足利尊氏の生い立ち
「足利尊氏」(あしかがたかうじ)は、1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府御家人の「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として誕生します。

1319年(元応元年)、15歳で従五位下(じゅごいげ)の位階となって元服した際、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から「高」の字を賜り、初名の「又太郎」(またたろう)から「足利高氏」(あしかがたかうじ)と名乗りました。当時、足利家は北条氏一族の次に位置する家格を持っていたため、足利尊氏も幼い頃から幕府内で優遇されていたと考えられています。
さらに、足利尊氏は、北条氏の中でも権威を持つ赤橋流北条氏にあたる「北条守時」(ほうじょうもりとき)の妹「赤橋登子」(あかはしとうし/あかはしなりこ)を正室に迎えることに。北条守時は、のちに六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が京都に設置した機関)から鎌倉幕府最後の執権に就きますが、そののち、義弟である足利尊氏によって幕府を滅ぼされることとなります。このときは、両家ともにそのような運命が待っているとは思いもしなかったのでしょう。

そして、1331年(元弘元年)に足利尊氏の父・足利貞氏が亡くなると、先に亡くなっていた兄「足利高義」(あしかがたかよし)に代わり、足利尊氏が27歳で家督を継ぎ当主となりました。
足利尊氏の寝返りと鎌倉幕府の滅亡
足利尊氏が足利家8代目当主となった1331年(元弘元年)に、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は御所を出て笠置山(かさぎやま)で倒幕の挙兵を起こします。

これに対し、鎌倉幕府は足利尊氏に幕府軍の大将として挙兵の要請を出すことに。
足利尊氏は幕命に従い、笠置山を包囲して後醍醐天皇を陥落させたあと、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が挙兵した「下赤坂城」(しもあかさかじょう:現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)での戦いにも参戦し、反乱を鎮圧させました。これらの「元弘の乱」での戦功で、足利尊氏は大将として名声を得ることとなったのです。

1333年(元弘3年)、廃位されて隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん:現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に逃亡し、再び挙兵します。これを受けて、足利尊氏も再び幕府軍として討伐するために上洛するのです。

しかし、丹波国篠村(現在の京都府亀岡市)に着陣すると、足利尊氏は情勢を見て鎌倉幕府を見限り、反幕府軍につくことを決意します。そして、後醍醐天皇の綸旨(りんじ:天皇の意向を受けて作成した文書)を受けた足利尊氏は、北条氏討伐の挙兵を起こし、諸国に倒幕軍挙兵要請の令状を発布。足利尊氏の反乱によって倒幕軍の機運が高まり、要請に応じた諸将とともに足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼしました。

さらに、足利尊氏の挙兵から2週間後、関東では足利家と同族の「新田義貞」(にったよしさだ)らの蜂起によって、鎌倉幕府が陥落することに。こうして、北条氏一族とともに鎌倉幕府は滅亡しました。

後醍醐天皇との対立
帰京した後醍醐天皇は、自らの廃位をなかったことにして、幕府という機関を廃止させます。こうして、後醍醐天皇によって「建武の新政」が始まると、足利尊氏は倒幕における一番の功労者として手厚い恩賞を受けました。このとき、後醍醐天皇の諱(いみな:実名)である「尊治」(たかはる)から「尊氏」という名を賜ることに。ところが、足利尊氏が政権で要職に就くことはなく、代わりに弟の「足利直義」(あしかがただよし)や家臣を政権に送り込みました。
1335年(建武2年)に、北条氏残党による「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が鎌倉で勃発。足利尊氏は、北条氏残党を討伐するために、後醍醐天皇に征夷大将軍の任官を望みましたが、却下されてしまいます。しかし、足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、足利直義と合流して乱を鎮めます。天皇の親政で恩恵を受けられない武士達の不満もピークに達していたこともあり、この足利尊氏の行動をきっかけに、後醍醐天皇と足利尊氏達はすれ違い始めるのです。

