コロンビア号空中分解事故
コロンビア号空中分解事故(コロンビアごうくうちゅうぶんかいじこ)は、2003年2月1日、アメリカ合衆国の宇宙船スペースシャトル「コロンビア号」が大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になった事故である。コロンビアは、その28回目の飛行であるSTS-107を終え、地球に帰還する直前であった。
空中分解
事故の経過を以下に記す。コロンビアは、予定では午前9時16分(米東部標準時)に着陸するはずであった。
2003年2月1日(土曜日)午前2時30分、飛行管制室の帰還担当チームが活動を開始した。
管制室は発射時に左翼で発生した破片の衝突について何も関心を示すことはなく、通常の飛行時と全く同じ手順を踏んで帰還のための作業を開始した。また気象予報士が、シャトル専用訓練機のパイロットの報告に基づいてケネディ宇宙センター周辺の天候を予測した。
午前8時00分、管制センターのレロイ・ケイン(LeRoy Cain)帰還担当司令官が、管制室の担当官たちに帰還のためのロケットの逆噴射を行ってもよいかどうかを問うた。
この時点で気象条件は基準どおりのもので、すべての機器は正常であった。
午前8時10分、宇宙船通信担当官(Capsule Communicator, CAPCOM)が搭乗員たちに逆噴射の準備をするよう指示を送った。
午前8時15分30秒、ハズバンド船長とマッコール飛行士が2機の軌道操縦システム(Orbital Maneuvering System, OMS)ロケットに点火し、逆噴射を開始した。
このとき軌道船はインド洋の上空282kmを、機尾を前方に向け裏返しになった姿勢で飛行していた。逆噴射が実行されたのは軌道255周目のことで、OMSを2分38秒間噴射し、機体を時速2万8,000km(秒速7.8km)から大気圏再突入に必要な速度に減速させた。逆噴射の間、飛行士たちにかかった加速度は0.1Gであった。噴射は全く問題なく終了し、ハズバンド船長は機体を右旋回させ、機首を前方に向け40度ほどの迎角をとり再突入用の姿勢を保持した。
午前8時44分09秒(EI+000)、太平洋上空高度約120kmで大気圏に再突入した。宇宙の大気圏の境界が明確でない以上再突入の開始時期も明確に定めることはできないが、以降はこの時刻を基準として「EI(Entry Interface, 突入境界時)+」と記述する。
コロンビアが宇宙空間から大気圏に降下する際、機体(特に主翼前縁)表面の温度は、6分間で約1,370℃に達する。この熱は、しばしば空気との摩擦によるものと説明されるが、正確には、90%以上が急激な空気の断熱圧縮による温度上昇によるものである。
午前8時48分39秒(EI+270)、左主翼前縁に設置されたセンサーが、これまでのコロンビアの再突入で観測されたことのないような張力が機体構造の桁に発生するのを計測し始めた。
このデータは、民間旅客機のフライトレコーダーに相当する「機器補助データシステム(Modular Auxiliary Data System)」だけに記録されるもので、地上の管制官や飛行士のモニター上には表示されなかった。
午前8時49分32秒(EI+323)、コロンビアは予定されていたプログラムに従い、機体をわずかに右に旋回させた。速度はマッハ24.5(30,012.5km/h、8.34km/s)であった。
機体にかかる熱や降下率を制御するため、軌道をわずかに蛇行させる操作を開始した。
午前8時50分53秒(EI+404)、降下中、熱負荷が最大になる10分間に突入した。速度マッハ24.1(29,522.5km/h、8.20km/s)、高度24万3,000フィート(74km)。
午前8時52分00秒(EI+471)、カリフォルニア州西海岸まで約480kmの地点に到達。
通常の飛行では、この時点で主翼前縁の温度は1,450℃に達する。
午前8時53分26秒(EI+557)、カリフォルニア州西海岸のサクラメント上空を通過。速度マッハ23(28,175km/h、7.83km/s)、高度23万1,600フィート(70.6km)。
通常の飛行では、この時点で主翼前縁の温度は1,540℃に達する。
午前8時53分46秒(EI+577)、地上で見物していた人々の間でも異常が観測されはじめた。速度マッハ22.8(27,930km/h、7.76km/s)、高度23万200フィート(70.2km)。
