2024.5.7
“変態”繰り返す圧巻のセッション40分! .ENDRECHERI.ツアー初日に濃厚ファンクショー

“新たなフィールド”に足を踏み入れた堂本剛

堂本剛は45歳の誕生日を迎えた4月10日にバースデーライブ「Birthday Premium Live」を東京・東京ガーデンシアターで行い、翌11日にファンクラブをグランドオープンさせ“新たなフィールド”での活動を本格化。ツアーの初日公演では、自身が愛して止まないファンクミュージックをとことんまで表現する濃厚なステージを繰り広げた。なお、以降のテキストには公演内容の一部ネタバレが含まれるので、これからツアーに参加する予定の人はご注意を。

“お初さん”も10代も楽しめるめくるめくファンクショー

SNSで事前に「ご来場の際funkで.ENDRECHERI.な服装でお越し頂けますと幸いです」とアナウンスされていたことを受けて、会場には思い思いのカラフルなファッションに身を包んだファンが集結し、今か今かと開演の時を待つ。ホール内にオーディエンスの期待感が飽和したところで広いホールが暗転。紗幕に「RESTART」「REAL ME」など.ENDRECHERI.が新たなフィールドへと足を踏み入れたことを示すワードや、堂本剛が水の中へと身を投じる映像が続け様に投影されていく。そこには社会が便利になった分、さまざまな価値観を生んでいることを踏まえ、日常に存在するノイズを水中でシャットアウトし、自分の孤独をダイレクトに感じる喜びをシェアしようという、堂本剛からの力強く優しい思いがメッセージとして込められているという。
そんな映像演出を経て展開されたのは、 “ファンクな古代魚”と化した“宇宙船の船長”堂本剛を中心にしためくるめくようなファンクショー。生命力あふれるグルーヴィなアンサンブルに身を任せ、堂本剛は極彩色の映像演出、華やかで刺激的な照明とレーザー光線を交えつつ、ハンドマイクでステージを練り歩きながら観客とコール&レスポンスを楽しんだり、ベースやギターを繰ったりしながらバンドメンバーと音による交歓を展開していく。また初めて.ENDRECHERI.のライブに足を運んだ“お初の人”とティーンエイジャーに向けて作ったファンクチューン「お初さん」を初披露したり、「人生は一度きり。自分の心のままに生きていくことは大切。僕が自分らしく生きている姿を見て、自分の思うままに生きてほしい」というメッセージを送ったのち、.ENDRECHERI.流のバースデーソング「HBYUML」をパフォーマンスしたりと、“一見さん”も何度もライブに来ているファンも新鮮に楽しめる形でライブを進行した。

観客を圧倒!40分におよぶファンクセッション

アンコールで堂本剛は自身がつらい時期に救ってくれたファンクミュージックとの出会い、Pファンクの始祖ジョージ・クリントンとの邂逅について述べつつ、バンドメンバーのファンクネームについて言及。続けて「本編もガチガチに決まってない自由な形でしたが、ここからはもっと自由に……僕もどうゴールするのかわからない」とベースをハイボジションで構えると、果てのないセッションの“湖”へと泳ぎ出した。約40分に及んだセッションコーナーで堂本剛はバンドメンバーやダンサーだけでなく、VJ、照明、レーザーアーティストといった裏方のスタッフまでを巻き込み、この日限りのパフォーマンスを心ゆくまで展開。.ENDRECHERI.を支えるアーティストたち全員に華を持たせるソロ回しを巧みに盛り込みつつ、幾度となく“変態”を繰り返し、まるで組曲のような壮大なセッションを完遂して喝采を浴びた。さらに、この日は本編でも披露した「Super funk market」をスマホ撮影ありで“おかわり”をするサプライズも。観客はまさかのプレゼントにざわめきつつ、スマートフォンを構え、水を得た魚のように躍動する.ENDRECHERI.の姿をうれしそうに捉えていた。
なお、「.ENDRECHERI. LIVE TOUR 2024『RE』」の第1弾は、6月30日の愛知・Niterra日本特殊陶業市民会館 フォレストホールまで7都市で展開。第2弾スケジュールは追ってアナウンスされる。堂本剛が奏でる濃厚なファンクミュージックを全身で浴びたい人は足を運んでみよう。

昭襄王(中)

白起八面六臂
昭襄王28年(紀元前279年)、昭襄王は白起に命じて楚を討った(鄢・郢の戦い)。白起の率いる秦軍は楚の内地に進撃し、劣勢な兵力にもかかわらず、水攻めを利用して鄢と鄧の地を取り、罪人を赦してこの地方に移った。

昭襄王29年(紀元前278年)、白起は楚の首都郢を占領し、楚の先王の陵墓がある夷陵を焼き払った後、竟陵まで至った。鄢・郢の地には南郡が設置され、秦の版図とした。楚の頃襄王は秦軍の攻勢を避けて陳へ逃亡した。この功で、白起は武安君に封じられた。また、昭襄王30年(紀元前277年)には蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。

南方の大国であった楚は大きく版図を秦に奪われることとなった。

昭襄王31年(紀元前276年)、白起を楚に続いて魏の討伐に命じる。魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍した。

