありました。今回の映画で松居監督が描いた“好き”は、これまでの映画で描いてきたそれよりも距離が近くなった感覚があって。すごく近いところまで来てくれる映画だと思えるものだったんです。フレンドリーな雰囲気が漂っていたというか。もちろん、変わらぬ魅力もありつつ、また新しい面を感じられたな…って、僕が偉そうに松居監督作を語ったりはできないのですが(笑)。
──脚本を読んだ際と同じように、完成した映画を観て自らの人生に重ね合わせる瞬間もありましたか。
青木 完成した映画を観た直後はなかったです。どうしてかと言うと、あまりに見上愛さんと佐藤寛太君の魅力が炸裂していたので。観ている時はずっとふたりに夢中で、自分のことはすっかり頭から抜け落ちていました。僕は“この役はこの人が演じなければいけなかった”というものをスクリーンで観られることに喜びを感じます。観る人の心を動かすのはそういうきらめきだなと思いますし、僕もおふたりのような人間でありたいと改めて思いました。
──FLYING POSTMAN PRESSのコンセプトは<GOOD CULTURE, GOOD LIFE>。人生において、カルチャー作品に大きく影響されたことはありますか。
青木 僕は映画が好きですが、実はこの仕事を通して好きになったものなんです。よく映画館に行くようになったのもここ3〜4年で。だから、“思春期にこの映画を観てすごく影響を受けた”みたいな作品を挙げることは難しくて。ただ、間違いなく今の自分にとって映画館という場所は欠かせないものになっています。新作映画も観ますが、最近よく行くのは特集上映とかリバイバル上映。ある映画監督の最新作が公開されるタイミングで、その監督の過去の名作を一気に特集上映したり、4Kリバイバル上映したりするじゃないですか。そういうものをよく観に行きます。今の僕にとって映画館は、自分が生まれる遥か前に生まれた映画に出会え、その映画が今の自分にとって必要だと感じられる特別な場所。出会うはずなかった映画を観て、それを今、等身大で受け取ることができるってすごいですよね。勝手に、待っていてくれてありがとうございますという気持ちになります。
──特にガツンときた特集上映、リバイバル上映は?
青木 (アンドレイ・)タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983)の4K修復版が最近上映されていたんです。もともと、信頼する方々に「『ノスタルジア』は観たほうがいいよ」と言われていたこともあり、観に行きました。僕は自分が何かを観たり、聴いたりして、“うわ、これ好きだ”と思えた瞬間、文字通り息をのむんです。呼吸が浅くなり、ドキドキしてしまう。『ノスタルジア』の4K修復版を観ている時はその連続でした。靄がかった山間の風景や温泉から上る湯気…そういうふとしたカットがすごく自分の中に流れ込んできて。今の自分が『ノスタルジア』に触れられたこと、言葉に言い表せないもので感動できたことがうれしかったです。僕は、言葉を突き詰めていけばいくほど“言葉で言い表せないもの”をより痛感できるというか、感動できると思っていて。そういった考えを育む時間も、カルチャー作品は与えてくれる。僕の生活の中で欠かせないものになっています。
──今、青木さんはその作り手側にいます。日々の創作において大切にしていることを聞かせてください。
青木 俳優という職業は受ける側に立つことが多い職業だと思います。つまり、企画が走り出してからそこに合流する、という。もちろん、最近では俳優自身が旗を持って企画を動かし、成功させる姿にもすごく刺激を受けていますし、そういった創作への姿勢はとても格好良いなと思います。ただ、僕はまだまだそのフェーズではないと感じていて。そんな自分だからこそ、声をかけていただいた時には、規模だけでなく、その作品の持つメッセージや機微だったり、監督が大事にしている感覚だったりをちゃんと受け止め、しっかりとフィールしながら取り組んでいきたい。そこをあいまいにすると、俳優としての自分の存在意義はなくなってしまうとも思っていますね。
──いつかはご自身が旗を持って企画を走らせたいという思いも?