そして、乱の鎮圧後、足利尊氏は上洛の命令に背いたまま鎌倉に留まり、弟の足利直義とともに武士達に勝手に恩賞を与え始めます。このような足利家による武家政権を恐れた後醍醐天皇は、かつて足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を呼び付け、足利尊氏討伐の命令を下します。

これを受けて足利尊氏は、一度は隠居を受け入れたものの、弟の足利直義のためにも朝敵となることを決意。こうして、足利尊氏は1336年(建武3年)に討伐軍との戦いを繰り広げ、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)では楠木正成と新田義貞による連合軍を打ち破ります。

幕府の成立と南北朝時代の幕開け
ついに京都を制圧した足利尊氏は、比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。

こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました。足利尊氏は将軍として家臣から慕われていましたが、このとき実際に政務を行っていたのは、弟の足利直義だったと言われています。
一方、大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に逃れた後醍醐天皇は、この地で独自の政権を展開して、南朝を開きます。これにより、後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝が対立する南北朝時代へと突入するのです。しかし、幕府成立の翌年の1339年(暦応2年)に後醍醐天皇は崩御することに。これに対し、足利尊氏は長い間対立関係にあった後醍醐天皇を弔うために、京都に「天龍寺」(てんりゅうじ:京都市右京区)を建立しました。

ちなみに、後醍醐天皇が存命していた南朝では、裏切り者である足利尊氏のことを文書で記すときに、かつて自身が授けた「尊氏」という名を使わずに、「高氏」と呼び続けていたと言われています。後醍醐天皇は、自身を裏切った足利尊氏を長年恨み続けていたのでしょう。

南北朝問題は兄弟合戦でもあった?
弟・足利直義との決別
後醍醐天皇の崩御後、南北朝は統一に向かうどころか、さらなる混乱の渦に包まれます。足利尊氏一派は、ともに武家政権を率いてきた弟である足利直義と次第に関係を悪化させ、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)へと発展。

この戦いで、反足利直義派は足利直義を幕府から追放させ、足利尊氏と足利直義による両頭政治は崩壊することに。その後、南朝を取り込んだ足利直義との戦いは続いたものの、両派は和睦して足利直義を政権に復帰させます。
しかし、一度壊れた関係は両派の家臣にも響き、完全に修復することは困難でした。その結果、足利直義は政権を放棄して京都から鎌倉へと逃亡。一方、足利尊氏は、1351年(観応2年)に南朝に和議を申し出て、足利直義の討伐に向かいます。足利直義との戦いに勝利した足利尊氏は、鎌倉で足利直義を捕らえ幽閉します。こうして、南北朝を取り込んだ兄弟合戦に決着がつき、1352年(正平7年)に足利直義の死によって収束を見せました。

ところが、そのあとも南朝との和議はすぐに破られ、足利尊氏は後継である嫡男「足利義詮」(あしかがよしあきら)とともに、再び南北朝の争いに挑みます。その最中、1358年(延文3年)に足利尊氏は京都で病に倒れ、この世を去ることに。死因は、戦で負った背中の傷によるものだと考えられています。

主君、天皇、弟との関係に揺れ動いた人生を送った足利尊氏は、最期まで南北朝の統一を果たすことができませんでした。そして、この南北朝問題は後継へと引き継がれていったのです。

「薬」鲁迅(上)

