王 冕(おう べん、1310年 - 1359年)は、中国元代末期の画家・詩人・篆刻家。字は元章、号は煮石山農・飯牛翁・会稽外史・梅花屋主など。越州諸曁県の出身。
科挙試験を受けたものの合格せず、その後印綬を帯びること(官僚になること)をあきらめて全国を放浪し、絵を売りながら暮らしたといわれている。このためか、同じく科挙に落ちた清の小説家の呉敬梓の政治諷刺小説『儒林外史』にも登場する。
元末を代表する画家で、殊に花鳥画の発展に大きく貢献した。梅の花を画題として好み、満開の梅を華麗に表現しきったその作風は、中国はおろか日本の南画家たちにも強い影響を与えた。
詩人としても活躍し、時の政治に対する不満を詠むなどしている。
また偶然「花乳石」という石を手に入れた際、柔らかく加工しやすいことに気づいて篆刻に使用したと伝えられ、石を用いた篆刻の嚆矢となったといわれている。なお、「花乳石」は青田石のことだといわれている。
晩年は会稽の九里山の麓に「梅花庵」という庵を結び、隠棲生活を送ったという。
作品・著作
「墨梅図」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
『竹斎詩集』
王冕(1287年-1359年),字元章,号竹斋、煮石山农,亦号食中翁、梅花屋主等。诸暨枫桥(今属浙江绍兴)人。元朝画家、诗人、书法家、篆刻家。
王冕出身农家,幼时家贫。年轻时一度热衷功名,屡应举不中,遂绝意仕途,浪迹江湖。王冕曾买舟下东吴,千里远游,历览名山,开拓了视野和胸怀。在京城时,秘书卿泰不华曾荐其官职,辞谢南归,隐居于家乡九里山。后朱元璋进军浙东,与张士诚争夺绍兴,曾请王冕谋划,并授以咨议参军,不久,王冕病卒。王冕一生清贫,靠卖画为生。
王冕工诗善画,尤以墨梅知名。画梅继承宋代仲仁和尚和扬无咎的传统,并有新的创造。其性格孤傲,鄙视权贵,诗作多同情人民苦难、谴责豪门权贵、轻视功名利禄、描写田园隐逸生活之作。王冕一生爱好梅花,种梅、咏梅,又攻画梅。所画梅花花密枝繁,生意盎然,劲健有力,亦对后世产生了较大影响。他还兼擅竹石,长于篆刻,有《梅谱》传世,为早期画梅理论著述。存世代表作有《墨梅图》《南枝春早图》等。另著有《竹斋诗集》。
人物生平
早年生活
王冕自幼好学,白天放牛。七八岁时,父亲叫他在田埂上放牛,他偷偷地跑进学堂,去听学生念书。听完以后,总是默默地记住。傍晚回家,他把放牧的牛都忘记了。王冕的父亲大怒,打了王冕一顿。过后,他仍是这样。他的母亲说:“这孩子想读书这样入迷,何不由着他呢?”王冕从此以后就离开家,寄住在寺庙里。一到夜里,他就暗暗地走出来,坐在佛像的膝盖上,手里拿着书就着佛像前长明灯的灯光诵读,书声琅琅一直读到天亮。佛像多是泥塑的,一个个面目狰狞凶恶,令人害怕。王冕虽是小孩,却神色安然,好像没有看见似的。安阳的韩性听说,觉得他与众不同,将他收作学生,王冕于是学成了博学多能的儒生。但屡应试不第,遂将举业文章付之一炬。
王冕行事异于常人,时戴高帽,身披绿蓑衣,足穿木齿屐,手提木制剑,引吭高歌,往返于市中。或骑黄牛,持《汉书》诵读,人以狂生视之。著作郎李孝光欲荐作府吏,冕宣称:“我有田可耕,有书可读,奈何朝夕抱案立于庭下,以供奴役之使!”遂下东吴,入淮楚,历览名山大川。游大都,老友秘书卿泰不华欲荐以官职,力辞不就,南回故乡。隐居会稽九里山,种梅千枝,筑茅庐三间,题为“梅花屋”,自号梅花屋主,以卖画为生,制小舟名之曰“浮萍轩”,放于鉴湖之阿,听其所止。又广栽梅竹,弹琴赋诗,饮酒长啸。
拒绝为官
朱元璋平定婺州,攻取越州,屯兵九里山,闻其名,物色得之,置幕府,授以谘议参军,未就。元惠宗至正十九年(1359年),朱元璋以兵请冕为官。冕以出家相拒,并扩室为白云寺。旋卒于兰亭天章寺。
王冕后来游历在北方,王冕看到了那些耀武扬威的统治者后,内心怒火更不可抑制,遂赋诗倾泄郁怀:“唤鹰羌郎声似雷,骑马小儿眼如电。总是无知痴呆相,也逞虚威拈弓箭。老儒有识何以为?空指云山论文献。君不闻,一从赵高作丞相,吾道凋零如袜线。”(《有感》)
他从塞北回大都后,他的爱民族爱祖国的思想感情,更鲜明地流露出来,有一天,他画了一幅梅花,贴在墙壁上,并题诗说:“冰花个个团如玉,羌笛吹它不下来。”(《列朝诗集小传》)表示自己不愿给外族统治者作画,对权贵予以无情的讽刺,使见者缩首咋舌,不敢与语,因而触痛了统治者的疮疤,他们想逮捕他。他就在至正八年(1348)偷偷地逃回南方(《无声诗史》、张辰《王冕传》)。
南归的途中,又遇黄河决堤,沿河州县,田园房舍淹没。而官府不管,百姓只好四散逃荒,好不凄凉。王冕见此光景,自然内心苦楚,就对他的朋友张辰说:“黄河北流,天下自此将大乱,我也只好南归,以遂吾志。”(朱彝尊《王冕传》《诸暨县志》)