昭襄王32年(紀元前275年)、魏冄にも魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。余勢を駆って、翌昭襄王33年(紀元前274年)には客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。

昭襄王34年(紀元前273年)、魏将芒卯の軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退した。

この年、秦に従わない趙を白起に命じて討った。白起は趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ、白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとした。
秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。

昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。

昭襄王36年(紀元前271年)、昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討った。斉の剛・寿の地を取り、これを魏冄に与えた。魏冄の封地は拡大を続け、王族を凌ぐほどとなった。ここに魏冄の栄華は極まった。

范雎登用
魏冄は自分の権力が失墜するのを恐れ、遊説者が入国することを嫌っていた。昭襄王の謁者であった王稽は魏で范雎と会い、その賢を見抜き、秦に連れて来ていた。王稽は昭襄王に范雎を何度か推挙したが、登用されなかった。

昭襄王36年(紀元前271年)、斉を攻めたが、これは魏冄が自身の封邑であった陶の領地を広めるためであった。この際に范雎は上書し、「明君の政治では、功労ある者は必ず褒賞され、能力のある者は必ず登用されるといいます。私が用いられないのは、私が愚鈍なため、王の心にふれて訴えるものがないためでしょうか。まさか私を推す者が賤しいために用いないということではありますまい」と言った。

これを聞いた昭襄王は大いに喜び、登用しなかったことを王稽に詫び、范雎を召した。范雎を召した際の王の出御で、宦官が「王のお出まし」と言った。范雎は、「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った。昭襄王はこれを聞き、范雎を迎え入れまず詫び、「私は早くから先生の教えを乞おうと思っていた。謹んで主客対等の礼をもってお話を賜りたい」と言った。しかし范雎はこれを辞退し、群臣が去った後に親しく会話した。そこで昭襄王は范雎を拝して客卿とし、兵事を相談した。これ以降昭襄王は范雎を日一日と親しみ、以降、その進言が採用されるようになった。

昭襄王38年(紀元前269年)、秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討った(閼与の戦い)。

昭襄王40年(紀元前267年)、長子の悼太子が人質に出していた魏で薨去。
宰相范雎
昭襄王42年(紀元前265年)、范雎は言上して「かつて夏・殷・西周の三代が滅んだ理由は、君主が政治を臣下に任せきりであったためでした。今、秦では諸大史や王の左右近侍に至るまで、すべて穣侯の徒党でない者はなく、王ひとりが孤立しています。私はひそかに王のためにこれを恐れています」と言った。

これを聞いた昭襄王は大いに恐れ、宣太后を廃し、魏冄の宰相職を免じた。また、魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した。范雎は宰相となり、食邑の応に封じられ、応侯と号した。

2年前に亡くなった悼太子の代わりに安国君こと公子柱(後の孝文王)を太子に指名した。

昭襄王43年(紀元前264年)、秦に従わない韓を白起に命じて討った(陘城の戦い)。同年、楚の頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた楚の太子完は帰国を願い出た。昭襄王は、「まず太子の傅(教育係)である春申君を遣わし、病気を見舞わせた上で取り計らおう」と答えた。

春申君は一計を案じ、太子完に「楚王は病のため、おそらくは再起できないと思われます。太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなるでしょう。使者と一緒に秦を抜け出されるのが上策と思います。私は踏みとどまって、死を賭して事に当ります」と言った。太子完は衣服を変え、使者の御者になりすましてひそかに出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。

春申君はしばらくしてから昭襄王に申し出て、「楚の太子は帰国しました。逃がした私の罪は死に当ります。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「春申君は人臣として一身を投げ出して主君に殉じました。もし太子が位に即けば、かならず春申君を重用します。ここは罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君の帰国を許した。
長平の戦い
昭襄王44年(紀元前263年)、昭襄王は白起に命じて韓を討たせた。野王を降服させ、昭襄王46年(紀元前261年)には韓の緱氏・藺を落とすなど華々しい戦果を挙げた。

昭襄王47年(紀元前260年)、昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。4月、王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった。

范雎は一計を案じ、趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。

趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。

昭襄王は戦果を聞くと、みずから河内の地に出かけて、民にそれぞれ爵一級に任じやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した。趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した。

後に長平の戦いと呼ばれるこの戦役で、趙の国力は大きく傾いた。

范雎重用
昭襄王は范雎をますます重用した。かつて魏の宰相の魏斉によって瀕死の目に遭わされた范雎の仇を報いてやろうと思い、趙の平原君を秦に招きいれて、以前に范雎から脅迫され趙に亡命していた魏斉を渡すよう脅迫した。しかし魏斉はすでに平原君のもとにいなかったので、 趙の孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、趙の宰相である虞卿に救いを求めた。

虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、魏の信陵君を頼った。信陵君は秦を恐れたため、受け入れるかどうか悩んだが、食客の侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし、魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。孝成王はその首を探し出し持たせたので、昭襄王は平原君を趙に帰した。
白起自刎
昭襄王48年(紀元前259年)10月、昭襄王は白起に命じ再び上党を平定させた。白起は軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。しかし白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎が、「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言した。昭襄王はこれを聴き入れ、韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。講和の命令を白起は聞き、范雎との間に溝が生じるようになった。

