オーロラ
名称
オーロラという名称はローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。ただし、科学術語になった過程については定説がない。
オーロラという名称が使用され始めたのは17世紀頃からと考えられている。名付け親は一説によるとフランスのピエール・ガッサンディで、エドモンド・ハレーが自らの論文の中でこの説を述べている。もう一説は、イタリアのガリレオ・ガリレイが名付けたという説である。当時ガリレオは宗教裁判による命令で天体に関することを書けなかったため、弟子の名を使ってこのことを著している。
オーロラという名称が浸透する以前から、現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されている。アリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した。また、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた。現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある。
北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthern lights(北の光、アイスランド語: norðurljós、デンマーク語:ノルウェー語: nordlys、スウェーデン語: norrsken)と呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている。また北極光をnorthern lights、あるいはAurora Borealis(北のオーロラ)、南極光をsouthern lights(南の光)、 あるいはAurora Australis(南のオーロラ)と呼ぶ。オーストラリアではオーロラのことをnorthern lightsと呼ぶ。ときにはAurora polaris(極光、デンマーク語:ノルウェー語: polarlys、スウェーデン語: polarsken)と呼ばれることもある。
フィンランド語ではrevontulet(狐の火、狐火)と呼ばれる。サーミの伝説では狐が北極圏の丘を走るとき、尻尾が雪原に放った火花は巻き上がり、夜空の光になるとのことからこう名付けられる。
北欧神話においてオーロラは、夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝きだとされる。北欧ではオーロラにより死者の世界と生者の世界が結びついている、と信じている人が未だにいる。またエスキモーの伝説では、生前の行いが良かった人は死後、オーロラの国(実質的に天国)へ旅立つと言われている。
観測史
日本の観測史については後述。
神話や伝承
そのころ、アンティオコスは再度のエジプト攻撃の準備をしていた。
折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、
槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が
空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。
すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、
盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、
金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
そこで人は皆、この出現が吉兆であるようにと願った。
『マカバイ記』二 5章 1,2,3,4節
中国や西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える。このことから中世ヨーロッパではオーロラの赤色から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた。また中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。これはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している。ただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたため、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある。
古代中国ではオーロラは天に住む赤い龍に見立てられ、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた。古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる燭陰という神が信じられており、中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。その一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神、火神ではないかと述べている。また中国の古文書の中で「天狗」「帰邪」「赤気」「白気」「竜」などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある。
近代
近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海日誌に「天空に光が現れた」と残しており、南半球のオーロラを見た最初のヨーロッパ人であると言われている。
オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後、行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである。
両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記にはオーロラを描いた木版画や絵画が掲載されている。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している。
折り畳まれ、揺れる光のカーテンが空に立ち上がり、そして広がり、ゆっくり消えて行く。かと思うと、また生き返る。このような美しい現象は、大自然への畏敬の念を持たずに見ることはできない。
