自驾游西藏墨脱。 墨脱是西藏最神秘的地方,是没有开发处女地,真正的原生态,也是海拔最低、环境最好,生态保存最好的地方,也是中国最具神秘性的地方之一。墨脱意思是“隐藏着的像莲花那样的圣地”。初进墨脱,映入眼帘是原始般森林,山连山,树连树,森林连绵不断,云雾布满山间,树木青翠欲滴,公路沿着雅鲁藏布江峭壁上蜿蜒直达县城。山间森林瀑布有细若轻纱,缓缓地飘落而下;有瀑布直泻,气势磅礴,也很壮观。墨脱公路崎岖险恶,十分颠簸,但风光无限,原生态的森林和神秘的雾霭,古老、闭塞,是你没有办法拒绝它。
飯田蛇笏
芥川龍之介
或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻しきりに蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透すかさず「君と雖いえども畢ついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
爾来更に何年かを閲けみした今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
春雨の中や雪おく甲斐の山
これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
おらが家の花も咲いたる番茶かな
先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。
芥川龍之介
或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻しきりに蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透すかさず「君と雖いえども畢ついに蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
爾来更に何年かを閲けみした今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
春雨の中や雪おく甲斐の山
これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
おらが家の花も咲いたる番茶かな
先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。
拆迁7年了第一次跟姐姐回宅基地,我从来没有回过这里,今天第一次很切实的感受到时代机器的威力,一种把石块重新变成石块的威力,街道,店铺,厂房,儿时的乐园,甚至山头,所有的一切都只混成石块。
我想起很多往事,我的爷爷很厉害,我们家总共6层楼,他能隔出58间小房间以300每月的价格外租出去,所有房间的隔板小桌子电器维修,他都一一包办,所以我今天听到柜子定制的人跟我报价的十万的时候我很恼火,我心想几块木板我爷爷都可以敲出来给我,我的爷爷真的很厉害,我家的屋子依山而建,他在山里也砸了两个洞连到家里来,这样他就又多了两个房间,三楼的阳台他可以叠着四楼再加盖出几个三点五楼,这样他就又多了两个房间。拆迁的时候拆迁办去对卫星地图,惊呼你家怎么每年都有变动,再惊呼这和原本的宅基地也差太多了吧。
就是这样连山都要偷一亩出来的爷爷,坚决的不出租二楼,因为他在等人。等爸妈过年从武汉做生意回来过年,等他的孙子孙女寒暑假来温州陪他。整栋屋子被他改建的像一个巨大的贫民窟,阴暗、潮湿、恶臭,唯独二楼,干净整洁,香气袭人,很像尼罗河上竖起的雪白神庙。
我和姐姐在这座神庙里拥有了一个孩子应该拥有的最快乐的童年,爷爷奶奶在一楼开着小卖部,这意味着全村的小孩子都会聚集到这里,这也同样意味着我们在小孩群体里不可动摇的统治地位,因为我们俩有吃不完的零食。我每天在爷爷奶奶的小卖部里胡作非为,然后拿着我的战利品分给我的伙伴们吃,我们在山头玩扮家家酒,从家里偷出锅碗瓢盆假装烧菜,让扮演女王的小朋友带着花冠站在山头我们跪下来朝拜,那山头的地里总是刨着刨着就有红薯跑出来,然后我们又开始比谁刨的红薯多,然后奶奶领着我们去给种红薯的奶奶道歉。
家对面是一条小河,小河的码头上停着一艘永远都不会开的船,他有时候被灌满水沉沉的飘着,有时候很轻盈的浮着,上面长了很多漂亮的红色的仔,长大了我才发现是癞蛤蟆,每年夏季河边的水渠里就会放水,在那里和姐姐比谁敢跳过水渠的游戏,有一年水渠里的水被放到无边无际的大,胆小如我也跟其他小朋友一起跳进去冲浪,一米五宽都没有的小水渠,可以宽广自由的像大海一样。