昭襄王49年(紀元前258年)、昭襄王は五大夫王陵に命じて趙を討ち、邯鄲を攻めさせたが落ちなかった(邯鄲の戦い(中国語版))。この時、趙の人質だった子楚と政親子が趙に殺されそうになるが、呂不韋により救われている。昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが、白起は断った。昭襄王みずから命令したが、白起は引き受けず、さらに范雎が懇請しても、最後まで辞退し、ついに病気と称してしまった。

昭襄王50年(紀元前257年)、昭襄王は援軍を送ったが勝てず、王陵を更迭し王齕に代わらせた。それでも邯鄲は落ちず、多大の損害を受けた。白起は、「秦は私の言うことを聴かなかった。今にしてどう思うか」と言った。これを聞いた昭襄王は大いに怒り、白起を罷免して士卒に落とし、陰密の地へ移した。翌紀元前256年11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、不平不満があって承服せず恨みがましいところがあった」として白起の爵位を剥奪し、白起に剣を与えて自害を命じた。白起は自刎し果てた。同時に司馬錯の孫で長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳にも自害を命じている。

秦の統一への道は、常勝将軍白起を失い大きく頓挫することとなった。

管仲
生涯
鮑叔との関係が実際にどうであったか同時代の資料には残っていない。以下は史記など後世にまとめられた資料によるものである。

管鮑の交わり
管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している。

「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」

二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。
二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった。

ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり春秋左氏伝などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。
斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、桓公は初め糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒の2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて考え直したためである。

覇者の宰相
鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。

管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。
国内を整備した桓公は、桓公の5年(紀元前681年)魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍曹沬は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沬の首を取ってくれよう」と言った。しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。

桓公の23年(紀元前663年)北方異民族の山戎が隣国燕へ侵攻し。燕からの援軍要請を受けた桓公は兵を纏めると山戎を討伐し、孤竹国まで行って引き返した。燕の荘公は桓公を出迎え、自ら斉との国境まで見送りに来たが、その際に気付かぬ内に国境を越えて斉の領内に入ってしまった。これに気付いた管仲は桓公の下へ駆け寄り「国境を超えています。諸侯が他の諸侯を見送らせる場合、国境を越えて見送らせてはいけません。越えて見送らせて良いのは天子だけです」と述べた。桓公が「しかし、既に越えてしまった。どうすれば良い?」と問うと、管仲は「ここに溝を引き国境とすれば、越えたことにはなりません」と返答した。桓公は国境の変更に内心不満だったが、燕公に「燕公殿、見送りは国境までが礼です。(溝を見せ)ここが国境だから、見送りはここまでで結構です」と告げて帰還した。燕公は既に本来の国境を越えてしまった事を知り慌てたが、桓公が国境を変えてまで自らの無礼を帳消しにしてくれた事に感謝した。
これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。

桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹沬の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。

後世に管仲の言行録とされている『管子』の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」の言葉がある。まず民生の安定があってこそ政治が行えるという考えだが、管仲が礼節を無視したわけではない。桓公の命令で周王室の内紛を鎮めた時に、喜んだ周の襄王は管仲を賞して上卿にしようとしたが、管仲は「私は陪臣でしかないので、そのような待遇は受けられません」とあくまで固辞した。曹沬の一件での意見も同じ理由によるものであった。

没後
管仲は紀元前645年に死去する。そして桓公から「敬」を諡され、以後管敬仲、あるいは管子とも呼ばれる。

それ以後の桓公は精彩を欠き、管仲が「お側に近づけてはいけません」と遺言した三人の奸臣(=三貴、公子開方(衛の懿公または戴公の公子で母国から離反)・易牙(料理人。己の出世のために息子を殺害し、食肉にして桓公に献上した)・豎刁(自宮宦官))を近づけるようになった。管仲の予想通り、この三人は共謀し、後継者(太子)に指名されていた公子昭を廃して傀儡を擁立するべく、陰謀を巡らせた。翌年に桓公は病死したが、その喪中から激しい後継争いが起こって遂には内乱となり、その間桓公の死骸は放置されて腐敗し、遂には蛆が廊下まで這い出した。結果的には生前の管仲の根回しと覇者桓公の遺言により、諸侯の後押しを得た公子昭が孝公として即位したものの、内乱と三貴による重臣達の謀殺によって、国力は大幅に低下した。これにより、覇権は斉から晋の文公に移った。

陳寿は諸葛亮伝において、諸葛亮の才能を管仲・蕭何に匹敵すると評し、諸葛亮も自らを管仲・楽毅に比していた、と記した。司馬遷は史記の列伝において、管仲を「御者になりたい」とまで崇敬していた晏嬰と同列に並べた。一方、孔子は『論語』において、管仲は桓公と同等の格式を取ったり、暮らしぶりが豪勢だったと非難したが、弟子が管仲を批判した時にはむしろその功業を称えもしている。


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