这时他听到他的杭州朋友卢生死在滦阳(河北迁安县西北),留有二个幼女一个男孩,无人抚养,他就到滦阳,安葬了卢生,带了二女一男回来,留养在家。宋濂的《王冕传》说有家僮使养,实际上就是这几个人。
路过淮河地方时,又发表了自己的感想,认为自己孤傲正直的胸怀是和残酷的现实相违背的。他在《南归》一诗中写道:“去岁离南去,今年自北归。过淮浑酒贱,出水白鱼肥。磊落同谁语,孤高与世违。最怜谯国子,潦倒说兵机。”
这次游历,使他更清楚地看破了人情势利。他知道功名已成镜中之花,水中之月,便改途易辙,学南阳诸葛亮的耕隐生活,隐居于九里山的水南村,自号“老龙”,把草堂取名“耕读轩”。白天参加体力劳动,种植稻、粱、桑、麻,晚上作画,过其“淡泊以明志”的半饥不饱的生活。
家庭生活
王冕做山农以后,生活日益窘迫,乡里人蔑视他,使他心境悲戚不堪,更使他不忍心的,是不能供养父母。他在《自感》一诗中说:“世俗鄙我微,故旧嗤我愚。赖有父母慈,倚门复倚闾。我心苦凄戚,我情痛郁纡。山林竞蛇虺,道路喧豺貙。荒林落日阴,羞见反哺乌。乌鸦有如此,吾生当何如?”
不幸他父亲在贫病交迫下逝世了,他悲痛之余,仍过其“酸辛甘自爱,褴褛愧妻儿”的生活。他送母亲到绍兴城里疗养,他的朋友著作郎李孝光,想荐他为府吏,王冕道:“我有田可耕,有书可读,岂肯送公文做人家的使唤吗?”(《诸暨县志》)再一次拒绝了为统治阶级服务。他养成了诙谐风趣放诞的性格。他母亲想归故乡,他在《楚辞图》上看见画的屈原衣冠,便自造了一顶极高的帽子,一件极阔的衣服,买一乘牛车,载了母亲,戴了高帽,穿了阔衣,执着鞭子,挂着木剑,唱着山歌,从村上走过,使得一群孩子跟着他笑,他也不在乎地向他们笑(宋濂《王冕传》)。
他的老师、同乡王艮,对他的品行很推崇。王艮曾亲自登门拜访过他的母亲,后来王艮做了江浙检校。王冕曾经身穿褴褛衣服,脚踏破鞋,去拜望王艮,王艮见到这副样子,马上替他洗尘,赠他鞋子,劝他做官,王冕笑而不答,放下鞋子离去(朱彝尊《王冕传》)。
不几年,他的母亲也逝世了,他悲痛万分过了三年的守孝生活。
宋濂云:“冕既归越,复言天下将乱,时海内无事,或斥为妄。冕曰:‘妄人非我,谁当为妄哉!’乃携妻孥隐于九里山。种豆三亩,粟倍之,树梅花千,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本,引水为池,种鱼千余头。结草庐三间,自题为‘梅花屋’。”
寥寥数语,可见王冕平日的言论与当时人们对他的态度了。在王冕的诗中,时常批评元朝政治的不良,北游归来后又公开宣传天下将乱,在朝廷看来一定会认为他是妖言惑众的人,是不容他存在的。所以他归家后要隐居九里山,显然与这类话有关系。
“去城悬九里,夹地出双溪。长年无客到,终日有猿啼。乌鸢虽见忌,麋鹿自相亲。”从这几句诗也可看出,他是因世人见忌而避入山中的。
隐居山林
王冕隐居在山明水秀的老家诸暨枫桥镇北九里山的水南村。村上共有三户人家,一年到头辛苦过活。一条溪水像带似的流过,挺秀的山峦耸立在屋后,山上竹木茂盛,一片葱茏。山光水色相映,景色秀丽,环境清幽,正如他诗篇中所说:“青山隐隐带江流,江上轩窗面面幽。”他在此地“种豆三亩,粟倍之,梅千树,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本;引水为池,种鱼千余头”(《芝园后集》卷十)。王冕一生的大部分时间,就是在这么一个充满着诗情画意的山村中度过的。朴实的生活与清幽的山水孕育了他的热爱生活、热爱劳动人民的性格,赋予他的诗画创作以浓厚的生活气息。
科挙試験を受けたものの合格せず、その後印綬を帯びること(官僚になること)をあきらめて全国を放浪し、絵を売りながら暮らしたといわれている。このためか、同じく科挙に落ちた清の小説家の呉敬梓の政治諷刺小説『儒林外史』にも登場する。
元末を代表する画家で、殊に花鳥画の発展に大きく貢献した。梅の花を画題として好み、満開の梅を華麗に表現しきったその作風は、中国はおろか日本の南画家たちにも強い影響を与えた。
詩人としても活躍し、時の政治に対する不満を詠むなどしている。
また偶然「花乳石」という石を手に入れた際、柔らかく加工しやすいことに気づいて篆刻に使用したと伝えられ、石を用いた篆刻の嚆矢となったといわれている。なお、「花乳石」は青田石のことだといわれている。
晩年は会稽の九里山の麓に「梅花庵」という庵を結び、隠棲生活を送ったという。
作品・著作
「墨梅図」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