再突入の様子を撮影していたアマチュアのカメラマンたちは、西海岸の払暁の空の中で軌道船の描く軌跡が突然明るくなるのを観測した。彼らは同じような現象がこの後の23秒間に4回発生するのを目撃し、機体に何か異常が発生したことがはっきり分かったと証言している。
午前8時54分24秒(EI+613)、地上のメンテナンス・機器・生命維持装置の担当官(MMACS, Maintenance, Mechanical, and Crew Systems)が飛行司令官に対し、左側主翼の油圧センサーの目盛が「下に振り切れて」いることを報告した。管制室では、この時点においてはすべての手順はまだ正常に進行していた。
目盛が「下に振り切れる」のは、計測される対象物の残量がセンサーの検知能力の下限に達していることを示すが、そのような状態はしばしば対象物が実際に失われることよりも、センサーが故障した(内的または外的要因によって機能を停止した)ことによって発生するものである。
帰還担当チームは、センサーの表示に関する討議を継続した。
午前8時54分25秒(EI+614)、コロンビアはカリフォルニア州から ネバダ州の上空へと達した。速度はマッハ22.5(27,562.5km/h、7.66km/s)、高度は22万7,400フィート(69.3km)であった。
地上で観測していた人々は機体が閃光を発するのを目撃し、同様の現象はこの後の4分間に18回にわたって確認された。
午前8時55分00秒(EI+651)、再突入から11分近くが経過。通常の飛行では、主翼前縁の温度は1,650℃に達する。
午前8時55分32秒(EI+683)、ネバダ州を通過しユタ州上空に到達。速度マッハ21.8(26,705km/h、7.42km/s)、高度22万3,400フィート(68.1km)。
午前8時55分52秒(EI+703)、ユタ州を通過しアリゾナ州上空に到達。
午前8時56分30秒(EI+741)、アリゾナ州上空で、機体を右から左にわずかに旋回させる運動を開始した。
午前8時56分45秒(EI+756)、アリゾナ州を通過しニューメキシコ州上空に到達。速度マッハ20.9(25,602.5km/h、7.11km/s)、高度21万9,000フィート(67km)。
午前8時57分24秒(EI+795)、アルバカーキ北部を通過。
午前8時58分00秒(EI+831)、通常の飛行ではこの時点で主翼前縁の温度は1,580℃に低下する。
午前8時58分20秒(EI+851)、ニュー・メキシコ州を通過しテキサス州上空に到達。速度マッハ19.5(23,887.5km/h、6.64km/s)、高度20万9,800フィート(63.9km)。
この頃、耐熱タイルが機体からはがれ落ち始めた。テキサス州ラボック(Lubbock)の北西にあるリトル・フィールド(Littlefield)で回収されたタイルは、残骸の中で最も西の地点で発見されたものであった。
午前8時59分15秒(EI+906)、MMACSが飛行司令官に対し、左側降着装置のタイヤの圧力が2つとも失われていることを報告した。飛行司令官はCAPCOMに対し、管制室がタイヤの圧力の喪失について検討中であることと、飛行制御チームが最後の会話を聞き取れなかったことを乗組員たちに伝えるよう指示した。
午前8時59分32秒(EI+923)、機体の破壊に関する機長の発言が録音された。「了解。あー、バ…(ここで録音が途絶える)」。これが管制室が飛行士と交わした最後の会話であり、また最後の録音であった。
午前8時59分37秒(EI+928)、機体の操縦に必要な油圧が完全に失われた。このとき操縦室内には警報音が鳴り響き、飛行士たちは深刻な事態が発生していることに気づいていたはずであった。
午前9時00分18秒(EI+969)、テキサス州ダラス周辺で、機体が無数の破片に分解し複数の飛行機雲が東に向かって尾を引いて行く光景が地上から目撃され、また録画された。管制室はこの時点では信号が送られてこなくなったことに対する懸念はあったものの、重大な事故が発生したことを自覚していなかった。午前9時00分18秒まで船内の気圧は正常で、乗組員はまだ意識があり事態に対処していた可能性がある。
午前9時05分、テキサス州中北部、特にタイラー付近の住人が、「ドーン」という衝撃音とともに微弱な振動を感じ、ダラス東部の快晴の空の中に破片が軌跡を描いていくのを目撃したと報告した。
午前9時12分39秒(EI+1710)、シャトルが空中分解したという報告を受け、飛行司令官は緊急事態(機体が喪失したことを意味する)を宣言し、破片が飛散した地域の捜索救助隊に協力を依頼した。また彼は地上指揮官(Ground Controller, GC)に対し、「GC、こちら管制室。すべての出入り口を閉鎖せよ」と命じた。2分後、管制センターは緊急時対応を実施し、すべての人間は管制室に出入りすることが許されなくなった。また飛行司令官は後の調査のためにすべての飛行データを保存した。
