#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
第3回 東と西の養生訓
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2023年11月 7日 13時12分
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
週末の健康ウォーク
大府の長寿研から長崎を経て、今私は、福岡の大学で医療人の卵たちに解剖、生理、薬理などを教えながら「老い」を考えている。老いの科学を整理して書くこともあれば、自らの老いに向き合うこともある。自宅から浜辺が近い。玄界灘に面した小さなビーチがある。若い頃、米国のカリフォルニアで10年を過ごしたが、サンタモニカやニューポートビーチを思い起こさせてくれる。福岡の浜辺は北縁だが、それでも夏の陽光はまぶしい。左には、昔、井上陽水が片想いの恋心を唄った能古島が浮かぶ。右には、以前はJALだったが、今はHiltonとなった瀟洒なホテルがある。その先はソフトバンクホークスの本拠地PayPayドームだ。その脇を東へ行くと西公園の小高い丘に上がる。春は桜の名所で丘の上には黒田長政を祀った光雲神社がある。その裏手から海を見渡せば、万葉の時代にも江戸時代にもあった景色がそのままそこにある。古くは荒津山とか荒戸山と呼ばれたところで、遣唐使を見送ったのも朝鮮出兵を出したのも、また元寇を迎え討ったのもここである。その西公園の麓には、黒田藩の儒学者、貝原益軒の旧居跡がある。晩年の80歳を過ぎて著した健康指南書『養生訓』(1712年)を書いたのもここだったのだろう。そこから15分ほど行くと金龍寺という禅寺があるが、その境内に益軒の墓がある。夫人の東軒と並んで、いかにも仲睦まじい平穏な人生が偲ばれる。
越し方は一夜ばかりの心地して 八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
(貝原益軒辞世の句 享年83)
そこから西へ、西新の商店街を抜けると、地下鉄の駅から通称「サザエさん通り」とよばれる街路がある。福岡の著名な進学校や私立大学のキャンパスを横目に浜辺をめざす。途中、昔、ここにいた長谷川町子が「サザエさん」の漫画を生み出した場所がある。今は大通りだが、昔はそこが浜辺だった。カツオ、ワカメ、イクラ、マスオ、サザエ、そしてフネさんも波平さんもみなここからの発想だ。東京の世田谷にもサザエさん通りがあるそうだが、福岡市民としてはこちらが本拠だと思いたい。その先にはサッカー少年たちの元気な声が響く中央公園があって、じきにスタート地点に戻る。
Gelukkig Gezond!
長崎の大学を「定年」で退く少し前にオランダに行ったことがある。北部の古都フローニンゲンの大学の博物館で「Gelukkig Gezond!」と題した展覧会があった。オランダ語で「元気で長生き!」の意だ。医学史の教授のリナ・ノエフが中心に企画したもので、会場を案内しながら、リナが1冊の本をくれた。蘭語と英語が併記された解説本である。帰りの飛行機でそれを見返しながら、これは一般向けにいい本になると直感した。定年の整理の雑務でバタバタしながら、それを日本語に訳してみた。長年、老化研究に没頭して、専門領域ではそれなりに名が知られていても、本を出そうとすると壁が厚い。一般には全くの無名で、どの出版社にも「持ち込み原稿お断り!」の原則があるのだ。以前の『寿命遺伝子』の時は出版社に認めてもらうのに5年かかった。こちらの訳本は何とか2年で潜り抜けたが、それでも3、4社と交渉を重ねた。幸い原書房の編集部長がすぐに価値を認めてくれて、出版に漕ぎ着けた。『老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ』(原書房)として上梓した。
本の帯にはこうある。「人は、逃れられない『老い』にどのように向き合ってきたのか、そして『健康』の維持のために何をしてきたのか。古代ギリシャ・ローマ時代から現代のアンチ・エイジングに至るまで多彩な図版とともに俯瞰する一冊!」。その通りだ。副題にあるとおり、西洋での『養生訓』、その思想の変遷を俯瞰する本になっている。そこには、西洋で脈々と受け継がれたヒポクラテスとガレノスの知恵があった。
東と西の養生訓