 
1.
 秋の夜も更け、子の刻はとうに過ぎ、月も落ちた。朝日は未だ出ず、青黒い空の下、夜遊びする者をのぞいて、すべて寝静まっていた。華老栓は忽然、起きだして、マッチをすり、油のこびりついた灯心に火をつけると、茶館の二つの部屋に、青白い火がゆれた。
「とうさん、出かけるかい?」と老女の声。奥の小部屋から、ゴホンゴホンと咳。
「ああ」と老栓は応えながら、ボタンをとめ、手を出して、「だしてくれ」と言った。
かみさんは、枕の下をごそごそまさぐって、銀貨の包を渡した。彼はふるえる手で、隠しにしまいこみ、上から二回押さえて、提灯に火をつけ、灯心を消して、奥に入っていった。奥でも、ごそごそ音がし、続いてゴホンゴホンと咳。老栓は、息子の咳が静まるのを待って、小さな声で、「小栓、起きなくていいよ。店は母さんがやるから」
老栓は、息子が静かになったので、眠ったと思い、戸を開けて街に向かった。街はまだ暗くて、人っ子一人歩いていなかった。白い道がくっきり浮かんで見えた。提灯は足元を一歩一歩照らした。犬が何匹かいたが、一匹も吠えてこなかった。外は部屋よりかなり冷えたが、彼にはかえって爽快だった。まるで青年に戻ったようで、神通力を得て、誰かに生命を与える能力を得たごとく、大股で歩き出した。道も徐々に明るくなって、空も白み始めた。
老栓は歩くだけに専念していたが、はるか向こうに三叉路が見えてきて、びくっとした。
後ずさりして、戸の閉まった店の軒下に入って、戸にもたれて立っていた。だいぶ時間がたって、体が冷えてきた。
「ふん! くそ爺」
 「何だよう。ぬかよろこびさせやがって」
老栓はまた驚いて、目を開くと、何人もの男が目の前を通り過ぎて行った。一人がふり返って、彼をにらんだ。はっきりとはわからないが、長いこと飢えていた男が、やっと獲物にありついたように、目がギラっと光った。提灯の火は消えていた。隠しを確かめたら、硬いのはまだあった。向こうを見たら、怪しげな男たちが二人三人、死人のように徘徊していた。目を凝らしてみたが、別に奇怪なものは見えなかった。暫くすると、兵隊たちが行進してきた。兵服の前と後ろには大きな白い丸がはっきり見えた。目の前を通りすぎる時、暗紅色の縁取りまで見えた。一陣の足音が過ぎ、ちょっと目をはなしている間に、もう大勢になって、あの三々五々の連中も、忽然一体となり、潮のように進んでいった。
三叉路に着くや、立ち止まって半円形になった。
 老栓もそちらを見たが、人だかりの山で、背中しか見えなかった。まるで、見えざる手で、首を持ち上げられたアヒルの群れのように、全員首を伸ばしていた。静けさの中にも小さな音が聞こえていたが、急にざわざわしだすと、ドーンと一発。みな一目散で、後退した。老栓の立っているところまで来て、止まったので、押しつぶされそうだった。
 「さあ、金と引き替えだ!」真っ黒な男が彼の前に仁王立ちして、睨みつけるので、老栓はちぢみあがった。男は大きな手を目の前に突き出し、もう一方の手に、真っ赤なマントウをつかんでいた。赤いのがポタポタたれていた。
老栓はあたふたと銀貨を取り出し、ふるえながら彼に渡そうとするのだが、その物を受け取るのが恐ろしかった。男はいらいらしながら、「なに怖がってるんだ! 早く取れ!」とどなった。老栓がまだぐずぐずしていると、男は提灯をひったくり、べりっとそれを破って、マントウを包んで、老栓に握らせ、銀貨をつかんで、確かめてから身を翻し、「この
くそ爺!」と悪態をつきながら去って行った。
 「誰を治すんだい?」老栓は誰かが話しかけるのが聞こえたようだが、応えなかった。神経はすべて包の中に集中していた。十代続いた直系の嬰児を抱えるように大切にして、他のことは一切考えないことにした。この包の中の新しい生命を、自分の家に移植して、幸福をつかむのだ。
 朝日も出てきた。彼の前に一筋の大きな道が現れ、家の方までまっすぐ伸びていた。三叉路の角には、こわれかけた扁額にうすぼけた金文字で「古□亭口」とあった。
(2番目の□は欠落)。
2.
 老栓が家に戻ると、店は掃除もすみ、きれいに磨かれた茶卓が並んでいた。客はまだいなくて、小栓が奥で、朝飯を食べていた。大粒の汗がひたいからポタポタと落ち、あわせの背中にくっついて、肩甲骨が陽刻の「八」の字のようである。老栓はそれを見て、少し気が重くなった。女房が炊事場から急いで出てきて、唇をふるわせながらじっと見て、