哥伦比亚号航天飞机(英文:STS Columbia OV-102),美国国家航空航天局(NASA)所属的航天飞机之一,是美国第一架正式服役的航天飞机。
哥伦比亚号航天飞机于1981年4月12日首次发射,该机总长约56米,翼展约24米,起飞重量约2040吨,起飞总推力达2800吨,最大有效载荷29.5吨,其轨道飞行器可重复使用100次。航天飞机的核心部分轨道器长37.2米,每次飞行最多可载8名宇航员,飞行时间7~30天。航天飞机集火箭、卫星和飞机的技术特点于一身,能像火箭那样垂直发射进入空间轨道,又能像卫星那样在太空轨道飞行,还能像飞机那样再入大气层滑翔着陆,是一种新型的多功能航天飞行器。
2003年2月1日,哥伦比亚号航天飞机在执行代号STS-107的第28次任务后,重返大气层的阶段中与控制中心失去联系,不久后被发现在得克萨斯州上空爆炸解体,机上7名航天员全数罹难。
コロンビア号空中分解事故(コロンビアごうくうちゅうぶんかいじこ)は、2003年2月1日、アメリカ合衆国の宇宙船スペースシャトル「コロンビア号」が大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になった事故である。コロンビアは、その28回目の飛行であるSTS-107を終え、地球に帰還する直前であった。
空中分解
事故の経過を以下に記す。コロンビアは、予定では午前9時16分(米東部標準時)に着陸するはずであった。
2003年2月1日(土曜日)午前2時30分、飛行管制室の帰還担当チームが活動を開始した。
管制室は発射時に左翼で発生した破片の衝突について何も関心を示すことはなく、通常の飛行時と全く同じ手順を踏んで帰還のための作業を開始した。また気象予報士が、シャトル専用訓練機のパイロットの報告に基づいてケネディ宇宙センター周辺の天候を予測した。
午前8時00分、管制センターのレロイ・ケイン(LeRoy Cain)帰還担当司令官が、管制室の担当官たちに帰還のためのロケットの逆噴射を行ってもよいかどうかを問うた。
この時点で気象条件は基準どおりのもので、すべての機器は正常であった。
午前8時10分、宇宙船通信担当官(Capsule Communicator, CAPCOM)が搭乗員たちに逆噴射の準備をするよう指示を送った。
午前8時15分30秒、ハズバンド船長とマッコール飛行士が2機の軌道操縦システム(Orbital Maneuvering System, OMS)ロケットに点火し、逆噴射を開始した。
このとき軌道船はインド洋の上空282kmを、機尾を前方に向け裏返しになった姿勢で飛行していた。逆噴射が実行されたのは軌道255周目のことで、OMSを2分38秒間噴射し、機体を時速2万8,000km(秒速7.8km)から大気圏再突入に必要な速度に減速させた。逆噴射の間、飛行士たちにかかった加速度は0.1Gであった。噴射は全く問題なく終了し、ハズバンド船長は機体を右旋回させ、機首を前方に向け40度ほどの迎角をとり再突入用の姿勢を保持した。
午前8時44分09秒(EI+000)、太平洋上空高度約120kmで大気圏に再突入した。宇宙の大気圏の境界が明確でない以上再突入の開始時期も明確に定めることはできないが、以降はこの時刻を基準として「EI(Entry Interface, 突入境界時)+」と記述する。
コロンビアが宇宙空間から大気圏に降下する際、機体(特に主翼前縁)表面の温度は、6分間で約1,370℃に達する。この熱は、しばしば空気との摩擦によるものと説明されるが、正確には、90%以上が急激な空気の断熱圧縮による温度上昇によるものである。
午前8時48分39秒(EI+270)、左主翼前縁に設置されたセンサーが、これまでのコロンビアの再突入で観測されたことのないような張力が機体構造の桁に発生するのを計測し始めた。
このデータは、民間旅客機のフライトレコーダーに相当する「機器補助データシステム(Modular Auxiliary Data System)」だけに記録されるもので、地上の管制官や飛行士のモニター上には表示されなかった。
午前8時49分32秒(EI+323)、コロンビアは予定されていたプログラムに従い、機体をわずかに右に旋回させた。速度はマッハ24.5(30,012.5km/h、8.34km/s)であった。
