虽然躺了,但依然最强的7号[杰瑞]?
「オレの中には、これしか無いのに……どうしてオレが生きて居るんだって……」
「…………」「躊躇無く死ぬ為に全てを切り捨ててきたのに、この可能性を考えていなかったなんて、随分迂闊だと思ってさ」
何か、
「オレは戦って死ぬ事ばかり考えてたから……」
否定してやりたいと思うのに、何も言ってやれない。
そう在れと命じたのは自分達で、全てを棄てろと強要してきたのも自分達だった。
それなのに……一体何が言える?
何も言えないから、せめて手を伸ばした。細かい髪をくしゃりと撫でると、セブンは驚いたように首を竦める。
けれど直ぐに此方を見返して、いつもの様に笑った。
「……どした?」
丸で、逆に此方を慰めるように。「……私は嬉しかった」
「五人も死に、エインは逃げおおせたというのに……。生き残ったのがお前だと判って、心から……それを喜んだ。
他の者などどうでも良かった」
「……私はナンバーズ失格だ」 結局、唯の愚痴にしかならなかった。
自分はいつもそうだ。
肝心な時には役に立たず、特別な事は何一つ出来ない。
凡人であっては務まらない責任を負っているのに、何時まで経っても凡人でしか居られない。
……自分は普通だ。
其れを一般的な恥とは思わないが、この役目においては分不相応だと言わざるを得ない。
「誰でも、いつでも役割だけに忠実に居られる訳じゃないと思うよ」
だから、慰められるのはいつも自分の方だった。
この役目に相応しいセブンは強く、みっともなく誰かに縋る事も無い。
……だから優しい。
「なんて、自分の言い訳なんだけどさ。
そんな事言ったらオレだって第七失格だ。
そういう風に言って貰えて、物凄く嬉しいんだから」
「ッ……」
判らなかった。
どうすれば、彼を労ってやれるのか――――
思いつく事すら出来ない自分の不甲斐なさに、唇を噛む。
「……なんで君がしんどそうな顔するのさ。
元気出してよ、常磐」こんなに近くに居るのに、この手は一生届かない。
――――せめて、現実に触れるだけでも
その距離は変わるだろうか。
「…………」「あ」我ながらこれは無いだろうと思う。
「す、すまん……!
何だか……どうかしていて……!」
「…………」
「……セブン……?
ちょ、離してく……」
「た――――っ!!」
「いでででで!!」そのまま、胴体を思いっ切り締め上げられる。「わ、悪かった、すまんッ!
謝るからやめてくれッ!」
「んー?
 つまんないニャー。いーじゃないか、スキンシップじゃよ」
「お前に絞められたら私なんぞケガですまんわ……」
腕を緩めてベアハッグは已めてくれたが、彼はそれ以上離れようとはしなかった。

