トレントンの戦い
戦闘
大陸軍の攻撃
トレントンの北西約1マイル (1.6 km) のペニントン道路沿い桶屋の所に、ドイツ人傭兵部隊によって前進基地が設けられていた。ワシントンは自ら兵士達の前に馬で進んでその襲撃を率いた。前進基地部隊の指揮官アンドレアス・ヴィーダーホルト中尉が、新鮮な空気を吸うために店から出てきた時に、大陸軍が彼に向かって発砲した。ヴィーダーホルトが「敵だ!」と叫び、他の兵士達が飛び出してきた。大陸軍は彼等に向かって3度一斉射撃を行い、ドイツ人傭兵部隊も1度は応射した。ワシントンは、エドワード・ハンドのペンシルベニア・ライフル銃隊とドイツ語が話せる歩兵の大隊に、プリンストンに向かう道路を塞ぐように命じ、彼等はそこからドイツ人傭兵部隊前哨基地をまさに攻撃した。ヴィーダーホルトは間もなく大陸軍が襲撃隊以上のものであることを認識し、また他のドイツ兵がプリンストン道路を撤退しつつあることを見て、自分も撤退することにした。ドイツ人傭兵部隊は後退しながら発砲し、秩序だった撤退を行った。彼等はトレントンの北外れにある高台まで後退し、そこでロスバーグ連隊の当番中隊と合流した。そこからは緩りと後退しながら発砲し、発砲が途絶えないようにしながら、また家屋や他の建物を遮蔽にしながら大陸軍に応戦した。トレントンの町中に入ると、町の外縁にいた他の守備中隊の支援を受け始めた。デラウェア川の近くにいたもう一つの守備中隊も支援のために東に急行し、川から町に入る道ががら空きになった。ワシントンはプリンストンに向かう逃走路を抑えるよう命じ、歩兵隊を戦闘隊形でその遮断に向かわせ、砲兵隊はキング通りとクィーン通りの上手に陣取らせた。
ジョン・サリバン将軍は南側の大陸軍部隊を率いて放棄された川沿い道からトレントンに入り、アッサンピンク・クリークを渡す唯一の道を抑えた。そこはトレントンから南へ出て行く唯一のルートであり、ドイツ人傭兵部隊が逃げ出すのを遮断できると考えていた。サリバンは少しの間前進を止めて、グリーンの部隊が北側の前進基地からドイツ人傭兵部隊を駆逐する時間があったかどうかを確認した。その後間もなく前進を再開し、フォン・グロスハウゼン中尉指揮下の猟兵隊50名が駐屯しているフィレモン・ディキンソンの家である隠れ家を攻撃した。フォン・グロスハウゼン中尉は猟兵の中から12名を前衛隊に対する戦闘に投入したが、大陸軍が隠れ家に前進して来るのを見たときにはまだ数百ヤード進んだだけだった。フォン・グロスハウゼンは宿営所にとって返し、残りの猟兵達と合流して隠れ家を放棄した。彼等は一斉射撃を行った後に振り向いて走り、ある者はクリークを泳ぎ、ある者はまだ遮断されていなかった橋を渡って逃げた。そこにいた20名のイギリス竜騎兵も同時に逃げ出した。グリーンとサリバンの部隊が町に押し入ると、ワシントンはキング通りとクィーン通りの北にある高台に移動したので、戦闘の様子を見ることができ、その部隊に指示ができた。この頃、デラウェア川対岸にいた砲兵隊からの砲撃が始まり、ドイツ人傭兵部隊の陣地を破壊した。
間もなく警鐘が鳴らされ、ドイツ人傭兵部隊3個連隊が戦闘準備を始めた。ラールの連隊はロスバーグ連隊と共にキング通りの下流側で隊形を作り、クニプハウゼン連隊はクィーン通りの下端に配置した。ラールの旅団副官であるピール中尉が最後にその指揮官を起こし、ラールは工兵隊がその月早くに堡塁を築くはずだった町のメインストリート"V"地点を大陸軍が占領しているのが分かった。ラールはその連隊にキング通り下端に隊列を作るよう命じ、ロスバーグ連隊にはクィーン通りを前進できるように備えさせ、クニプハウゼンの連隊にはラール連隊がキング通りを進む間、予備隊として待機するよう命じた。