「手に入ったかい?」ときいた。
「ああ」
 二人は炊事場に行き、相談した。カミさんは出て行って、しばらくして大きなハスの葉を手にして戻り、卓上に広げた。老栓も提灯の包を開き、ハスの葉で真っ赤なマントウを包みなおした。小栓も飯をすませたが、母親はあわてて「小栓、そこにいて!こっちに来ちゃダメだよ!」と言った。
 カマドの火を掻いて、老栓は碧緑の包と紅白の破れ提灯をいっしょにカマドに入れた。
紅と黒の火焔が舞い上がり、店中に奇怪な香味がただよった。
 「いいにおいだね。何たべてるの?」せむしの五少爺が入ってきた。この男は毎日茶館で過す。一番に来て、最後までいる。このときものっそりと入ってきて、通りに面した角の卓に着くやいなや、訊いてみたのだが、誰も応答しない。「炒り米の粥かい?」
老栓はあたふたと出てきて、茶を注いだ。
「小栓、おいで!」母親は小栓を奥の部屋に呼んだ。中央に腰かけがあり、そこに坐った。母は真っ黒になったものを差し出した。「お食べ。すぐ良くなるから」と言った。
 小栓は黒いのをつかんで、ちょっとながめて、自分の命をつかんだような、なんともいえない気持ちになった。慎重に半分に割ると、焦げた皮の中から湯気がでた。湯気が消えると、白い小麦粉のマントウだった。 食べ終わるのにさして時間もかからなかったが、どんな味だったか、忘れてしまった。空になった皿が残り、傍らには父親、もう一方には母親がいて、二人の目は、彼の身に何かを注ぎこみ、そしてまた、何かを取り出そうとしているようであった。彼は心臓が跳びはねそうにドキドキするのを抑えきれず、胸をなでおろしたが、またゴホンゴホンと咳き込んだ。
 「お休みな!そしたらすぐ良くなるから」小栓は母に言われる通り、咳をしながら、眠りについた。母は咳が静まるのを待って、ふんわりとつぎだらけの布団をかぶせた。
3.
 客は増え、老栓も忙しくなり、ヤカンから一人ひとりに湯を注いで回った。目はクマができていた。
「老栓、具合でも悪いのかい?病気かい?」ゴマ塩髭の男がきいた。
「いや」
「じゃない。うれしそうに笑っているし、病気にはみえんが」ゴマ塩髭の男は自分の質問を取り消した。
 「老栓は忙しいだけだよ。もし息子が ……」
せむしの五少爺の話がおわらぬうちに、突然、顔の肉がたるんだ男が、黒い着物をボタンもせず、幅広の黒い腰帯をだらりとさせて、闖入してきた。入るなり、老栓に大声で、
「食ったか?良くなったか?老栓、おめえは運のいい奴よ!幸運だ。もし俺様の情報が遅かったら……。」
 老栓はヤカンを手にしながら、恭しく頭を下げ、にこにこして聞いていた。客も恭しく、聞いていた。カミさんも、目にクマをつけながらも、うれしそうに茶碗と茶葉を出し、オリーブも入れると、老栓が湯を注いだ。
 「まかしとけ。今度のは、そんじょそこらのとはわけが違う。熱いうちに取ってきて、熱いうちに食うんだから」肉のたるんだ男は、大声でしゃべり続けた。
 「本当さ。もし康大叔さんのお力添えがなければ、どうしてこんなにうまく……」カミさんも、大変感激して、彼に礼を言った。
「まちがいない。請け負うぜ。こんなふうに熱いうちに食う。この人血マントウなら、どんな肺病だって、すぐ治るさ!」
 カミさんは「肺病」と言われて、顔色が変わり、不満気であったが、作り笑いをして、きまり悪そうにその場を離れていった。康大叔は、そんなことは何も気づかぬがごとくに、
声を張り上げて、騒いでいたが、その騒ぎで寝ていた小栓もいっしょになって咳をしだした。
 「おめーん家の小栓は、こんな幸運にめぐり会えたんだから、きっと治るよ:どうりで、老栓もうれしそうにしているわけだ」ゴマ塩髭がしゃべりながら、康大叔の前に近づき、くぐもった声できいた。「康さん、今日殺されたのは、夏家の子だってそうだが、どの夏さんだい?で、何をやらかしたの?」
 「どのだって!四番目、のに、決ってるじゃないか。あのがきゃー!」康大叔は衆人が
耳をそばだてて聞くので、ことのほかうれしくなってきて、たるんだ肉をゆらしながら、声を荒げて、「あの がきゃー、命はいらねえーって。要らねえーなら、それまでよ。だがな、今日俺は、ひとつもうまい汁にありつけなかったんだ。奴の服も、牢番の赤目の阿義に持ってかれちゃったし。一番運がいいのは栓さんで、二番目は夏の三番目の奴さね。二十五両のピカピカの銀貨を一人占めしやがった。俺たちにはびた一文も分けちゃくれねえ。」