我的爷爷识字不多,会写的字也不多,但是每一个写在墙上的字都快准狠,“洗衣机,一次一块”,“乱倒垃圾,畜生”“曹尼玛,别倒了”,很小的时候我指着墙上问妈妈,“畜生”这两个字,是什么意思呢?妈妈拉着我离开,但是就是这样的爷爷,从小到大,没有对我说过一句狠话,我见到他他就恨不得把小卖部搬空给我,他总是给我糖果,所以对于小时候的我而言,他就是糖果。
拆迁前的最后一天,我们一家人最后一次回到了这栋屋子,我们家是村里最后一个拆的,爷爷不肯走,我理解他,因为我知道,这是爷爷建造的帝国,这是他的全部时代,随着屋子推倒的又何止是屋子呢。
我爷爷是瑞安陶山山头村人,在我们温州小朋友互相骂脏话,老是说对方是山头人,我也学着对方骂,由于我是超生的原因我很晚才上户口,上户口的那天我才发现,山头人原是我自己。
爷爷年轻的时候为了活下去,每天从山里挑一扁担的果蔬走四个小时的路来到现在的宅基地的村口卖菜,卖的多了他觉得应该留下来,于是他在村口支起了很破很破的帐篷。我家是赤塘村宁河路1号,一切都要从爷爷支起那顶帐篷开始,也没人想到这个地方后来居然是温州动车站对面。
我妈嫁进来的时候,我爸还住着漏雨的茅草木屋,我妈老说自己下嫁下嫁我觉得也没说错,毕竟她也算校长的女儿,爷爷看不下去,把木屋盖成了两层的水泥房子,后来温州假鞋昌盛,爸爸在屋对面盖厂房,妈妈负责切皮料,爸爸负责钉鞋,很快房子从二楼盖到了六楼,我爸爸说,最牛逼的时候市面上80%假鞋的鞋底,都是他做出来的,后来政府下场打假,一场上新闻的大火,烧掉了父母全部的积蓄他们开始北上重新打拼。
我爷爷一点没有闲着,他想着空着也是空着就把把家里改成了旅馆,他赚的越来越多围着山头买了一圈又一圈的地,奈何97年的我出生了,计划生育严打,妈妈被抓去结扎,爸爸被关进牢里,当时的村干部看上我们家地皮了,要我们给8万的赎金,97年的八万块,爷爷卖掉了自己全部的地,而我就这样“顺利”的出生了。小时候爷爷经常领着我走一圈,在山头他指给我看,这里,这里,还有那里,本来啊都是我的,直到你出生了,不过也没关系,反正本来也都是你的。
下午我站在宅基地的碎石上,这个地方,现在没有这里,这里,还有那里,这个地方现在只有一个地方,就是脚下的碎石。我站在道路的中间,我发现这条还未开通线路的正中间就是我的家,我的家变成了一条路,通往某个不属于我的方向,旁边只有一座空荡荡的石碑,写着赤塘二字,这时候我突然明白了名字的意义,像是浓缩了一整段时光的历史,好像只要这两个字还在,村子就一直在。
我来宅基地的路上经过一颗苍天巨榕,古桥、巨榕,美轮美奂,我妈跟我说,你爸最早就在这棵榕树下卖包子,她又跟我说,以前的东西也只能说给你听了,于是我想记录,我不知道我会不会有小孩,又该如何跟他诉说这段历史,我唯一能想到的事情就是记录,哪怕碎成瓦力也更改不了切实存在过的证据,这就是记录。
26岁的我站在11岁生活的地方,我发现世界不是我存在的象牙塔般的二楼,世界是阴暗潮湿的屋子还要小心拐角就碰到畜生,世界是明码标价的洗衣机一块钱一次,你想要拥有什么就付出什么代价,永远停在那里的船有一天也会莫名其妙的开走,觉得很漂亮的红色物体其实癞蛤蟆,其实长大后该懂的道理,爷爷早就教给了我,小时候常常跟姐姐顺着六楼的楼梯一点点滑道一楼,那时候觉得时间好慢,研究怎么滑下来就得用掉一个完整的下午,其实时间是最迅速的玩意,从11岁到26岁,一块石头碎掉只用一把斧头,从六楼滑到一楼只用一瞬。 https://t.cn/z85WylN
我想起很多往事,我的爷爷很厉害,我们家总共6层楼,他能隔出58间小房间以300每月的价格外租出去,所有房间的隔板小桌子电器维修,他都一一包办,所以我今天听到柜子定制的人跟我报价的十万的时候我很恼火,我心想几块木板我爷爷都可以敲出来给我,我的爷爷真的很厉害,我家的屋子依山而建,他在山里也砸了两个洞连到家里来,这样他就又多了两个房间,三楼的阳台他可以叠着四楼再加盖出几个三点五楼,这样他就又多了两个房间。拆迁的时候拆迁办去对卫星地图,惊呼你家怎么每年都有变动,再惊呼这和原本的宅基地也差太多了吧。
就是这样连山都要偷一亩出来的爷爷,坚决的不出租二楼,因为他在等人。等爸妈过年从武汉做生意回来过年,等他的孙子孙女寒暑假来温州陪他。整栋屋子被他改建的像一个巨大的贫民窟,阴暗、潮湿、恶臭,唯独二楼,干净整洁,香气袭人,很像尼罗河上竖起的雪白神庙。
