私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞せきばくでした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言えんげんも聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。
妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧あいまいな返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺ながめているようでしたが、やがて微かすかな溜息ためいきを洩もらしました。
私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻さいに対して非常に気の毒な気がします。
私は今日こんにちに至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を惹ひかされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲ぎせいとして、妻の天寿てんじゅを奪うなどという手荒てあらな所作しょさは、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻まわり合せがあります、二人を一束ひとたばにして火に燻くべるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
夏目漱石『こころ』
李玉节选
妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧あいまいな返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺ながめているようでしたが、やがて微かすかな溜息ためいきを洩もらしました。
私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻さいに対して非常に気の毒な気がします。
私は今日こんにちに至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を惹ひかされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲ぎせいとして、妻の天寿てんじゅを奪うなどという手荒てあらな所作しょさは、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻まわり合せがあります、二人を一束ひとたばにして火に燻くべるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
夏目漱石『こころ』
李玉节选
長平の戦いとは、戦国末期に戦国七雄の秦と趙が戦ったいくさの名前です。趙が老練な廉頗将軍によって長期戦にもちこんで3年、秦のスパイが放った流言にのってしまった趙軍が、若く未熟な将軍に代えたところを、秦の名将白起が撃ち破りました。この戦いでは、秦軍が投降した趙兵40万を生き埋めにしたことでも有名です。
長平の戦いとは
長平(ちょうへい)の戦いとは、中国の戦国時代(BC.475~BC.221)末期のBC.260年、秦の始皇帝による中国統一まであと約40年という時期に長平(山西省高平のあたり)で起きた秦と趙の戦いのことです。秦の白起(はくき)将軍によって趙軍の捕虜40万が生き埋めにされたことで有名です。この戦いによって戦国の世の帰趨…秦による中国統一は決まったといわれています。
長平の戦いに至るまで
秦は昭襄王…始皇帝の曽祖父…の時に韓を攻め、野王(やおう…河南省沁陽市)を奪いました。
このため韓の上党郡は、南に位置する野王のさらに南にある韓の都・新鄭(河南省新鄭市)と切り離され孤立を余儀なくされました。韓王は上党郡を秦に譲渡して和議に持ち込もうとしますが、上党郡の民衆は秦の支配下に入ることを怖れ、韓の北に位置する趙に帰属しようとしました。
趙王はこの件について「戦国四君」の一人・平原君らに意見を求めますが、平原君の弟・平陽君は「秦と戦うことになるから上党の土地は受けるべきではありません」と言い、それに対して平原君は「何もしないのに領土を得られるのですから献上を受け入れるべきです」と言います。鄭王は結局平原君の意見に従って上党郡を趙の版図に入れました。