『竹斎詩集』
王冕(1287年-1359年),字元章,号竹斋、煮石山农,亦号食中翁、梅花屋主等。诸暨枫桥(今属浙江绍兴)人。元朝画家、诗人、书法家、篆刻家。
王冕出身农家,幼时家贫。年轻时一度热衷功名,屡应举不中,遂绝意仕途,浪迹江湖。王冕曾买舟下东吴,千里远游,历览名山,开拓了视野和胸怀。在京城时,秘书卿泰不华曾荐其官职,辞谢南归,隐居于家乡九里山。后朱元璋进军浙东,与张士诚争夺绍兴,曾请王冕谋划,并授以咨议参军,不久,王冕病卒。王冕一生清贫,靠卖画为生。
王冕工诗善画,尤以墨梅知名。画梅继承宋代仲仁和尚和扬无咎的传统,并有新的创造。其性格孤傲,鄙视权贵,诗作多同情人民苦难、谴责豪门权贵、轻视功名利禄、描写田园隐逸生活之作。王冕一生爱好梅花,种梅、咏梅,又攻画梅。所画梅花花密枝繁,生意盎然,劲健有力,亦对后世产生了较大影响。他还兼擅竹石,长于篆刻,有《梅谱》传世,为早期画梅理论著述。存世代表作有《墨梅图》《南枝春早图》等。另著有《竹斋诗集》。
人物生平
早年生活
王冕自幼好学,白天放牛。七八岁时,父亲叫他在田埂上放牛,他偷偷地跑进学堂,去听学生念书。听完以后,总是默默地记住。傍晚回家,他把放牧的牛都忘记了。王冕的父亲大怒,打了王冕一顿。过后,他仍是这样。他的母亲说:“这孩子想读书这样入迷,何不由着他呢?”王冕从此以后就离开家,寄住在寺庙里。一到夜里,他就暗暗地走出来,坐在佛像的膝盖上,手里拿着书就着佛像前长明灯的灯光诵读,书声琅琅一直读到天亮。佛像多是泥塑的,一个个面目狰狞凶恶,令人害怕。王冕虽是小孩,却神色安然,好像没有看见似的。安阳的韩性听说,觉得他与众不同,将他收作学生,王冕于是学成了博学多能的儒生。但屡应试不第,遂将举业文章付之一炬。
王冕行事异于常人,时戴高帽,身披绿蓑衣,足穿木齿屐,手提木制剑,引吭高歌,往返于市中。或骑黄牛,持《汉书》诵读,人以狂生视之。著作郎李孝光欲荐作府吏,冕宣称:“我有田可耕,有书可读,奈何朝夕抱案立于庭下,以供奴役之使!”遂下东吴,入淮楚,历览名山大川。游大都,老友秘书卿泰不华欲荐以官职,力辞不就,南回故乡。隐居会稽九里山,种梅千枝,筑茅庐三间,题为“梅花屋”,自号梅花屋主,以卖画为生,制小舟名之曰“浮萍轩”,放于鉴湖之阿,听其所止。又广栽梅竹,弹琴赋诗,饮酒长啸。
拒绝为官
朱元璋平定婺州,攻取越州,屯兵九里山,闻其名,物色得之,置幕府,授以谘议参军,未就。元惠宗至正十九年(1359年),朱元璋以兵请冕为官。冕以出家相拒,并扩室为白云寺。旋卒于兰亭天章寺。
王冕后来游历在北方,王冕看到了那些耀武扬威的统治者后,内心怒火更不可抑制,遂赋诗倾泄郁怀:“唤鹰羌郎声似雷,骑马小儿眼如电。总是无知痴呆相,也逞虚威拈弓箭。老儒有识何以为?空指云山论文献。君不闻,一从赵高作丞相,吾道凋零如袜线。”(《有感》)
他从塞北回大都后,他的爱民族爱祖国的思想感情,更鲜明地流露出来,有一天,他画了一幅梅花,贴在墙壁上,并题诗说:“冰花个个团如玉,羌笛吹它不下来。”(《列朝诗集小传》)表示自己不愿给外族统治者作画,对权贵予以无情的讽刺,使见者缩首咋舌,不敢与语,因而触痛了统治者的疮疤,他们想逮捕他。他就在至正八年(1348)偷偷地逃回南方(《无声诗史》、张辰《王冕传》)。
南归的途中,又遇黄河决堤,沿河州县,田园房舍淹没。而官府不管,百姓只好四散逃荒,好不凄凉。王冕见此光景,自然内心苦楚,就对他的朋友张辰说:“黄河北流,天下自此将大乱,我也只好南归,以遂吾志。”(朱彝尊《王冕传》《诸暨县志》)
这时他听到他的杭州朋友卢生死在滦阳(河北迁安县西北),留有二个幼女一个男孩,无人抚养,他就到滦阳,安葬了卢生,带了二女一男回来,留养在家。宋濂的《王冕传》说有家僮使养,实际上就是这几个人。
路过淮河地方时,又发表了自己的感想,认为自己孤傲正直的胸怀是和残酷的现实相违背的。他在《南归》一诗中写道:“去岁离南去,今年自北归。过淮浑酒贱,出水白鱼肥。磊落同谁语,孤高与世违。最怜谯国子,潦倒说兵机。”
这次游历,使他更清楚地看破了人情势利。他知道功名已成镜中之花,水中之月,便改途易辙,学南阳诸葛亮的耕隐生活,隐居于九里山的水南村,自号“老龙”,把草堂取名“耕读轩”。白天参加体力劳动,种植稻、粱、桑、麻,晚上作画,过其“淡泊以明志”的半饥不饱的生活。
家庭生活
王冕做山农以后,生活日益窘迫,乡里人蔑视他,使他心境悲戚不堪,更使他不忍心的,是不能供养父母。他在《自感》一诗中说:“世俗鄙我微,故旧嗤我愚。赖有父母慈,倚门复倚闾。我心苦凄戚,我情痛郁纡。山林竞蛇虺,道路喧豺貙。荒林落日阴,羞见反哺乌。乌鸦有如此,吾生当何如?”
