義姫
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義姫
刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 歴女必見!戦国武将を支えた女剣士 義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。
その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。
その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。
伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。
1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。
義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。
結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。
伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。
伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。
まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。
戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。
同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。
義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。
一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。
しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。
最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。
次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。
そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。
この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。
1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。
当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。
義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。
そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。
ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。
実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。
1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。
義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。
伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。
ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。
なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。
義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。
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戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。
その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。
その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。
伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。
1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。
義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。
結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。
伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。
伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。
まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。
戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。
同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。
義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。
一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。
しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。
最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。
次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。
そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。
この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。
1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。
当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。
義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。
そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。
ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。
実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。
1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。
義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。
伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。
ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。
なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。
義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。
#宫世琉弥[超话]# あけました❗️
遅くなりましたが被災されたみなさんに少しでも勇気と笑顔が届くように。
今年もりゅうびと頑張って参ります♀️
2024年はついに20歳
言いきりますが今年宮世は全てにおいて必ず大飛躍します。
高みへずっと見ていてください
大爆発の向こう側に全員一緒につれていきます。
#宮世琉弥
遅くなりましたが被災されたみなさんに少しでも勇気と笑顔が届くように。
今年もりゅうびと頑張って参ります♀️
2024年はついに20歳
言いきりますが今年宮世は全てにおいて必ず大飛躍します。
高みへずっと見ていてください
大爆発の向こう側に全員一緒につれていきます。
#宮世琉弥
「世界で戦いたい」大迫傑、パリ五輪への思いと、ナイキ最新シューズへの期待|自身の成長を感じたMGC、来年元日のニューイヤー駅伝には選手として出場予定https://t.cn/A6lHUBL2 文=酒井政人 写真提供=ナイキ ジャパン
マラソンは2017年4月のボストンでデビューを飾ると、日本記録を2度更新。「ラストラン」として臨んだ2021年8月の東京五輪では美しい姿を披露して、6位入賞を果たした。
一度は「引退」したものの、大迫傑(Nike)は再び、勝負の世界に戻ってきた。今年10月のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で3位に入り、パリ五輪代表に近い位置につけているのだ。
いま大迫はどんなことを考えているのだろうか。
自身の成長を感じたMGC
10月のMGCは前回と同じ3位。小山直城(Honda)と赤﨑暁(九電工)に遅れてのフィニッシュとなり、今回も五輪代表内定に一歩届かなかった。
「雨のレースで非常にタフなコンディションでしたけど、そのなかでも自分の力は出し切れたんじゃないかなと思っています。川内優輝選手が序盤から行きましたが、落ちてくるのはわかっていたので、設楽悠太選手が飛び出した5年前のMGCより焦りはありませんでした。最後は数名の争いになり、勝ち切れなかった。ただ前回のMGCから自分自身が進化していることも多々あったのは収穫です。プラスして自分自身の変わらない強さみたいなものもあったのかなと思います」
MGCで「2位以内」に入った小山と赤﨑がパリ五輪代表に内定。大迫は現時点で〝3番目の選手〟だが、MGCファイナルチャレンジ(残すは大阪と東京)で設定タイムの2時間05分50秒を突破した最速の選手が代表権を獲得できる。5年前は東京マラソンに参戦して、2時間05分29秒の日本記録(当時)を樹立。自ら五輪をつかみにいったが、今回はどうするのか。
「発表前なので、どのレースに出るかは言えないですけど、ファイナルチャレンジについて思うことがある。今後については自分のメディアで発表したい。そう遠くない未来になると思います」
大迫は明言を避けたが、今後何かしらのアクションを起こしていくようだ。
ナイキの厚底シューズで結果を残してきた
マラソンで何度もドラマを作ってきた大迫傑。彼の足元にはいつもナイキの厚底シューズが輝いていた。
「次々と新しいプロダクトが出てきて、ナイキのシューズは進化していると思います。普通、前足部にエアを入れようと思わないですよね。でもエアがあることで、より反発が出る。初めてマラソンを走った2017年のボストンで履いた厚底も衝撃的でしたけど、ナイキは常に想像の上をいくプロダクトを出している印象です」
今年3月の東京と10月のMGCでは来年1月4日から順次発売予定の『アルファフライ 3』のプロトタイプを着用していた。
同モデルを初めて履いたのは今年1月のケニア・イテン合宿だったという。発表前のモデルのため、自身のSNSでも大きく映らないように注意していたが、「履いているシューズは何ですか?」というDMが来るほど、熱心なウォッチャーから注目を浴びていたようだ。
レース用シューズは「シンプルに速く走れるかどうか」を求めている大迫。3月の東京マラソンを2時間06分13秒で走破するなど、『アルファフライ 3』は彼の〝復活ラン〟を強力にサポートした。
「足入れ感も凄くいいんですけど、走ってみると化け物のようなシューズです。反発がしっかりありつつも、引き続きクッショニングもしっかりしている。前作では少し足りていなかったバランスの良さが追加されたので、非常に履きやすくなったと思います。しかもレースでは脚が最後まで残っていたという感覚がありました。自己記録を更新しようと思っているすべてのランナーにお勧めしたいですね」
「世界で戦いたい」という意欲は衰えていない
来年は夏にパリ五輪が開催される。多くのアスリートが目指す夢の舞台だ。大迫はリオ五輪でトラック種目(5000mと10000m)に出場して、東京五輪はマラソンで6位入賞。代表に選ばれれば、3度目のオリンピックとなる。
そのなかでパリ五輪はどのような存在なのか。
「東京五輪は少し特別ではあったんですけど、パリ五輪はフラットというか他の大会と一緒ですね。世の中の皆さんと、熱量の差があるのかもしれません。だからといって世界で勝負したいという気持ちは変わっていません。それがオリンピックである必要があるのか。マラソンはシックスメジャーズ(東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティ)があるので、年間で6回は世界と勝負できるチャンスがある。パリ五輪に出られるなら出ますし、あらゆるところでベストを尽くして、世界(のトップ)に近づいていくだけだと思っています」