青木 それがどれだけ大変なことかも重々わかっていますが、いつかは、という思いはどこかにあります。普段生活している中で、“この感情ってなんだろう?”と思うことや、これは自分だけなのではないかと思ってしまう違和感は忘れないようにしていて。自分が演じる役を通して昇華できることもありますが、その違和感や悩みが役と合致するのは珍しいですし、ほとんどは、芽生えたものの行き場がなくただ消えていくだけというか。そんな思いを自分の作品として形にできたら、その先には何があるのだろうと気になりますね。“今やらなきゃ!”と思える時が来たら、自主的にでも好きな人たちと作れたら幸せですね。純度高く創作してみたいです。
『不死身ラヴァーズ』では最高の親友に
青木柚が松居大悟監督と映画館を語る
──『不死身ラヴァーズ』の物語に最初に触れた際の感想を聞かせてください。
青木柚(以下:青木) 映画の脚本を読み、合わせて原作マンガも読ませてもらって最初に感じたことは、“まぶしいなぁ”というものでした。「好き」を伝え続ける主人公があまりにピュアで突き抜けていて、すごくまぶしく感じたんです。同時にふと自分が10代だった頃を振り返り、“自分も考える前に好きという衝動的な感情は多かったかもしれない”と懐かしくなったり。今の自分の視点だけではなく、ふと昔の自分の視点でもこの物語を受け止めていることに気づき、面白いなと思いました。りのとじゅんがたくさんの時間を重ねていく中では、切ない瞬間も増えてきて。放課後に疲れ果てるまで遊んだ後の帰り道のような。あの思い返すとどこか締めつけられるような時間を、この作品に感じました。
──物語に自身の経験を重ねてみる、それはほかの作品でもよくしていることですか。
青木 そうかもしれません。例えば、脚本を読んでグッときたとして。“どうして今、自分はグッときたんだろう?”と、その理由が知りたくなる時があるんです。それで、昔のことを思い返してみたり、“誰かこんな人が近くにいたかもしれない”と似ている人を探してみたり。そういうことはよくあります。ただ、グッときた理由をあえて言葉にしたくない時もあって、そういう時はそのままにしておきます。でも基本的には、映画で描かれることをよその物事だとは思わず、自分が生きている世界の物事だと思って受け取ってみたい。そういう感覚は割と持っていたいなと思います。
──例えば、SF映画の脚本だとしても?
青木 SFでもそうだと思います。SFってまったく違う世界の話のようでいて、実は自分たちの世界と地続きにあると感じられる瞬間が多いと思っていて。僕が素敵だなと思うSF映画は、壮大な設定や世界観の中に垣間見える人の生活感というか。きっとどんな物語にも自分たちが身に覚えのある感情や、生きていく中で抱く違和感みたいなものが含まれている。あとはそれをどう人の目に触れさせるか。いろいろなアウトプットの形があって面白いですよね。
──松居監督とは映画『アイスと雨音』(2017)でも一緒に仕事をされていて、その作家性もよくおわかりかと。松居監督がこの物語を撮るイメージはすぐに浮かびましたか。
青木 タイトルとあらすじだけを最初に聞いた時には、“こんなにピュアなラブストーリーを撮られるんだ!”と少し驚きましたが、脚本を読み進めるうちに“あ、これは松居監督が撮る作品だ”と思える雰囲気を感じて。これまでの松居監督作品では男の子が突っ走るイメージが強くありましたが、今回突っ走るのは女の子のほう。でも、芯の部分は変わっていない気がして。僕は松居監督の作品を観ると、理屈ではなく湧き上がってくる人間のエネルギーみたいなものを大切にされているんだなといつも感じます。今回の映画もまさに、整理されていない生命力みたいなものに満ちていると感じられるものでした。
──『アイスと雨音』は74分間全編をワンカットで撮影され、映画ですが演劇的な作り方だったかと思います。『不死身ラヴァーズ』の作り方はまた違っていたのでは?