不幸他父亲在贫病交迫下逝世了,他悲痛之余,仍过其“酸辛甘自爱,褴褛愧妻儿”的生活。他送母亲到绍兴城里疗养,他的朋友著作郎李孝光,想荐他为府吏,王冕道:“我有田可耕,有书可读,岂肯送公文做人家的使唤吗?”(《诸暨县志》)再一次拒绝了为统治阶级服务。他养成了诙谐风趣放诞的性格。他母亲想归故乡,他在《楚辞图》上看见画的屈原衣冠,便自造了一顶极高的帽子,一件极阔的衣服,买一乘牛车,载了母亲,戴了高帽,穿了阔衣,执着鞭子,挂着木剑,唱着山歌,从村上走过,使得一群孩子跟着他笑,他也不在乎地向他们笑(宋濂《王冕传》)。
他的老师、同乡王艮,对他的品行很推崇。王艮曾亲自登门拜访过他的母亲,后来王艮做了江浙检校。王冕曾经身穿褴褛衣服,脚踏破鞋,去拜望王艮,王艮见到这副样子,马上替他洗尘,赠他鞋子,劝他做官,王冕笑而不答,放下鞋子离去(朱彝尊《王冕传》)。
不几年,他的母亲也逝世了,他悲痛万分过了三年的守孝生活。
宋濂云:“冕既归越,复言天下将乱,时海内无事,或斥为妄。冕曰:‘妄人非我,谁当为妄哉!’乃携妻孥隐于九里山。种豆三亩,粟倍之,树梅花千,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本,引水为池,种鱼千余头。结草庐三间,自题为‘梅花屋’。”
寥寥数语,可见王冕平日的言论与当时人们对他的态度了。在王冕的诗中,时常批评元朝政治的不良,北游归来后又公开宣传天下将乱,在朝廷看来一定会认为他是妖言惑众的人,是不容他存在的。所以他归家后要隐居九里山,显然与这类话有关系。
“去城悬九里,夹地出双溪。长年无客到,终日有猿啼。乌鸢虽见忌,麋鹿自相亲。”从这几句诗也可看出,他是因世人见忌而避入山中的。
隐居山林
王冕隐居在山明水秀的老家诸暨枫桥镇北九里山的水南村。村上共有三户人家,一年到头辛苦过活。一条溪水像带似的流过,挺秀的山峦耸立在屋后,山上竹木茂盛,一片葱茏。山光水色相映,景色秀丽,环境清幽,正如他诗篇中所说:“青山隐隐带江流,江上轩窗面面幽。”他在此地“种豆三亩,粟倍之,梅千树,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本;引水为池,种鱼千余头”(《芝园后集》卷十)。王冕一生的大部分时间,就是在这么一个充满着诗情画意的山村中度过的。朴实的生活与清幽的山水孕育了他的热爱生活、热爱劳动人民的性格,赋予他的诗画创作以浓厚的生活气息。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
冬もおいしい葉物野菜
もっと知りたい
葉物野菜
寒さが厳しい冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜。サラダから炒め物、鍋まで、料理に葉物野菜は欠かせません。今回は、6品目の葉物野菜について、その歴史や選ぶ際のポイントなどの基礎知識を紹介します。
監 修 | 藤田智 恵泉女学園大学人間社会学部教授
緑黄色野菜の王様 ほうれんそう
原種は発見されていませんが、原産地は西アジアのイラン近辺という説が有力です。そこから東西に分かれて伝播したため、大きく分けて東洋種と西洋種の2種類があります。日本には江戸時代の初めごろに東洋種が伝わりました。その後明治時代にアメリカから西洋種も入ってきましたが、あまり普及しませんでした。ただし現在市場に出回っているもののほとんどは東洋種と西洋種の一代雑種で、味のよい東洋種と病気に強い西洋種の長所を残しています。
緑黄色野菜の中でも高い栄養価があり、特にビタミンK、葉酸、鉄分が豊富です。さまざまな品種が地域を変えながら収穫され通年市場に出回っていますが、11月から1月にかけての時期は甘味が増しておいしくなります。
ほうれんそうのバリエーション
東洋種
剣葉といって、葉は肉が薄く深い切れ込みがあり、根元の赤みが濃い。あくが少なくて歯触りがよいので、お浸しになどに向いています。
西洋種
葉は切れ込みがなく丸みを帯びていて、少し厚みがあり、根元の赤みは薄い。あくが強いので炒め物に向いています。
甘くて栄養豊富な
ちぢみほうれんそう
甘くておいしいほうれんそうということで近年人気なのが、冬に出回るちぢみほうれんそう。寒締めほうれんそうとも呼ばれます。厳冬期にあえて冷たい外気にさらすことで糖度を上げたもので、縮れた葉が特徴です。
今週のまとめ
寒い冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜は
品種のバリエーションが豊富で地域ごとに特色があるのも魅力。
寒さによって甘味を増した葉物野菜をぜひ食べてみましょう。
冬もおいしい葉物野菜
もっと知りたい
葉物野菜
寒さが厳しい冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜。サラダから炒め物、鍋まで、料理に葉物野菜は欠かせません。今回は、6品目の葉物野菜について、その歴史や選ぶ際のポイントなどの基礎知識を紹介します。
監 修 | 藤田智 恵泉女学園大学人間社会学部教授
緑黄色野菜の王様 ほうれんそう
原種は発見されていませんが、原産地は西アジアのイラン近辺という説が有力です。そこから東西に分かれて伝播したため、大きく分けて東洋種と西洋種の2種類があります。日本には江戸時代の初めごろに東洋種が伝わりました。その後明治時代にアメリカから西洋種も入ってきましたが、あまり普及しませんでした。ただし現在市場に出回っているもののほとんどは東洋種と西洋種の一代雑種で、味のよい東洋種と病気に強い西洋種の長所を残しています。
