グナエウス・ポンペイウス
ローマ内戦
紀元前49年1月10日、カエサルがルビコン川を渡り、ローマ内戦は始まった。ルビコンを渡った後にイタリア半島を南下するカエサル派に対して、ポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスはブルンディシウムまで撤退した後、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編してカエサルと争う方針を決め、多くの元老院議員もポンペイウスへ従って、ギリシアへと向かった。

ポンペイウスはデュッラキウムの戦いでカエサル軍に勝利したが、カエサル軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった。紀元前48年8月、ポンペイウス率いる元老院派はファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、兵力で上回っていたものの、ポンペイウス自身人生初となる敗北を喫した。

ポンペイウスはエーゲ海沿いのミュティレナエ島(Mytilene)、そしてキプロスへと向かった。当初はシリアで再起を図る予定であったが、既に反ポンペイウスを鮮明にしたことが伝わっており、エジプトへ逃れることを決意した。

最期
エジプトは当初ポンペイウスへ協力的な姿勢を示していたものの、内部での話し合いの中でポンペイウスを殺害することが決定された。紀元前48年9月29日、ポンペイウスの58回目の誕生日でもあったこの日、大型のガレー船でエジプトのペルシウム港へ到着したポンペイウスは、かつてからの知り合いであったアキッラス及びルキウス・セプティミウスによる出迎えを受けた。ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスと共にポンペイウスが1艘の小舟に乗り込んだが、その間際に妻や子らに対してソポクレスの以下の詩を詠んだと伝わっている。
暴君の門を一度でも開けたならば、かつては自由であったとしても、奴隷にならざるを得ない。
— プルタルコス「英雄伝」ポンペイウス78
ガレー船から離れたと同時に小舟の中に潜んでいたエジプト軍の刺客によってポンペイウスは殺害され、レントゥルスも捕らえられて、後に殺害された。ガレー船に乗り込んでいたメテッルス・スキピオやコルネリアらはエジプトを離れた。

同年10月、カエサルはエジプトへ到着したが、その地でポンペイウスの死を知ることとなった。プトレマイオス13世は従者にポンペイウスの首をカエサルに届けさせたが、カエサルは怒り狂ってその従者を殺してしまう。そしてポンペイウスの首を抱いてさめざめと泣いたという。その後、コルネリアはポンペイウスの遺灰と指輪をカエサルより受け取ってイタリアへ埋葬し、余生を送ったとされる。ポンペイウスの2人の息子グナエウス・ポンペイウス・ミノルとセクストゥス・ポンペイウスはティトゥス・ラビエヌスやメテッルス・スキピオら生き残った元老院派と合流、カエサルへの抵抗を続けることになる。

なお、紀元前44年3月15日に「ポンペイウス劇場」内でカエサルは共和主義者に襲撃され、劇場内に設置されたポンペイウス像の下にカエサルは崩れ落ちて死を迎えたが、自らの復讐にポンペイウスが立ち会ったかのようであったという。

グナエウス・ポンペイウス
生涯
青年期と父の死
父はグナエウス・ポンペイウス・ストラボで、プルタルコスによれば、人々に憎まれていた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。父ストラボは紀元前92年までにプラエトルを務め、紀元前89年の執政官として同盟市戦争の北部戦線を担当し、アスクルムの戦い (紀元前89年)に勝利して凱旋式を挙行している。このときポンペイウスも父の配下として働いた。

父ストラボは中部イタリアのピケヌム(現:マルケ州)と友好関係を築いており、ポンペイウスも近郊に土地を持っていた。

紀元前88年、ポントスのミトリダテス6世に対するインペリウム(指揮権)を、執政官ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウスが奪い合い、ローマ市を脱出したスッラがローマへ進軍、占領する事件が起きた。マリウスを追放したスッラは第一次ミトリダテス戦争へと出征したが、翌紀元前87年、執政官のルキウス・コルネリウス・キンナとグナエウス・オクタウィウスの両名が争い、ローマ市を脱出したキンナはマリウスを呼び戻してローマ市を占領した。

父ストラボはオクタウィウス側につき、コッリナ門でキンナ軍と対峙した。プルタルコスによれば、この最中にポンペイウス暗殺計画があり、騒動となった軍を父の代わりに立て直したという。キンナ軍を一度は撃退したが、父ストラボは雷に打たれて死んだとも伝わる。
紀元前86年、父がアスクルムの戦利品を横領したとして訴追されたが、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)、グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスに弁護され無罪となり、裁判を主宰したアンティスティウスの娘と結婚した。キンナはスッラに対抗するため味方を必要としており、ポンペイウスの持つピケヌム人脈を手に入れるため弁護させたとする説もある。

キンナは紀元前84年、アンコーナで起こった暴動によって死んだが、ポンペイウスもこのときアンコーナにいたと考えられており、スッラ側かと疑われたためピケヌムに引き払った。

スッラの帰還と栄誉
紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝利したスッラは、マリウスやキンナ亡き後のローマを制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。スッラは独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった。
スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州やアフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。

これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、難色を示したスッラに対して強気な姿勢を示して認めさせた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。

