朝倉義景の歴史
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。
越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。
そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。
若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。
そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。
この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。
朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。
時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。
朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。
そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。
そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。
朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。
その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。
織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。
しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。
そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。
しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。
これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。
これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。
それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。
さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。
このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。
武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。
そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。
これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。
一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。
そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。
越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。
そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。
若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。
そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。
この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。
朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。
時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。
朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。
そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。
そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。
朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。
その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。
織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。
しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。
そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。
しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。
これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。
これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。
それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。
さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。
このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。
武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。
そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。
これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。
一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。
そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。
サルフの戦い
建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。
戦いに至る経緯
建州女直を統一して、1616年にハンに即位し後金を起こしたヌルハチは、1618年に明に対して「七大恨」を掲げて宣戦を布告し、遼東における明の拠点である撫順を攻撃した。明はこれに対して、楊鎬を遼東経略に任命し、女直討伐にあたらせた。
しかし、明軍は予算不足のため兵の結集に手間取ったので、楊鎬は兵力を補うため後金に北隣する海西女直のイェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請した。イェヘは女直の統一を進めるヌルハチと対立していたため、これに応じた。一方の朝鮮では、国王の光海君は出兵を渋ったものの、先の文禄・慶長の役において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、都元帥の姜弘立と副元帥の金景瑞に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた。
