糞うぜえ。
おまえになにがわかんねんって感じやな。
なんでも一般化してわかった気になってるアホは死ねや。
こいつは典型的なごきぶりマスコミの手先の丸め込み要員。 あいかわらず糞こざかしいごまかししかできんくせになにがガラッと変わっただよ。笑わせんな。おまえらごきぶりどもの卑怯さは永久もん。
ごきぶりマスコミのごきぶりどもは現在進行形で襟を正して俺の人権を蹂躙し現在進行形で襟を正して俺のプライバシーを侵害し現在進行形で襟を正して俺にストーカー行為を繰り返し現在進行形で襟を正してごきぶり糞女どもを押しつけてきてるわけだがそんな逝かれた糞気持ち悪いごきぶりどもを許してやるマヌケなおひとよしなど世界のどこにもおらんわボケ。おまえらじぶんが何いってるかわかってんのか。どれだけとんでもないこといってんのかわかってんのかおまえら。超自己中特有の腰抜かすほどあからさまに都合のいいことを平気でほざける異常性。他人事だと思ってあたおか丸出しなこと抜かしてると俺に刺されるぞカスじじい。
俺の義兄と同じ名前のじじい探し出してきてご苦労なこっちゃのう。1日も休まず俺に馬鹿にされ続けてないと死んでしまう病にかかってんのかよおまえら?
何万回でも同じこといってやる。こざかしい真似はおまえらより馬鹿相手にやれっつってんだよ。地べた這いずりまわって世界中を探さんかい。3人ぐらいはいるだろーがおまえらごきぶりより知能の低い馬鹿が。そいつら相手に好きなだけこざかしい真似やっとけやクソバカ知的障害者ども。同じ惑星で呼吸されてんの超大迷惑。ごきぶり青木連れて地球から出て行ってくれ。キモすぎるんだよおまえ。
おまえになにがわかんねんって感じやな。
なんでも一般化してわかった気になってるアホは死ねや。
こいつは典型的なごきぶりマスコミの手先の丸め込み要員。 あいかわらず糞こざかしいごまかししかできんくせになにがガラッと変わっただよ。笑わせんな。おまえらごきぶりどもの卑怯さは永久もん。
ごきぶりマスコミのごきぶりどもは現在進行形で襟を正して俺の人権を蹂躙し現在進行形で襟を正して俺のプライバシーを侵害し現在進行形で襟を正して俺にストーカー行為を繰り返し現在進行形で襟を正してごきぶり糞女どもを押しつけてきてるわけだがそんな逝かれた糞気持ち悪いごきぶりどもを許してやるマヌケなおひとよしなど世界のどこにもおらんわボケ。おまえらじぶんが何いってるかわかってんのか。どれだけとんでもないこといってんのかわかってんのかおまえら。超自己中特有の腰抜かすほどあからさまに都合のいいことを平気でほざける異常性。他人事だと思ってあたおか丸出しなこと抜かしてると俺に刺されるぞカスじじい。
俺の義兄と同じ名前のじじい探し出してきてご苦労なこっちゃのう。1日も休まず俺に馬鹿にされ続けてないと死んでしまう病にかかってんのかよおまえら?
何万回でも同じこといってやる。こざかしい真似はおまえらより馬鹿相手にやれっつってんだよ。地べた這いずりまわって世界中を探さんかい。3人ぐらいはいるだろーがおまえらごきぶりより知能の低い馬鹿が。そいつら相手に好きなだけこざかしい真似やっとけやクソバカ知的障害者ども。同じ惑星で呼吸されてんの超大迷惑。ごきぶり青木連れて地球から出て行ってくれ。キモすぎるんだよおまえ。
柿
夏目漱石
喜きいちゃんと云う子がいる。滑なめらかな皮膚ひふと、鮮あざやかな眸ひとみを持っているが、頬ほおの色は発育の好い世間の子供のように冴々さえざえしていない。ちょっと見ると一面に黄色い心持ちがする。御母おっかさんがあまり可愛かわいがり過ぎて表へ遊びに出さないせいだと、出入りの女髪結おんなかみゆいが評した事がある。御母さんは束髪の流行はやる今の世に、昔風の髷まげを四日目四日目にきっと結ゆう女で、自分の子を喜いちゃん喜いちゃんと、いつでも、ちゃん付づけにして呼んでいる。このお母っかさんの上に、また切下きりさげの御祖母おばあさんがいて、その御祖母さんがまた喜いちゃん喜いちゃんと呼んでいる。喜いちゃん御琴おことの御稽古おけいこに行く時間ですよ。喜いちゃんむやみに表へ出て、そこいらの子供と遊んではいけませんなどと云っている。
喜きいちゃんは、これがために滅多めったに表へ出て遊んだ事がない。もっとも近所はあまり上等でない。前に塩煎餅屋しおせんべいやがある。その隣に瓦師かわらしがある。少し先へ行くと下駄げたの歯入と、鋳いかけ錠前直じょうまえなおしがある。ところが喜いちゃんの家うちは銀行の御役人である。塀へいのなかに松が植えてある。冬になると植木屋が来て狭い庭に枯松葉かれまつばを一面に敷いて行く。
喜いちゃんは仕方がないから、学校から帰って、退屈になると、裏へ出て遊んでいる。裏は御母おっかさんや、御祖母おばあさんが張物はりものをする所である。よしが洗濯をする所である。暮になると向鉢巻むこうはちまきの男が臼うすを担かついで来て、餅もちを搗つく所である。それから漬菜つけなに塩を振って樽たるへ詰込む所である。