青木 確かに全体の進み方は違っていましたが、松居監督の居方はまったく変わっていなくて、そこが僕としてはうれしかったです。松居監督はリハーサルから現場まで、ずっと近い距離にい続けてくださる方です。特にリハーサルの時の監督の居方が印象に残っています。りの役の見上愛さん、りのが恋する甲野じゅん役の佐藤寛太君、僕の3人が集まって本読みと立ち稽古をする日が1日だけあって。3人のバランスや空気感を3人で共有する時間だったのかなと思います。松居監督は僕ら3人がお芝居しているのをものすごく近くから、靴も脱いで裸足で座って見ているんです。「え、近っ!」って言いたくなるぐらい(笑)、体感としては松居監督に覗き込まれているようでした。“松居監督は今、僕らの何を見ているんだろう?”と興味が湧きましたし、同時に“ああ、『アイスと雨音』の時も松居監督はこうだった”と懐かしくて。改めて、自分にとって信頼できる方で、役の近くにもいてくれる監督だと思いました。
──本作で演じた主人公の親友・田中の人物像はどう感じていましたか。
青木 田中はあまりカテゴリーに縛られず、物事を俯瞰することに長けている人なのかなと思っていました。その俯瞰する姿勢が弱さから来るものなのか、それとも意志を持ってそうしているのか、そのすべては僕にははっきりわかりません。でも、田中のそういうスタンスは僕自身もとても理解できますし、純粋にこういう人が友だちにいたらいいなと思いました。田中のフラットな感じが魅力的だなと。
──田中は核心を突く言葉をたびたび放ちます。その言葉をこれ見よがしに言うわけでも上っ面で言うわけでもない。そのトーンや温度が絶妙だと感じました。
青木 本当ですか? そう感じていただけてうれしいです。確かに田中の台詞には“これは刺さる人にはものすごく刺さる”という言葉もありました。そういう言葉って脚本上や文字だけで読んでいる時にはすんなり入ってくることが多い気がしますが、それを実際に僕ら俳優が言う。つまりは生身の人を通した瞬間に、良くも悪くも核心が散らばっていく可能性があるとも思っていて。僕としては脚本や言葉が持つ力をただただ信じて、純粋に表現と向き合えたらと思っています。田中という人物を自分の近くに感じられていたら、特に何かを加える必要はないのかなと。なんというか…その言葉に溶け込むような感覚であれたらと思っていました。今回の田中に限らず、どの役を演じる時も、そういった感覚は失わないようにしています。
──余計なことをしないというのは、実は難しいものでしょうね。
青木 自分ができているかわかりませんが…。より俯瞰してくれている監督を信じて取り組んでいます。今回の現場でも本番の1テイク目を撮り終わってから、松居監督が「もう1回行こうか」と言う時がありました。その時の松居監督の目が印象的なんです。独特の熱い目をされていて。
──松居監督が「もう1回行こうか」と言う時、次のテイクでめざすべき具体的なゴール地点も合わせて示されるんですか。
青木 全部は言わないです。これは僕の勝手な想像ですが、多分松居監督は、“これを言葉にしたらなんか違うものになってしまう”という感覚を持たれていると思うんです。すべてを言葉にして説明するよりも、言葉にできない、言葉にしたくない感覚のほうを大切にされているのかなと、僕は勝手に想像しています。その松居監督の思いを汲み取りたい。そんな思いでいました。
──完成した映画『不死身ラヴァーズ』はいかがでしたか。『アイスと雨音』とはまた違う松居監督作の魅力を感じることもあったのでしょうか。
青木 ありました。今回の映画で松居監督が描いた“好き”は、これまでの映画で描いてきたそれよりも距離が近くなった感覚があって。すごく近いところまで来てくれる映画だと思えるものだったんです。フレンドリーな雰囲気が漂っていたというか。もちろん、変わらぬ魅力もありつつ、また新しい面を感じられたな…って、僕が偉そうに松居監督作を語ったりはできないのですが(笑)。
