#杀铃造谣##高桥留美子# 手把手教椎名高志画#半妖的夜叉姬# 漫画
所谓的证据全是椎名高志一个人嘴巴里说
要是这么认他说的话,OK
图一,他说『不能把夜叉姬当成犬夜叉,是不同的另一宇宙』
『夜叉姫』が『犬夜叉』世界の正史なのかどうかに一部ファンは神経質になってるんだね...ア二メと原作漫画丶原作ア二メとコミカライズは程度の差はあっても少し別の宇宙だと私は思ってるんで、私は自分の解釈を描きますよ。
图二,他说『夜叉姬说到底也不是高桥老师创作的,是我和其他人一起创作的』
殺生丸夫妻の新婚エピソ一ドは結局持ち越し。予定では犬夜叉が「殺生丸の奴も今こんな気持ちなんだろうか」って振るはずだったんですけど、それだと話のついでって感じになって構成のバランスが悪い気がしたため、もう分けちゃうことにしたのです。次回じっくり描けると思いますんで、ご期待ください···いや、まあ、あくまでも「高橋留美子じゃない他の作家、私が考えた、妖怪と人間のラブスト一リ一の断片」ですので、過度な期待をされても困りますが(どっちだ)。
图三,国外也知道这个事,怎么?杀铃又想把我们中国人当傻子?
图四,高桥说『完全是椎名老师的画风,我也可以成为读者』(哪里表达了自己是监修?)
完全に椎名先生の絵柄でやっていただいているのが、逆に良いなと思います。私も読者になれるというか。
图五,夜叉姬漫画内部,监修在哪?
图六七八九,不管是动画还是漫画,监修都是要署名的,没有名字还被提到那就是引流,为了。我以为二次元都懂呢,却忘了杀铃多是假二次元[努力]原作二创衍生都分不清的[doge]看看别家作者真正的亲自上阵?
是不知道夜叉姬在日本有多糊吗?椎名高志不天天提高桥怎么卖书?
不过他就算这么努力贴了,还是不好卖
是呢是呢,高桥可爱你姬呢,就是不肯亲自说一句“这个作品很棒,我也有参与监修呢!”
人家压根就不想跟姬挂在一起,椎名接了这活骑虎难下他得卖书啊[doge]
杀铃广播剧说高桥监修,查到是日升
现在又监修夜叉姬,结果动画漫画都没有名字
好不容易有个角色设计让你可以宣传“高桥老师亲自设计杀铃孩子”
结果人高桥说“双子我是按照隅沢克之要求画的,qw的孩子是我自己画的”哦吼,就这?
你们杀铃除了嘴硬,能圆好哪一个?[doge]
所谓的证据全是椎名高志一个人嘴巴里说
要是这么认他说的话,OK
图一,他说『不能把夜叉姬当成犬夜叉,是不同的另一宇宙』
『夜叉姫』が『犬夜叉』世界の正史なのかどうかに一部ファンは神経質になってるんだね...ア二メと原作漫画丶原作ア二メとコミカライズは程度の差はあっても少し別の宇宙だと私は思ってるんで、私は自分の解釈を描きますよ。
图二,他说『夜叉姬说到底也不是高桥老师创作的,是我和其他人一起创作的』
殺生丸夫妻の新婚エピソ一ドは結局持ち越し。予定では犬夜叉が「殺生丸の奴も今こんな気持ちなんだろうか」って振るはずだったんですけど、それだと話のついでって感じになって構成のバランスが悪い気がしたため、もう分けちゃうことにしたのです。次回じっくり描けると思いますんで、ご期待ください···いや、まあ、あくまでも「高橋留美子じゃない他の作家、私が考えた、妖怪と人間のラブスト一リ一の断片」ですので、過度な期待をされても困りますが(どっちだ)。
图三,国外也知道这个事,怎么?杀铃又想把我们中国人当傻子?
图四,高桥说『完全是椎名老师的画风,我也可以成为读者』(哪里表达了自己是监修?)
完全に椎名先生の絵柄でやっていただいているのが、逆に良いなと思います。私も読者になれるというか。
图五,夜叉姬漫画内部,监修在哪?
图六七八九,不管是动画还是漫画,监修都是要署名的,没有名字还被提到那就是引流,为了。我以为二次元都懂呢,却忘了杀铃多是假二次元[努力]原作二创衍生都分不清的[doge]看看别家作者真正的亲自上阵?
是不知道夜叉姬在日本有多糊吗?椎名高志不天天提高桥怎么卖书?
不过他就算这么努力贴了,还是不好卖
是呢是呢,高桥可爱你姬呢,就是不肯亲自说一句“这个作品很棒,我也有参与监修呢!”