ヒスパニア遠征
紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。ポンペイウスは執政官カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、レピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウス戦争(英語版)にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、ポンペイウスはメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。

元老院はポンペイウスが軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若くコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は属州を担当する権限が与えられる高位政務官)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無かったことから、ポンペイウスへ指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ポンペイウスが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ポンペイウスへ指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することを元老院は決議した。

ポンペイウスはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニア到着は翌年の紀元前76年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ポンペイウスとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開してローマ軍を苦しめたが、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、4年後の紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。
ポンペイウスは私財を投げ打ってヒスパニアで戦っており、紀元前74年には元老院に対して戦費を要求した。もし要求が通らなければ、スペインを見捨てて軍団と共にイタリアへ戻ると宣言したため、ミトリダテス戦争のインペリウムを狙っていた当時の執政官ルキウス・リキニウス・ルクッルス(メテッルス・ピウスの従兄弟)は、なんとしてでもこの要求を認めさせ資金を送ったという。

執政官就任
セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ポンペイウスの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはポンペイウスの有力な勢力圏の一つになった。

ポンペイウスがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年、第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、スッラの部将だったマルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ポンペイウスはこの時に軍を率いてガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。ポンペイウスはクラッススに先んじて元老院へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、ローマ市民もこれを認めた。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、ポンペイウスの高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。
ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは紀元前71年にコンスル(43歳以上にのみ就任資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを元老院へ要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。元老院議員の資格すら持たないポンペイウスのこの要求に元老院は難色を示したものの、ポンペイウスに対抗する力を持つクラッススがポンペイウスへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、元老院の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとポンペイウスの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。
執政官就任時期に、プラエトルであったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した、裁判陪審員を元老院議員、エクィテス、恐らくトリブスの有力者であるトリブニ・アエラリイの3階級から同数選出する「アウレリウス法」が可決され、スッラのコルネリウス法で縮小されていた護民官の拒否権などの権限を戻すことも決定した。ポンペイウスはコンスルを退任した翌紀元前69年及び翌々年の紀元前68年はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながらローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。
海賊征討戦
紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニウス法」と称される法案をプレブス民会に提出した。すなわち、「ローマ軍20個軍団(歩兵12万、5000の騎兵)、軍船500隻、14名の元老院議員資格者からなる幕僚を投入すると共に総司令官としてこれらを統括する権限をポンペイウスに3年間期限で付与する」というものであった。元老院議員の多くは反対に回ったものの、ガイウス・ユリウス・カエサルら一部の元老院議員がこれに賛成し、票を持つローマ市民は海賊の被害が甚大であったこともあって、ガビニウス法は可決された。

ポンペイウスの海賊討伐の戦略は、まず地中海全域を13の作戦海域に区分した上で、それぞれに軍団長及びローマ軍団を配備し、自らは60隻の軍船を率いる遊撃部隊の指揮を執って、支援を必要とする作戦海域へ駆けつけるというものであり、各軍団は海戦で海賊を撃退した後にこれを追って海賊の根拠地を叩き潰す形をとった。まずはヒスパニア、ヌミディアやサルディニアなどの地中海西部海域の海賊を征討し、わずか40日程度でこれを達成した。西部海域で征討した海賊を追って地中海東部海域へ侵攻して、エジプト・エーゲ海等を制圧して、海賊の最大の根拠地であったキリキア沿岸を陥落させたが、わずか49日間であった。結果、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐して、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達したという。
それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなった。キケロはポンペイウスの海賊征討戦について「冬に準備を行い、春に行動を起して、夏までに全てを終わらせた」とその周到さを称えたように、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示した。

孫臏
前歴
阿(現在の山東省聊城市陽穀県)・鄄(現在の山東省菏沢市鄄城県)の間の辺りにて生まれる。本名およびその父を初めとする家族については不明。

若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は魏に仕官して恵王の元で将軍になることができた。しかし龐涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を騙して罪に陥れ、臏刑(両脚を切断する刑)と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。その後は軟禁状態にあったが、斉の公族である将軍田忌(中国語版)が使者として魏へとやってきた際に密かに連絡を取り、その出立に合わせ車の中に隠れて魏を脱出することに成功した。

斉にて
斉では田忌の客となる。ある時、斉王(威王)と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。
桂陵の戦い
魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗(桂陵の戦い)した。こうして孫臏は趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。

馬陵の戦い
13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏を主将、田忌を副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏は田忌を推挙し、田忌が主将、孫臏は副将(実質的には軍師)となって韓へ向かった。田忌は前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ちを二度繰り返す者ではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた。孫臏の予測通り、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略軍も引き返させた。防衛軍と攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の竈の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しようと図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。
果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着。障害物に止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声を世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎、若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることになった。

この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がない。一説には兵法書を記していたとも言われている。

また、太史公の記述によると世間で軍学について引用する場合、『孫子』十三編の書物を述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子が龐涓を計略に落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。

