よくボーカリストの方で「タバコを吸うと声が出なくなる」って人がいますが、ヘビースモーカー?な哲君”は大丈夫なんでしょうか?(笑)【P.N思井トド】
-很多歌手都說"吸煙會影響嗓音",但作為重度吸煙者的哲君似乎並沒有受到太大影響?(笑)
tetsu:
オレの場合タバコは大丈夫というか.あまり影響ないけど.
前夜の酒と、睡眠不足は敵だね.でも人間.少し位、コンディションが悪い方がPOWERが出たりしちゃうのよね。
不思議なもんで、さ。
-我的情況是,吸煙倒也無妨,影響不太大。前一晚喝酒過量和睡眠不足才是真正的敵人。不過偶爾人狀態不佳時反而會爆發出更強大的力量,這還真是個奇妙的現象。
-很多歌手都說"吸煙會影響嗓音",但作為重度吸煙者的哲君似乎並沒有受到太大影響?(笑)
tetsu:
オレの場合タバコは大丈夫というか.あまり影響ないけど.
前夜の酒と、睡眠不足は敵だね.でも人間.少し位、コンディションが悪い方がPOWERが出たりしちゃうのよね。
不思議なもんで、さ。
-我的情況是,吸煙倒也無妨,影響不太大。前一晚喝酒過量和睡眠不足才是真正的敵人。不過偶爾人狀態不佳時反而會爆發出更強大的力量,這還真是個奇妙的現象。
国盗り物語
織田信長編
度重なる戦で手痛い敗北を被った織田信秀は美濃との和睦を図り、世継の信長の縁談を道三に申し入れる。道三はこれを了承するものの、ところが信長という男は尾張では知らぬ者のない「うつけ殿」で、奇行ばかり繰り返す評判の馬鹿殿だった。信秀が急逝して家督を継いだ後も素行の悪さは改まることはなかったが、しかし道三は一期の対面で信長の資質を見抜いた。奇矯な振る舞いの奥に常識にとらわれぬ破天荒な想像力を見た道三は、以後舅と婿の関係を超えて厚情を示し、さながら師のように様々な教示を信長に与えた。ほどなく道三は世子の義竜との間に干戈を交えることとなり、信長に美濃一国を譲るという遺言状をしたためて出陣し、長良川の戦いで戦死する。自身の果たせなかった天下取りの夢を信長に託し、徒手空拳で美濃一国を手に入れた梟雄はここにその生涯を終えた。
いま一人、道三には信長と同じくその器量を高く見込んだ者がいた。甥の明智光秀という若者であり、道三はこの光秀の聡明さを高く買って猶子とし、かねてより手ずから教示を与えていた。その才覚を惜しんだ道三の命により美濃を落ち延びた光秀は、諸国を流浪した末に足利将軍家の知己を得る。光秀は室町幕府の再興に己の生を賭けることを誓うが、時を同じくして桶狭間の戦いに臨んだ信長が東海の大大名・今川義元を鮮やかに討ち取ったという噂を耳にする。共に亡き道三の相弟子であるものの、「うつけ殿」に何ができると信長を侮っていた光秀は、その劇的な勝利に衝撃を受ける。信長は次いで美濃を攻め、稲葉山城の戦いでも勝利を得て美濃を併呑した。華々しい戦勝を上げた信長の名は天下に轟くこととなり、もはや「うつけ殿」などと嘲う者はいなくなった。信長は稲葉山城下を岐阜と改め、かつて道三が天下取りを夢見た豊穣の地を手に入れる。
永禄の変で将軍義輝が暗殺された後、光秀は幽閉されていた弟の義昭を救い出し、義昭を新将軍に擁立するべく奔走を始める。光秀はひとまず越前の朝倉氏に庇護を頼むが、朝倉氏は抵抗勢力と交戦してまで京へ上る気はなかった。義昭は旭日昇天の勢いにある信長に将軍擁立を頼むことを望み、快諾した信長によって美濃へと迎えられる。義昭の推挙で信長に仕えることとなった光秀は、織田家中に入ったことにより政軍ともに卓抜したその能力を目の当たりにし、信長への評価をいよいよ改めねばならなくなる。光秀が一驚したのは諸事につけ徹底した信長の合理主義だった。信長は破竹の勢いで抵抗勢力を蹴散らしてたちまち上洛を実現させるものの、その戦術は伝統兵法などまるで無視した徹頭徹尾合理性で貫かれたものだった。信長の合理主義は中世的で非合理な既存の社会を破壊しようとするその統治思想にも現れており、光秀は室町幕府という旧体制の再興の果てに乱世の収拾を見ていたが、信長という男はまったく新たな秩序を創造しようとしていた。遅まきながら道三が信長に目をかけた理由を得心した光秀は、この男はあるいは天下を取るやも知れぬと考えるようになる。義昭の擁立もその権威に人心収攬の価値があるから利用したにすぎず、古い権威に微塵の価値も認めぬ信長はもとより室町将軍への畏敬など欠片も持ってはいなかった。やがて当の義昭も信長のその魂胆を察した。飾り物として奉られるだけの地位に憤慨した義昭は密かに信長討伐の御教書をばら撒き、書状に応じた大名達は諸国で次々と立ち上がり、反織田同盟が形成されて信長は窮地に陥ることとなる。