貝原益軒の『養生訓』には西洋医学の知識はほとんどない。益軒は若い頃、京都で学問を積んだが、その折、長崎で蘭医学を学んだ向井元升にも接した。だが、益軒の思想に蘭学はない。あえていえば中国の『本草綱目』に範を得た『大和本草』、つまり生薬の知恵と儒学の精神性は影響している。
西洋での養生訓は、先の『老いと健康の文化史』に詳しいが、その養生の源流は遠くギリシャ時代のヒポクラテスの思想にある。しかし、それが「健康学」として整理されたのは、中世イタリアの『サレルノの養生訓』やルネッサンスに至る前のトレチェントの『健康全書』にある。いろいろな形でのこれらの写本が、後々も、貝原益軒の『養生訓』のようにベストセラーになった。
老いの蘭学
日本では蘭学というと『解体新書』で西洋医学がわかったと思われ(誤解され)ている。だが、そこには人体骨格と臓器の解説があるだけで、当時のオランダ医学の実情については何も書かれていない。アムステルダムやライデンでの当時の本来の「蘭医学」の在りようについては、別の知識が必要だった。それは、前回紹介した『寿命遺伝子』と今回の『老いと健康の文化史』と同時期に出版にこぎつけた『オランダ絵画にみる解剖学:阿蘭陀外科医の源流をたどる』(東京大学出版会)に詳しい。これも拙訳だが、面白い本だと思っている。慣れない蘭書の翻訳努力、これは現代の蘭学の一人芝居だ。老化研究者から研究の場を奪われても、何とか生き延びようと苦悩し模索する老いがここにある。
図、老いの蘭学:西洋式養生訓とオランダ外科医の解剖学教育の歴史的変遷を表す図。
図 老いの蘭学:西洋式養生訓と阿蘭陀外科医の解剖学教育の歴史的変遷をたどる
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)など著書多数。
第3回 東と西の養生訓
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2023年11月 7日 13時12分
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
週末の健康ウォーク
大府の長寿研から長崎を経て、今私は、福岡の大学で医療人の卵たちに解剖、生理、薬理などを教えながら「老い」を考えている。老いの科学を整理して書くこともあれば、自らの老いに向き合うこともある。自宅から浜辺が近い。玄界灘に面した小さなビーチがある。若い頃、米国のカリフォルニアで10年を過ごしたが、サンタモニカやニューポートビーチを思い起こさせてくれる。福岡の浜辺は北縁だが、それでも夏の陽光はまぶしい。左には、昔、井上陽水が片想いの恋心を唄った能古島が浮かぶ。右には、以前はJALだったが、今はHiltonとなった瀟洒なホテルがある。その先はソフトバンクホークスの本拠地PayPayドームだ。その脇を東へ行くと西公園の小高い丘に上がる。春は桜の名所で丘の上には黒田長政を祀った光雲神社がある。その裏手から海を見渡せば、万葉の時代にも江戸時代にもあった景色がそのままそこにある。古くは荒津山とか荒戸山と呼ばれたところで、遣唐使を見送ったのも朝鮮出兵を出したのも、また元寇を迎え討ったのもここである。その西公園の麓には、黒田藩の儒学者、貝原益軒の旧居跡がある。晩年の80歳を過ぎて著した健康指南書『養生訓』(1712年)を書いたのもここだったのだろう。そこから15分ほど行くと金龍寺という禅寺があるが、その境内に益軒の墓がある。夫人の東軒と並んで、いかにも仲睦まじい平穏な人生が偲ばれる。
越し方は一夜ばかりの心地して 八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
(貝原益軒辞世の句 享年83)
そこから西へ、西新の商店街を抜けると、地下鉄の駅から通称「サザエさん通り」とよばれる街路がある。福岡の著名な進学校や私立大学のキャンパスを横目に浜辺をめざす。途中、昔、ここにいた長谷川町子が「サザエさん」の漫画を生み出した場所がある。今は大通りだが、昔はそこが浜辺だった。カツオ、ワカメ、イクラ、マスオ、サザエ、そしてフネさんも波平さんもみなここからの発想だ。東京の世田谷にもサザエさん通りがあるそうだが、福岡市民としてはこちらが本拠だと思いたい。その先にはサッカー少年たちの元気な声が響く中央公園があって、じきにスタート地点に戻る。
Gelukkig Gezond!