──脚本を読んだ際と同じように、完成した映画を観て自らの人生に重ね合わせる瞬間もありましたか。
青木 完成した映画を観た直後はなかったです。どうしてかと言うと、あまりに見上愛さんと佐藤寛太君の魅力が炸裂していたので。観ている時はずっとふたりに夢中で、自分のことはすっかり頭から抜け落ちていました。僕は“この役はこの人が演じなければいけなかった”というものをスクリーンで観られることに喜びを感じます。観る人の心を動かすのはそういうきらめきだなと思いますし、僕もおふたりのような人間でありたいと改めて思いました。
──FLYING POSTMAN PRESSのコンセプトは<GOOD CULTURE, GOOD LIFE>。人生において、カルチャー作品に大きく影響されたことはありますか。
青木 僕は映画が好きですが、実はこの仕事を通して好きになったものなんです。よく映画館に行くようになったのもここ3〜4年で。だから、“思春期にこの映画を観てすごく影響を受けた”みたいな作品を挙げることは難しくて。ただ、間違いなく今の自分にとって映画館という場所は欠かせないものになっています。新作映画も観ますが、最近よく行くのは特集上映とかリバイバル上映。ある映画監督の最新作が公開されるタイミングで、その監督の過去の名作を一気に特集上映したり、4Kリバイバル上映したりするじゃないですか。そういうものをよく観に行きます。今の僕にとって映画館は、自分が生まれる遥か前に生まれた映画に出会え、その映画が今の自分にとって必要だと感じられる特別な場所。出会うはずなかった映画を観て、それを今、等身大で受け取ることができるってすごいですよね。勝手に、待っていてくれてありがとうございますという気持ちになります。
──特にガツンときた特集上映、リバイバル上映は?
青木 (アンドレイ・)タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983)の4K修復版が最近上映されていたんです。もともと、信頼する方々に「『ノスタルジア』は観たほうがいいよ」と言われていたこともあり、観に行きました。僕は自分が何かを観たり、聴いたりして、“うわ、これ好きだ”と思えた瞬間、文字通り息をのむんです。呼吸が浅くなり、ドキドキしてしまう。『ノスタルジア』の4K修復版を観ている時はその連続でした。靄がかった山間の風景や温泉から上る湯気…そういうふとしたカットがすごく自分の中に流れ込んできて。今の自分が『ノスタルジア』に触れられたこと、言葉に言い表せないもので感動できたことがうれしかったです。僕は、言葉を突き詰めていけばいくほど“言葉で言い表せないもの”をより痛感できるというか、感動できると思っていて。そういった考えを育む時間も、カルチャー作品は与えてくれる。僕の生活の中で欠かせないものになっています。
──今、青木さんはその作り手側にいます。日々の創作において大切にしていることを聞かせてください。
青木 俳優という職業は受ける側に立つことが多い職業だと思います。つまり、企画が走り出してからそこに合流する、という。もちろん、最近では俳優自身が旗を持って企画を動かし、成功させる姿にもすごく刺激を受けていますし、そういった創作への姿勢はとても格好良いなと思います。ただ、僕はまだまだそのフェーズではないと感じていて。そんな自分だからこそ、声をかけていただいた時には、規模だけでなく、その作品の持つメッセージや機微だったり、監督が大事にしている感覚だったりをちゃんと受け止め、しっかりとフィールしながら取り組んでいきたい。そこをあいまいにすると、俳優としての自分の存在意義はなくなってしまうとも思っていますね。
──いつかはご自身が旗を持って企画を走らせたいという思いも?