孫臏兵法
孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている。

孙膑(生卒年不详),字伯灵,华夏族,孙武后裔,齐国阿(今山东阳谷东北)、鄄(今鄄城北)一带人。中国战国时期军事家,唐德宗时位列武成王庙64将之一,宋徽宗时位列宋武庙72将之一。
孙膑早年曾与庞涓同学兵法。庞涓出任魏将后,妒孙膑之才而将其骗至魏,施以膑刑。后得齐国使者帮助潜逃入齐,为田忌门客,助田忌赛马获胜,被荐于齐威王。周显王十六年(公元前353年),齐威王欲任孙膑为将,孙膑以“刑余之人”而辞谢。周显王二十七年,因魏将庞涓率军攻韩,韩向齐求救,孙膑又以军师身份偕将军田朌、田忌、田婴等率军救韩。
孙膑既在战争实践中创造了影响深远的“围魏救赵”,又给后世留下了反映时代特点和战争规律的杰出军事理论。《汉书·艺文志》著录《孙膑兵法》89篇,图4卷,已佚。从中可见其兵法思想主张:“内得其民之心,外知敌之情”,主张“战胜而强立”“事备而后动”;在战略战术上贵“势”,即创造条件以求主动和优势;突破前人速战速决的理论,提出了持久作战的思想;适应通都大邑的兴起,强调攻城;认为只有覆军杀将方为全胜,开创歼灭战的理论;对野战中车垒运用、阵法研究、将领条件等均有阐述。

十阵
凡陈(阵)有十:有枋(方)陈(阵),有员(圆)陈(阵),有疏陈(阵),有数陈(阵),有锥形之陈(阵),有雁行之陈(阵),有钩形之陈(阵),有玄襄之陈(阵),有火陈(阵),有水陈(阵),此皆有所利。枋(方)陈(阵)者,所剸(专)也。员(圆)陈(阵)者,所以槫(团)也。疏陈(阵)者,所以 也。数陈(阵)者,为不可掇。锥行之陈(阵)者,所以夬(决)绝也。雁行之陈(阵)者,所以椄(接)射也。钩行之陈(阵)者,所以变质易虑也。玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)者,所以疑众难故也。火陈(阵)者,所以拔也。水陈(阵)者,所以伥固也。枋(方)陈(阵)之法:必[博以酉易十](薄)中厚方,居陈(阵)在後。中之薄也,将以[上口下犬]也。重〔厚〕其〔方〕,将以剸(专)也。居陈(阵)在後,所以……〔圆阵之法〕:……〔疏阵之法〕:其甲寡而人之少也,是故坚之。武者在旌旗,是人者在兵,故必疏钜间,多其旌旗羽旄,砥刃以为旁。疏而不可戚(蹙),数而不可军者,在於慎。车毋驰,徒人毋驱(趋)。凡疏陈(阵)之法,在为数丑,或进或退,或击或[豕页](毁),或与之[人正],或要(邀)其衰。然则疏可以取阅(锐)矣。数陈(阵)之法:毋疏钜间,戚(蹙)而行首,积刃而信(伸)之,前後相葆(保),变□□□,甲恐则坐,以声坐□,往者弗送,来者弗止,或击其迂,或辱其阅(锐),笲之而无间,[车反]山而退。然则数不可掇也。
锥行之陈(阵):卑(譬)之若剑,末不阅(锐)则不入,刃不溥(薄)则不剸,本不厚则不可以列陈(阵)。是故,末必阅(锐),刃必溥(薄),本必[鸿去水](鸿、厚)。然则锥行之陈(阵)可以夬(决)绝矣。
〔雁行之阵〕……中,此谓雁陈(阵)之任。前列若[有雍](牖),後列若枋(方),三……阙罗而自存,之谓雁陈(阵)之任。
钩行之陈(阵):前列必枋(方),左右之和必钩。参(三)声气(既)全,五菜(彩)必具,辩(辨)吾号声,知五旗。无前无後,无〔左无右〕……
玄[上羽下襄](襄)之陈(阵):必多旌旗羽旄,鼓[上羽下非][上羽下非]庄,甲乱则坐,车乱则行,已治者□,榼榼啐啐,若从天下,若从地出,徒来而不屈,终日不拙。此之谓玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)。
火战之法:沟垒已成,重为沟渐(堑),五步积薪,必均疏数(密),从役有数(多余之数),令之为属枇,必轻必利。风辟……火气(既)自覆,与之战弗克(克),坐行而北。火战之法:下而衍以[艹外],三军之士无所出泄。若此,则可火也。陵猋蒋[艹外],薪荛气(既)积,营窟未谨。如此者,可火也。以火乱之,以矢雨之,鼓噪敦兵,以势助之。火战之法。
水战之法:必众其徒而寡其车,令之为钩楷苁柤[上咸下贝]辑□绦皆具。进则必遂,退则不戚(蹙),方戚(蹙)从流,以敌之人为召(招)。水战之法,便舟以为旗,驰舟以为使。敌往则遂,敌来则戚(蹙),推攘因慎而饬之,移而革之,陈(阵)而〔待〕之,规而离之。故兵有误车有御徒,必察其众少,击舟[豕页]〔毁〕津,示民徒来。水战之法也。
七百八十七。


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