機体にかかる熱や降下率を制御するため、軌道をわずかに蛇行させる操作を開始した。
午前8時50分53秒(EI+404)、降下中、熱負荷が最大になる10分間に突入した。速度マッハ24.1(29,522.5km/h、8.20km/s)、高度24万3,000フィート(74km)。
午前8時52分00秒(EI+471)、カリフォルニア州西海岸まで約480kmの地点に到達。
通常の飛行では、この時点で主翼前縁の温度は1,450℃に達する。
午前8時53分26秒(EI+557)、カリフォルニア州西海岸のサクラメント上空を通過。速度マッハ23(28,175km/h、7.83km/s)、高度23万1,600フィート(70.6km)。
通常の飛行では、この時点で主翼前縁の温度は1,540℃に達する。
午前8時53分46秒(EI+577)、地上で見物していた人々の間でも異常が観測されはじめた。速度マッハ22.8(27,930km/h、7.76km/s)、高度23万200フィート(70.2km)。
再突入の様子を撮影していたアマチュアのカメラマンたちは、西海岸の払暁の空の中で軌道船の描く軌跡が突然明るくなるのを観測した。彼らは同じような現象がこの後の23秒間に4回発生するのを目撃し、機体に何か異常が発生したことがはっきり分かったと証言している。
午前8時54分24秒(EI+613)、地上のメンテナンス・機器・生命維持装置の担当官(MMACS, Maintenance, Mechanical, and Crew Systems)が飛行司令官に対し、左側主翼の油圧センサーの目盛が「下に振り切れて」いることを報告した。管制室では、この時点においてはすべての手順はまだ正常に進行していた。
目盛が「下に振り切れる」のは、計測される対象物の残量がセンサーの検知能力の下限に達していることを示すが、そのような状態はしばしば対象物が実際に失われることよりも、センサーが故障した(内的または外的要因によって機能を停止した)ことによって発生するものである。
帰還担当チームは、センサーの表示に関する討議を継続した。
午前8時54分25秒(EI+614)、コロンビアはカリフォルニア州から ネバダ州の上空へと達した。速度はマッハ22.5(27,562.5km/h、7.66km/s)、高度は22万7,400フィート(69.3km)であった。
地上で観測していた人々は機体が閃光を発するのを目撃し、同様の現象はこの後の4分間に18回にわたって確認された。
午前8時55分00秒(EI+651)、再突入から11分近くが経過。通常の飛行では、主翼前縁の温度は1,650℃に達する。
午前8時55分32秒(EI+683)、ネバダ州を通過しユタ州上空に到達。速度マッハ21.8(26,705km/h、7.42km/s)、高度22万3,400フィート(68.1km)。
午前8時55分52秒(EI+703)、ユタ州を通過しアリゾナ州上空に到達。
午前8時56分30秒(EI+741)、アリゾナ州上空で、機体を右から左にわずかに旋回させる運動を開始した。
午前8時56分45秒(EI+756)、アリゾナ州を通過しニューメキシコ州上空に到達。速度マッハ20.9(25,602.5km/h、7.11km/s)、高度21万9,000フィート(67km)。
午前8時57分24秒(EI+795)、アルバカーキ北部を通過。
午前8時58分00秒(EI+831)、通常の飛行ではこの時点で主翼前縁の温度は1,580℃に低下する。
午前8時58分20秒(EI+851)、ニュー・メキシコ州を通過しテキサス州上空に到達。速度マッハ19.5(23,887.5km/h、6.64km/s)、高度20万9,800フィート(63.9km)。
この頃、耐熱タイルが機体からはがれ落ち始めた。テキサス州ラボック(Lubbock)の北西にあるリトル・フィールド(Littlefield)で回収されたタイルは、残骸の中で最も西の地点で発見されたものであった。
午前8時59分15秒(EI+906)、MMACSが飛行司令官に対し、左側降着装置のタイヤの圧力が2つとも失われていることを報告した。飛行司令官はCAPCOMに対し、管制室がタイヤの圧力の喪失について検討中であることと、飛行制御チームが最後の会話を聞き取れなかったことを乗組員たちに伝えるよう指示した。
午前8時59分32秒(EI+923)、機体の破壊に関する機長の発言が録音された。「了解。あー、バ…(ここで録音が途絶える)」。これが管制室が飛行士と交わした最後の会話であり、また最後の録音であった。