長崎の大学を「定年」で退く少し前にオランダに行ったことがある。北部の古都フローニンゲンの大学の博物館で「Gelukkig Gezond!」と題した展覧会があった。オランダ語で「元気で長生き!」の意だ。医学史の教授のリナ・ノエフが中心に企画したもので、会場を案内しながら、リナが1冊の本をくれた。蘭語と英語が併記された解説本である。帰りの飛行機でそれを見返しながら、これは一般向けにいい本になると直感した。定年の整理の雑務でバタバタしながら、それを日本語に訳してみた。長年、老化研究に没頭して、専門領域ではそれなりに名が知られていても、本を出そうとすると壁が厚い。一般には全くの無名で、どの出版社にも「持ち込み原稿お断り!」の原則があるのだ。以前の『寿命遺伝子』の時は出版社に認めてもらうのに5年かかった。こちらの訳本は何とか2年で潜り抜けたが、それでも3、4社と交渉を重ねた。幸い原書房の編集部長がすぐに価値を認めてくれて、出版に漕ぎ着けた。『老いと健康の文化史:西洋式養生訓のあゆみ』(原書房)として上梓した。
本の帯にはこうある。「人は、逃れられない『老い』にどのように向き合ってきたのか、そして『健康』の維持のために何をしてきたのか。古代ギリシャ・ローマ時代から現代のアンチ・エイジングに至るまで多彩な図版とともに俯瞰する一冊!」。その通りだ。副題にあるとおり、西洋での『養生訓』、その思想の変遷を俯瞰する本になっている。そこには、西洋で脈々と受け継がれたヒポクラテスとガレノスの知恵があった。
東と西の養生訓
貝原益軒の『養生訓』には西洋医学の知識はほとんどない。益軒は若い頃、京都で学問を積んだが、その折、長崎で蘭医学を学んだ向井元升にも接した。だが、益軒の思想に蘭学はない。あえていえば中国の『本草綱目』に範を得た『大和本草』、つまり生薬の知恵と儒学の精神性は影響している。
西洋での養生訓は、先の『老いと健康の文化史』に詳しいが、その養生の源流は遠くギリシャ時代のヒポクラテスの思想にある。しかし、それが「健康学」として整理されたのは、中世イタリアの『サレルノの養生訓』やルネッサンスに至る前のトレチェントの『健康全書』にある。いろいろな形でのこれらの写本が、後々も、貝原益軒の『養生訓』のようにベストセラーになった。
老いの蘭学
日本では蘭学というと『解体新書』で西洋医学がわかったと思われ(誤解され)ている。だが、そこには人体骨格と臓器の解説があるだけで、当時のオランダ医学の実情については何も書かれていない。アムステルダムやライデンでの当時の本来の「蘭医学」の在りようについては、別の知識が必要だった。それは、前回紹介した『寿命遺伝子』と今回の『老いと健康の文化史』と同時期に出版にこぎつけた『オランダ絵画にみる解剖学:阿蘭陀外科医の源流をたどる』(東京大学出版会)に詳しい。これも拙訳だが、面白い本だと思っている。慣れない蘭書の翻訳努力、これは現代の蘭学の一人芝居だ。老化研究者から研究の場を奪われても、何とか生き延びようと苦悩し模索する老いがここにある。
図、老いの蘭学:西洋式養生訓とオランダ外科医の解剖学教育の歴史的変遷を表す図。
図 老いの蘭学:西洋式養生訓と阿蘭陀外科医の解剖学教育の歴史的変遷をたどる
著者
もりのぞむ氏の写真。
森 望(もり のぞむ)
1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)など著書多数。