喜いちゃんはここへ出て、御母さんや御祖母さんや、よしを相手にして遊んでいる。時には相手のいないのに、たった一人で出てくる事がある。その時は浅い生垣いけがきの間から、よく裏の長屋を覗のぞき込む。
長屋は五六軒ある。生垣の下が三四尺崖がけになっているのだから、喜いちゃんが覗き込むと、ちょうど上から都合よく見下みおろすようにできている。喜いちゃんは子供心に、こうして裏の長屋を見下すのが愉快なのである。造兵へ出る辰たつさんが肌を抜いで酒を呑のんでいると、御酒を呑んでてよと御母さんに話す。大工の源坊げんぼうが手斧ておのを磨といでいると、何か磨いでてよと御祖母さんに知らせる。そのほか喧嘩けんかをしててよ、焼芋やきいもを食べててよなどと、見下した通りを報告する。すると、よしが大きな声を出して笑う。御母さんも、御祖母さんも面白そうに笑う。喜いちゃんは、こうして笑って貰うのが一番得意なのである。
喜いちゃんが裏を覗いていると、時々源坊の倅せがれの与吉と顔を合わす事がある。そうして、三度に一度ぐらいは話をする。けれども喜いちゃんと与吉だから、話の合う訳がない。いつでも喧嘩けんかになってしまう。与吉がなんだ蒼あおん膨ぶくれと下から云うと、喜いちゃんは上から、やあい鼻垂らし小僧、貧乏人、と軽侮さげすむように丸い顎あごをしゃくって見せる。一遍は与吉が怒って下から物干竿ものほしざおを突き出したので、喜いちゃんは驚いて家うちへ逃げ込んでしまった。その次には、喜いちゃんが、毛糸で奇麗きれいに縢かがった護謨毬ゴムまりを崖下がけしたへ落したのを、与吉が拾ってなかなか渡さなかった。御返しよ、放ほうっておくれよ、よう、と精一杯にせっついたが与吉は毬を持ったまま、上を見て威張って突立つったっている。詫あやまれ、詫まったら返してやると云う。喜いちゃんは、誰が詫まるものか、泥棒と云ったまま、裁縫しごとをしている御母さんの傍そばへ来て泣き出した。御母さんはむきになって、表向おもてむきよしを取りにやると、与吉の御袋がどうも御気の毒さまと云ったぎりで毬はとうとう喜いちゃんの手に帰らなかった。
それから三日経たって、喜いちゃんは大きな赤い柿かきを一つ持って、また裏へ出た。すると与吉が例の通り崖下へ寄って来た。喜いちゃんは生垣の間から赤い柿を出して、これ上げようかと云った。与吉は下から柿を睨にらめながら、なんでえ、なんでえ、そんなもの要いらねえやとじっと動かずにいる。要らないの、要らなきゃ、およしなさいと、喜いちゃんは、垣根から手を引っ込めた。すると与吉は、やっぱりなんでえ、なんでえ、擲なぐるぞと云いながらなおと崖の下へ寄って来た。じゃ欲しいのと喜いちゃんはまた柿を出した。欲しいもんけえ、そんなものと与吉は大きな眼をして、見上げている。
こんな問答を四五遍繰返くりかえしたあとで、喜いちゃんは、じゃ上げようと云いながら、手に持った柿をぱたりと崖の下に落した。与吉は周章あわてて、泥の着いた柿を拾った。そうして、拾うや否や、がぶりと横に食いついた。
その時与吉の鼻の穴が震ふるえるように動いた。厚い唇くちびるが右の方に歪ゆがんだ。そうして、食いかいた柿の一片いっぺんをぺっと吐いた。そうして懸命の憎悪ぞうおを眸ひとみの裏うちに萃あつめて、渋しぶいや、こんなものと云いながら、手に持った柿を、喜いちゃんに放ほうりつけた。柿は喜いちゃんの頭を通り越して裏の物置に当った。喜いちゃんは、やあい食辛抱くいしんぼうと云いながら、走かけ出だして家うちへ這入はいった。しばらくすると喜いちゃんの家で大きな笑声が聞えた。
夏目漱石
喜きいちゃんと云う子がいる。滑なめらかな皮膚ひふと、鮮あざやかな眸ひとみを持っているが、頬ほおの色は発育の好い世間の子供のように冴々さえざえしていない。ちょっと見ると一面に黄色い心持ちがする。御母おっかさんがあまり可愛かわいがり過ぎて表へ遊びに出さないせいだと、出入りの女髪結おんなかみゆいが評した事がある。御母さんは束髪の流行はやる今の世に、昔風の髷まげを四日目四日目にきっと結ゆう女で、自分の子を喜いちゃん喜いちゃんと、いつでも、ちゃん付づけにして呼んでいる。このお母っかさんの上に、また切下きりさげの御祖母おばあさんがいて、その御祖母さんがまた喜いちゃん喜いちゃんと呼んでいる。喜いちゃん御琴おことの御稽古おけいこに行く時間ですよ。喜いちゃんむやみに表へ出て、そこいらの子供と遊んではいけませんなどと云っている。
喜きいちゃんは、これがために滅多めったに表へ出て遊んだ事がない。もっとも近所はあまり上等でない。前に塩煎餅屋しおせんべいやがある。その隣に瓦師かわらしがある。少し先へ行くと下駄げたの歯入と、鋳いかけ錠前直じょうまえなおしがある。ところが喜いちゃんの家うちは銀行の御役人である。塀へいのなかに松が植えてある。冬になると植木屋が来て狭い庭に枯松葉かれまつばを一面に敷いて行く。