馬王堆漢墓
被葬者
各墓の被葬者は、前漢初期の長沙国で丞相をつとめ初代軑侯となった利蒼(2号墓)、その妻(1号墓)、息子(3号墓)である。

被葬者らを特定する上で手がかりになったのは、3基の墓の位置関係、副葬品である竹行李や土器の罐などの器物につけられた「軑侯家丞」の封泥、漆器に書かれた「軑侯家」の文字、出土した女性の被葬者、2号墓から出土した「利蒼」「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた印章、3号墓から出土した木牘から被葬者の死亡年が前168年と考えられること、軑侯の封建を記した『史記』巻19「恵帝間侯者年表」および『漢書』巻16「高恵高后文功臣表」の記述、などである。これらにより、各墓の被葬者は確実に証明された。
埋葬方式は仰臥伸展葬であり、棺内を満たす約 80 リットルの無色透明の液体に遺体は浸っていた。(この液体は、出土後ほどなくチョコレート色に変色した。)

遺体は2枚の肌着を含む18枚の絹や麻の経帷子を着、9本の帯で縛ったあと、2枚の真綿の衾被がかけられ、合計20枚の衣類に包まれていた。顔には濃い小豆色の錦のハンカチがかけられ、両腕と両足は絹の帯で縛られ、青絹の靴を履いていた。被葬者の開いた口からは舌が突き出て、その顔つきはいまだ生気が残っているかのようだった。

棺は四重で、いずれも梓の板を使い、棺槨と同様に掛け継ぎ、ほぞとほぞ穴、ほぞ釘などの接合方法で組み立てられた。大きさ(長さ×幅×高さ)は外棺が2.95×1.5×1.44メートル、内棺が2.02×0.69×0.63メートルであり、4つの棺が隙間なく重なり合うよう作られていた。四棺とも内壁は朱漆が塗られているが、外壁の装飾が次のように異なる。

外棺は黒漆塗りで、無地だった。
第二棺は黒漆塗の上に複雑な雲気紋と多くの怪神・禽獣の彩色画が描かれていた。
第三棺は朱漆塗の上に龍・虎・朱雀・仙人などを彩色して配した瑞祥図が描かれていた。
遺体を収める内棺は、黒漆塗の上に装飾が施されていた。すなわち、棺に蓋をしたのち2本の絹の帯を横に渡し、棺全体を覆うように絨圏錦(フランネル)で縁取りした羽毛貼花絹が貼り付けられ、錦のように飾り立てられていた。そして蓋板を一幅の帛画が覆っていた。
副葬品は全て辺箱の中に置かれており、1,400点を数えた。「妾辛追」と読むべき綬つきの印章が見つかっており、被葬者は利蒼の妻、姓名は辛追、と判断できる。

医学的所見
病理解剖の結果、遺体は外形のみならず内臓諸器官、さらには繊維性結合組織、筋肉組織、軟骨、血管など微細組織に至るまで、生前の状態に近い良好な保存状態が保たれていた。