2つのメインストリートの上手に陣取った大陸軍の大砲が間もなく砲撃を開始した。これに反応したラールは、ロスバーグ連隊の数個中隊に支援させて、自分の連隊にその大砲を征圧するよう指示した。ドイツ人傭兵部隊は隊列を組み通りを前進し始めたが、その隊形は大陸軍の大砲および通りの左側にある家屋を占領していたマーサー隊からの発砲によって直ぐに破られた。その隊列が崩れるとドイツ兵は逃走した。ラールは続いて2門の3ポンド砲を戦闘に参加させるよう命じた。これらの大砲はなんとかそれぞれ6発の砲弾を発射することができたが、数分も経たないうちにその大砲を操作していた兵士の半分が大陸軍の砲撃で殺された。残っていた砲兵は逃げ出して家屋や塀の影に隠れ、その大砲は大陸軍に奪取された。この大砲の捕獲に続いて、ジョージ・ウィードン指揮下の部隊がキング通りを下って前進した。
クィーン通りでは、ロスバーグ連隊とラール連隊による前進の試み全てが、トマス・フォレスト指揮下の大砲によって撃退された。ドイツ兵の大砲がさらに2門、ほんの4発を放っただけで沈黙させられた。フォレストの榴弾砲のうち1門は車軸が壊れたために使えなくなった。この時点でクニプハウゼン連隊はロスバーグ連隊やラール連隊とは離ればなれになった。ロスバーグ連隊とラール連隊は葡萄弾やマスケット銃弾によって大きな損失を蒙り、町の外の畑まで後退した。町の南ではサリバン指揮下の大陸軍部隊がドイツ人傭兵部隊を圧倒し始めていた。ジョン・スタークがクニプハウゼン連隊に銃剣突撃を敢行し、ドイツ兵の武器が発砲できなかったので抵抗する者の大半を倒した。サリバン自らが1隊を率いてそれ以上誰もクリークを渡って逃げられないようにした。

ドイツ人傭兵部隊の抵抗が崩壊
畑にいたドイツ人傭兵部隊は再編成を試み、もう一度町を取り返して突破口を開こうとした。ラールは町の北にある高台の大陸軍側面を衝くことに決めた。ラールは「前へ!進め!進め!」と呼びかけ、旅団の鼓笛隊がドイツ兵の気魄を上げるために笛、ラッパや太鼓を鳴らし、ドイツ兵は動き始めた。
ワシントンはこのときまだ高台に居り、ドイツ兵が大陸軍の側面に進んでくるのを見て、その方向に戦闘隊形を作ることができるように部隊を動かした。ドイツ兵2個連隊はキング通りの方向に進み始めたが、3方向から来る大陸軍の大砲に捕まってしまった。大陸軍のある兵士は家屋の中に陣を取り、撃たれにくくしていた。何人かの市民ですらドイツ兵との戦闘に加わった。それにも拘わらずドイツ兵は前進し、捕獲されていた大砲を取り戻した。キング通りの上手にいたノックスはドイツ兵が大砲を取り戻すのを見て、再度奪取を命じた。6名の兵士が走り、短時間の闘争の後で大砲を奪取し、それをドイツ兵の方向に向け直した。ドイツ兵の大半はその大砲を発砲できず、攻撃は止まった。ドイツ兵の隊列が崩れ、散らばり始めた。この時点でラールは致命傷を負っていた。ワシントンが高台から降りてきて部隊を率い、「進め、勇敢な仲間達よ、私に続け!」と叫んだ。ドイツ兵の大半が果樹園の中に後退し、大陸軍が急迫して直ぐに包囲した。ドイツ語を話すアメリカ兵が降伏条件を伝え、ドイツ兵が応じた。
クニプハウゼン連隊の残りはラール連隊と合流するよう命じられたが、誤解のために反対方向に進んだ。彼等は橋を渡って逃げようとしたが、橋が占領されていることが分かった。大陸軍が直ぐに掃討を試み、ドイツ兵の突破口を開こうという試みも失敗した。彼等は橋から遮断されサリバン隊に包囲されて降伏を強いられた。この連隊は旅団の他の部隊よりも数分後に降伏した。