趙のこの対応に対し、秦は王齕(おうこつ)を将軍としてBC.262趙に出兵させ上党郡を占領しました。上党郡の民衆は上党郡よりさらに北にある長平に逃げました。王齕将軍はこれを追い、趙の領土に侵入しました。
趙では有能な3将軍の一人・趙奢はすでに亡く、長らく趙を支えてきた藺相如(りん・しょうじょ)は病床に、藺相如の刎頸の友・廉頗(れんぱ)のみすでに老いたりとはいえ健在でした。そこで趙王は廉頗将軍に長平城を守らせました。
長平の戦い
廉頗の持久戦
こうして長平城をめぐる戦いが始まるのですが、廉頗将軍は戦いを持久戦に持ち込み、秦軍に挑発されても外に打って出ることはなく秦軍の疲労を待ちました。
やがて3年の月日が経ち、この膠着状態に秦の宰相・范雎(はんしょ)は趙にスパイを送り、「秦は趙奢(ちょう・しゃ)将軍の子・趙括(ちょう・かつ)を恐れている」という噂を流して、廉頗の追放をもくろみました。
趙王は戦線の膠着状態に業を煮やしており、この噂に飛びついて廉頗を罷免し、趙括を将軍にしました。
趙括の抜擢
趙の名将の一人・趙奢の息子である趙括は軍事学の秀才でした。
趙括が趙の将軍に抜擢された時趙奢はすでにこの世を去っていましたが、戦場に出たことのない軍事学の秀才にいくさはできないと考えていた父は、息子を認めていませんでした。これを将軍にしたら趙は滅びる…とまで思っていたのです。
そこで遺言として、趙括を将軍にという話が来ても断るようにと妻に言い残しました。
病に伏していた藺相如もこの抜擢に反対しましたが、趙王は耳を貸さず趙括を将軍に据えました。
この情報に秦の范雎は喜び、白起将軍を長平の地に差し向けました。
趙の命運を託された趙括は、すぐさま攻撃に出て白起将軍率いる秦軍を深追いし、秦のワナにはまって別動隊に退路を断たれてしまいます。
秦軍はその後46日間にわたって趙括軍を完全包囲して兵糧攻めにし、趙軍内では互いに人肉を食い合う地獄に陥ったといいます。
こうした苦境から脱しようと趙括は精鋭を率いてイチかバチかで打って出ますが、敵の放った弓矢にあっけなく斃れてしまいます。机上の秀才の最期でした。
白起将軍の穴埋め事件とその後
大将を失った40万の趙兵は降伏しますが、秦軍に40万もの敵兵を養う財力もなく、といってこのまま彼らを放てば今後どういう報復に出てくるかもわからず、白起は趙の少年兵240人を故郷に帰したほかは残りの趙兵40万を全員穴埋めに処しました。
その後白起は勢いを保ったまま趙の都・邯鄲(かんたん)に迫ります。この鮮やかな戦いぶりに、秦の宰相・范雎は自分の地位を脅かされることを怖れて昭襄王に撤兵を勧め、王もこれを入れて趙と講和を結びました。
白起はこのことで范雎に不信感を持ち、これが一端となって後に自害を迫られます。
自分がなぜ死ななければならないのか、白起はおのれに問い、やがて「長平の戦いで40万の趙兵を穴埋めにした。確かに自分には罪がある」と納得し死についたと伝わっています。
この偉大な将軍の死を秦の民衆は悲しみ、廟を立てて弔いました。
古戦場発掘
長平の戦いの跡からは近年多くの人骨が発掘され、紀元前260年の歴史が事実であったことを現代に伝えています。
長平の戦いとは
長平(ちょうへい)の戦いとは、中国の戦国時代(BC.475~BC.221)末期のBC.260年、秦の始皇帝による中国統一まであと約40年という時期に長平(山西省高平のあたり)で起きた秦と趙の戦いのことです。秦の白起(はくき)将軍によって趙軍の捕虜40万が生き埋めにされたことで有名です。この戦いによって戦国の世の帰趨…秦による中国統一は決まったといわれています。
長平の戦いに至るまで
秦は昭襄王…始皇帝の曽祖父…の時に韓を攻め、野王(やおう…河南省沁陽市)を奪いました。
このため韓の上党郡は、南に位置する野王のさらに南にある韓の都・新鄭(河南省新鄭市)と切り離され孤立を余儀なくされました。韓王は上党郡を秦に譲渡して和議に持ち込もうとしますが、上党郡の民衆は秦の支配下に入ることを怖れ、韓の北に位置する趙に帰属しようとしました。
趙王はこの件について「戦国四君」の一人・平原君らに意見を求めますが、平原君の弟・平陽君は「秦と戦うことになるから上党の土地は受けるべきではありません」と言い、それに対して平原君は「何もしないのに領土を得られるのですから献上を受け入れるべきです」と言います。鄭王は結局平原君の意見に従って上党郡を趙の版図に入れました。