人家压根就不想跟姬挂在一起,椎名接了这活骑虎难下他得卖书啊[doge]
杀铃广播剧说高桥监修,查到是日升
现在又监修夜叉姬,结果动画漫画都没有名字
好不容易有个角色设计让你可以宣传“高桥老师亲自设计杀铃孩子”
结果人高桥说“双子我是按照隅沢克之要求画的,qw的孩子是我自己画的”哦吼,就这?
你们杀铃除了嘴硬,能圆好哪一个?[doge]
曹操
政治・軍事
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。
唯才主義
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。
しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。
文化
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。
身体的特徴
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。
曹操(155年-220年3月15日),字孟德,一名吉利,小字阿瞒,一说本姓夏侯,沛国谯县(今安徽省亳州市)人。中国古代杰出的政治家、军事家、文学家、书法家,中国东汉末年的权臣,亦是曹魏政权的奠基者。太尉曹嵩之子。
曹操少年间任侠放荡,到二十岁时举孝廉为郎,授洛阳北部尉。后任骑都尉,参与镇压黄巾军,调济南相。董卓擅政时,散尽家财,起兵讨董卓。初平三年(192年),据兖州,分化诱降黄巾军三十余万,选取其中精锐组建青州军。建安元年(196年),迎汉献帝至许县,从此用献帝名义发号施令,总揽朝政。在此前后相继击败袁术、陶谦、吕布等势力。建安五年(200年),在官渡之战中大败割据河北的袁绍,随后削平袁尚、袁谭,北击乌桓,统一北方。建安十三年(208年)进位丞相。同年率军南征,收服荆州,但在赤壁之战中败于孙刘联军。建安二十年(215年),取汉中,次年(216年)自魏公进爵魏王。建安二十五年(220年),曹操病死于洛阳,享年六十六岁。曹魏建立后,被追尊为太祖,谥号武皇帝,葬于高陵。
曹操用人唯才,抑制豪强,加强集权;在北方屯田,兴修水利。他的诸种举措使统治地区的社会经济得到一定的恢复和发展。对于曹操的功业及其为人,后世评论之多,分歧之大,可谓世所罕见。此外,他知兵法,工书法,擅诗歌。其诗多抒发政治抱负,反映汉末人民的苦难生活,气魄雄伟,慷慨悲凉,开建安文学之风。著有《魏武帝集》,已佚失。今人辑有《曹操集》。
政治・軍事
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。
唯才主義
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。
しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。
文化
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。
身体的特徴
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。
曹操(155年-220年3月15日),字孟德,一名吉利,小字阿瞒,一说本姓夏侯,沛国谯县(今安徽省亳州市)人。中国古代杰出的政治家、军事家、文学家、书法家,中国东汉末年的权臣,亦是曹魏政权的奠基者。太尉曹嵩之子。
曹操少年间任侠放荡,到二十岁时举孝廉为郎,授洛阳北部尉。后任骑都尉,参与镇压黄巾军,调济南相。董卓擅政时,散尽家财,起兵讨董卓。初平三年(192年),据兖州,分化诱降黄巾军三十余万,选取其中精锐组建青州军。建安元年(196年),迎汉献帝至许县,从此用献帝名义发号施令,总揽朝政。在此前后相继击败袁术、陶谦、吕布等势力。建安五年(200年),在官渡之战中大败割据河北的袁绍,随后削平袁尚、袁谭,北击乌桓,统一北方。建安十三年(208年)进位丞相。同年率军南征,收服荆州,但在赤壁之战中败于孙刘联军。建安二十年(215年),取汉中,次年(216年)自魏公进爵魏王。建安二十五年(220年),曹操病死于洛阳,享年六十六岁。曹魏建立后,被追尊为太祖,谥号武皇帝,葬于高陵。
曹操用人唯才,抑制豪强,加强集权;在北方屯田,兴修水利。他的诸种举措使统治地区的社会经济得到一定的恢复和发展。对于曹操的功业及其为人,后世评论之多,分歧之大,可谓世所罕见。此外,他知兵法,工书法,擅诗歌。其诗多抒发政治抱负,反映汉末人民的苦难生活,气魄雄伟,慷慨悲凉,开建安文学之风。著有《魏武帝集》,已佚失。今人辑有《曹操集》。
一問一答
太宰治
「何か、最近の、御感想を聞かせて下さい。」
「困りました。」
「困りましたでは、私のほうで困ります。何か、聞かせて下さい。」