緑黄色野菜の中でも高い栄養価があり、特にビタミンK、葉酸、鉄分が豊富です。さまざまな品種が地域を変えながら収穫され通年市場に出回っていますが、11月から1月にかけての時期は甘味が増しておいしくなります。
ほうれんそうのバリエーション
東洋種
剣葉といって、葉は肉が薄く深い切れ込みがあり、根元の赤みが濃い。あくが少なくて歯触りがよいので、お浸しになどに向いています。
西洋種
葉は切れ込みがなく丸みを帯びていて、少し厚みがあり、根元の赤みは薄い。あくが強いので炒め物に向いています。
甘くて栄養豊富な
ちぢみほうれんそう
甘くておいしいほうれんそうということで近年人気なのが、冬に出回るちぢみほうれんそう。寒締めほうれんそうとも呼ばれます。厳冬期にあえて冷たい外気にさらすことで糖度を上げたもので、縮れた葉が特徴です。
今週のまとめ
寒い冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜は
品種のバリエーションが豊富で地域ごとに特色があるのも魅力。
寒さによって甘味を増した葉物野菜をぜひ食べてみましょう。
#健康要有文化素養 & 健康要有哲學頭腦#
冬もおいしい葉物野菜
もっと知りたい
葉物野菜
寒さが厳しい冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜。サラダから炒め物、鍋まで、料理に葉物野菜は欠かせません。今回は、6品目の葉物野菜について、その歴史や選ぶ際のポイントなどの基礎知識を紹介します。
監 修 | 藤田智 恵泉女学園大学人間社会学部教授
消費量ナンバーワンの葉物野菜 キャベツ
西ヨーロッパ原産で、ケール、ブロッコリー、カリフラワーなどはみんな同じ原種の植物から生まれた親戚です。紀元前6世紀ごろからケルト人によって栽培が行われ、古代のギリシアやローマでは胃腸の調子を整える薬草として食べられていました。日本に伝わったのは江戸時代ですが、当初は鑑賞用の植物扱いで、そこからハボタンが生まれました。明治時代から食用としての栽培が始まり、戦後になってから洋食文化の広まりとともに本格的に普及しました。
キャベツは春(4月から6月)に収穫する春キャベツ(春玉)、群馬県や長野県の高原地帯や北海道、東北の寒冷地で作られ、夏(7月から10月)に収穫される夏秋キャベツ、冬(11月から3月ごろ)に収穫する冬キャベツ(寒玉)の3つに大きく分類できます。かつては形が扁平で葉の巻きが固く、加熱調理向きの冬キャベツが主流でしたが、つけ合わせやサラダなど生食の需要が増した結果、巻きがゆるやかで葉が柔らかい春キャベツの生産量が増加しています。また両者の中間的な品種も増えています。
キャベツのバリエーション
紫キャベツ
(レッドキャベツ)
赤紫色はアントシアニンという色素によるもの。一般的なキャベツよりも少し小ぶりで、葉は肉厚で固くしっかりと巻いています。サラダやピクルスなどによく用いられます。
芽キャベツ
ベルギー原産の栽培品種で、子持ちキャベツとも呼ばれています。葉の付け根に出てくる脇芽が結球したもので、60センチメートルから80センチメートルほどに伸びた茎に50個から60個ほどがびっしりとつきます。炒め物や煮込み料理に向いています。
縮緬(ちりめん)
キャベツ
フランスのサボイ地方を起源とすることからサボイキャベツと呼ばれ、ヨーロッパではポピュラーな品種です。濃い緑色の縮れた葉は肉厚で硬く、煮込み料理に向いています。
シュークリームはキャベツがモデル
キャベツはフランス語で「chou(シュー)」。フランスを代表するお菓子、シュークリームの正式な呼び方は「シュー・ア・ラ・クレーム(chou à la crème)」で、これは直訳すると「クリームが詰まったキャベツ」という意味になります。形が似ていることからこのネーミングになったといわれています。
冬野菜の代表格 はくさい
中国北東部の原産で、チンゲンサイや山東菜などの仲間です。日本に伝わったのは江戸時代後期で、明治時代から本格的な栽培が開始されました。以来、日本の食文化には欠かせない野菜となっていて、葉物野菜としてはキャベツに次ぐ生産量を誇ります。そして国内供給のほとんどが国内生産でまかなわれています。
はくさいは大きく分けると結球、半結球、非結球の3タイプがありますが、現在日本で流通しているのはほとんどが結球タイプ。ひと玉3キログラムから4キログラムの大型のものが主流ですが、近年は小型のものも流通しています。また結球タイプは葉が頭部までしっかりと重なって結球する円筒形(包被型)と、葉が頭部で重ならず先が尖っている砲弾形(包合型)の2種に分けられます。芯が白い砲弾形は主に漬物用で、一般的に出回っているのは芯が黄色くてカットした際の見た目が美しい円筒形です。はくさいは産地を変えながら通年で出荷されていますが、晩秋から冬にかけて寒さが増すごとに甘味が増しておいしくなります。
東京都発祥の特産野菜 こまつな
江戸時代から栽培されてきた東京都の特産品。昭和中期までは秋冬期のみに栽培され、年末年始に出回るものを「冬菜」や「雪菜」、初春に出回るものを「鶯菜(うぐいすな)」とも呼んでいました。東京発祥の野菜とあって関東地方での生産が盛んです。
こまつなには近縁種が多く、新潟県新潟市女池地区の「女池菜」、新潟県南魚沼市大崎の「大崎菜」、福島県福島市渡利地区の「信夫菜」など、日本全国にさまざまな土着の地方品種があります。またチンゲンサイとかけ合わせるなどの品種改良も盛んで、40種を超える品種があります。通年で出荷されていますが、12月から2月にかけて霜が降りた後のほうがあくが抜けて甘味が増し、葉も厚く柔らかくなっておいしくなります。
名付け親は将軍様?