オーロラが人の心を動かすのは、なにかとらえ難い、霊妙な生命にあふれたもの、静かな自信に満ちて、それでいて絶えず流れ来るものを暗示することによって、人々の想像力を刺激するからである。
— ロバート・スコットの日記より。
発生原理
太陽からは「太陽風」と呼ばれるプラズマの流れが常に地球に吹きつけており、これにより地球の磁気圏は太陽とは反対方向、つまり地球の夜側へと吹き流されている。太陽から放出されたプラズマは地球磁場と相互作用し、複雑な過程を経て磁気圏内に入り、地球磁気圏の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域を中心として溜まる。このプラズマシート中のプラズマが何らかのきっかけで磁力線に沿って加速し、地球の大気のうち電離層へ高速で降下することがある。大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。これがオーロラである。発光の原理だけならば、オーロラは蛍光灯やネオンサインと同じである。プラズマシートが地球の夜側に形成されるため、オーロラは基本的に夜間にのみ出現するものである。しかし昼間にもわずかながら出現することがある。
どのようにして太陽風が地球の磁力圏に入り込むのか、なぜプラズマは特定の部分にたまるのか、何がきっかけで加速されるのかなど、発生原理の肝要な部分については未だ統一した見解はない。最も有力な説は、入り込む理由や加速される理由を、地球の磁力線が反対向きの磁力線とくっつくこと(磁気リコネクション)に求める説である。
オーロラが突如として一気に広がる現象をブレイクアップという。日本語ではオーロラ爆発とも訳される。空から光が突然噴出して全天に広がり、色や形の変化が数分間続く。このブレイクアップに関しても、発生原因や発生過程などはあまり分かっていない。
名称
オーロラという名称はローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。ただし、科学術語になった過程については定説がない。
オーロラという名称が使用され始めたのは17世紀頃からと考えられている。名付け親は一説によるとフランスのピエール・ガッサンディで、エドモンド・ハレーが自らの論文の中でこの説を述べている。もう一説は、イタリアのガリレオ・ガリレイが名付けたという説である。当時ガリレオは宗教裁判による命令で天体に関することを書けなかったため、弟子の名を使ってこのことを著している。
オーロラという名称が浸透する以前から、現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されている。アリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した。また、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた。現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある。
北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthern lights(北の光、アイスランド語: norðurljós、デンマーク語:ノルウェー語: nordlys、スウェーデン語: norrsken)と呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている。また北極光をnorthern lights、あるいはAurora Borealis(北のオーロラ)、南極光をsouthern lights(南の光)、 あるいはAurora Australis(南のオーロラ)と呼ぶ。オーストラリアではオーロラのことをnorthern lightsと呼ぶ。ときにはAurora polaris(極光、デンマーク語:ノルウェー語: polarlys、スウェーデン語: polarsken)と呼ばれることもある。
フィンランド語ではrevontulet(狐の火、狐火)と呼ばれる。サーミの伝説では狐が北極圏の丘を走るとき、尻尾が雪原に放った火花は巻き上がり、夜空の光になるとのことからこう名付けられる。
北欧神話においてオーロラは、夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝きだとされる。北欧ではオーロラにより死者の世界と生者の世界が結びついている、と信じている人が未だにいる。またエスキモーの伝説では、生前の行いが良かった人は死後、オーロラの国(実質的に天国)へ旅立つと言われている。
観測史
日本の観測史については後述。
神話や伝承
そのころ、アンティオコスは再度のエジプト攻撃の準備をしていた。
折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、
槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が
空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。
すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、
盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、
金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
そこで人は皆、この出現が吉兆であるようにと願った。
『マカバイ記』二 5章 1,2,3,4節
中国や西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える。このことから中世ヨーロッパではオーロラの赤色から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた。また中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。これはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している。ただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたため、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある。