損失
ドイツ人傭兵部隊は戦死22名、重傷83名、さらに896名が捕虜となった。大陸軍は戦死が2名だけであり、5名が負傷した。しかし、戦いの数日後に疲労、低体温および病気で死んだ者を含めると大陸軍の総損失の方が多いかも知れない。捕虜になったドイツ兵はフィラデルフィア、さらにランカスターに送られ、1777年には再度バージニアまで移動させられた。ラールは致命傷を負い、その日遅くに自分の策戦本部で死んだ。この戦闘に参加したドイツ人の大佐4人全員が戦死した。ロスバーグ連隊は事実上イギリス軍から外された。クニプハウゼン連隊の一部は南に逃げたが、サリバン隊が200名程をその大砲や物資と共に捕獲した。他にも約1,000挺の武器と大陸軍が大いに必要としていた弾薬が捕獲された。

神話
ドイツ人傭兵部隊は大陸軍の急襲で驚かされ衝撃を受けた。クリスマスの祝いの結果として酔っていたと一般に信じられている。軍事歴史家のエドワード・G・レンゲルは「ドイツ人は目が眩み、疲れてはいたが、伝説が伝えるように救いようのないくらい酔っていたという事実はない。」と言った。歴史家のデイビッド・ハケット・フィッシャーは「そうではなかった」と言い、この戦闘に参加し、戦闘後にドイツ兵の面倒を見たアメリカ軍人のジョン・グリーンウッドですら、「前夜に1滴でも酒を飲んだのか確認できないし、1片のパンですら食べたのかも分からない」と言ったことを指摘している。しかし、ワシントンの参謀士官の一人は「彼等は大いにドイツ流のクリスマスを楽しみ、疑いもなくその夜は大いに酒を飲み、踊った。彼等は翌朝眠かったことだろう。」と記した。

鳥羽・伏見の戦い
「鳥羽・伏見の戦い」は、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦です。現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。
大政奉還による江戸幕府の終わり
長い間、「鎖国」(さこく)として外国との交流・貿易を禁止してきた日本ですが、1853年(嘉永6年)、米国のペリー率いる黒船来航により、「開国」を迫られることに。

日本国内では、外国を撃退・排除しようとする「攘夷」(じょうい)と開国とで考えが分かれる他、幕府ではなく天皇に忠義を尽くす「勤皇」(きんのう)、幕府を排除する「倒幕」(とうばく)、幕府を支持する「佐幕」(さばく)など様々な思想が生まれ、不安定な情勢となってしまいます。

「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となった1866年(慶応2年12月5日)は、倒幕思想が広まり、幕府の弱体化が加速している時期でした。薩摩藩・長州藩が中心となって武力による倒幕が推し進められるような状況で、慶喜は土佐藩からある提案を受けます。将軍が自ら政権を天皇に返上するという「大政奉還」。慶喜はこの提案を受け、1867年(慶応3年12月9日)、260年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれました。

なお、形式的に政権を返上した慶喜ですが、実質的には「朝廷」(天皇)から委任される形で政権を握り続けることになります。もちろん、倒幕を目指していた薩摩藩・長州藩はこの状況に納得ができません。また、佐幕派の会津藩・桑名藩・紀州藩からも政権を返上したことへの反発が強まり、慶喜が望んでいた平和的解決は難しい状況に陥ってしまいました。

西郷隆盛率いる薩摩藩による挑発
あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、浪人を集め、江戸で強盗や略奪、殺傷を繰り返します。

現在でいうテロ攻撃であり、被害は民衆にも及びました。これは幕府(旧幕府)への挑発行為であり、最終的な狙いは倒幕。幕府側は挑発行為に乗ってしまい、1868年1月19日(慶応3年12月25日)に江戸の薩摩藩邸を襲撃します。

この襲撃を発端として、薩摩藩と旧幕府軍の戦いが始まるのです。

旧幕府軍・慶喜のターゲットは薩摩藩
周囲の「討薩」(薩摩藩を倒す)の声に押された慶喜は、1868年(慶応4年元旦)に、「討薩の表」を出して薩摩藩への攻撃を宣言します。

