日本生活去北海道还是东京?如題,糾結大學去北海道,還是繼續留在東京?以後想要就留在日本,沒有打算回國。只想上個普通一般的大學就行了,沒有很大的追求,主要是想過日子舒服點,大學也還沒決定。日常不算很愛逛街的人,沒有什麼很強的購物慾。主要是不喜歡人很吵鬧的地方,喜歡很安靜人少的環境。但看了一些帖子說冬天很煩人,還有一些交通的不便?以及電費開銷很大?還有主要就是擔心以後找工作會不會不方便之類?(文科生)另外想逃離東京的其中理由是不喜歡夏天和蟲子。有沒有博主可以中肯的回答一下?真的很迷茫(T_T)……最後非常感謝。
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まず北海道の大学で学んだら如何でしょうか?4年間以上住んでみるといろいろわかってくると思います。就職もその際に決めればよいと思います。私の経験から見ると、日本の色んな地域って、慣れると離れたくなくものが結構あります。これっといったものではないかもしれませんが、毎度引っ越しする時に何となく感じてしまいます。しかし、いざ引っ越し先で暮らしてみるとまたちがった愛着が生まれたりします、ので気持ちと仕事関係で悩むこともあるかと思いますが、悪い意味での悩みだけではないかもしれませんね~~がんばってください。
#东大ノ秋书堂corporation# #东京[超话]#
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まず北海道の大学で学んだら如何でしょうか?4年間以上住んでみるといろいろわかってくると思います。就職もその際に決めればよいと思います。私の経験から見ると、日本の色んな地域って、慣れると離れたくなくものが結構あります。これっといったものではないかもしれませんが、毎度引っ越しする時に何となく感じてしまいます。しかし、いざ引っ越し先で暮らしてみるとまたちがった愛着が生まれたりします、ので気持ちと仕事関係で悩むこともあるかと思いますが、悪い意味での悩みだけではないかもしれませんね~~がんばってください。
#东大ノ秋书堂corporation# #东京[超话]#
世界の常識では日本の「終戦記念日」8月15日には何の意味もない…日本人が誰も知らない「終戦の日」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
秀吉、中国攻めで攻撃した城・しなかった城 決め手は調略成功の蓋然性が高いか否か
戦国時代、織田信長の命により、家臣・羽柴(豊臣)秀吉は毛利輝元が統治する中国地方へ進攻した。「備中高松城の戦い」はあまりに有名だが、高松城以外の城でも激しい戦いが繰り広げられていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第八章 著:光成準治)から一部を抜粋、再編集し、毛利方の防衛ラインにおける攻防について紹介する。
【図】境目七城の様子はこちら
* * *
■境目七城における攻防
毛利方は備中・備前国境周辺に、後年「境目七城」と称された宮路山・冠山・高松・加茂(岡山市北区)、日幡・松嶋(岡山県倉敷市)、庭妹(岡山市北区)という七つの城郭で防衛ラインを構築して、織田方の進攻を食い止めようとした。これに対して、秀吉勢は四月十三日、足守川を越えて毛利氏領へ進攻した。その最前線には岩山城があり、毛利氏に従属する国人湯浅将宗が在番していたが、秀吉勢は岩山城を通過して北上し、四月十六日より以前に宮路山城.・冠山城に攻めかかった。
岩山城は「境目七城」に含まれておらず、現在地も確定できないが、秀吉勢が通過した理由について考えてみたい。湯浅氏は備後国伊尾(広島県世羅町)を本拠としていたが、この当時の備後国中央地域においては毛利元就の娘を妻に迎えていた上原元将(本拠は甲山〈世羅町〉)が盟主的地位にあり、湯浅氏も上原氏の影響下にあった。
ところが、日幡城に在番していた元将は羽柴秀吉の調略に応じて織田方へ転じた。元将の毛利氏からの離反時期は四月二十四日以前であるが、秀吉勢が岩山城を通過したことから推測すると、その頃には元将は離反を決意しており、元将を通じて湯浅氏に対する調略も実施されていたと考えられる。結局、湯浅氏は毛利方に留まったが、当初は調略成功の可能性があると考えて秀吉は湯浅氏との戦闘を避けたと推定される。
このような経緯は、国人領主連合的性格を払拭しきれていないという毛利氏支配の弱さにつけ込んだ秀吉の調略であったこと、地域の盟主的地位にあった上原氏のような毛利氏との対等意識の高い国人ほど調略に応じる確率が大きかったことをうかがわせる。