古代中国ではオーロラは天に住む赤い龍に見立てられ、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた。古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる燭陰という神が信じられており、中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。その一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神、火神ではないかと述べている。また中国の古文書の中で「天狗」「帰邪」「赤気」「白気」「竜」などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある。
近代
近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海日誌に「天空に光が現れた」と残しており、南半球のオーロラを見た最初のヨーロッパ人であると言われている。
オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後、行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである。
両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記にはオーロラを描いた木版画や絵画が掲載されている。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している。
折り畳まれ、揺れる光のカーテンが空に立ち上がり、そして広がり、ゆっくり消えて行く。かと思うと、また生き返る。このような美しい現象は、大自然への畏敬の念を持たずに見ることはできない。
オーロラが人の心を動かすのは、なにかとらえ難い、霊妙な生命にあふれたもの、静かな自信に満ちて、それでいて絶えず流れ来るものを暗示することによって、人々の想像力を刺激するからである。
— ロバート・スコットの日記より。
発生原理
太陽からは「太陽風」と呼ばれるプラズマの流れが常に地球に吹きつけており、これにより地球の磁気圏は太陽とは反対方向、つまり地球の夜側へと吹き流されている。太陽から放出されたプラズマは地球磁場と相互作用し、複雑な過程を経て磁気圏内に入り、地球磁気圏の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域を中心として溜まる。このプラズマシート中のプラズマが何らかのきっかけで磁力線に沿って加速し、地球の大気のうち電離層へ高速で降下することがある。大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。これがオーロラである。発光の原理だけならば、オーロラは蛍光灯やネオンサインと同じである。プラズマシートが地球の夜側に形成されるため、オーロラは基本的に夜間にのみ出現するものである。しかし昼間にもわずかながら出現することがある。
どのようにして太陽風が地球の磁力圏に入り込むのか、なぜプラズマは特定の部分にたまるのか、何がきっかけで加速されるのかなど、発生原理の肝要な部分については未だ統一した見解はない。最も有力な説は、入り込む理由や加速される理由を、地球の磁力線が反対向きの磁力線とくっつくこと(磁気リコネクション)に求める説である。
オーロラが突如として一気に広がる現象をブレイクアップという。日本語ではオーロラ爆発とも訳される。空から光が突然噴出して全天に広がり、色や形の変化が数分間続く。このブレイクアップに関しても、発生原因や発生過程などはあまり分かっていない。
【行一释疑】学佛听经好多年,觉得自己还没契入。怎样能让自己心法和合,明心见性呢?
问
学佛听经好多年,觉得自己还没契入。怎样能让自己心法和合,明心见性呢?
答
觉得自己没契入,就是你不是这个家内的人呐,就你的思想还在凡夫的队列里头,没抽出来,所以说你听不懂佛在讲什么。
你比如说,你随便在大街上找一个人,你把他放到这讲堂里了,我说这些话,把它写成文字,他哪个字都认识,哪个字都能听见。但奇怪的是,他就是听不懂我在说啥。为什么呢?他的心思不在学佛上,当然听不懂了。
诸位,你看你们很多老人家,甚至识字不多的,你看刚才我读《弥陀要解》那段,那是古文,你们一听了,我还没等翻译呢,你们马上感动了,鼓掌了!这就是你能听懂,你是家内人,才知道家中事。不是家内人,他什么专家、学者、教授,他也听不懂。
所以只有你的思想,一次一次地在革新,一次一次在变化,这样才能深入地听懂经典,才能够深入进去,才能够明白。佛法就是讲心地法门,其实特别简单,特别的简单,就是我们不肯往这儿悟而已了。
就像这个大地一样,春天,春暖花开;夏天,植物长得繁茂了;秋收冬藏,大地的变化,你种什么,它长什么。但是种什么,长什么,要等待时机因缘。你冬天种,它有时候也长不出来!要等待时机因缘。那当你这个时候修善了,时机因缘一成熟了,这个善业善果就会现前。你种到恶因的时机因缘一现前,这恶报就会现前。这一次一次地轮转,但是对于大地上来讲,没有长出来的这些植物、这些庄稼,那就心地本来清净。本来清净,起心动念了,而生的因果轮转,生的十方世界。
虽然说这些因果轮转,十方世界都是假的,但是,它有作用,有力量。就让这个力量变成正的能量,影响你,让你变成好的,那这就叫修善。要修行,要有修行的愿力,这样你这个大地上就会一次一次地更新,一次比一次好,一次一次地更加利益你。
极乐世界呢,就是佛修到极处了!佛这片心地,已经长得最好了,到极处了。你要求生净土,等于不用你自己种地了,你直接就到阿弥陀佛已经种好的这片最好的地上,直接享受它成就了的果实去。
那这就是我们净土法门的殊胜,一方面,我们要明心见性,明白都是你的心,在这一片心地,这就明白了。这性就是指像大地一样,不动不摇。明白这性的作用就生心了,这个心能够有因因果果,好好坏坏。明白这个心了,它不可得的,会变化的,那坏能变成好,迷能变成觉,众生能变成佛。要善用这个心。性,没什么可修的,修的是这个起心动念,善用其心。
当我们明白了,那净土宗就更胜一筹了。你明白这个性地不动了,我自己要种出好种子了,自己要种好因种好果了,但是自己的力量太微弱了,成就善业善法太慢了,而且退缘太多了,这个时候就要享受佛已经成就的,仗阿弥陀佛的慈力,这一片心地,佛已经种好了,你来享用。
这就是当你明白自心过后,要依自心起修,断恶修善,仗阿弥陀佛的一乘愿海,全摄佛功德成自功德。你这片大地就会发挥出无穷无尽的好处跟力量。这就简单了,简单了。那什么功德最大呢?念佛。你做多少善事,都不如老实念佛的功德大!