喜いちゃんは仕方がないから、学校から帰って、退屈になると、裏へ出て遊んでいる。裏は御母おっかさんや、御祖母おばあさんが張物はりものをする所である。よしが洗濯をする所である。暮になると向鉢巻むこうはちまきの男が臼うすを担かついで来て、餅もちを搗つく所である。それから漬菜つけなに塩を振って樽たるへ詰込む所である。
喜いちゃんはここへ出て、御母さんや御祖母さんや、よしを相手にして遊んでいる。時には相手のいないのに、たった一人で出てくる事がある。その時は浅い生垣いけがきの間から、よく裏の長屋を覗のぞき込む。
長屋は五六軒ある。生垣の下が三四尺崖がけになっているのだから、喜いちゃんが覗き込むと、ちょうど上から都合よく見下みおろすようにできている。喜いちゃんは子供心に、こうして裏の長屋を見下すのが愉快なのである。造兵へ出る辰たつさんが肌を抜いで酒を呑のんでいると、御酒を呑んでてよと御母さんに話す。大工の源坊げんぼうが手斧ておのを磨といでいると、何か磨いでてよと御祖母さんに知らせる。そのほか喧嘩けんかをしててよ、焼芋やきいもを食べててよなどと、見下した通りを報告する。すると、よしが大きな声を出して笑う。御母さんも、御祖母さんも面白そうに笑う。喜いちゃんは、こうして笑って貰うのが一番得意なのである。
喜いちゃんが裏を覗いていると、時々源坊の倅せがれの与吉と顔を合わす事がある。そうして、三度に一度ぐらいは話をする。けれども喜いちゃんと与吉だから、話の合う訳がない。いつでも喧嘩けんかになってしまう。与吉がなんだ蒼あおん膨ぶくれと下から云うと、喜いちゃんは上から、やあい鼻垂らし小僧、貧乏人、と軽侮さげすむように丸い顎あごをしゃくって見せる。一遍は与吉が怒って下から物干竿ものほしざおを突き出したので、喜いちゃんは驚いて家うちへ逃げ込んでしまった。その次には、喜いちゃんが、毛糸で奇麗きれいに縢かがった護謨毬ゴムまりを崖下がけしたへ落したのを、与吉が拾ってなかなか渡さなかった。御返しよ、放ほうっておくれよ、よう、と精一杯にせっついたが与吉は毬を持ったまま、上を見て威張って突立つったっている。詫あやまれ、詫まったら返してやると云う。喜いちゃんは、誰が詫まるものか、泥棒と云ったまま、裁縫しごとをしている御母さんの傍そばへ来て泣き出した。御母さんはむきになって、表向おもてむきよしを取りにやると、与吉の御袋がどうも御気の毒さまと云ったぎりで毬はとうとう喜いちゃんの手に帰らなかった。
それから三日経たって、喜いちゃんは大きな赤い柿かきを一つ持って、また裏へ出た。すると与吉が例の通り崖下へ寄って来た。喜いちゃんは生垣の間から赤い柿を出して、これ上げようかと云った。与吉は下から柿を睨にらめながら、なんでえ、なんでえ、そんなもの要いらねえやとじっと動かずにいる。要らないの、要らなきゃ、およしなさいと、喜いちゃんは、垣根から手を引っ込めた。すると与吉は、やっぱりなんでえ、なんでえ、擲なぐるぞと云いながらなおと崖の下へ寄って来た。じゃ欲しいのと喜いちゃんはまた柿を出した。欲しいもんけえ、そんなものと与吉は大きな眼をして、見上げている。
こんな問答を四五遍繰返くりかえしたあとで、喜いちゃんは、じゃ上げようと云いながら、手に持った柿をぱたりと崖の下に落した。与吉は周章あわてて、泥の着いた柿を拾った。そうして、拾うや否や、がぶりと横に食いついた。
その時与吉の鼻の穴が震ふるえるように動いた。厚い唇くちびるが右の方に歪ゆがんだ。そうして、食いかいた柿の一片いっぺんをぺっと吐いた。そうして懸命の憎悪ぞうおを眸ひとみの裏うちに萃あつめて、渋しぶいや、こんなものと云いながら、手に持った柿を、喜いちゃんに放ほうりつけた。柿は喜いちゃんの頭を通り越して裏の物置に当った。喜いちゃんは、やあい食辛抱くいしんぼうと云いながら、走かけ出だして家うちへ這入はいった。しばらくすると喜いちゃんの家で大きな笑声が聞えた。
一日の労苦
太宰治
一月二十二日。
日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽こっけいである。
このごろだんだん、自分の苦悩について自惚うぬぼれを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。
やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈はずだ。
もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修行の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この懊悩おうのうよ、有難う。
私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。