兄たち(下)
太宰治

「あッ、菊池寛だ。」と小さく叫んで、ふとったおじいさんを指さします。とても、まじめな顔して、そういうのですから、私も、信じないわけには、いかなかったのです。銀座の不二屋でお茶を飲んでいたときにも、肘ひじで私をそっとつついて、佐々木茂索がいるぞ、そら、おまえのうしろのテエブルだ、と小声で言って教えてくれたことがありますけれど、ずっとあとになって、私が直接、菊池先生や佐々木さんにお目にかかり、兄が私に嘘ばかり教えていたことを知りました。兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いただいた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これもどうだか、こんど川端さんにお逢いしたとき、お伺いしてみようと思って居ります。ほんとうであって、くれたらいいと思います。けれども私が川端さんから戴いているお手紙の字体と、それから思い出の中の、夢川利一様、著者、という字体とは、少し違うようにも思われるのです。兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造ミステフィカシオンの悪癖が、争われなかったのであろうと思います。
兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴さかなもあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やがて小さい珠数じゅずを手首にはめて歩いて、そうして自分のことを、愚僧、と呼称することを案出しました。愚僧は、愚僧は、とまじめに言うので、兄のお友だちも、みんな真似して、愚僧は、愚僧は、と言い合い、一時は大流行いたしました。兄にとっては、ただ冗談だけでそんなことをしていたのでは無く、自身の肉体消滅の日時が、すぐ間近に迫っていることを、ひそかに知っていて、けれども兄の鬼面毒笑風の趣味が、それを素直に悲しむことを妨げ、かえって懸命に茶化して、しさいらしく珠数を爪繰つまぐっては人を笑わせ、愚僧もあの婦人には心が乱れ申したわい、お恥かしいが、まだ枯れて居らん証拠じゃのう、などと言い、私たちを誘って、高田の馬場の喫茶店へ蹌踉そうろうと乗り込むのでした。この愚僧は、たいへんおしゃれで、喫茶店へ行く途中、ふっと、指輪をはめて出るのを忘れて来たことに気がつき、躊躇ちゅうちょなくくるりと廻れ右して家へ引きかえし、そうしてきちんと指輪をはめて、出直し、やあ、お待ちどおさま、と澄ましていました。
私は大学へはいってからは、戸塚の、兄の家のすぐ近くの下宿屋に住み、それでも、お互い勉強の邪魔をせぬよう、三日にいちどか、一週間にいちど顔を合せて、そのときには必ず一緒にまちへ出て、落語を聞いたり、喫茶店をまわって歩いたりして、そのうちに兄は、ささやかな恋をしました。兄は、その粋紳士風の趣味のために、おそろしく気取ってばかりいて、女のひとには、さっぱり好かれないようでした。そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇プライドの高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、すっとはいって、コーヒー一ぱい飲んで、すっと帰るということばかり続けて居りました。或る晩、私とふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇ばらとを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎だっとの如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの子を呼びました。
「おじさん(私は兄を、そう呼んでいました。)を知ってるだろう? おじさんを忘れちゃいけない。はい、これはおじさんから。」口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機嫌でした。兄は、そのとき、二十八歳でした。私は六つ下の二十二歳でありました。
 そのとしの、四月ごろから、兄は異常の情熱を以もって、制作を開始いたしました。モデルを家に呼んで、大きいトルソオに取りかかった様子でありました。私は、兄の仕事の邪魔をしたくないので、そのころは、あまり兄の家を訪ねませんでした。いつか夜、ちょっと訪ねてみたら兄は、ベッドにもぐっていて、少し頬が赤く、「もう夢川利一なんて名前は、よすことにした。堂々、辻馬桂治(兄の本名)でやってみるつもりだ。」と兄にしては、全く珍らしく、少しも茶化さず、むきになって言って聞かせましたので、私は急に泣きそうになりました。
それから、二月ふたつき経って、兄は仕事を完成させずに死んでしまいました。様子が変だとWさん御夫妻も言い、私も、そう思いましたので、かかりのお医者に相談してみましたら、もう四五日とお医者は平気で言うので、私は仰天いたしました。すぐに、田舎の長兄へ電報を打ちました。長兄が来るまでは、私が兄の傍に寝て二晩、のどにからまる痰たんを指で除去してあげました。長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄てさせ、私が、言いつけられたとおり、それをばりばり破りながらめそめそ泣いているのを、兄は不思議そうに眺めているのでした。私は、世の中に、たった私たち二人しかいないような気がいたしました。
 長兄や、お友だちに、とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、
「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風プレッシュウの趣味を捨てず、そんなはいからのこと言って、私をかつごうとしていたのでしょう。無意識に、お得意の神秘捏造ミステフィカシオンをやっていたのでありましょう。ダイヤのネクタイピンなど、無いのを私は知って居りますので、なおのこと、兄の伊達だての気持ちが悲しく、わあわあ泣いてしまいました。なんにも作品残さなかったけれど、それでも水際立って一流の芸術家だったお兄さん。世界で一ばんの美貌を持っていたくせに、ちっとも女に好かれなかったお兄さん。
 死んだ直後のことも、あれこれ書いてお知らせするつもりでありましたが、ふと考えてみれば、そんな悲しさは、私に限らず、誰だって肉親に死なれたときには味うものにちがいないので、なんだか私の特権みたいに書き誇るのは、読者にすまないことみたいで、気持ちが急に萎縮いしゅくしてしまいました。ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭どうこくをはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。

太宰治(だざい おさむ,1909年6月19日—1948年6月13日),本名津岛修治(つしま しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。