诸位你看,经里面的校量功德来比较。一个人《金刚经》校量,从早晨起来用身体去布施,一直到晚上,都不如有人受持经典四句偈的功德大。用身体舍身去布施,都不如受持经典四句偈的功德大。
你看《普门品》上也有这样的开示,有人尽形寿乃至尽未来际,供养这全世界的圣人,这一个大千世界的圣人。经过百千劫,都不如有人称念一声菩萨名号的功德大,这就校量了。为什么呢?因为你自己去布施、修善,那是你自己在这片地上得种,很勤恳、很努力,种出的果实有限的。阿弥陀佛名号,这些经典,那是佛已经种好了的,是无限大的。当你自己把这个锄头拿起来了,意识到了,我自己的能力太有限了。你拿着你的锄头,赶快到阿弥陀佛那块地上去,你就胜利了。
这个修行,方向就很明确了。以念佛为主,布施修善为辅,念佛是大总持法。一切的善业,永明大师有本书叫《万善同归集》,一切的善业,万善同归,都在这一句阿弥陀佛上。
问
学佛听经好多年,觉得自己还没契入。怎样能让自己心法和合,明心见性呢?
答
觉得自己没契入,就是你不是这个家内的人呐,就你的思想还在凡夫的队列里头,没抽出来,所以说你听不懂佛在讲什么。
你比如说,你随便在大街上找一个人,你把他放到这讲堂里了,我说这些话,把它写成文字,他哪个字都认识,哪个字都能听见。但奇怪的是,他就是听不懂我在说啥。为什么呢?他的心思不在学佛上,当然听不懂了。
诸位,你看你们很多老人家,甚至识字不多的,你看刚才我读《弥陀要解》那段,那是古文,你们一听了,我还没等翻译呢,你们马上感动了,鼓掌了!这就是你能听懂,你是家内人,才知道家中事。不是家内人,他什么专家、学者、教授,他也听不懂。
所以只有你的思想,一次一次地在革新,一次一次在变化,这样才能深入地听懂经典,才能够深入进去,才能够明白。佛法就是讲心地法门,其实特别简单,特别的简单,就是我们不肯往这儿悟而已了。
就像这个大地一样,春天,春暖花开;夏天,植物长得繁茂了;秋收冬藏,大地的变化,你种什么,它长什么。但是种什么,长什么,要等待时机因缘。你冬天种,它有时候也长不出来!要等待时机因缘。那当你这个时候修善了,时机因缘一成熟了,这个善业善果就会现前。你种到恶因的时机因缘一现前,这恶报就会现前。这一次一次地轮转,但是对于大地上来讲,没有长出来的这些植物、这些庄稼,那就心地本来清净。本来清净,起心动念了,而生的因果轮转,生的十方世界。
虽然说这些因果轮转,十方世界都是假的,但是,它有作用,有力量。就让这个力量变成正的能量,影响你,让你变成好的,那这就叫修善。要修行,要有修行的愿力,这样你这个大地上就会一次一次地更新,一次比一次好,一次一次地更加利益你。
极乐世界呢,就是佛修到极处了!佛这片心地,已经长得最好了,到极处了。你要求生净土,等于不用你自己种地了,你直接就到阿弥陀佛已经种好的这片最好的地上,直接享受它成就了的果实去。
那这就是我们净土法门的殊胜,一方面,我们要明心见性,明白都是你的心,在这一片心地,这就明白了。这性就是指像大地一样,不动不摇。明白这性的作用就生心了,这个心能够有因因果果,好好坏坏。明白这个心了,它不可得的,会变化的,那坏能变成好,迷能变成觉,众生能变成佛。要善用这个心。性,没什么可修的,修的是这个起心动念,善用其心。
当我们明白了,那净土宗就更胜一筹了。你明白这个性地不动了,我自己要种出好种子了,自己要种好因种好果了,但是自己的力量太微弱了,成就善业善法太慢了,而且退缘太多了,这个时候就要享受佛已经成就的,仗阿弥陀佛的慈力,这一片心地,佛已经种好了,你来享用。
这就是当你明白自心过后,要依自心起修,断恶修善,仗阿弥陀佛的一乘愿海,全摄佛功德成自功德。你这片大地就会发挥出无穷无尽的好处跟力量。这就简单了,简单了。那什么功德最大呢?念佛。你做多少善事,都不如老实念佛的功德大!