青木 それがどれだけ大変なことかも重々わかっていますが、いつかは、という思いはどこかにあります。普段生活している中で、“この感情ってなんだろう?”と思うことや、これは自分だけなのではないかと思ってしまう違和感は忘れないようにしていて。自分が演じる役を通して昇華できることもありますが、その違和感や悩みが役と合致するのは珍しいですし、ほとんどは、芽生えたものの行き場がなくただ消えていくだけというか。そんな思いを自分の作品として形にできたら、その先には何があるのだろうと気になりますね。“今やらなきゃ!”と思える時が来たら、自主的にでも好きな人たちと作れたら幸せですね。純度高く創作してみたいです。
《追星:爱是自由如风的牵绊》
#成毅[超话]#
这是一篇不那么合时宜的文字,可能一切皆是源于自己对于“追星”这件事内心始终未曾摇动的信念,而最近此起彼伏的各种声音,再一次坚定了自己的这种信念,那便是:追星之爱,其实是一种自由如风的牵绊。
两个素昧平生的人,因荧幕之中的惊鸿一瞥而顿觉缘分之玄妙,从而在一方尚不知情的情况下将最真最诚的心意捧上,这段情感在开始之初便不能以付出与收获的砝码计量。
这段情意,不能赋以亲情的束缚,爱情的独占,友情的共振,却又能奇异的让追逐者从中获得亲情的温暖,爱情的浪漫,友情的醇甘,之所以如此,大致源于大多数人在付出之始便不以回报为目的,不以“被看见”为追求。
在这段单向输出,偶有回应的关系中,之所以甘之如饴,不过是我们始终明白,那些恋念不忘的心动,那些热血澎湃的追随,那些千回百转的浪漫,更多的是我们为自己所营造的一场美梦的投影,那个被投影的对象本身,其实并没有让我们梦想成真的义务。
我们一次次的在那个择定的对象身上倾注自己或日趋浓烈,或细水长流,或逐成淡然的情感,而这段情感从始至终的主动权都掌握在自己的手中。那个被动选择的人,在被允许和力所能及的范围内给予的点滴回应,其实都是这段情感额外的馈赠,得之固幸,不得亦安。
若是因为自己主动选择且一意孤行的情感,便觉得自己拥有了肆意纠缠,指手画脚,甚至发号施令的权限,妄图以付出的情感挟裹对方成全自己的意愿,那么,从此心念初动的那刻开始,我们已然亲手打破了这段情感的平衡,被自身执念滋长的野望支配,虚实不辨,情感错位。
因为一个血肉充盈的角色,一段刹击中的温情,一时情感同频的共鸣,而对一个毫无交集的人滋生情意与眷恋,这对双方而言本就是一场情感的冒险。付出者需要承担自己所爱的,可能荧幕与现实迥然不同的风险;被付出者需要承担荧幕与现实割裂后,鲜花着锦亦可作鸟兽散的起伏。
可无论如何,保有彼此的独立与自由,便是这段看似单向付出实则双向互惠的关系最好的模样。
付出者从中获得情感的寄托与内心的富足,被付出者得一程相伴,汲力前行。
我们彼此不知对方择定的道路通往何方,却又奇异的从中找到了属于自己的远方。我们彼此情有牵绊,进退一体,却又自由如风,来去随心。
这是我所能想到的关于追星最好的模样。
妈粉也好,女友粉也好,事业粉也好,这段由我们主动发起却又需要被清醒审视的情感,从来不该因为自己情感的错位而滋生奢念。况且,一个好的母亲,一定不是因为自己对子女足够的掌控,一个好的女友,也一定不是因为自己一厢情愿的纠缠,而一个关注事业的伙伴,也定然不是因为刚愎自用的杀伐决断。
好的母亲,关心孩子一路行来的艰辛,好的女友,理解对方辗转腾挪的衡量,好的伙伴,尊重对方尘埃落定的抉择。
而好的追星,则是在不断富足自己的精神,不断丰盈自己的内心中,用满腔的热忱与满腹的深情,借一个一眼万年的个体,为自己打造一个盛大而华美的理想国。