京都の封鎖を目的に掲げて大阪から京都に兵を進める旧幕府軍。3日午前、京都南部の鳥羽街道で薩摩藩と相対することになります。旧幕府軍は通行を求めますが、薩摩藩は拒否し、朝廷からの許可が出るまで待つように返答します。夕方を過ぎた頃、交渉が進展しないことに腹を立てた旧幕府軍が強引に前進した直後、薩摩藩が大砲・銃で一斉に攻撃を開始。不意の攻撃に驚いた旧幕府軍は不利な戦いを強いられ敗走します。

なお、伏見においても、旧幕府軍と薩摩藩・長州藩による同様の口論が行なわれていましたが、鳥羽方面からの銃声を皮切りに開戦。旧幕府軍は伏見奉行所を本陣として戦いましたが、弾薬庫に砲弾を打ち込まれて奉行所が炎上、ここでも旧幕府軍は撤退を強いられます。

錦の御旗の登場で旧幕府軍は朝廷(天皇)と戦うことに
開戦翌日の1月4日、旧幕府軍は驚きの光景を目にします。敵陣に掲げられた「錦の御旗」。この旗は朝廷(天皇)を意味し、これから戦う敵である薩摩藩・長州藩の軍が、正式な朝廷の軍と認められたことが分かったのです。

天皇の敵となることは、旧幕府軍の武士も考えていなかったのでしょう。一気に士気が下がっただけでなく、これまで旧幕府軍の味方をしていた各藩においても朝廷と戦うことに消極的となり、旧幕府軍は窮地に立たされます。

総大将 慶喜の逃亡、旧幕府軍の大敗
総大将を失った旧幕府軍は、新たに新政府軍に加わった各藩からの攻撃も受け、敗走。1月3日から続いた鳥羽・伏見の戦いは、1月6日に旧幕府軍の大敗で終わりました。

旧幕府軍1万5千、新政府軍5千、なぜ旧幕府軍が負けたのか
鳥羽・伏見の戦いにおける戦力は、旧幕府軍1万5千、薩摩藩・長州藩率いる新政府軍5千と言われています。3倍もの兵力を誇っていた旧幕府軍は、なぜ敗北してしまったのでしょうか。研究者によって見解は様々ですが、主に語られている敗北理由を紹介します。

装備の差
新政府軍は、幕府との戦いに備えて最新兵器を確保していました。最新型の西洋銃・大砲を装備して、相手を迎え撃つ準備ができていたのです。
一方、幕府陸軍、新撰組、会津藩、桑名藩で構成されていた旧幕府軍のうち、最新型の西洋銃を装備していたのは幕府陸軍のみでした。幕府陸軍は6千名配備されていたそうですが、装備に差がある軍隊では、統率が難しかったと想定されます。

天下の新撰組でも、最新兵器の前では十分な力を発揮できなかったのでしょう。この戦いによって、隊士の3分の1が犠牲になったと言われています。なお、このとき新撰組局長「近藤勇」が、怪我の療養中で指揮を執れない状況だったことも、少なからず影響があったかもしれません。

鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名。この数からも旧幕府軍の犠牲の大きさがうかがい知れます。

戦意の差
また、兵士の士気にも大きな差があったと想定されます。旧幕府軍は、薩摩藩に挑発されて仕方なく戦うことになったため、急遽指名された指揮官で兵士も寄せ集め。討薩の表を出したものの、実際に戦う気はなかったという説もあるほどです。

大阪から京都に兵を進めていた旧幕府軍は、不意をつかれる形で薩摩藩に足止めされました。このとき、まだ戦いを想定していなかった旧幕府軍は、銃に弾丸を込めていなかったそうです。

一方の新政府軍は、倒幕を掲げて尽力してきた薩摩藩・長州藩の志士。ついに絶好のチャンスが巡ってきた状況で、闘志に燃えています。旧幕府軍を足止めして口論を続けていたときも、いつでもすぐに戦闘を開始できるよう、銃を構えていました。戦う気のない相手に一斉攻撃をしかけたことで、兵力の勝る旧幕府軍に対して有利な戦いができたのです。
京都という場所
京都の町並みと言えば、碁盤の目の狭い路地が特徴。現在は、風情のある美しい京都の町並みですが、戦いには不向きな場所でした。狭い道では大軍を一気に進めることはできません。旧幕府軍は「数の利」を活かすことができず、命令も徹底されずに、それぞれの兵士が勝手に戦うことになってしまったのです。
新政府軍の場合、敵から見えない路地に小銃部隊をしのばせるなど、この町並みをうまく利用して戦いました。新政府軍は京都の街をよく知っていたため、その「地の利」が数の利に勝ったのです。