我和姐姐在这座神庙里拥有了一个孩子应该拥有的最快乐的童年,爷爷奶奶在一楼开着小卖部,这意味着全村的小孩子都会聚集到这里,这也同样意味着我们在小孩群体里不可动摇的统治地位,因为我们俩有吃不完的零食。我每天在爷爷奶奶的小卖部里胡作非为,然后拿着我的战利品分给我的伙伴们吃,我们在山头玩扮家家酒,从家里偷出锅碗瓢盆假装烧菜,让扮演女王的小朋友带着花冠站在山头我们跪下来朝拜,那山头的地里总是刨着刨着就有红薯跑出来,然后我们又开始比谁刨的红薯多,然后奶奶领着我们去给种红薯的奶奶道歉。
家对面是一条小河,小河的码头上停着一艘永远都不会开的船,他有时候被灌满水沉沉的飘着,有时候很轻盈的浮着,上面长了很多漂亮的红色的仔,长大了我才发现是癞蛤蟆,每年夏季河边的水渠里就会放水,在那里和姐姐比谁敢跳过水渠的游戏,有一年水渠里的水被放到无边无际的大,胆小如我也跟其他小朋友一起跳进去冲浪,一米五宽都没有的小水渠,可以宽广自由的像大海一样。
我的爷爷识字不多,会写的字也不多,但是每一个写在墙上的字都快准狠,“洗衣机,一次一块”,“乱倒垃圾,畜生”“曹尼玛,别倒了”,很小的时候我指着墙上问妈妈,“畜生”这两个字,是什么意思呢?妈妈拉着我离开,但是就是这样的爷爷,从小到大,没有对我说过一句狠话,我见到他他就恨不得把小卖部搬空给我,他总是给我糖果,所以对于小时候的我而言,他就是糖果。
拆迁前的最后一天,我们一家人最后一次回到了这栋屋子,我们家是村里最后一个拆的,爷爷不肯走,我理解他,因为我知道,这是爷爷建造的帝国,这是他的全部时代,随着屋子推倒的又何止是屋子呢。
我爷爷是瑞安陶山山头村人,在我们温州小朋友互相骂脏话,老是说对方是山头人,我也学着对方骂,由于我是超生的原因我很晚才上户口,上户口的那天我才发现,山头人原是我自己。
爷爷年轻的时候为了活下去,每天从山里挑一扁担的果蔬走四个小时的路来到现在的宅基地的村口卖菜,卖的多了他觉得应该留下来,于是他在村口支起了很破很破的帐篷。我家是赤塘村宁河路1号,一切都要从爷爷支起那顶帐篷开始,也没人想到这个地方后来居然是温州动车站对面。
我妈嫁进来的时候,我爸还住着漏雨的茅草木屋,我妈老说自己下嫁下嫁我觉得也没说错,毕竟她也算校长的女儿,爷爷看不下去,把木屋盖成了两层的水泥房子,后来温州假鞋昌盛,爸爸在屋对面盖厂房,妈妈负责切皮料,爸爸负责钉鞋,很快房子从二楼盖到了六楼,我爸爸说,最牛逼的时候市面上80%假鞋的鞋底,都是他做出来的,后来政府下场打假,一场上新闻的大火,烧掉了父母全部的积蓄他们开始北上重新打拼。
我爷爷一点没有闲着,他想着空着也是空着就把把家里改成了旅馆,他赚的越来越多围着山头买了一圈又一圈的地,奈何97年的我出生了,计划生育严打,妈妈被抓去结扎,爸爸被关进牢里,当时的村干部看上我们家地皮了,要我们给8万的赎金,97年的八万块,爷爷卖掉了自己全部的地,而我就这样“顺利”的出生了。小时候爷爷经常领着我走一圈,在山头他指给我看,这里,这里,还有那里,本来啊都是我的,直到你出生了,不过也没关系,反正本来也都是你的。
下午我站在宅基地的碎石上,这个地方,现在没有这里,这里,还有那里,这个地方现在只有一个地方,就是脚下的碎石。我站在道路的中间,我发现这条还未开通线路的正中间就是我的家,我的家变成了一条路,通往某个不属于我的方向,旁边只有一座空荡荡的石碑,写着赤塘二字,这时候我突然明白了名字的意义,像是浓缩了一整段时光的历史,好像只要这两个字还在,村子就一直在。
我来宅基地的路上经过一颗苍天巨榕,古桥、巨榕,美轮美奂,我妈跟我说,你爸最早就在这棵榕树下卖包子,她又跟我说,以前的东西也只能说给你听了,于是我想记录,我不知道我会不会有小孩,又该如何跟他诉说这段历史,我唯一能想到的事情就是记录,哪怕碎成瓦力也更改不了切实存在过的证据,这就是记录。
26岁的我站在11岁生活的地方,我发现世界不是我存在的象牙塔般的二楼,世界是阴暗潮湿的屋子还要小心拐角就碰到畜生,世界是明码标价的洗衣机一块钱一次,你想要拥有什么就付出什么代价,永远停在那里的船有一天也会莫名其妙的开走,觉得很漂亮的红色物体其实癞蛤蟆,其实长大后该懂的道理,爷爷早就教给了我,小时候常常跟姐姐顺着六楼的楼梯一点点滑道一楼,那时候觉得时间好慢,研究怎么滑下来就得用掉一个完整的下午,其实时间是最迅速的玩意,从11岁到26岁,一块石头碎掉只用一把斧头,从六楼滑到一楼只用一瞬。 https://t.cn/z85WylN
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