若是三生有幸,或许,你会收获一个知行合一,至臻至善的投射体,如同屏幕前因同一人而心动的你我。若如此,便只余珍惜,只能珍惜。
让我们始终牢记,这一场由我们主动发起的眷恋,情意浓浅,本该自由如风,也当自由如风。
#浮烟原创##成毅##成毅0517生日快乐 毅淇同行# https://t.cn/A6TJYW3d
#成毅[超话]#
这是一篇不那么合时宜的文字,可能一切皆是源于自己对于“追星”这件事内心始终未曾摇动的信念,而最近此起彼伏的各种声音,再一次坚定了自己的这种信念,那便是:追星之爱,其实是一种自由如风的牵绊。
两个素昧平生的人,因荧幕之中的惊鸿一瞥而顿觉缘分之玄妙,从而在一方尚不知情的情况下将最真最诚的心意捧上,这段情感在开始之初便不能以付出与收获的砝码计量。
这段情意,不能赋以亲情的束缚,爱情的独占,友情的共振,却又能奇异的让追逐者从中获得亲情的温暖,爱情的浪漫,友情的醇甘,之所以如此,大致源于大多数人在付出之始便不以回报为目的,不以“被看见”为追求。
在这段单向输出,偶有回应的关系中,之所以甘之如饴,不过是我们始终明白,那些恋念不忘的心动,那些热血澎湃的追随,那些千回百转的浪漫,更多的是我们为自己所营造的一场美梦的投影,那个被投影的对象本身,其实并没有让我们梦想成真的义务。
我们一次次的在那个择定的对象身上倾注自己或日趋浓烈,或细水长流,或逐成淡然的情感,而这段情感从始至终的主动权都掌握在自己的手中。那个被动选择的人,在被允许和力所能及的范围内给予的点滴回应,其实都是这段情感额外的馈赠,得之固幸,不得亦安。
若是因为自己主动选择且一意孤行的情感,便觉得自己拥有了肆意纠缠,指手画脚,甚至发号施令的权限,妄图以付出的情感挟裹对方成全自己的意愿,那么,从此心念初动的那刻开始,我们已然亲手打破了这段情感的平衡,被自身执念滋长的野望支配,虚实不辨,情感错位。
因为一个血肉充盈的角色,一段刹击中的温情,一时情感同频的共鸣,而对一个毫无交集的人滋生情意与眷恋,这对双方而言本就是一场情感的冒险。付出者需要承担自己所爱的,可能荧幕与现实迥然不同的风险;被付出者需要承担荧幕与现实割裂后,鲜花着锦亦可作鸟兽散的起伏。
可无论如何,保有彼此的独立与自由,便是这段看似单向付出实则双向互惠的关系最好的模样。
付出者从中获得情感的寄托与内心的富足,被付出者得一程相伴,汲力前行。
我们彼此不知对方择定的道路通往何方,却又奇异的从中找到了属于自己的远方。我们彼此情有牵绊,进退一体,却又自由如风,来去随心。
这是我所能想到的关于追星最好的模样。
妈粉也好,女友粉也好,事业粉也好,这段由我们主动发起却又需要被清醒审视的情感,从来不该因为自己情感的错位而滋生奢念。况且,一个好的母亲,一定不是因为自己对子女足够的掌控,一个好的女友,也一定不是因为自己一厢情愿的纠缠,而一个关注事业的伙伴,也定然不是因为刚愎自用的杀伐决断。
好的母亲,关心孩子一路行来的艰辛,好的女友,理解对方辗转腾挪的衡量,好的伙伴,尊重对方尘埃落定的抉择。
而好的追星,则是在不断富足自己的精神,不断丰盈自己的内心中,用满腔的热忱与满腹的深情,借一个一眼万年的个体,为自己打造一个盛大而华美的理想国。
若是三生有幸,或许,你会收获一个知行合一,至臻至善的投射体,如同屏幕前因同一人而心动的你我。若如此,便只余珍惜,只能珍惜。
让我们始终牢记,这一场由我们主动发起的眷恋,情意浓浅,本该自由如风,也当自由如风。
#浮烟原创##成毅##成毅0517生日快乐 毅淇同行# https://t.cn/A6TJYW3d
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