もちろん急ぎますよ、走ります。風に当たって、陽射しの下で、かすかな雨の中で、走りました。私たちは誰かが私たちを止める音を聞き、人の目を見ます。恥ずかしいですか?そんなことないですよ。走らないといけないんですから。走るのが楽しいんです。走り出すことで、自分の目的を達成しようと躍起になっていた日々が戻ってきます。妥協した人はすぐに白髪が生えるでしょう?自分の中の自分と対話することができなくなってしまうからです。彼らは神との連絡を絶ち、「直感」の声を聞くことをやめました。でも私たちは一人ではいられなくて、心の中では支えが必要なんです。その支えは、まわりの人か、内なる「神様」のどちらかです。神様の言うことを聞きます。スピリチュアルなリンクを作ることですだから走って、心臓の鼓動を熱く保ちます。すべてに無感覚にならず、リアルに生きています。
目的地を思い立った時点で、私は出発します。一緒に人生を熱く感じながら、一緒にいてほしいんです。この熱さを私たちの愛の形に変えたいのです。私は要して、私達はただ注視して、すべての感じがすべて真実であることを知っています!#梦幻目的地##前目的地##情绪片# https://t.cn/RFpbffU
目的地を思い立った時点で、私は出発します。一緒に人生を熱く感じながら、一緒にいてほしいんです。この熱さを私たちの愛の形に変えたいのです。私は要して、私達はただ注視して、すべての感じがすべて真実であることを知っています!#梦幻目的地##前目的地##情绪片# https://t.cn/RFpbffU
スポニチ
堂本剛 退所決意に至った経緯説明 難聴の後遺症変わらず「音楽を続けるために大きな環境の変化が必要」
3月いっぱいで「SMILE―UP.」(旧ジャニーズ事務所)を退所することを22日に発表したKinKi Kidsの堂本剛(44)が24日、bay fm「堂本剛とFashion&Music Book」(土曜後10・00)に出演し、退所を決意するに至った心境の変化や状況を語った。
堂本は「個人の活動に関して、自分自身はフィールドを変えて、アーティスト活動、様々な活動をしていこうかなと思っています。ですので、今の会社との契約を終了し、自分の新しいフィールドに歩いて行こうと、そういう風に思っています」と報告。
現在、懸命にリハビリをするリスナーからのメッセージを紹介し「僕自身も幾度となくリハビリもしていますし、トレーニングというか、自分のできる限りのことをやっています。そして今自分の過ごしている環境の中での最大限での方法で体のケアはしてきました」と語った。
17年には突発性難聴を発症。病気と向き合いながら活動を続けており「つい先日、また病院に行きまして、新しい病院に行ってみたんですね。そこで聴力検査をさせてもらったんですけど、家族も一緒に同行してくれていたので、初めて受診させていただいた先生のリアクションが『ちょっと待って。本当に聞こえてないじゃない』って台詞を言っていたよって。それで『これで、どうやって歌ってんの?』って結構困惑されてたよって話を後で聞いた」と明かした。
堂本は「自分自身も、少しは何か変わっているかなあと思いながら向かったんですけど…。音響障害的なものは若干変化しているかなと思ったりはしているんですけど、劇的に変わったという認識はなくて、『治った…』という夢見たりとか。でも起きると『夢か…。でももしかしたら本当に治っているかも…。夢か…』」ということもあったとした。そのため、新しい病院に行ってみたとし「やっぱり、環境を大きく変える必要があるんじゃないですかね」と言われ、自分自身のケアの仕方、自分自身でハンドリングしながら、スケジューリングしながら体を労わりながら、音楽を続けるために大きな環境の変化が必要になってきているなあと感じたんですよね」と語った。