新政府軍の妙案「錦の御旗」
新政府軍の士気を高めると同時に旧幕府軍に大きな打撃を与えたのが、天皇の象徴である「錦の御旗」でした。

この旗は、新政府軍と親交のあった公家「岩倉具視」(いわくらともみ)の指示で秘密裏に作られた物で、天皇の了承なく勝手に制作された物。実際の錦の御旗は何百年も使用されていなかったため、本物を見たことのある人間は存在せず、勝手に制作された物かどうかも分からない状況だったのです。

なお、錦の御旗が掲げられたのは、正式に天皇に認められ、新政府軍が朝廷の軍となった直後でした。新政府軍の下準備の良さが功を奏したのです。

慶喜による決断
鳥羽・伏見の戦いは、慶喜が発した「討薩の表」を契機に始まり、慶喜の逃亡で終わった戦いとも言えます。慶喜は結局、体調不良を理由に出陣は一度もせず、大坂城から動きませんでした。戦う気はあったのか、どうして逃げ出してしまったのか、慶喜の真意は分かりません。ただ、慶喜は「尊王」思想の強い水戸藩出身で、母親は皇族でした。大政奉還を行なったのも尊王思想あってのことでしょう。錦の御旗に向かって攻撃することは、信念に反していたのかもしれません。
また、慶喜は「徳川家康の再来」と称されるほど、切れ者だったと言われています。まだ見ぬ未来の日本を思って、最良と思える決断をしたのかもしれません。
鳥羽・伏見の戦いのあと、1868年4月11日(慶応4年5月3日)には、一切の抵抗なく江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守りました。この「江戸城の無血開城」は、幕府側の「勝海舟」と新政府側の「西郷隆盛」による功績とされていますが、慶喜の決意がなければ、この平和的解決も成し遂げられなかったのです。

《藤野先生》鲁迅(下)

だが彼もたまに私を困惑させることがあった。彼は中国の女性は纏足すると聞き知っていたが、詳しいことは解からない。そこで、どういうくるみ方をするのか、足の骨はどのような畸形になるのかを私から聞き出そうとするのだ。その上、嘆息まじりに言うのである。
「やっぱり見てみないことにはな。一体どういうことになっているんだろう?」
 ある日、学級の学生会の幹事が私の下宿にやって来て、ノートを貸してほしいと言った。取り出して彼等に渡してやったが、パラパラとめくって見ただけで、持ち帰ろうとはしなかった。ところで彼等が引き揚げると、郵便屋が分厚い封書を届けてきた。封を切って見ると書き出しはこうだ。

 「汝悔い改めよ!」
これは『新約聖書』に出て来る文句であろうが、最近トルストイの引用したものだ。時あたかも日露戦争のさなかで、日本の新聞は彼の不遜を強く論難し、愛国青年もいきりたった。ところが裏ではもう彼に影響されてしまっていたのだ。

そのあとの文句は、あらましを言うと、前年度の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートにしるしをつけておいたので、私はあらかじめ知っていたのだ、だから、このような成績をとることが出来たというのである。文末は匿名であった。
私はこれでこの間のあの一件を思い出した。同級会をするというので、幹事が黒板に通知を書いた。終わりの文句は、 「全員漏れなく参集されたし」で「漏」の字のわきに○印が付けてあった その時その○をおかしいとは思ったが、全然気にとめていなかった。これであの字も私への、あてこすりであったのだと、やっと気がついた。教員が漏らした問題を私が手に入れたと匂わせていたのである。