1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(Hetu ala、赫図阿拉、興京)を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラを目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉綎が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮を取った。
サルフの戦い
これに対してヌルハチは、ヘトゥアラで明の全軍と一手に戦うことを避けて各個撃破をはかることにし、まずヘトゥアラ北方において最初の攻防の拠点となるサルフ山、およびその川の対岸にあるジャイフィアン山(Jaifiyan)に、明軍を足止めさせるため築城を開始した。
明軍の進軍は降雪によって遅れ、3月1日、杜松の西路軍が単独でサルフ近郊に到着した。サルフおよびジャイフィアンで後金軍による築城が進められていることをみた杜松は、馬林軍の到着を待たずにサルフ手前の渾河を渡河し、サルフ山に攻撃を開始した。数に勝る杜松軍はサルフ山をただちに占領し、2万5000の兵のうち1万をその守備に残して、残る主力1万5000でジャイフィアン山に攻めかかった。
一方、主力とともにヘトゥアラにあったヌルハチは、明軍到来の第一報を受けるとただちにサルフに向かって出撃し、同日夕刻にはサルフの南に到着した。ヌルハチが到着したとき、ジャイフィアンを守る後金の守備部隊は支えきれずに後退し、後方のギリンハダ(Girin hada)に入っていた。ヌルハチは八旗(8軍団)に分かれた後金軍主力のうち、2旗をジャイフィアンの敵主力に対する牽制に派遣する一方、自らは6旗を率い、宵闇に乗じてサルフに迫った。
サルフを守る明軍は、敵軍はキリンハダの守備隊と合流してジャイフィアンに向かうとみていたために、まったく奇襲を受けた形になり、混乱と暗さのため火器をほとんど生かせないまま接近戦に持ち込まれて壊滅した。後方部隊の壊滅によりジャイフィアンの明軍主力は動揺し、牽制の2旗とギリンハダの守備隊、そしてサルフから転進してきた後金軍主力6旗の全軍による三方向からの突撃の前になすすべもなく壊滅し、杜松以下主だった将領が戦死した。
萨尔浒之战是1619年(明万历四十七年,后金天命四年)二到三月间,在明朝与后金的战争中,努尔哈赤在萨尔浒(今辽宁抚顺东大伙房水库附近),以及萨尔浒附近地区大败明军四路进攻的反击战,是明朝与后金辽东战争中的战略决战。
萨尔浒之战中,明军集结全国精锐20万和朝鲜等军队,号称47万大军,向辽东发起进攻,兵分四路进军,左侧中路杜松领兵六万,右侧中路李如柏领兵六万,左侧北路马林领兵四万,合叶赫兵,右侧南路刘铤领兵四万,合朝鲜兵。后金方面,努尔哈赤“凭尔几路来,我只一路去”,就是集中兵力进攻一路,以消灭敌人有生力量为主。5天之内连破三路明军,歼灭明军约5万人,缴获大量军用物资,明军除行动迟缓的李如柏一路败退幸存外,其余几路被后金全歼。萨尔浒大战以后金全胜、明军大败而结束。
建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。
戦いに至る経緯
建州女直を統一して、1616年にハンに即位し後金を起こしたヌルハチは、1618年に明に対して「七大恨」を掲げて宣戦を布告し、遼東における明の拠点である撫順を攻撃した。明はこれに対して、楊鎬を遼東経略に任命し、女直討伐にあたらせた。
しかし、明軍は予算不足のため兵の結集に手間取ったので、楊鎬は兵力を補うため後金に北隣する海西女直のイェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請した。イェヘは女直の統一を進めるヌルハチと対立していたため、これに応じた。一方の朝鮮では、国王の光海君は出兵を渋ったものの、先の文禄・慶長の役において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、都元帥の姜弘立と副元帥の金景瑞に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた。
1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(Hetu ala、赫図阿拉、興京)を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラを目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉綎が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の瀋陽で待機し、全軍の総指揮を取った。
サルフの戦い
これに対してヌルハチは、ヘトゥアラで明の全軍と一手に戦うことを避けて各個撃破をはかることにし、まずヘトゥアラ北方において最初の攻防の拠点となるサルフ山、およびその川の対岸にあるジャイフィアン山(Jaifiyan)に、明軍を足止めさせるため築城を開始した。
明軍の進軍は降雪によって遅れ、3月1日、杜松の西路軍が単独でサルフ近郊に到着した。サルフおよびジャイフィアンで後金軍による築城が進められていることをみた杜松は、馬林軍の到着を待たずにサルフ手前の渾河を渡河し、サルフ山に攻撃を開始した。数に勝る杜松軍はサルフ山をただちに占領し、2万5000の兵のうち1万をその守備に残して、残る主力1万5000でジャイフィアン山に攻めかかった。
一方、主力とともにヘトゥアラにあったヌルハチは、明軍到来の第一報を受けるとただちにサルフに向かって出撃し、同日夕刻にはサルフの南に到着した。ヌルハチが到着したとき、ジャイフィアンを守る後金の守備部隊は支えきれずに後退し、後方のギリンハダ(Girin hada)に入っていた。ヌルハチは八旗(8軍団)に分かれた後金軍主力のうち、2旗をジャイフィアンの敵主力に対する牽制に派遣する一方、自らは6旗を率い、宵闇に乗じてサルフに迫った。
サルフを守る明軍は、敵軍はキリンハダの守備隊と合流してジャイフィアンに向かうとみていたために、まったく奇襲を受けた形になり、混乱と暗さのため火器をほとんど生かせないまま接近戦に持ち込まれて壊滅した。後方部隊の壊滅によりジャイフィアンの明軍主力は動揺し、牽制の2旗とギリンハダの守備隊、そしてサルフから転進してきた後金軍主力6旗の全軍による三方向からの突撃の前になすすべもなく壊滅し、杜松以下主だった将領が戦死した。
萨尔浒之战是1619年(明万历四十七年,后金天命四年)二到三月间,在明朝与后金的战争中,努尔哈赤在萨尔浒(今辽宁抚顺东大伙房水库附近),以及萨尔浒附近地区大败明军四路进攻的反击战,是明朝与后金辽东战争中的战略决战。
萨尔浒之战中,明军集结全国精锐20万和朝鲜等军队,号称47万大军,向辽东发起进攻,兵分四路进军,左侧中路杜松领兵六万,右侧中路李如柏领兵六万,左侧北路马林领兵四万,合叶赫兵,右侧南路刘铤领兵四万,合朝鲜兵。后金方面,努尔哈赤“凭尔几路来,我只一路去”,就是集中兵力进攻一路,以消灭敌人有生力量为主。5天之内连破三路明军,歼灭明军约5万人,缴获大量军用物资,明军除行动迟缓的李如柏一路败退幸存外,其余几路被后金全歼。萨尔浒大战以后金全胜、明军大败而结束。
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