さらに「本当に長い月日をかけて、色んな方にお話をうかがったり、お話を聞いていただいたり、ご意見いただいたり、ご指導をいただいたり」とし、「人生一度きりだし、自分で自分を労わってあげなくてはいけないなと感じたり。だから個人のアーティスト活動に関しては、自分で決めていくこと、自分でハンドリングしていくこと、自分で調整して、耳をいたわりながら音楽を続けていく必要性があるなと。本当に色んな思いを持って、そういう決意に至りました」とていねいに説明。「人生一度きりだし、自分らしく生きてく。これからも色んな人たちと出会いますし、色んな人たちと自分の心をつなげながら生きていけたらな、と。一日、一日を大切に、自分の命も大切に思いながら過ごしていけたらなっていう風に思っております」と前を向いていた。
堂本剛 退所決意に至った経緯説明 難聴の後遺症変わらず「音楽を続けるために大きな環境の変化が必要」
3月いっぱいで「SMILE―UP.」(旧ジャニーズ事務所)を退所することを22日に発表したKinKi Kidsの堂本剛(44)が24日、bay fm「堂本剛とFashion&Music Book」(土曜後10・00)に出演し、退所を決意するに至った心境の変化や状況を語った。
堂本は「個人の活動に関して、自分自身はフィールドを変えて、アーティスト活動、様々な活動をしていこうかなと思っています。ですので、今の会社との契約を終了し、自分の新しいフィールドに歩いて行こうと、そういう風に思っています」と報告。
現在、懸命にリハビリをするリスナーからのメッセージを紹介し「僕自身も幾度となくリハビリもしていますし、トレーニングというか、自分のできる限りのことをやっています。そして今自分の過ごしている環境の中での最大限での方法で体のケアはしてきました」と語った。
17年には突発性難聴を発症。病気と向き合いながら活動を続けており「つい先日、また病院に行きまして、新しい病院に行ってみたんですね。そこで聴力検査をさせてもらったんですけど、家族も一緒に同行してくれていたので、初めて受診させていただいた先生のリアクションが『ちょっと待って。本当に聞こえてないじゃない』って台詞を言っていたよって。それで『これで、どうやって歌ってんの?』って結構困惑されてたよって話を後で聞いた」と明かした。
堂本は「自分自身も、少しは何か変わっているかなあと思いながら向かったんですけど…。音響障害的なものは若干変化しているかなと思ったりはしているんですけど、劇的に変わったという認識はなくて、『治った…』という夢見たりとか。でも起きると『夢か…。でももしかしたら本当に治っているかも…。夢か…』」ということもあったとした。そのため、新しい病院に行ってみたとし「やっぱり、環境を大きく変える必要があるんじゃないですかね」と言われ、自分自身のケアの仕方、自分自身でハンドリングしながら、スケジューリングしながら体を労わりながら、音楽を続けるために大きな環境の変化が必要になってきているなあと感じたんですよね」と語った。
さらに「本当に長い月日をかけて、色んな方にお話をうかがったり、お話を聞いていただいたり、ご意見いただいたり、ご指導をいただいたり」とし、「人生一度きりだし、自分で自分を労わってあげなくてはいけないなと感じたり。だから個人のアーティスト活動に関しては、自分で決めていくこと、自分でハンドリングしていくこと、自分で調整して、耳をいたわりながら音楽を続けていく必要性があるなと。本当に色んな思いを持って、そういう決意に至りました」とていねいに説明。「人生一度きりだし、自分らしく生きてく。これからも色んな人たちと出会いますし、色んな人たちと自分の心をつなげながら生きていけたらな、と。一日、一日を大切に、自分の命も大切に思いながら過ごしていけたらなっていう風に思っております」と前を向いていた。
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