午前8時59分37秒(EI+928)、機体の操縦に必要な油圧が完全に失われた。このとき操縦室内には警報音が鳴り響き、飛行士たちは深刻な事態が発生していることに気づいていたはずであった。
午前9時00分18秒(EI+969)、テキサス州ダラス周辺で、機体が無数の破片に分解し複数の飛行機雲が東に向かって尾を引いて行く光景が地上から目撃され、また録画された。管制室はこの時点では信号が送られてこなくなったことに対する懸念はあったものの、重大な事故が発生したことを自覚していなかった。午前9時00分18秒まで船内の気圧は正常で、乗組員はまだ意識があり事態に対処していた可能性がある。
午前9時05分、テキサス州中北部、特にタイラー付近の住人が、「ドーン」という衝撃音とともに微弱な振動を感じ、ダラス東部の快晴の空の中に破片が軌跡を描いていくのを目撃したと報告した。
午前9時12分39秒(EI+1710)、シャトルが空中分解したという報告を受け、飛行司令官は緊急事態(機体が喪失したことを意味する)を宣言し、破片が飛散した地域の捜索救助隊に協力を依頼した。また彼は地上指揮官(Ground Controller, GC)に対し、「GC、こちら管制室。すべての出入り口を閉鎖せよ」と命じた。2分後、管制センターは緊急時対応を実施し、すべての人間は管制室に出入りすることが許されなくなった。また飛行司令官は後の調査のためにすべての飛行データを保存した。
哥伦比亚号航天飞机(英文:STS Columbia OV-102),美国国家航空航天局(NASA)所属的航天飞机之一,是美国第一架正式服役的航天飞机。
哥伦比亚号航天飞机于1981年4月12日首次发射,该机总长约56米,翼展约24米,起飞重量约2040吨,起飞总推力达2800吨,最大有效载荷29.5吨,其轨道飞行器可重复使用100次。航天飞机的核心部分轨道器长37.2米,每次飞行最多可载8名宇航员,飞行时间7~30天。航天飞机集火箭、卫星和飞机的技术特点于一身,能像火箭那样垂直发射进入空间轨道,又能像卫星那样在太空轨道飞行,还能像飞机那样再入大气层滑翔着陆,是一种新型的多功能航天飞行器。
2003年2月1日,哥伦比亚号航天飞机在执行代号STS-107的第28次任务后,重返大气层的阶段中与控制中心失去联系,不久后被发现在得克萨斯州上空爆炸解体,机上7名航天员全数罹难。
2024年度前期連続テレビ小説 第110作#虎に翼#
【新たな出演者発表 第5弾】寅子の運命を導く人々
1、星 航一
#岡田将生#
連続テレビ小説出演歴「なつぞら」
父も法曹界の重鎮で自らも裁判官。温和な性格だが笑顔の奥の本心は誰にも分からない。その信念に寅子と通じ合う部分がある。
2、猪爪直明
#三山凌輝#
連続テレビ小説 初出演
寅子の弟。純粋な性格で家族想おもい。責任感が強く、家計を支えるため自分を犠牲にしようとするような一面も。
3、汐見 圭
#平埜生成#
連続テレビ小説出演歴「カムカムエヴリバディ」
上司である多岐川の右腕となり、家庭裁判所設立のために奔走する。優しい性格のため、気弱に見えるが、実は破天荒な多岐川をしっかりフォローしている。
4、稲
#田中真弓#
連続テレビ小説出演歴「なつぞら」
花江の実家・米谷家で働く女中。花江と寅子を母のように見守る。
故郷の新潟に帰ったあとも、寅子との縁が続いていく。
5、久藤頼安
#沢村一樹#
連続テレビ小説出演歴「ひよっこ」
人当たりがよく常にフレンドリー。海外の事情にも詳しく、振る舞いのすべてがスマート。裁判官を目指す寅子の実力を買って、採用に力を貸してくれる。
6、多岐川幸四郎
#滝藤賢一#
連続テレビ小説出演歴「梅ちゃん先生」「あまちゃん」「半分、青い。」
寅子の上司となり、共に家庭裁判所の設立準備にまい進する。かなりの変わり者で、寅子をあきれさせるが、家裁への情熱は誰にも負けない。
【新たな出演者発表 第5弾】寅子の運命を導く人々
1、星 航一
#岡田将生#
連続テレビ小説出演歴「なつぞら」
父も法曹界の重鎮で自らも裁判官。温和な性格だが笑顔の奥の本心は誰にも分からない。その信念に寅子と通じ合う部分がある。
2、猪爪直明
#三山凌輝#
連続テレビ小説 初出演
寅子の弟。純粋な性格で家族想おもい。責任感が強く、家計を支えるため自分を犠牲にしようとするような一面も。
3、汐見 圭
#平埜生成#
連続テレビ小説出演歴「カムカムエヴリバディ」
上司である多岐川の右腕となり、家庭裁判所設立のために奔走する。優しい性格のため、気弱に見えるが、実は破天荒な多岐川をしっかりフォローしている。
4、稲
#田中真弓#
連続テレビ小説出演歴「なつぞら」