こまつなの名前の由来は諸説ありますが、そのひとつが江戸幕府8代将軍、徳川吉宗がつけたというもの。1719年、鷹狩りで小松川を訪れた際に、香取神社に立ち寄って昼食をとった吉宗公。そこで食べたすまし汁に入っていた青菜をいたく気に入り、その名前を尋ねましたが、神主の答えは「名前はありません」。ならば、と神社のある地名にちなんで小松菜と命名したところ、将軍命名の青菜ということで全国的な知名度を持つようになったといわれています。
サラダには欠かせません レタス
原産地は地中海沿岸地方から中近東にかけて。紀元前6世紀ごろには栽培が始められていました。日本には平安時代に中国から伝わり「ちしゃ」と呼ばれるようになりました。このちしゃは、今では「掻きぢしゃ」と呼ばれるリーフレタスの仲間でした。結球したいわゆる玉レタスが入ってきたのは明治時代以降で、さらに本格的に普及するようになったのは食の西洋化が進んだ戦後になってから。「レタス」はラテン語で「乳」を意味する語で、ちしゃも「乳草」が転じた語とされています。共に収穫の際に根元を切ると白い液が出てくることからつけられました。
ひと口にレタスといってもさまざまな種類がありますが、大きく分けて結球性のヘッドレタス、リーフレタス、立ちレタス、ステムレタスの4タイプに分類できます。日本で主に流通しているのはヘッドレタスとリーフレタスです。またヘッドレタスのうち、シャキシャキした歯触りのものをクリスプヘッド型と呼びます。玉レタスとも呼び、日本でただ「レタス」という場合はこのタイプを指します。一方、同じ結球性レタスでも葉が柔らかくて巻きがゆるいものをバターヘッド型と呼び、日本ではサラダ菜の名前でも知られています。レタスは産地をリレーしながら通年出回っていますが、主にサラダ向きの野菜とあってとくに夏から秋にかけて多く消費されています。
レタスのバリエーション
立ちレタス
(立ちちしゃ)
結球性ですが、葉はほとんど巻かずに上方は開いています。代表的な品種にシーザーサラダによく使われるロメインレタス(コスレタス)があります。
ステムレタス
(茎レタス、茎ぢしゃ)
主に葉ではなく茎を食べるタイプのレタス。細く裂いて乾燥したものは山クラゲと呼ばれます。
鍋料理の定番野菜 しゅんぎく
名前の通りに菊の仲間で、原産地は地中海沿岸です。欧米では花が咲くまで育てて観賞用にしていますが、東アジア諸国では若い茎葉を食用にしています。日本には室町時代に伝わったと考えられていて、一般的に菊の花が秋に咲くのに対し、春に花が咲くのでこの名前がつきました。また関西などでは「菊菜(きくな)」と呼ばれています。
しゅんぎくは葉の大きさや形によって大葉種、中葉種、小葉種に大別され、葉の切れ込みが深いもののほうが独特の香りやえぐみが強い傾向にあります。日本で主に流通しているのは中葉種で、さらに関東地方を中心に出回っている「株立ち中葉」と、主に関西地方で出回っている「株張り中葉」に分けることができます。
しゅんぎくのバリエーション
株立ち中葉
立ち上がった茎が分岐するタイプ。伸びた茎を摘み取って丈を揃え、まとめた状態で出荷されます。摘み取り後も脇芽が伸びるため繰り返し収穫できます。
株張り中葉
茎が立ち上がらずに株が根元から横に張って伸びるタイプ。根付きのままか、根元から切り取って出荷されます。
サラダにもできる
大葉春菊
九州地方を中心に出回っている大葉種は葉の切れ込みが浅く、葉先が丸いのが特徴。えぐみが少ないためサラダにも利用されます。
緑黄色野菜の王様 ほうれんそう
原種は発見されていませんが、原産地は西アジアのイラン近辺という説が有力です。そこから東西に分かれて伝播したため、大きく分けて東洋種と西洋種の2種類があります。日本には江戸時代の初めごろに東洋種が伝わりました。その後明治時代にアメリカから西洋種も入ってきましたが、あまり普及しませんでした。ただし現在市場に出回っているもののほとんどは東洋種と西洋種の一代雑種で、味のよい東洋種と病気に強い西洋種の長所を残しています。
緑黄色野菜の中でも高い栄養価があり、特にビタミンK、葉酸、鉄分が豊富です。さまざまな品種が地域を変えながら収穫され通年市場に出回っていますが、11月から1月にかけての時期は甘味が増しておいしくなります。
ほうれんそうのバリエーション
東洋種
剣葉といって、葉は肉が薄く深い切れ込みがあり、根元の赤みが濃い。あくが少なくて歯触りがよいので、お浸しになどに向いています。
西洋種
葉は切れ込みがなく丸みを帯びていて、少し厚みがあり、根元の赤みは薄い。あくが強いので炒め物に向いています。
甘くて栄養豊富な
ちぢみほうれんそう
甘くておいしいほうれんそうということで近年人気なのが、冬に出回るちぢみほうれんそう。寒締めほうれんそうとも呼ばれます。厳冬期にあえて冷たい外気にさらすことで糖度を上げたもので、縮れた葉が特徴です。