女性の年齢は50歳前後。身長154.5センチメートル、体重34.3キログラム、血液型A型、出産経験あり。皮膚表面は褐黄色で(現在は黒色に変色)、皮膚組織はまだ湿潤かつ弾力性を残していた。頭髪はまばらだが白髪は無く、光沢が残り、少し力を入れて引いても抜けなかった。眼球がやや突出し、右鼓膜に穴が開いていた他は感覚器に異常は見られなかった。歯は16本残っていた。四肢の関節は動かすことができ、骨格は末端までほぼ完全であり、脳は 1/3 に萎縮していた。皮下脂肪が各所に見られ、小太りだったと思われる。

被葬者が生前多くの疾病に罹っていたことも判明した。具体的には、冠状動脈性の心臓病(心筋梗塞)、多発性胆石症、全身性の動脈粥状硬化症、血吸虫病など各種の寄生虫病、椎間板ヘルニア、胆嚢の先天的奇形、右腕骨折が確認された。

胃から真桑瓜の種が多数(138粒)出てきたため、被葬者が死亡したのは夏、食後2-3時間後と考えられる。被葬者は栄養状態が良く、長期に病臥した様子も見られないことから、胆石症の痛みが冠状動脈性心臓障害の発作を誘発し急死した、という経過が最も考えられる。ほか、仙丹の服用による水銀中毒・鉛中毒・砒素中毒が死因になった可能性も指摘されている。
湿屍

被葬者の遺体は「湿屍」と呼ばれる特異な保存状態にあった。2100年以上という年代の古さと、その良好な保存状態は、世界の死体保存例のうちでも極めて稀なものであり、医学的にも高い研究価値を持つ。

遺体が良好に保存された要因として、以下の点が挙げられている。

遺体が地中深く埋葬されていた。(盗掘坑があったが、墓室に達していなかった。)
墓室が堅固に構築され、数層の棺槨によって保護されていた
棺槨が木炭層と白膏泥層に包まれ、密封されていた。1号墓に穴をあけた際、ガスの噴出(火洞子、フォトンツ)が起こっており、これは確かに内部が密封されていた証である。
内部の密閉によって、低温と酸素欠乏状態が維持された。
被葬者は皮下脂肪が男性より多く、脂肪が発酵分解して発生したガスが墓室に充満した。結果として温度が一定して細菌の発生を防いだ。
漆、木炭、白膏泥、辰砂(いわゆる朱)、香料が防腐に役立った。
遺体が浸っていた液体には辰砂が含まれており、防腐の役割を果たした。
2号墓
被葬者は初代軑侯、利蒼。
盗掘により、遺骨は散乱した状態だった。副葬品は漆器、武器、陶器など200点がまだ残されており、その中に「利蒼」と刻まれた玉材私印が1個、「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた鍍金亀鈕銅印が各1個ずつ、計3個の印章が見つかり、これが被葬者を特定する決定的証拠になった。

『史記』および『漢書』によると利蒼は前186年(呂后2年)に没しており、埋葬はこの年あるいは1-2年後とみられる。

3号墓
被葬者は利蒼夫妻の息子で二代軑侯、利豨。あるいはその兄弟。

遺体は腐敗して骨格だけが残り、科学的調査から30歳前後の男性と鑑定された。棺は三重で、外棺と中棺はいずれも外側が褐色の漆塗り、内側が朱の漆塗だった。内棺は内外とも漆塗で、刺繍と絨圏錦の縁取りを施した絹で装飾され、また蓋板は一幅の帛画が覆い、棺内の両側板にもそれぞれ各一枚の帛画が掛けられていた。副葬品は全て辺箱の中に置かれており、漆器316点、木俑106個、竹行李53個、遣策など、1,000点を数えた。

副葬されていた木牘から、埋葬年は前168年と見られる。文献では利豨は前165年に没したことになっているため、被葬者は氏名不詳の兄弟と考えられてきたが、近年、利豨の印が出土したため利豨とも考えられる。


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