花江の実家・米谷家で働く女中。花江と寅子を母のように見守る。
故郷の新潟に帰ったあとも、寅子との縁が続いていく。
5、久藤頼安
#沢村一樹#
連続テレビ小説出演歴「ひよっこ」
人当たりがよく常にフレンドリー。海外の事情にも詳しく、振る舞いのすべてがスマート。裁判官を目指す寅子の実力を買って、採用に力を貸してくれる。
6、多岐川幸四郎
#滝藤賢一#
連続テレビ小説出演歴「梅ちゃん先生」「あまちゃん」「半分、青い。」
寅子の上司となり、共に家庭裁判所の設立準備にまい進する。かなりの変わり者で、寅子をあきれさせるが、家裁への情熱は誰にも負けない。
チンギス・カン(成吉思汗)
生涯
チンギス・カンの先祖
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。
生い立ち
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。
父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。
諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
生涯
チンギス・カンの先祖
のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀にウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国という国も建てて繁栄したが、契丹族の遼がモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。
やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟のアンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。アンバガイ・カンが近隣のタタル部族によって連れ去られ、金国によって処刑されてしまうと、三代目カンとなったキヤト氏のクトラ・カンはアンバガイの子カダアン・タイシとともにアンバガイ・カンの仇を討った。
生い立ち
チンギス・カンはイェスゲイ・バアトルの長男として生まれ、テムジン(Temüǰin)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たため、息子の名前をテムジンとした。『元朝秘史』などによると、この時、コンギラト氏出身でイェスゲイの妻ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年・1162年・1167年と諸説が述べられており、はっきりとはわからない。
父のイェスゲイは、カブル・カンの次男のバルタン・バアトルの三男で、父と同じバアトル(勇者)の称号を持つ。イェスゲイは叔父のクトラ・カンの死後のモンゴル部族をまとめ上げ、カンにつぐ地位に就く(カンは空位のまま)。一方でモンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイト部のカンであるトオリル(後のオン・カン)とも同盟関係を結び、アンダ(義兄弟)の関係にもなった。あるとき、息子テムジンの嫁探しのため、コンギラト部族のボスクル氏族長のデイ・セチェンの家へ行き、その娘のボルテと婚約をさせる。デイ・セチェンは婚約の条件としてテムジンを一定期間デイ・セチェン一家においておくことをイェスゲイに頼んだため、イェスゲイはテムジンをデイ・セチェンのもとに預けて自家に戻ったが、途中で立ち寄ったタタル部族に毒を盛られ、程なくして死去してしまう。それにともない、モンゴル部族内ではタイチウト氏族が主導権を握り、イェスゲイの勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻されたが、残されたイェスゲイ一家は同族のタイチウト氏の首長であるタルグタイ・キリルトク(アンバガイ・カンの孫)らによってモンゴル部族を追い出されてしまう。そんな中でもイェスゲイの妻のホエルンは配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成長してくると、タルグタイ・キリルトクらがやってきて、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンは敵の目を盗んで脱走をはかり、運よくタイチウトの隷臣として仕えていたスルドス氏のソルカン・シラの助けもあって家族のもとへ戻ることができた。テムジンは成人すると、以前婚約していたボスクル氏族のボルテと結婚したが、まもなくしてメルキト部族連合の部族長トクトア・ベキ率いる兵団に幕営を襲われ、ボルテを奪われてしまう。そこでテムジンはボルテを奪還するため、亡き父の同盟者であったケレイト部のトオリル・カンと、テムジンの盟友(アンダ)であり、モンゴル部ジャダラン氏族長であるジャムカと同盟し、共にメルキト部を攻め、妻のボルテを救出することに成功する。