以後、信長は反織田同盟の切り崩しに躍起になるが、やがて甲斐の太守・武田信玄が上洛を図るという噂が天下を駆け巡った。反信長を標榜する諸大名にとってこの甲州の巨人の西上は最大の切望であったが、ところが信玄は進軍途中に突然の病に斃れて急死する。光秀は信長の強運に驚嘆し、天下を制するのは器量の有る無しではなく、器量を超えた天命を手にする者かと感ずる。信玄の死により、反織田同盟には大きく亀裂が入った。信玄の死を知らずに挙兵した義昭は信長の猛反撃を受けて京を追放され、室町幕府はここに滅亡した。すでに義昭の人物に幻滅していた光秀は敢えて幕府の崩壊を止めようとは思わなかったが、己が半生をかけて成し遂げようとした幕府再興の望みが崩れ去ったことに寂寞たる感慨を抱かずにはいられなかった。将軍家の消滅により光秀は正式に織田家の一将となり、その有能さを買った信長の命で、反抗勢力の討滅に駆け廻ることとなる。将軍追放に続いて信長は仇敵であった浅井・朝倉両氏も滅ぼし、長篠の戦いでは信玄亡き後の武田軍を壊滅させ、本願寺の一向衆も十年余に渡る長期戦の末に屈服させることに成功する。
本願寺の降伏をもって反織田同盟はついに終焉を迎えた。先立って近江に安土城を完成させていた信長は、古今無双の大城郭に居を据え、天下人としての礎を固めた。畿内が平定されたことにより、長年討滅戦に明け暮れた光秀も久方ぶりの閑休を得る。しかし、その心中は平らかではなかった。すでに光秀は信長を天下を取れる傑物と評価を改めていたものの、その人間性に対しては尊崇心を抱けなかった。共に道三から教示を受けた間柄ではあったが、道三の備えていた豊かな古典教養を受け継いだ光秀と、道三の破壊的な資質を受け継いだといえる信長の性格はあまりにも対照的であり、しばし衝突することもあった。また、信長は自らの統一事業を阻む輩は凄惨なやり方でこれを殲滅し、光秀をたびたび戦慄させた。さらに長年の労苦に耐えてきた部下すらも用済みと見るや些細な罪過を咎めて放逐し、人間をさながら道具のようにしか扱わぬその酷薄さにも光秀は恐懼した。中国の平定にも目処がつき、自分という道具がすでに不要と思われ始めていることを察した光秀は、もとより信長とそりの合わぬ自分などいつ同じような非業に遭うかと懊悩する。そう思いつめるほどに、光秀の神経は病み始めていた。やがて山陽道への出征を控え、信長が僅かな供回りを連れただけで京の本能寺に滞在することを知るに及んで、光秀はついに信長に叛旗を翻すことを決断する。
「敵は本能寺にあり」という号令とともに光秀の軍勢は京へ雪崩込み、たちまち本能寺を包囲した。光秀の謀叛を知った信長は、到底これを撥ね退ける術のないことを頓悟するや、是も非も無く己の死を受け入れ、寺に火を放って自刃する。さながら中世秩序を破壊するために生まれてきたような男の遺骸は、豪火に包まれて姿を消した。京を征した光秀はすぐさま近江をも平定し、天下人の象徴たる安土城をも手に入れる。が、時勢は光秀になびかなかった。織田家の諸将は一様に信長の仇討を叫び、光秀の旗の下に参ずる大名は誰一人としていなかった。やがて中国攻めの総司令官であった羽柴秀吉が怒涛の勢いで京へ向かっているという情報がもたらされ、諸将は秀吉を光秀討伐の盟主と仰ぎ、続々とその麾下に参集した。光秀には時代の翹望に応える力がなかった。信長は刻薄残忍という欠点を持ちながらも、その欠点が旧弊を破壊して新たな時代を切り開く力となっていたが、光秀にはそうした力を何も持たなかった。時代は光秀を望まず、いま山陽道を驀進してくる秀吉を迎えようとしていた。やむなく光秀は京南郊の山崎において羽柴軍と対峙することになるものの、所詮は多勢に無勢であり明智軍は無残に潰乱した。光秀は命からがら戦場を脱け出すものの、逃避行の最中に土民の槍にかかって呆気無く落命する。
道三によって大器を見出された二人の男は、その対照的な資質から互いに異なる衣鉢を受け継いだが故に宿命的に相まみえることとなり、共に散った。
織田信長編