私はただちにこの件を藤野先生に知らせた。何人かの私と親しい同級生も大いに憤り、私と一緒に行って、幹事が口実を設けて検査する無礼を問責し、あわせて彼等に検査の結果を公表するよう要求した。結局このデマ中傷は立ち消えた。すると今度は幹事は極力奔走して、例の匿名の手紙を取り返そうとした。締めくくりとして私はこのトルストイばりの手紙を彼等に返してやった。
中国は弱国なるが故に、中国人は当然低能児ということになる。点数が六十点以上になると、もう自分の力ではなくなるのだ。彼等が疑いぐるのも無理からぬことだ。ところで、つづいて私は中国人を銃殺するのを見学する運命にめぐり合った。第二学年には細菌学が加わり、細菌の形態はすべて幻灯で示されることになっていた。一区切りついてもまだ講義時間が終了になっていない時には時局の画片を映した。むろん全部日本がロシアと戦って勝利を収めた場面ばかりである。 ところが、こともあろうに中国人が、そのなかに紛れ込んで出て来たのだ。ロシア人のために密偵を働いたかどで、日本軍に捕らえられ、いまにも銃殺されようとしている。ぐるりを取り巻いて見物しているのも中国人で、そして教室にもう一人わたしがいた。

 「万歳!」彼等はみな手をたたいて喚声をあげた。
こういった喚声は一枚ごとにあがるのであったが、しかし私にとっても、犯人が銃殺されるのを暇つぶしに見物する人々を見かけたが、彼等も酒に酔いしれたように喝采するではないか。ーーーーーーああ、如何ともし難い!しかし、その時、其処で、わたしの考えは変わったのだ。

第二学校が終了すると私は藤野先生を訪ね、医学の勉強は止める。そしてこの仙台を去ろうと思っていると申し上げた。先生の顔に悲しげな色がよぎった。何か言おうとしたようだが、しかしとうとう何もおっしゃらなかった。
「わたしは生物学を勉強するつもりです。先生が教えてくださった学問はやはり役に立ちますよ」実の所、私は別に生物学をやろうと決心した、わけではなかったのだが、彼の寂しげな様子を見て、彼を慰める作り話しをつい言ってしまったのだ。
「医学のために教えた解剖学なぞは、生物学のたすけには、さしてならんのじゃないか」彼はため息をついて言った。
 出発する前日前、彼は私を家に呼び、私に写真を一枚渡された。裏には「惜別」の2字が書かれていた。そして私のもくれるようにおっしゃった。だがその時、折あしく写真はなかった。すると彼は 後日写したら送ってほしい、そして、始終、手紙でその後の様子を知らせるようにと念を押して、おっしゃった。

仙台を去ってから、私は長年写真というものうを写したことが無かった。それに状況も面白くなく、知らせたところで失望させるだけのことだろうから、手紙を書くのも気後れがした。歳月が過ぎるにつれ、いよいよ何から切り出してよいか解からなくなる。だから時には手紙を書こうという気持ちになっても、こんどはなかなか書きだせない。こんなわけで此れまでついに一通の手紙も一枚の写真も差し上げたことがない。彼の方から見れば、去ったが最後、杳として音沙汰なしである。

しかし、どういうわけか、私はやはり彼を思い出す。私が師と思いきめた人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を鼓舞してくれたひとりなのだ。私はよくこう思う、彼の私にかけた熱意に満ちた期待、倦まざる教えは、小にしては、中国のためであり、つまり中国の新しい医学の出現するのを望むことだった。大にしては学術のためであり、つまり新しい医学が中国に傳わることを望むことだ彼の人柄は、私の眼のなかで、心のなかで、偉大である。彼の名は多くの人に知られていなが。

彼が訂正してくれたノートを、私は以前分厚い三冊の本に綴じ、しまっておいた。永久の記念にするつもりであった。不幸なことに七年前転居の際に、途中で本箱を壊されてしまい、本を箱の半分ほど失ってしまった。まずいことに、このノートも紛失した中に入っていたのである。

運送屋に督促して捜させたが、返事は無かった。ただ彼の写真だけは今なお私の北京の住居の東側の壁にかけてある。書きもので机に向かい合ってである。夜ごと疲れ怠けたくなるとき、顔をあげて、灯火の中で彼の痩せた浅黒い顔にチラッと目をやると、今にもあの抑揚のきつい口調で話しだすようで、忽ち私は良心を目覚めさせられ、そして勇気を奮い立たせられるのだ。そこで一本タバコに火をつけ、またしても 『正人君子』どもの目の仇きにされる文章を書き続けるのである。
       十月十二日。