京都日記
芥川龍之介

     光悦寺

 光悦寺くわうえつじへ行つたら、本堂の横手の松の中に小さな家が二軒立つてゐる。それがいづれも妙に納をさまつてゐる所を見ると、物置きなんぞの類ではないらしい。らしい所どころか、その一軒には大倉喜八郎おほくらきはちらう氏の書いた額がくさへも懸かかつてゐる。そこで案内をしてくれた小林雨郊こばやしうかう君をつかまへて、「これは何なんです」と尋ねたら、「光悦会くわうえつくわいで建てた茶席です」と云ふ答へがあつた。
 自分は急に、光悦会がくだらなくなつた。
「あの連中は光悦に御出入おでいりを申しつけた気でゐるやうぢやありませんか。」
 小林君は自分の毒口どくぐちを聞いて、にやにや笑ひ出した。
「これが出来たので鷹たかヶ峯みねと鷲わしヶ峯みねとが続いてゐる所が見えなくなりました。茶席など造るより、あの辺の雑木ざふきでも払へばよろしいにな。」
 小林君が洋傘かうもりで指さした方はうを見ると、成程なるほどもぢやもぢや生え繁つた初夏しよかの雑木ざふきの梢こずゑが鷹ヶ峯の左の裾を、鬱陶うつたうしく隠してゐる。あれがなくなつたら、山ばかりでなく、向うに光つてゐる大竹藪おほたけやぶもよく見えるやうになるだらう。第一その方が茶席を造るよりは、手数てすうがかからないのに違ひない。
 それから二人ふたりで庫裡くりへ行つて、住職の坊さんに宝物はうもつを見せて貰つた。その中に一つ、銀の桔梗ききやうと金きんの薄すすきとが入り乱れた上に美しい手蹟しゆせきで歌を書いた、八寸四方位くらゐの小さな軸ぢくがある。これは薄すすきの葉の垂れた工合ぐあひが、殊に出来が面白い。小林君は専門家だけに、それを床柱とこばしらにぶら下げて貰つて、「よろしいな。銀もよう焼けてゐる」とか何なんとか云つてゐる。自分は敷島しきしまを啣くはへて、まだ仏頂面ぶつちやうづらをしてゐたが、やはりこの絵を見てゐると、落着きのある、朗ほがらかな好いい心もちになつて来た。
が、暫しばらくすると住職の坊さんが、小林君の方を向いて、こんな事を云った。
「もう少しすると、又一つ茶席が建ちます。」
 小林君もこれには聊いささか驚いたらしい。
「又光悦会ですか。」
「いいえ、今度は個人でございます。」
 自分は忌々いまいましいのを通り越して、へんな心もちになつた。一体光悦くわうえつをどう思つてゐるのだか、光悦寺をどう思つてゐるのだか、もう一つ序ついでに鷹ヶ峯をどう思つてゐるのだか、かうなると、到底たうてい自分には分らない。そんなに茶席が建てたければ、茶屋四郎次郎ちややしらうじらうの邸跡やしきあとや何かの麦畑でも、もつと買占めて、むやみに囲ひを並べたらよからう。さうしてその茶席の軒のきへ額がくでも提灯ちやうちんでもべた一面に懸けるが好よい。さうすれば自分も始めから、わざわざ光悦寺などへやつて来はしない。さうとも。誰が来るものか。
 後あとで外へ出たら、小林君が「好いい時に来ました。この上茶席が建つたらどうもなりません。」と云つた。さう思つて見れば確たしかに好い時に来たのである。が、一つの茶席もない、更に好い時に来なかつたのは、返す返すも遺憾ゐかんに違ひない。――自分は依然として仏頂面ぶつちやうづらをしながら、小林君と一しよに竹藪の後うしろに立つてゐる寂しい光悦寺の門を出た。