趙のこの対応に対し、秦は王齕(おうこつ)を将軍としてBC.262趙に出兵させ上党郡を占領しました。上党郡の民衆は上党郡よりさらに北にある長平に逃げました。王齕将軍はこれを追い、趙の領土に侵入しました。
趙では有能な3将軍の一人・趙奢はすでに亡く、長らく趙を支えてきた藺相如(りん・しょうじょ)は病床に、藺相如の刎頸の友・廉頗(れんぱ)のみすでに老いたりとはいえ健在でした。そこで趙王は廉頗将軍に長平城を守らせました。
長平の戦い
廉頗の持久戦
こうして長平城をめぐる戦いが始まるのですが、廉頗将軍は戦いを持久戦に持ち込み、秦軍に挑発されても外に打って出ることはなく秦軍の疲労を待ちました。
やがて3年の月日が経ち、この膠着状態に秦の宰相・范雎(はんしょ)は趙にスパイを送り、「秦は趙奢(ちょう・しゃ)将軍の子・趙括(ちょう・かつ)を恐れている」という噂を流して、廉頗の追放をもくろみました。
趙王は戦線の膠着状態に業を煮やしており、この噂に飛びついて廉頗を罷免し、趙括を将軍にしました。
趙括の抜擢
趙の名将の一人・趙奢の息子である趙括は軍事学の秀才でした。
趙括が趙の将軍に抜擢された時趙奢はすでにこの世を去っていましたが、戦場に出たことのない軍事学の秀才にいくさはできないと考えていた父は、息子を認めていませんでした。これを将軍にしたら趙は滅びる…とまで思っていたのです。
そこで遺言として、趙括を将軍にという話が来ても断るようにと妻に言い残しました。
病に伏していた藺相如もこの抜擢に反対しましたが、趙王は耳を貸さず趙括を将軍に据えました。
この情報に秦の范雎は喜び、白起将軍を長平の地に差し向けました。
趙の命運を託された趙括は、すぐさま攻撃に出て白起将軍率いる秦軍を深追いし、秦のワナにはまって別動隊に退路を断たれてしまいます。
秦軍はその後46日間にわたって趙括軍を完全包囲して兵糧攻めにし、趙軍内では互いに人肉を食い合う地獄に陥ったといいます。
こうした苦境から脱しようと趙括は精鋭を率いてイチかバチかで打って出ますが、敵の放った弓矢にあっけなく斃れてしまいます。机上の秀才の最期でした。
白起将軍の穴埋め事件とその後
大将を失った40万の趙兵は降伏しますが、秦軍に40万もの敵兵を養う財力もなく、といってこのまま彼らを放てば今後どういう報復に出てくるかもわからず、白起は趙の少年兵240人を故郷に帰したほかは残りの趙兵40万を全員穴埋めに処しました。
その後白起は勢いを保ったまま趙の都・邯鄲(かんたん)に迫ります。この鮮やかな戦いぶりに、秦の宰相・范雎は自分の地位を脅かされることを怖れて昭襄王に撤兵を勧め、王もこれを入れて趙と講和を結びました。
白起はこのことで范雎に不信感を持ち、これが一端となって後に自害を迫られます。
自分がなぜ死ななければならないのか、白起はおのれに問い、やがて「長平の戦いで40万の趙兵を穴埋めにした。確かに自分には罪がある」と納得し死についたと伝わっています。
この偉大な将軍の死を秦の民衆は悲しみ、廟を立てて弔いました。
古戦場発掘
長平の戦いの跡からは近年多くの人骨が発掘され、紀元前260年の歴史が事実であったことを現代に伝えています。
孫子の兵法
一章:計篇
孫子は言う。軍事は国家の命運を決する重大事であると。だから軍の生死を分ける戦場や、国家の存亡を分ける道の選択は、くれぐれも明察しなければならない。
そこで、死生の地や存亡の道を考えるために五つの基本事項(五事)を用い、さらにどこが死生の地でどれが存亡の道かを明らかにするため、比較・検討する基準を使って彼我の優劣を探る。
五つの基本事項(五事)とは、道・天・地・将・法である。
「道」とは、民の心を上に立つ君主と一つにさせ、民と君主が生死を共にすることに対して疑いを持たないようにすることである。
「天」とは、陰陽、気温の寒暖、四季の推移の定めのことである。
「地」とは、距離の遠近、地形の険しさと平坦さ、地形が有利か不利かである。
「将」とは、智力、誠実さ、思いやり、勇気、厳格さといった将軍の能力である。
「法」とは、軍隊の編成、各人の職権、将軍の指揮権についてのルールである。
およそこれら五つの事項は、将軍である以上、誰でも聞き知ってはいるが、その重要性をよく知っている者は勝ち、本質を知らない者は敗れる。そこで、彼我の生死を分ける地や存亡を分ける道をはっきりさせるため、優劣を比較する基準(七計)を用いて、実際に自らと相手の優劣を探る。
その内訳は、
君主はどちらが民心を掌握でき、君主と民の心が一つになれているか?