今週のまとめ
寒い冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜は
品種のバリエーションが豊富で地域ごとに特色があるのも魅力。
寒さによって甘味を増した葉物野菜をぜひ食べてみましょう。
冬もおいしい葉物野菜
もっと知りたい
葉物野菜
寒さが厳しい冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜。サラダから炒め物、鍋まで、料理に葉物野菜は欠かせません。今回は、6品目の葉物野菜について、その歴史や選ぶ際のポイントなどの基礎知識を紹介します。
監 修 | 藤田智 恵泉女学園大学人間社会学部教授
消費量ナンバーワンの葉物野菜 キャベツ
西ヨーロッパ原産で、ケール、ブロッコリー、カリフラワーなどはみんな同じ原種の植物から生まれた親戚です。紀元前6世紀ごろからケルト人によって栽培が行われ、古代のギリシアやローマでは胃腸の調子を整える薬草として食べられていました。日本に伝わったのは江戸時代ですが、当初は鑑賞用の植物扱いで、そこからハボタンが生まれました。明治時代から食用としての栽培が始まり、戦後になってから洋食文化の広まりとともに本格的に普及しました。
キャベツは春(4月から6月)に収穫する春キャベツ(春玉)、群馬県や長野県の高原地帯や北海道、東北の寒冷地で作られ、夏(7月から10月)に収穫される夏秋キャベツ、冬(11月から3月ごろ)に収穫する冬キャベツ(寒玉)の3つに大きく分類できます。かつては形が扁平で葉の巻きが固く、加熱調理向きの冬キャベツが主流でしたが、つけ合わせやサラダなど生食の需要が増した結果、巻きがゆるやかで葉が柔らかい春キャベツの生産量が増加しています。また両者の中間的な品種も増えています。
キャベツのバリエーション
紫キャベツ
(レッドキャベツ)
赤紫色はアントシアニンという色素によるもの。一般的なキャベツよりも少し小ぶりで、葉は肉厚で固くしっかりと巻いています。サラダやピクルスなどによく用いられます。
芽キャベツ
ベルギー原産の栽培品種で、子持ちキャベツとも呼ばれています。葉の付け根に出てくる脇芽が結球したもので、60センチメートルから80センチメートルほどに伸びた茎に50個から60個ほどがびっしりとつきます。炒め物や煮込み料理に向いています。
縮緬(ちりめん)
キャベツ
フランスのサボイ地方を起源とすることからサボイキャベツと呼ばれ、ヨーロッパではポピュラーな品種です。濃い緑色の縮れた葉は肉厚で硬く、煮込み料理に向いています。
シュークリームはキャベツがモデル
キャベツはフランス語で「chou(シュー)」。フランスを代表するお菓子、シュークリームの正式な呼び方は「シュー・ア・ラ・クレーム(chou à la crème)」で、これは直訳すると「クリームが詰まったキャベツ」という意味になります。形が似ていることからこのネーミングになったといわれています。
冬野菜の代表格 はくさい
中国北東部の原産で、チンゲンサイや山東菜などの仲間です。日本に伝わったのは江戸時代後期で、明治時代から本格的な栽培が開始されました。以来、日本の食文化には欠かせない野菜となっていて、葉物野菜としてはキャベツに次ぐ生産量を誇ります。そして国内供給のほとんどが国内生産でまかなわれています。
はくさいは大きく分けると結球、半結球、非結球の3タイプがありますが、現在日本で流通しているのはほとんどが結球タイプ。ひと玉3キログラムから4キログラムの大型のものが主流ですが、近年は小型のものも流通しています。また結球タイプは葉が頭部までしっかりと重なって結球する円筒形(包被型)と、葉が頭部で重ならず先が尖っている砲弾形(包合型)の2種に分けられます。芯が白い砲弾形は主に漬物用で、一般的に出回っているのは芯が黄色くてカットした際の見た目が美しい円筒形です。はくさいは産地を変えながら通年で出荷されていますが、晩秋から冬にかけて寒さが増すごとに甘味が増しておいしくなります。
東京都発祥の特産野菜 こまつな
江戸時代から栽培されてきた東京都の特産品。昭和中期までは秋冬期のみに栽培され、年末年始に出回るものを「冬菜」や「雪菜」、初春に出回るものを「鶯菜(うぐいすな)」とも呼んでいました。東京発祥の野菜とあって関東地方での生産が盛んです。
こまつなには近縁種が多く、新潟県新潟市女池地区の「女池菜」、新潟県南魚沼市大崎の「大崎菜」、福島県福島市渡利地区の「信夫菜」など、日本全国にさまざまな土着の地方品種があります。またチンゲンサイとかけ合わせるなどの品種改良も盛んで、40種を超える品種があります。通年で出荷されていますが、12月から2月にかけて霜が降りた後のほうがあくが抜けて甘味が増し、葉も厚く柔らかくなっておいしくなります。
名付け親は将軍様?