     竹

 或雨あまあがりの晩に車に乗つて、京都の町を通つたら、暫しばらくして車夫しやふが、どこへつけますとか、どこへつけやはりますとか、何とか云つた。どこへつけるつて、宿やどへつけるのにきまつてゐるから、宿だよ、宿だよと桐油とうゆの後うしろから、二度ばかり声をかけた。車夫はその御宿おやどがわかりませんと云つて、往来わうらいのまん中に立ち止まつた儘、動かない。さう云はれて見ると、自分も急に当惑たうわくした。宿の名前は知つてゐるが、宿の町所ちやうどころは覚えてゐない。しかもその名前なるものが、甚はなはだ平凡を極きはめてゐるのだから、それだけでは、いくら賢明な車夫にしても到底たうてい満足に帰られなからう。
 困つたなと思つてゐると、車夫が桐油とうゆを外はづしてこの辺ぢやおへんかと云ふ。提灯ちやうちんの明りで見ると、車の前には竹藪があつた。それが暗の中に万竿ばんかんの青せいをつらねて、重なり合つた葉が寒さうに濡ぬれて光つてゐる。自分は大へんな所へ来たと思つたから、こんな田舎ゐなかぢやないよ、横町よこちやうを二つばかり曲ると、四条しでうの大橋おほはしへ出る所なんだと説明した。すると車夫が呆あきれた顔をして、ここも四条の近所どすがなと云つた。そこでへええ、さうかね、ぢやもう少し賑にぎやかな方はうへ行つて見てくれ、さうしたら分るだらうと、まあ一時を糊塗ことして置いた。所がその儘、車が動き出して、とつつきの横丁を左へ曲つたと思ふと、突然歌舞練場かぶれんぢやうの前へ出てしまったから奇体きたいである。それも丁度ちやうど都踊みやこをどりの時分だつたから、両側には祗園団子ぎをんだんごの赤い提灯が、行儀ぎやうぎよく火を入れて並んでゐる。自分は始めてさつきの竹藪が、建仁寺けんにんじだつたのに気がついた。が、あの暗を払つてゐる竹藪と、この陽気な色町いろまちとが、向ひ合つてゐると云ふ事は、どう考へても、嘘のやうな気がした。その後のち、宿へは無事に辿たどりついたが、当時の狐につままれたやうな心もちは、今日けふでもはつきり覚えてゐる。……
それ以来自分が気をつけて見ると、京都界隈かいわいにはどこへ行つても竹藪がある。どんな賑にぎやかな町中まちなかでも、こればかりは決して油断が出来ない。一つ家並やなみを外はづれたと思ふと、すぐ竹藪が出現する。と思ふと、忽ち又町になる。殊に今云つた建仁寺けんにんじの竹藪の如きは、その後のちも祗園ぎをんを通りぬける度に、必ず棒喝ぼうかつの如く自分の眼前へとび出して来たものである。……
 が、慣れて見ると、不思議に京都の竹は、少しも剛健な気がしない。如何いかにも町慣れた、やさしい竹だと云ふ気がする。根が吸ひ上げる水も、白粉おしろいの匀ひがしてゐさうだと云ふ気がする。もう一つ形容すると、始めから琳派りんはの画工の筆に上のぼる為に、生えて来た竹だと云ふ気がする。これなら町中まちなかへ生えてゐても、勿論少しも差支さしつかへはない。何なんなら祗園ぎをんのまん中にでも、光悦くわうえつの蒔絵まきゑにあるやうな太いやつが二三本、玉立ぎよくりつしてゐてくれたら、猶更なほさら以て結構だと思ふ。
   裸根はだかねも春雨竹はるさめだけの青さかな
 大阪へ行つて、龍村たつむらさんに何か書けと云はれた時、自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。それ程竹の多い京都の竹は、京都らしく出来上つてゐるのである。