度重なる戦で手痛い敗北を被った織田信秀は美濃との和睦を図り、世継の信長の縁談を道三に申し入れる。道三はこれを了承するものの、ところが信長という男は尾張では知らぬ者のない「うつけ殿」で、奇行ばかり繰り返す評判の馬鹿殿だった。信秀が急逝して家督を継いだ後も素行の悪さは改まることはなかったが、しかし道三は一期の対面で信長の資質を見抜いた。奇矯な振る舞いの奥に常識にとらわれぬ破天荒な想像力を見た道三は、以後舅と婿の関係を超えて厚情を示し、さながら師のように様々な教示を信長に与えた。ほどなく道三は世子の義竜との間に干戈を交えることとなり、信長に美濃一国を譲るという遺言状をしたためて出陣し、長良川の戦いで戦死する。自身の果たせなかった天下取りの夢を信長に託し、徒手空拳で美濃一国を手に入れた梟雄はここにその生涯を終えた。
いま一人、道三には信長と同じくその器量を高く見込んだ者がいた。甥の明智光秀という若者であり、道三はこの光秀の聡明さを高く買って猶子とし、かねてより手ずから教示を与えていた。その才覚を惜しんだ道三の命により美濃を落ち延びた光秀は、諸国を流浪した末に足利将軍家の知己を得る。光秀は室町幕府の再興に己の生を賭けることを誓うが、時を同じくして桶狭間の戦いに臨んだ信長が東海の大大名・今川義元を鮮やかに討ち取ったという噂を耳にする。共に亡き道三の相弟子であるものの、「うつけ殿」に何ができると信長を侮っていた光秀は、その劇的な勝利に衝撃を受ける。信長は次いで美濃を攻め、稲葉山城の戦いでも勝利を得て美濃を併呑した。華々しい戦勝を上げた信長の名は天下に轟くこととなり、もはや「うつけ殿」などと嘲う者はいなくなった。信長は稲葉山城下を岐阜と改め、かつて道三が天下取りを夢見た豊穣の地を手に入れる。
永禄の変で将軍義輝が暗殺された後、光秀は幽閉されていた弟の義昭を救い出し、義昭を新将軍に擁立するべく奔走を始める。光秀はひとまず越前の朝倉氏に庇護を頼むが、朝倉氏は抵抗勢力と交戦してまで京へ上る気はなかった。義昭は旭日昇天の勢いにある信長に将軍擁立を頼むことを望み、快諾した信長によって美濃へと迎えられる。義昭の推挙で信長に仕えることとなった光秀は、織田家中に入ったことにより政軍ともに卓抜したその能力を目の当たりにし、信長への評価をいよいよ改めねばならなくなる。光秀が一驚したのは諸事につけ徹底した信長の合理主義だった。信長は破竹の勢いで抵抗勢力を蹴散らしてたちまち上洛を実現させるものの、その戦術は伝統兵法などまるで無視した徹頭徹尾合理性で貫かれたものだった。信長の合理主義は中世的で非合理な既存の社会を破壊しようとするその統治思想にも現れており、光秀は室町幕府という旧体制の再興の果てに乱世の収拾を見ていたが、信長という男はまったく新たな秩序を創造しようとしていた。遅まきながら道三が信長に目をかけた理由を得心した光秀は、この男はあるいは天下を取るやも知れぬと考えるようになる。義昭の擁立もその権威に人心収攬の価値があるから利用したにすぎず、古い権威に微塵の価値も認めぬ信長はもとより室町将軍への畏敬など欠片も持ってはいなかった。やがて当の義昭も信長のその魂胆を察した。飾り物として奉られるだけの地位に憤慨した義昭は密かに信長討伐の御教書をばら撒き、書状に応じた大名達は諸国で次々と立ち上がり、反織田同盟が形成されて信長は窮地に陥ることとなる。
以後、信長は反織田同盟の切り崩しに躍起になるが、やがて甲斐の太守・武田信玄が上洛を図るという噂が天下を駆け巡った。反信長を標榜する諸大名にとってこの甲州の巨人の西上は最大の切望であったが、ところが信玄は進軍途中に突然の病に斃れて急死する。光秀は信長の強運に驚嘆し、天下を制するのは器量の有る無しではなく、器量を超えた天命を手にする者かと感ずる。信玄の死により、反織田同盟には大きく亀裂が入った。信玄の死を知らずに挙兵した義昭は信長の猛反撃を受けて京を追放され、室町幕府はここに滅亡した。すでに義昭の人物に幻滅していた光秀は敢えて幕府の崩壊を止めようとは思わなかったが、己が半生をかけて成し遂げようとした幕府再興の望みが崩れ去ったことに寂寞たる感慨を抱かずにはいられなかった。将軍家の消滅により光秀は正式に織田家の一将となり、その有能さを買った信長の命で、反抗勢力の討滅に駆け廻ることとなる。将軍追放に続いて信長は仇敵であった浅井・朝倉両氏も滅ぼし、長篠の戦いでは信玄亡き後の武田軍を壊滅させ、本願寺の一向衆も十年余に渡る長期戦の末に屈服させることに成功する。