诸位你看,经里面的校量功德来比较。一个人《金刚经》校量,从早晨起来用身体去布施,一直到晚上,都不如有人受持经典四句偈的功德大。用身体舍身去布施,都不如受持经典四句偈的功德大。
你看《普门品》上也有这样的开示,有人尽形寿乃至尽未来际,供养这全世界的圣人,这一个大千世界的圣人。经过百千劫,都不如有人称念一声菩萨名号的功德大,这就校量了。为什么呢?因为你自己去布施、修善,那是你自己在这片地上得种,很勤恳、很努力,种出的果实有限的。阿弥陀佛名号,这些经典,那是佛已经种好了的,是无限大的。当你自己把这个锄头拿起来了,意识到了,我自己的能力太有限了。你拿着你的锄头,赶快到阿弥陀佛那块地上去,你就胜利了。
这个修行,方向就很明确了。以念佛为主,布施修善为辅,念佛是大总持法。一切的善业,永明大师有本书叫《万善同归集》,一切的善业,万善同归,都在这一句阿弥陀佛上。
【司马迁是继孟子之后孔子最忠诚的追随者吗?】
#微博公开课# 身为道家的司马谈给儿子司马迁的教育却是儒家的,勉励儿子做第二个孔子。这好像很奇怪,但其实完全是时代转变的结果。在时代转变中的人,往往如此,就像清末民初的人,自己也许还在作摇头摆尾的桐城派的古文或骈俪的选体,但会把儿子送入新学校、受新教育、学科学,甚而练梁任公式的新文体。
司马迁的青年时代,已是儒学大盛,黄老有点过去的时代了,所以司马迁的父亲便也设法给他受新教育,并且鼓励他做一个新时代中的大学者。
这教育奏了效。司马迁虽然在本质上是浪漫的,虽然在思想上也还留有他父亲的黄老之学的遗泽,可是在精神上却留有一个不可磨灭的烙印,对儒家——尤其孔子,在了解着,在欣赏着,在崇拜着了。
(摘自#大家小书# 《司马迁之人格与风格》,有删改)
#微博公开课# 身为道家的司马谈给儿子司马迁的教育却是儒家的,勉励儿子做第二个孔子。这好像很奇怪,但其实完全是时代转变的结果。在时代转变中的人,往往如此,就像清末民初的人,自己也许还在作摇头摆尾的桐城派的古文或骈俪的选体,但会把儿子送入新学校、受新教育、学科学,甚而练梁任公式的新文体。
司马迁的青年时代,已是儒学大盛,黄老有点过去的时代了,所以司马迁的父亲便也设法给他受新教育,并且鼓励他做一个新时代中的大学者。
这教育奏了效。司马迁虽然在本质上是浪漫的,虽然在思想上也还留有他父亲的黄老之学的遗泽,可是在精神上却留有一个不可磨灭的烙印,对儒家——尤其孔子,在了解着,在欣赏着,在崇拜着了。
(摘自#大家小书# 《司马迁之人格与风格》,有删改)
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