     舞妓
上木屋町かみきやまちのお茶屋で、酒を飲んでゐたら、そこにゐた芸者が一人、むやみにはしやぎ廻つた。それが自分には、どうも躁狂さうきやうの下地したぢらしい気がした。少し気味が悪くなつたから、その方はうの相手を小林こばやし君に一任して、隣にゐた舞妓まひこの方を向くと、これはおとなしく、椿餅つばきもちを食べてゐる。生際はえぎはの白粉おしろいが薄くなつて、健康らしい皮膚が、黒く顔を出してゐる丈だけでも、こつちの方が遙はるかに頼もしい気がする。子供らしくつて可愛かはいかつたから、体操を知つてゐるかいと訊きいて見た。すると、体操は忘れたが、縄飛びなら覚えてゐると云ふ答へがあつた。ぢややつてお見せと云ひたかつたが、三味線しやみせんの音ねがし出したから見合せた。尤もつともさう云つても、恐らくやりはしなかつたらう。
 この三味線しやみせんに合せて、小林君が大津絵おほつゑのかへ唄を歌つた。何なんでも文句もんくは半切はんせつに書いたのが内にしまつてあつて、それを見ながらでないと、理想的には歌へないのださうである。時々あぶなくなると、そこにゐた二三人の芸者が加勢をした。更にその芸者があぶなくなると、おまつさんなる老妓らうぎが加勢をした。その色々の声が、大津絵を補綴ほてつして行く工合ぐあひは、丁度ちやうど張はり交まぜの屏風びやうぶでも見る時と、同じやうな心もちだつた。自分は可笑をかしくなつたから、途中であははと笑ひ出した。すると小林君もそれに釣りこまれて、とうとう自分で大津絵を笑殺せうさつしてしまつた。後はおまつさんが独りでしまひまで歌つた。
 それから小林君が、舞妓まひこに踊をどりを所望した。おまつさんは、座敷が狭いから、唐紙からかみを明あけて、次の間まで踊ると好いいと云ふ。そこで椿餅つばきもちを食べてゐた舞妓が、素直すなほに次の間へ行つて、京の四季を踊つた。遺憾ながらかう云ふ踊になると、自分にはうまいのだかまづいのだかわからない。が、花簪はなかんざしが傾いたり、だらりの帯が動いたり、舞扇まひあふぎが光つたりして、甚はなはだ綺麗きれいだつたから、鴨かもロオスを突つつつきながら、面白がて眺めてゐた。
しかし実を云ふと、面白がつて見てゐたのは、単に綺麗だつたからばかりではない。舞妓まひこは風を引いてゐたと見えて、下を向くやうな所へ来ると、必ず恰好かつかうの好いい鼻の奥で、春泥しゆんでいを踏むやうな音がかすかにした。それがひねつこびた教坊けうばうの子供らしくなくつて、如何いかにも自然な好いい心もちがした。自分は酔よつてゐて、妙に嬉しかつたから、踊がすむと、その舞妓に羊羹やうかんだの椿餅だのをとつてやつた。もし舞妓にきまりの悪い思ひをさせる惧おそれがなかつたなら、お前は丁度ちやうど五度ごたび鼻洟はなみづを啜すすつたぜと、云つてやりたかつた位である。
 間まもなく躁狂さうきやうの芸者が帰つたので、座敷は急に静になつた。窓硝子ガラスの外を覗のぞいて見ると、広告の電燈の光が、川の水に映うつつてゐる。空は曇つてゐるので、東山ひがしやまもどこにあるのだか、判然しない。自分は反動的に気がふさぎ出したから、小林君に又大津絵おほつゑでも唄ひませんかと、云つた。小林君は脇息けふそくによりかかりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。やはり大分だいぶ酔ゑひがまはつてゐたのだらう。舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、独りで折鶴をりづるを拵こしらへてゐる。おまつさんと外ほかの芸者とは、小さな声で、誰かの噂か何かしてゐる。――自分は東京を出て以来、この派手はでなお茶屋の中で、始めて旅愁りよしうらしい、寂しい感情を味あぢはつた。

京都(日语:京都;日语平假名:きょうと;英语:Kyoto),古称平安京,别称洛阳,又称京洛。位于日本西部,京都府南部,属于日本三大都市圈之一大阪都市圈的重要城市,是一座内陆城市,坐落在京都盆地(山城)的北半部和丹波高原的东部山区,总面积827.90k㎡,占京都府的17.9%。是京都府各县市中面积最大的一座城市。 京都为京都府府厅所在地,也是政令指定都市之一,是日本人口第八多的都市。京都市和京都府南部、滋贺县西部及大阪府的部分地区共同组成了京都都市圈。京都市也是“京阪神都会区”的一部分。公元794年桓武天皇迁都平安京到公元1868年东京奠都为止,京都一直都是日本的首都。长年的历史积淀使得京都市拥有相当丰富的历史遗迹,也使之成为日本传统文化的重镇之一。京都市的部分历史建筑在公元1994年以“古都京都的文化财”的名义被列为世界文化遗产。同时京都府是人口较多的自治体之一,是日本人的精神故乡,是日本文化的源点,是日本的文化象征之地。京都是根据历来王朝文化中盛行的日本式唯美意识所构建的。以神社、佛阁等历史建筑物、庭院、绘画、传统活动、京都料理为代表,被称为“千年古都”。


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