一度は現役を退いたからこそ、見えてきた景色もある。復帰して競技に取り組む気持ちが少し変わったようだ。誰かのためではなく、大迫は自分自身のために走りたいという気持ちが強くなっている。
「より自分のために、自分の挑戦のために走るようになりました。これまでは日本陸上界の流れに、無理に合わせていた部分もありましたが、いまは純粋に陸上競技を極めたい、この大会を走りたいという思いにフォーカスできるようになったんです。毎回プレッシャーはかかるんですけど、自分に軸があるので、楽しめている感覚もあるのかなと思います」
GMOインターネットグループ陸上部のプレーイング・ディレクターという立場でもある大迫。元日のニューイヤー駅伝には選手として出場予定で、その後はどこかのマラソンを走ることになるだろう。
2023年は「やりたいことがどんどん出てきて、忙しかったですけど、楽しい1年でした。新しい刺激に囲まれてきた感じです」と表現したが、世界へのチャレンジは続いていく。自分に素直になった大迫傑はまだまだ私たちを驚かせてくれそうだ。
マラソンは2017年4月のボストンでデビューを飾ると、日本記録を2度更新。「ラストラン」として臨んだ2021年8月の東京五輪では美しい姿を披露して、6位入賞を果たした。
一度は「引退」したものの、大迫傑(Nike)は再び、勝負の世界に戻ってきた。今年10月のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で3位に入り、パリ五輪代表に近い位置につけているのだ。
いま大迫はどんなことを考えているのだろうか。
自身の成長を感じたMGC
10月のMGCは前回と同じ3位。小山直城(Honda)と赤﨑暁(九電工)に遅れてのフィニッシュとなり、今回も五輪代表内定に一歩届かなかった。
「雨のレースで非常にタフなコンディションでしたけど、そのなかでも自分の力は出し切れたんじゃないかなと思っています。川内優輝選手が序盤から行きましたが、落ちてくるのはわかっていたので、設楽悠太選手が飛び出した5年前のMGCより焦りはありませんでした。最後は数名の争いになり、勝ち切れなかった。ただ前回のMGCから自分自身が進化していることも多々あったのは収穫です。プラスして自分自身の変わらない強さみたいなものもあったのかなと思います」
MGCで「2位以内」に入った小山と赤﨑がパリ五輪代表に内定。大迫は現時点で〝3番目の選手〟だが、MGCファイナルチャレンジ(残すは大阪と東京)で設定タイムの2時間05分50秒を突破した最速の選手が代表権を獲得できる。5年前は東京マラソンに参戦して、2時間05分29秒の日本記録(当時)を樹立。自ら五輪をつかみにいったが、今回はどうするのか。
「発表前なので、どのレースに出るかは言えないですけど、ファイナルチャレンジについて思うことがある。今後については自分のメディアで発表したい。そう遠くない未来になると思います」
大迫は明言を避けたが、今後何かしらのアクションを起こしていくようだ。
ナイキの厚底シューズで結果を残してきた
マラソンで何度もドラマを作ってきた大迫傑。彼の足元にはいつもナイキの厚底シューズが輝いていた。
「次々と新しいプロダクトが出てきて、ナイキのシューズは進化していると思います。普通、前足部にエアを入れようと思わないですよね。でもエアがあることで、より反発が出る。初めてマラソンを走った2017年のボストンで履いた厚底も衝撃的でしたけど、ナイキは常に想像の上をいくプロダクトを出している印象です」
今年3月の東京と10月のMGCでは来年1月4日から順次発売予定の『アルファフライ 3』のプロトタイプを着用していた。
同モデルを初めて履いたのは今年1月のケニア・イテン合宿だったという。発表前のモデルのため、自身のSNSでも大きく映らないように注意していたが、「履いているシューズは何ですか?」というDMが来るほど、熱心なウォッチャーから注目を浴びていたようだ。
レース用シューズは「シンプルに速く走れるかどうか」を求めている大迫。3月の東京マラソンを2時間06分13秒で走破するなど、『アルファフライ 3』は彼の〝復活ラン〟を強力にサポートした。
「足入れ感も凄くいいんですけど、走ってみると化け物のようなシューズです。反発がしっかりありつつも、引き続きクッショニングもしっかりしている。前作では少し足りていなかったバランスの良さが追加されたので、非常に履きやすくなったと思います。しかもレースでは脚が最後まで残っていたという感覚がありました。自己記録を更新しようと思っているすべてのランナーにお勧めしたいですね」
「世界で戦いたい」という意欲は衰えていない
来年は夏にパリ五輪が開催される。多くのアスリートが目指す夢の舞台だ。大迫はリオ五輪でトラック種目(5000mと10000m)に出場して、東京五輪はマラソンで6位入賞。代表に選ばれれば、3度目のオリンピックとなる。
そのなかでパリ五輪はどのような存在なのか。
「東京五輪は少し特別ではあったんですけど、パリ五輪はフラットというか他の大会と一緒ですね。世の中の皆さんと、熱量の差があるのかもしれません。だからといって世界で勝負したいという気持ちは変わっていません。それがオリンピックである必要があるのか。マラソンはシックスメジャーズ(東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティ)があるので、年間で6回は世界と勝負できるチャンスがある。パリ五輪に出られるなら出ますし、あらゆるところでベストを尽くして、世界(のトップ)に近づいていくだけだと思っています」
一度は現役を退いたからこそ、見えてきた景色もある。復帰して競技に取り組む気持ちが少し変わったようだ。誰かのためではなく、大迫は自分自身のために走りたいという気持ちが強くなっている。
「より自分のために、自分の挑戦のために走るようになりました。これまでは日本陸上界の流れに、無理に合わせていた部分もありましたが、いまは純粋に陸上競技を極めたい、この大会を走りたいという思いにフォーカスできるようになったんです。毎回プレッシャーはかかるんですけど、自分に軸があるので、楽しめている感覚もあるのかなと思います」
GMOインターネットグループ陸上部のプレーイング・ディレクターという立場でもある大迫。元日のニューイヤー駅伝には選手として出場予定で、その後はどこかのマラソンを走ることになるだろう。
2023年は「やりたいことがどんどん出てきて、忙しかったですけど、楽しい1年でした。新しい刺激に囲まれてきた感じです」と表現したが、世界へのチャレンジは続いていく。自分に素直になった大迫傑はまだまだ私たちを驚かせてくれそうだ。
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