浪曼ろうまん的完成もしくは、浪曼的秩序という概念は、私たちを救う。いやなもの、きらいなものを、たんねんに整理していちいちこれの排除に努力しているうちに日が暮れてしまった。ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。
むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩わずらうな。空飛ぶ鳥を見よ。播まかず。刈らず。蔵に収めず。」
骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、訣別けつべつやら、何もかも、みんなもらって、ひっくるめて、そのまま歩く。ここに生長がある。ここに発展の路がある。称して浪曼的完成、浪曼的秩序。これは、まったく新しい。鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明そうめいに用心深く為すべきである。
君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の破綻はたんが不愉快なのである。こうなって来ると、浪曼的完成も、自分で言い出して置きながら、十分あやしいものである。とたんに声あり、そのあやしさをも、ひっくるめて、これを浪曼的完成と称するのである。
私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、銅像演技スタチュ・プレイという讃辞を贈られた。恰好かっこうの舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔サタンはひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。
作家は、ロマンスを書くべきである。
太宰治
一月二十二日。
日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽こっけいである。
このごろだんだん、自分の苦悩について自惚うぬぼれを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。
やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈はずだ。
もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修行の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この懊悩おうのうよ、有難う。
私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。
浪曼ろうまん的完成もしくは、浪曼的秩序という概念は、私たちを救う。いやなもの、きらいなものを、たんねんに整理していちいちこれの排除に努力しているうちに日が暮れてしまった。ギリシャをあこがれてはならない。これはもう、はっきりこの世に二度と来ないものだ。これは、あきらめなければいけない。これは、捨てなければいけない。ああ、古典的完成、古典的秩序、私は君に、死ぬるばかりのくるしい恋着の思いをこめて敬礼する。そうして、言う。さようなら。
むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩わずらうな。空飛ぶ鳥を見よ。播まかず。刈らず。蔵に収めず。」
骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、訣別けつべつやら、何もかも、みんなもらって、ひっくるめて、そのまま歩く。ここに生長がある。ここに発展の路がある。称して浪曼的完成、浪曼的秩序。これは、まったく新しい。鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明そうめいに用心深く為すべきである。
君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の破綻はたんが不愉快なのである。こうなって来ると、浪曼的完成も、自分で言い出して置きながら、十分あやしいものである。とたんに声あり、そのあやしさをも、ひっくるめて、これを浪曼的完成と称するのである。
私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、銅像演技スタチュ・プレイという讃辞を贈られた。恰好かっこうの舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔サタンはひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。
作家は、ロマンスを書くべきである。
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