こまつなの名前の由来は諸説ありますが、そのひとつが江戸幕府8代将軍、徳川吉宗がつけたというもの。1719年、鷹狩りで小松川を訪れた際に、香取神社に立ち寄って昼食をとった吉宗公。そこで食べたすまし汁に入っていた青菜をいたく気に入り、その名前を尋ねましたが、神主の答えは「名前はありません」。ならば、と神社のある地名にちなんで小松菜と命名したところ、将軍命名の青菜ということで全国的な知名度を持つようになったといわれています。
サラダには欠かせません レタス
原産地は地中海沿岸地方から中近東にかけて。紀元前6世紀ごろには栽培が始められていました。日本には平安時代に中国から伝わり「ちしゃ」と呼ばれるようになりました。このちしゃは、今では「掻きぢしゃ」と呼ばれるリーフレタスの仲間でした。結球したいわゆる玉レタスが入ってきたのは明治時代以降で、さらに本格的に普及するようになったのは食の西洋化が進んだ戦後になってから。「レタス」はラテン語で「乳」を意味する語で、ちしゃも「乳草」が転じた語とされています。共に収穫の際に根元を切ると白い液が出てくることからつけられました。
ひと口にレタスといってもさまざまな種類がありますが、大きく分けて結球性のヘッドレタス、リーフレタス、立ちレタス、ステムレタスの4タイプに分類できます。日本で主に流通しているのはヘッドレタスとリーフレタスです。またヘッドレタスのうち、シャキシャキした歯触りのものをクリスプヘッド型と呼びます。玉レタスとも呼び、日本でただ「レタス」という場合はこのタイプを指します。一方、同じ結球性レタスでも葉が柔らかくて巻きがゆるいものをバターヘッド型と呼び、日本ではサラダ菜の名前でも知られています。レタスは産地をリレーしながら通年出回っていますが、主にサラダ向きの野菜とあってとくに夏から秋にかけて多く消費されています。
レタスのバリエーション
立ちレタス
(立ちちしゃ)
結球性ですが、葉はほとんど巻かずに上方は開いています。代表的な品種にシーザーサラダによく使われるロメインレタス(コスレタス)があります。
ステムレタス
(茎レタス、茎ぢしゃ)
主に葉ではなく茎を食べるタイプのレタス。細く裂いて乾燥したものは山クラゲと呼ばれます。
鍋料理の定番野菜 しゅんぎく
名前の通りに菊の仲間で、原産地は地中海沿岸です。欧米では花が咲くまで育てて観賞用にしていますが、東アジア諸国では若い茎葉を食用にしています。日本には室町時代に伝わったと考えられていて、一般的に菊の花が秋に咲くのに対し、春に花が咲くのでこの名前がつきました。また関西などでは「菊菜(きくな)」と呼ばれています。
しゅんぎくは葉の大きさや形によって大葉種、中葉種、小葉種に大別され、葉の切れ込みが深いもののほうが独特の香りやえぐみが強い傾向にあります。日本で主に流通しているのは中葉種で、さらに関東地方を中心に出回っている「株立ち中葉」と、主に関西地方で出回っている「株張り中葉」に分けることができます。
しゅんぎくのバリエーション
株立ち中葉
立ち上がった茎が分岐するタイプ。伸びた茎を摘み取って丈を揃え、まとめた状態で出荷されます。摘み取り後も脇芽が伸びるため繰り返し収穫できます。
株張り中葉
茎が立ち上がらずに株が根元から横に張って伸びるタイプ。根付きのままか、根元から切り取って出荷されます。
サラダにもできる
大葉春菊
九州地方を中心に出回っている大葉種は葉の切れ込みが浅く、葉先が丸いのが特徴。えぐみが少ないためサラダにも利用されます。
緑黄色野菜の王様 ほうれんそう
原種は発見されていませんが、原産地は西アジアのイラン近辺という説が有力です。そこから東西に分かれて伝播したため、大きく分けて東洋種と西洋種の2種類があります。日本には江戸時代の初めごろに東洋種が伝わりました。その後明治時代にアメリカから西洋種も入ってきましたが、あまり普及しませんでした。ただし現在市場に出回っているもののほとんどは東洋種と西洋種の一代雑種で、味のよい東洋種と病気に強い西洋種の長所を残しています。
緑黄色野菜の中でも高い栄養価があり、特にビタミンK、葉酸、鉄分が豊富です。さまざまな品種が地域を変えながら収穫され通年市場に出回っていますが、11月から1月にかけての時期は甘味が増しておいしくなります。
ほうれんそうのバリエーション
東洋種
剣葉といって、葉は肉が薄く深い切れ込みがあり、根元の赤みが濃い。あくが少なくて歯触りがよいので、お浸しになどに向いています。
西洋種
葉は切れ込みがなく丸みを帯びていて、少し厚みがあり、根元の赤みは薄い。あくが強いので炒め物に向いています。
甘くて栄養豊富な
ちぢみほうれんそう
甘くておいしいほうれんそうということで近年人気なのが、冬に出回るちぢみほうれんそう。寒締めほうれんそうとも呼ばれます。厳冬期にあえて冷たい外気にさらすことで糖度を上げたもので、縮れた葉が特徴です。
今週のまとめ
寒い冬に旬を迎える品目が多い葉物野菜は
品種のバリエーションが豊富で地域ごとに特色があるのも魅力。
寒さによって甘味を増した葉物野菜をぜひ食べてみましょう。
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