将軍の能力はどちらが優れているか?
天の利、地の利はどちらにあるか?
軍のルールはどちらが公正に運用されているか?
兵力はどちらが強大か?
兵士はどちらがより訓練されているか?
賞罰はどちらが公正に実行されているか?
である。私はこうした比較によって、戦う前から勝敗の行方を知るのである。
将軍が私の計略を聴き入れるならば、必ず勝つであろうからその地に留まる。将軍が私の計略を聴き入れないならば、必ず負けるであろうからその地を去る。私の立てる計略の有利さを理解して聴いてくれるならば、「勢」が生じて戦いを外から助けてくれる。勢とは、有利な状況を見抜き、その時々に臨機応変に対応することである。
戦争とは、騙し合いである。
だから、本当はできることもできないように見せかけるし、必要であっても必要でないように見せかける。また、実際は目的地に近づいているのに遠く離れているかのように見せかけ、目的地から遠く離れているのに近づいたかのように見せかける。
敵が利益を欲しがっている時は利益を餌に敵を誘い出し、敵が混乱していればその隙に奪い取り、敵の戦力が充実している時は敵の攻撃に備えて防禦を固める。 敵の戦力が強大な時は戦いを避け、敵が怒り狂っている時はわざと挑発してかき乱し、敵が謙虚な時は低姿勢に出て驕りたかぶらせ、敵が休息十分であれば疲労させ、 親しい間柄であれば分裂させる。
こうして敵が攻撃に備えていない地点を攻撃し、敵が予想していない地域に出撃する。
このように、兵家の勝ち方とは臨機応変の対応によるものであるから、あらかじめどのような方法で勝つかは人に話すことはできないのである。
そもそもまだ戦わないうちから作戦会議で既に勝つと確信するのは、五事・七計を基に得られた勝利の条件が、相手よりも多いからである。まだ戦っていない段階で勝つ見込みがないのは、勝利の条件が相手よりも少ないからである。勝利の条件が多い方は実戦でも勝利するし、勝利の条件が少ない方は、実戦でも敗北する。ましてや勝算が一つもないというのは、何をかいわんやである。私はこうした基準によって戦いの行方を観察しているので、勝敗は目に見えるのである。
始计篇
孙子曰:兵者,国之大事,死生之地,存亡之道,不可不察也。
故经之以五事,校之以计而索其情:一曰道,二曰天,三曰地,四曰将,五曰法。道者,令民与上同意也,故可以与之死,可以与之生,而不畏危。天者,阴阳、寒暑、时制也。地者,远近、险易、广狭、死生也。将者,智、信、仁、勇、严也。法者,曲制、官道、主用也。凡此五者,将莫不闻,知之者胜,不知者不胜。故校之以计而索其情,曰:主孰有道?将孰有能?天地孰得?法令孰行?兵众孰强?士卒孰练?赏罚孰明?吾以此知胜负矣。
将听吾计,用之必胜,留之;将不听吾计,用之必败,去之。
计利以听,乃为之势,以佐其外。势者,因利而制权也。兵者,诡道也。故能而示之不能,用而示之不用,近而示之远,远而示之近;利而诱之,乱而取之,实而备之,强而避之,怒而挠之,卑而骄之,佚而劳之,亲而离之。攻其无备,出其不意。此兵家之胜,不可先传也。
夫未战而庙算胜者,得算多也;未战而庙算不胜者,得算少也。多算胜,少算不胜,而况于无算乎!吾以此观之,胜负见矣。
一章:計篇
孫子は言う。軍事は国家の命運を決する重大事であると。だから軍の生死を分ける戦場や、国家の存亡を分ける道の選択は、くれぐれも明察しなければならない。
そこで、死生の地や存亡の道を考えるために五つの基本事項(五事)を用い、さらにどこが死生の地でどれが存亡の道かを明らかにするため、比較・検討する基準を使って彼我の優劣を探る。
五つの基本事項(五事)とは、道・天・地・将・法である。
「道」とは、民の心を上に立つ君主と一つにさせ、民と君主が生死を共にすることに対して疑いを持たないようにすることである。
「天」とは、陰陽、気温の寒暖、四季の推移の定めのことである。
「地」とは、距離の遠近、地形の険しさと平坦さ、地形が有利か不利かである。
「将」とは、智力、誠実さ、思いやり、勇気、厳格さといった将軍の能力である。
「法」とは、軍隊の編成、各人の職権、将軍の指揮権についてのルールである。
およそこれら五つの事項は、将軍である以上、誰でも聞き知ってはいるが、その重要性をよく知っている者は勝ち、本質を知らない者は敗れる。そこで、彼我の生死を分ける地や存亡を分ける道をはっきりさせるため、優劣を比較する基準(七計)を用いて、実際に自らと相手の優劣を探る。
その内訳は、
君主はどちらが民心を掌握でき、君主と民の心が一つになれているか?