秀吉勢の攻撃に対して宮路山城・冠山城はしばらくの間抵抗したが、毛利勢による救援がなかったため、秀吉は冠山城を四月二十五日、宮路山城を五月二日に攻略した。冠山城には備中・備前の国人領主層と考えられる林三郎左衛門尉・松田孫次郎が在番していたが、秀吉勢は両名を討ち取り、その首を安土へ送った(「溝江文書」)。宮路山城には小早川氏庶家乃美隆興の子景興が在番していたが、景興については林・松田とは異なり、討ち取ったという史料は確認できない。おそらく最後まで抵抗せずに開城したと推定される。
宮路山城奪取の勢いで秀吉勢は加茂城へ攻めかかった。加茂城の在番は毛利氏庶家桂広繁や備後国人(世羅郡上山を本拠とする)上山元忠のほか、在地の領主生石氏が在番していたが、五月二日、生石氏が裏切って宇喜多勢を城中へ引き入れたため、端城を陥落させることには成功したが、桂・上山らの抵抗によって本丸を落とすことはできなかった(「長府桂家文書」)。
「境目七城」以外では、亀石城(岡山市北区)も降伏させた(「亀井文書」)。この城には、福武氏や長氏(太井庄衆)など在地の土豪が子女を連れて入城していたと考えられる。生石氏や福武氏・長氏など在地の土豪層にとって重要なことは地域の安全であり、秀吉は織田権力への服属が地域の安全保障になることを示して調略に成功したのであろう。
なお、松嶋城や庭妹城といった小早川氏家臣が主として守備する城に対して、秀吉勢は攻撃をかけなかった。地理的には、沿岸部に近い庭妹城から松嶋城へと進撃するルートも可能であるが、秀吉の選択は異なっていた。攻撃を仕掛けた各城に対して調略を織り交ぜている点から推測すると、秀吉は調略成功の蓋然性が高いルートを選択したのではなかろうか。
■信長の出陣計画
秀吉は四月二十四日付書状(「米蟲剛石氏所蔵文書」)において、織田信長が近日中に武田氏討伐から帰還して、すぐに中国地域へ出陣すると記している。信長自身も四月二十四日付朱印状(「細川家文書」)において明智光秀の軍事指揮下にあった一色義有・長岡(細川)藤孝に対して、(1)このたびの合戦(八浜合戦)で小早川隆景が敗北して備前国児島から撤退し、備中国高山(幸山)に立て籠もったので、羽柴藤吉郎が出陣して包囲したと報告があった、(2)その後の報告が届き次第、(明智勢も)出兵すること、という指示を行っており、秀吉勢に加えて明智勢も対毛利氏戦線へ投入されることとなった。
一方、この指示の前半部では、中国への出陣については秋頃を考えていたとある。光秀もこの年一月十三日付書状(「吉田文書」)において、来る秋のはじめに西国(毛利氏領国)へ出陣するとの信長の発言を伝えている。信長自身の出陣計画は天正九年の鳥取城攻めの際もあったが、毛利勢主力が前線に集結しなかったためにとりやめられたと考えられる。したがって、今回の信長自身の出陣計画は、(1)秀吉による調略の成功により東瀬戸内海の制海権をほぼ掌握したこと、(2)毛利方の国人層に対する織田方への寝返り工作がさらに進んでいたことに加え、毛利勢が前線に集結してきたことを踏まえての対応と考えられる。
また、信長が秋に出陣するとしていたのは、対毛利氏戦略として、軍事制圧路線に限定しておらず、毛利氏に圧力をかけたうえで猶予期間を設けて降伏に追い込むという路線もあったことをうかがわせる。しかし、毛利氏が織田権力への服属を拒否して、主力勢を前線に集結させたために、信長も出陣を早めたものと推定される。
●光成準治(みつなり・じゅんじ)
一九六三年大阪府生まれ。九州大学大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。現在、県立広島大学非常勤講師、九州大学大学院特別研究者。著書に『本能寺前夜』(角川選書)、『天下人の誕生と戦国の終焉』(吉川弘文館)、『毛利氏の御家騒動』(平凡社)など。
光成準治
戦国時代、織田信長の命により、家臣・羽柴(豊臣)秀吉は毛利輝元が統治する中国地方へ進攻した。「備中高松城の戦い」はあまりに有名だが、高松城以外の城でも激しい戦いが繰り広げられていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第八章 著:光成準治)から一部を抜粋、再編集し、毛利方の防衛ラインにおける攻防について紹介する。
【図】境目七城の様子はこちら
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■境目七城における攻防
毛利方は備中・備前国境周辺に、後年「境目七城」と称された宮路山・冠山・高松・加茂(岡山市北区)、日幡・松嶋(岡山県倉敷市)、庭妹(岡山市北区)という七つの城郭で防衛ラインを構築して、織田方の進攻を食い止めようとした。これに対して、秀吉勢は四月十三日、足守川を越えて毛利氏領へ進攻した。その最前線には岩山城があり、毛利氏に従属する国人湯浅将宗が在番していたが、秀吉勢は岩山城を通過して北上し、四月十六日より以前に宮路山城.・冠山城に攻めかかった。