「人間は、正直でなければならない、と最近つくづく感じます。おろかな感想ですが、きのうも道を歩きながら、つくづくそれを感じました。ごまかそうとするから、生活がむずかしく、ややこしくなるのです。正直に言い、正直に進んで行くと、生活は実に簡単になります。失敗という事が無いのです。失敗というのは、ごまかそうとして、ごまかし切れなかった場合の事を言うのです。それから、無慾ということも大事ですね。慾張ると、どうしても、ちょっと、ごまかしてみたくなりますし、ごまかそうとすると、いろいろ、ややこしくなって、遂ついに馬脚をあらわして、つまらない思いをするようになります。わかり切った感想ですが、でも、これだけの事を体得するのに、三十四年かかりました。」
「お若い頃の作品を、いま読みかえして、どんな気がしますか。」
「むかしのアルバムを、繰りひろげて見ているような気がします。人間は変っていませんが、服装は変っていますね。その服装を、微笑ほほえましい気で見ている事もあります。」
「何か、主義、とでもいったようなものを、持っていますか。」
「生活に於いては、いつも、愛という事を考えていますが、これは私に限らず、誰でも考えている事でしょう。ところが、これは、むずかしいものです。愛などと言うと、甘ったるいもののようにお考えかも知れませんが、むずかしいものですよ。愛するという事は、どんな事だか、私にはまだ、わからない。めったに使えない言葉のような気がする。自分では、たいへん愛情の深い人のような気がしていても、まるで、その逆だったという場合もあるのですからね。とにかく、むずかしい。さっきの正直という事と、少しつながりがあるような気もする。愛と正直。わかったような、わからないような、とにかく、私には、まだわからないところがある。正直は現実の問題、愛は理想、まあ、そんなところに私の主義、とでもいったようなものがひそんでいるのかも知れませんが、私には、まだ、はっきりわからないのです。」
「あなたは、クリスチャンですか。」
「教会には行きませんが、聖書は読みます。世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。キリスト教に於いても、日本は、これから世界の中心になるのではないかと思っています。最近の欧米人のキリスト教は実に、いい加減のものです。」
「そろそろ展覧会の季節になりましたが、何か、ごらんになりましたか。」
「まだどこの展覧会も見ていませんが、このごろ、画をたのしんでかいている人が実に少い。すこしも、よろこびが無い。生命力が貧弱です。
ばかに、威張ったような事ばかり言って、すみませんでした。」
太宰治
「何か、最近の、御感想を聞かせて下さい。」
「困りました。」
「困りましたでは、私のほうで困ります。何か、聞かせて下さい。」
「人間は、正直でなければならない、と最近つくづく感じます。おろかな感想ですが、きのうも道を歩きながら、つくづくそれを感じました。ごまかそうとするから、生活がむずかしく、ややこしくなるのです。正直に言い、正直に進んで行くと、生活は実に簡単になります。失敗という事が無いのです。失敗というのは、ごまかそうとして、ごまかし切れなかった場合の事を言うのです。それから、無慾ということも大事ですね。慾張ると、どうしても、ちょっと、ごまかしてみたくなりますし、ごまかそうとすると、いろいろ、ややこしくなって、遂ついに馬脚をあらわして、つまらない思いをするようになります。わかり切った感想ですが、でも、これだけの事を体得するのに、三十四年かかりました。」
「お若い頃の作品を、いま読みかえして、どんな気がしますか。」
「むかしのアルバムを、繰りひろげて見ているような気がします。人間は変っていませんが、服装は変っていますね。その服装を、微笑ほほえましい気で見ている事もあります。」
「何か、主義、とでもいったようなものを、持っていますか。」
「生活に於いては、いつも、愛という事を考えていますが、これは私に限らず、誰でも考えている事でしょう。ところが、これは、むずかしいものです。愛などと言うと、甘ったるいもののようにお考えかも知れませんが、むずかしいものですよ。愛するという事は、どんな事だか、私にはまだ、わからない。めったに使えない言葉のような気がする。自分では、たいへん愛情の深い人のような気がしていても、まるで、その逆だったという場合もあるのですからね。とにかく、むずかしい。さっきの正直という事と、少しつながりがあるような気もする。愛と正直。わかったような、わからないような、とにかく、私には、まだわからないところがある。正直は現実の問題、愛は理想、まあ、そんなところに私の主義、とでもいったようなものがひそんでいるのかも知れませんが、私には、まだ、はっきりわからないのです。」
「あなたは、クリスチャンですか。」
「教会には行きませんが、聖書は読みます。世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないかと思っています。キリスト教に於いても、日本は、これから世界の中心になるのではないかと思っています。最近の欧米人のキリスト教は実に、いい加減のものです。」
「そろそろ展覧会の季節になりましたが、何か、ごらんになりましたか。」
「まだどこの展覧会も見ていませんが、このごろ、画をたのしんでかいている人が実に少い。すこしも、よろこびが無い。生命力が貧弱です。
ばかに、威張ったような事ばかり言って、すみませんでした。」
✋热门推荐