本願寺の降伏をもって反織田同盟はついに終焉を迎えた。先立って近江に安土城を完成させていた信長は、古今無双の大城郭に居を据え、天下人としての礎を固めた。畿内が平定されたことにより、長年討滅戦に明け暮れた光秀も久方ぶりの閑休を得る。しかし、その心中は平らかではなかった。すでに光秀は信長を天下を取れる傑物と評価を改めていたものの、その人間性に対しては尊崇心を抱けなかった。共に道三から教示を受けた間柄ではあったが、道三の備えていた豊かな古典教養を受け継いだ光秀と、道三の破壊的な資質を受け継いだといえる信長の性格はあまりにも対照的であり、しばし衝突することもあった。また、信長は自らの統一事業を阻む輩は凄惨なやり方でこれを殲滅し、光秀をたびたび戦慄させた。さらに長年の労苦に耐えてきた部下すらも用済みと見るや些細な罪過を咎めて放逐し、人間をさながら道具のようにしか扱わぬその酷薄さにも光秀は恐懼した。中国の平定にも目処がつき、自分という道具がすでに不要と思われ始めていることを察した光秀は、もとより信長とそりの合わぬ自分などいつ同じような非業に遭うかと懊悩する。そう思いつめるほどに、光秀の神経は病み始めていた。やがて山陽道への出征を控え、信長が僅かな供回りを連れただけで京の本能寺に滞在することを知るに及んで、光秀はついに信長に叛旗を翻すことを決断する。
「敵は本能寺にあり」という号令とともに光秀の軍勢は京へ雪崩込み、たちまち本能寺を包囲した。光秀の謀叛を知った信長は、到底これを撥ね退ける術のないことを頓悟するや、是も非も無く己の死を受け入れ、寺に火を放って自刃する。さながら中世秩序を破壊するために生まれてきたような男の遺骸は、豪火に包まれて姿を消した。京を征した光秀はすぐさま近江をも平定し、天下人の象徴たる安土城をも手に入れる。が、時勢は光秀になびかなかった。織田家の諸将は一様に信長の仇討を叫び、光秀の旗の下に参ずる大名は誰一人としていなかった。やがて中国攻めの総司令官であった羽柴秀吉が怒涛の勢いで京へ向かっているという情報がもたらされ、諸将は秀吉を光秀討伐の盟主と仰ぎ、続々とその麾下に参集した。光秀には時代の翹望に応える力がなかった。信長は刻薄残忍という欠点を持ちながらも、その欠点が旧弊を破壊して新たな時代を切り開く力となっていたが、光秀にはそうした力を何も持たなかった。時代は光秀を望まず、いま山陽道を驀進してくる秀吉を迎えようとしていた。やむなく光秀は京南郊の山崎において羽柴軍と対峙することになるものの、所詮は多勢に無勢であり明智軍は無残に潰乱した。光秀は命からがら戦場を脱け出すものの、逃避行の最中に土民の槍にかかって呆気無く落命する。
道三によって大器を見出された二人の男は、その対照的な資質から互いに異なる衣鉢を受け継いだが故に宿命的に相まみえることとなり、共に散った。
飯田蛇笏
芥川龍之介
或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻しきりに蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透すかさず「君と雖いえども畢ついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
爾来更に何年かを閲けみした今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
春雨の中や雪おく甲斐の山
これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
おらが家の花も咲いたる番茶かな
先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。
芥川龍之介
或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻しきりに蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透すかさず「君と雖いえども畢ついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
爾来更に何年かを閲けみした今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
春雨の中や雪おく甲斐の山
これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
おらが家の花も咲いたる番茶かな
先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。
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