岩山城は「境目七城」に含まれておらず、現在地も確定できないが、秀吉勢が通過した理由について考えてみたい。湯浅氏は備後国伊尾(広島県世羅町)を本拠としていたが、この当時の備後国中央地域においては毛利元就の娘を妻に迎えていた上原元将(本拠は甲山〈世羅町〉)が盟主的地位にあり、湯浅氏も上原氏の影響下にあった。
ところが、日幡城に在番していた元将は羽柴秀吉の調略に応じて織田方へ転じた。元将の毛利氏からの離反時期は四月二十四日以前であるが、秀吉勢が岩山城を通過したことから推測すると、その頃には元将は離反を決意しており、元将を通じて湯浅氏に対する調略も実施されていたと考えられる。結局、湯浅氏は毛利方に留まったが、当初は調略成功の可能性があると考えて秀吉は湯浅氏との戦闘を避けたと推定される。
このような経緯は、国人領主連合的性格を払拭しきれていないという毛利氏支配の弱さにつけ込んだ秀吉の調略であったこと、地域の盟主的地位にあった上原氏のような毛利氏との対等意識の高い国人ほど調略に応じる確率が大きかったことをうかがわせる。
秀吉勢の攻撃に対して宮路山城・冠山城はしばらくの間抵抗したが、毛利勢による救援がなかったため、秀吉は冠山城を四月二十五日、宮路山城を五月二日に攻略した。冠山城には備中・備前の国人領主層と考えられる林三郎左衛門尉・松田孫次郎が在番していたが、秀吉勢は両名を討ち取り、その首を安土へ送った(「溝江文書」)。宮路山城には小早川氏庶家乃美隆興の子景興が在番していたが、景興については林・松田とは異なり、討ち取ったという史料は確認できない。おそらく最後まで抵抗せずに開城したと推定される。
宮路山城奪取の勢いで秀吉勢は加茂城へ攻めかかった。加茂城の在番は毛利氏庶家桂広繁や備後国人(世羅郡上山を本拠とする)上山元忠のほか、在地の領主生石氏が在番していたが、五月二日、生石氏が裏切って宇喜多勢を城中へ引き入れたため、端城を陥落させることには成功したが、桂・上山らの抵抗によって本丸を落とすことはできなかった(「長府桂家文書」)。
「境目七城」以外では、亀石城(岡山市北区)も降伏させた(「亀井文書」)。この城には、福武氏や長氏(太井庄衆)など在地の土豪が子女を連れて入城していたと考えられる。生石氏や福武氏・長氏など在地の土豪層にとって重要なことは地域の安全であり、秀吉は織田権力への服属が地域の安全保障になることを示して調略に成功したのであろう。
なお、松嶋城や庭妹城といった小早川氏家臣が主として守備する城に対して、秀吉勢は攻撃をかけなかった。地理的には、沿岸部に近い庭妹城から松嶋城へと進撃するルートも可能であるが、秀吉の選択は異なっていた。攻撃を仕掛けた各城に対して調略を織り交ぜている点から推測すると、秀吉は調略成功の蓋然性が高いルートを選択したのではなかろうか。
■信長の出陣計画
秀吉は四月二十四日付書状(「米蟲剛石氏所蔵文書」)において、織田信長が近日中に武田氏討伐から帰還して、すぐに中国地域へ出陣すると記している。信長自身も四月二十四日付朱印状(「細川家文書」)において明智光秀の軍事指揮下にあった一色義有・長岡(細川)藤孝に対して、(1)このたびの合戦(八浜合戦)で小早川隆景が敗北して備前国児島から撤退し、備中国高山(幸山)に立て籠もったので、羽柴藤吉郎が出陣して包囲したと報告があった、(2)その後の報告が届き次第、(明智勢も)出兵すること、という指示を行っており、秀吉勢に加えて明智勢も対毛利氏戦線へ投入されることとなった。
一方、この指示の前半部では、中国への出陣については秋頃を考えていたとある。光秀もこの年一月十三日付書状(「吉田文書」)において、来る秋のはじめに西国(毛利氏領国)へ出陣するとの信長の発言を伝えている。信長自身の出陣計画は天正九年の鳥取城攻めの際もあったが、毛利勢主力が前線に集結しなかったためにとりやめられたと考えられる。したがって、今回の信長自身の出陣計画は、(1)秀吉による調略の成功により東瀬戸内海の制海権をほぼ掌握したこと、(2)毛利方の国人層に対する織田方への寝返り工作がさらに進んでいたことに加え、毛利勢が前線に集結してきたことを踏まえての対応と考えられる。
また、信長が秋に出陣するとしていたのは、対毛利氏戦略として、軍事制圧路線に限定しておらず、毛利氏に圧力をかけたうえで猶予期間を設けて降伏に追い込むという路線もあったことをうかがわせる。しかし、毛利氏が織田権力への服属を拒否して、主力勢を前線に集結させたために、信長も出陣を早めたものと推定される。
●光成準治(みつなり・じゅんじ)
一九六三年大阪府生まれ。九州大学大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。現在、県立広島大学非常勤講師、九州大学大学院特別研究者。著書に『本能寺前夜』(角川選書)、『天下人の誕生と戦国の終焉』(吉川弘文館)、『毛利氏の御家騒動』(平凡社)など。
光成準治
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