发布     👍 0 举报 写留言 🖊   
✋热门推荐
  • 哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈#黄礼志[超话]# 刷不了直拍但想做事的姐妹看这里[好喜欢]B站上有流量大的UP主会搬运礼志直拍,播放量和弹幕多的会上首页推送甚至是
  • 喜欢看对面ban哈比正好ban反的样子哈哈哈哈哈哈哈我们拿对了哈比你们就!!
  • #娱乐泰疯癫# #kimmy_kimberley[超话]# 三台女星近日透露自己价值超过200万泰铢的四款限量名牌包包在公寓不翼而飞,虽然已经报警了,但是Kim
  • 疫情完了一起去成都吧去走俺一个人走过的路一路听着那首Rose那时候的遗憾没法和春熙路那只粉色的独眼兽拍照还有那家深夜和老板唠嗑给了很多两元券的冰粉店那家红糖粑粑
  • 硅水凝胶没有月抛以上的产品,其他的美瞳也不建议使用月抛以上的产品,因为就算严格卫生的护理(很多人都做不到的)还是会有30%左右的沉淀物无法去除,戴久了容易感染,
  • !!
  • 1.一个人无论看到怎样的美景奇观,如果他没有机会向人讲述,他就绝不会感到快乐;人终究是离不开同类的;一个无人分享的快乐绝非真正的快乐,而一个无人分担的痛苦则是最
  • 园子里绿翳翳的石榴、桑树、葡萄藤,都不过代表着过去盛夏的繁荣,现在已成了古罗马建筑的遗迹一样,在萧萧的雨声中瑟缩不宁,回忆着光荣的过去。草色已经转入了忧郁的苍黄
  • 然而,两人离婚三个月后,大S开始与20年轻的初恋互动,并很快宣布结婚的消息,这条信息刺激了汪家人的神经,不为大人着想也该为孩子想想啊! 网络图片 更让人
  • 今年7月底,炮哥和模特Bre Tiesi迎来第8胎,也是个儿子,而且是在家自然分娩。紧接着去年6月底,他和模特Alyssa Scott的儿子也是他的第7胎出生,
  • 上午9点零5分,南昌固废处理循环经济产业园内的江西洪源环境发展有限公司此刻20辆餐厨垃圾收运车停靠整齐,市场部1米92的高个子熊振轩正在对出发前的司机师傅们再三
  • 倒DAY21 KYRJ不想上广场 用个缩写吧好冷好冷啊 我称之为我过的四年最冷的冬天 躺下前疯狂翻证书 翻到咯耶耶今天也知道我不是一个人耶 同行的感觉奶思提前放
  • #韩剧Bigmouth[超话]#[污]#越来越美好的李钟硕# 2022.7.22 13:15 MBC更新文章 '빅마우스' 이종석→임윤아, 추리 촉 자극
  • #5位新冠康复者自述阳之后# ​​​全职高手里的叶修(特指小说,不是剧)真的是唯二让我觉得出场就安全感满满稳稳的超靠谱的感觉“你在所以没问题了”上一个是盗笔的小
  • NO.11 卯兔劫财主事,“犯害”衰星入命属兔人今天的好运急转而下,工作会出现不少困扰和难题,而且完全超出你的能力范围,不妨虚心请教前辈吧。NO.9 亥猪食神主
  • 那些三观不正听了却很舒服的话,能让你瞬间释怀。 你要和我一样痛苦,才算道歉。 对于喜欢的人和事物,我永远都是双标。 努力不一定会成功,但不努力真的很轻松。 善解
  • 2022年12月份了这一年最后的一个月28天后进入新的一年了新的一年也是自己人生中迎来的第三个本命年了有许多的害怕、恐慌关于年龄、工作、未来的未知不成熟的内心总
  • 7675 목판 木板 벽조목 雷霹的枣木  사고가 터지다 发生事故 불길한 소리 不吉利的话 빌라단지 别墅小区 [太阳][太阳][太阳] 행방불명
  • 思想不在一个高度,没必要互相征服,三观不在一个层次,微笑就好…”[玫瑰]21.²⁰²²/₁₁.₂₆❥꙳⋆生活从来不是你想要什么,就给你什么,好的坏的,冷的暖的,
  • 分析认为,两家公司在中国的业绩好转,是因为去年中国抵制韩货的激烈气氛已经变淡,而且北京现代第五工厂——重庆工厂正式启动并推出新车,以及公司展开的大规模促销活动,