諸部族の統一
メルキトによる襲撃の後、トオリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にキヤト氏族の中で一目置かれる有力者となっていった。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに投ずるようになった。テムジンはこうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大するが、それとともにジャムカとの関係は冷え込んでいった。
あるとき、ジャムカの弟がジャライル部族の領地の馬をひそかに略奪しようとして殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いした。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、キヤト氏を糾合したテムジンとダラン・バルジュトの平原で会戦した。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うが、キヤト氏と同盟してテムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられる。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増える。
さらに、この戦いと同じ頃とされる1195年、ケレイト部で内紛が起こってトオリルがカン位を追われ、わずかな供回りとともにウイグルや西夏、西遼などを放浪したが、テムジンが強勢になっていると聞き及びこれを頼って合流してきた。テムジンとトオリルの両者は、トオリルがテムジンの父のイェスゲイと盟友の関係にあったことにちなんでここで義父子の関係を結んで同盟し、テムジンの援軍を得てトオリルはケレイトのカン位に復した。さらに両者はこの同盟から協力して中国の金に背いた高原東部の有力部族タタルを討った(ウルジャ河の戦い)。この功績によりテムジンには金から「百人長」(ジャウト・クリ Ja'ud Quri)の称号が与えられ、はっきりとした年代のわかる歴史記録に初めて登場するようになる。また、同時にトオリルには「王」(オン)の称号が与えられ、オン・カンと称するようになったが、このことから当時のオン・カンとテムジンの間に大きな身分の格差があり、テムジンはオン・カンに対しては従属に近い形で同盟していたことが分かる。
テムジンは、同年ケレイトとともにキヤト氏集団の中の有力者であるジュルキン氏を討ち、キヤト氏を武力で統一した。翌1197年には高原北方のメルキト部に遠征し、1199年にはケレイト部と共同で高原西部のアルタイ山脈方面にいたナイマンを討った。1200年、今度はテムジンが東部にケレイトの援軍を呼び出してモンゴル部内の宿敵タイチウト氏とジャダラン氏のジャムカを破り、続いて大興安嶺方面のタタルを打ち破った。
1201年、東方の諸部族は、反ケレイト・キヤト同盟を結び、テムジンの宿敵ジャムカを盟主(グル・カン)に推戴した。しかしテムジンは、同盟に加わったコンギラト部に属する妻ボルテの実家から同盟結成の密報を受け取って逆に攻勢をかけ、同盟軍を破った。1202年には西方のナイマン、北方のメルキトが北西方のオイラトや東方同盟の残党と結んで大同盟を結びケレイトに攻めかかったが、テムジンとオン・カンは苦戦の末にこれを破り、高原中央部の覇権を確立した。
しかし同年、オン・カンの長男のイルカ・セングンとテムジンが仲違いし、翌1203年にオン・カンはセングンと亡命してきたジャムカの讒言に乗って突如テムジンの牧地を襲った。テムジンはオノン川から北に逃れ、バルジュナ湖で体勢を立て直した。同年秋、オノン川を遡って高原に舞い戻ったテムジンは、兵力を結集すると計略を用いてケレイトの本営の位置を探り、オン・カンの本隊を急襲して大勝した。この敗戦により高原最強のケレイト部は壊滅し、高原の中央部はテムジンの手に落ちた。
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