将軍の能力はどちらが優れているか?
天の利、地の利はどちらにあるか?
軍のルールはどちらが公正に運用されているか?
兵力はどちらが強大か?
兵士はどちらがより訓練されているか?
賞罰はどちらが公正に実行されているか?
である。私はこうした比較によって、戦う前から勝敗の行方を知るのである。
将軍が私の計略を聴き入れるならば、必ず勝つであろうからその地に留まる。将軍が私の計略を聴き入れないならば、必ず負けるであろうからその地を去る。私の立てる計略の有利さを理解して聴いてくれるならば、「勢」が生じて戦いを外から助けてくれる。勢とは、有利な状況を見抜き、その時々に臨機応変に対応することである。
戦争とは、騙し合いである。
だから、本当はできることもできないように見せかけるし、必要であっても必要でないように見せかける。また、実際は目的地に近づいているのに遠く離れているかのように見せかけ、目的地から遠く離れているのに近づいたかのように見せかける。
敵が利益を欲しがっている時は利益を餌に敵を誘い出し、敵が混乱していればその隙に奪い取り、敵の戦力が充実している時は敵の攻撃に備えて防禦を固める。 敵の戦力が強大な時は戦いを避け、敵が怒り狂っている時はわざと挑発してかき乱し、敵が謙虚な時は低姿勢に出て驕りたかぶらせ、敵が休息十分であれば疲労させ、 親しい間柄であれば分裂させる。
こうして敵が攻撃に備えていない地点を攻撃し、敵が予想していない地域に出撃する。
このように、兵家の勝ち方とは臨機応変の対応によるものであるから、あらかじめどのような方法で勝つかは人に話すことはできないのである。
そもそもまだ戦わないうちから作戦会議で既に勝つと確信するのは、五事・七計を基に得られた勝利の条件が、相手よりも多いからである。まだ戦っていない段階で勝つ見込みがないのは、勝利の条件が相手よりも少ないからである。勝利の条件が多い方は実戦でも勝利するし、勝利の条件が少ない方は、実戦でも敗北する。ましてや勝算が一つもないというのは、何をかいわんやである。私はこうした基準によって戦いの行方を観察しているので、勝敗は目に見えるのである。
始计篇
孙子曰:兵者,国之大事,死生之地,存亡之道,不可不察也。
故经之以五事,校之以计而索其情:一曰道,二曰天,三曰地,四曰将,五曰法。道者,令民与上同意也,故可以与之死,可以与之生,而不畏危。天者,阴阳、寒暑、时制也。地者,远近、险易、广狭、死生也。将者,智、信、仁、勇、严也。法者,曲制、官道、主用也。凡此五者,将莫不闻,知之者胜,不知者不胜。故校之以计而索其情,曰:主孰有道?将孰有能?天地孰得?法令孰行?兵众孰强?士卒孰练?赏罚孰明?吾以此知胜负矣。
将听吾计,用之必胜,留之;将不听吾计,用之必败,去之。
计利以听,乃为之势,以佐其外。势者,因利而制权也。兵者,诡道也。故能而示之不能,用而示之不用,近而示之远,远而示之近;利而诱之,乱而取之,实而备之,强而避之,怒而挠之,卑而骄之,佚而劳之,亲而离之。攻其无备,出其不意。此兵家之胜,不可先传也。
夫未战而庙算胜者,得算多也;未战而庙算不胜者,得算少也。多算胜,少算不胜,而况于无算乎!吾以此观之,胜负见矣。
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