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九鬼周造における〈偶然性〉の研究
人間文化課程 思想文化コース
12H1003 安立衣津美
〈要旨〉
1.九鬼周造という人物と問題提起
京都学派と呼ばれる京都帝国大学の哲学者らの活動が盛んだった頃、約 7 年もの西洋留
学を経て、京都帝国大学に赴任し、彼らとは毛色の違う思想を唱えたのが九鬼周造
(1888-1941 年)である。
彼の主著としては『いきの構造』や『偶然性の問題』があり、他にも「形而上的時間」
や「日本詩の押韻」などの論文を書き上げているが、どの論考においても〈偶然性〉とい
うテーマが見え隠れする。偶然性とは九鬼の哲学において重要な言葉であるが、なぜ九鬼
は偶然性にこだわったのか。それを知るには彼の人生を簡単に振り返る必要がある。
九鬼周造は 1888 年(明治 21 年)、官僚である父の九鬼隆一と京都の祇園の出と言われて
いる母の波津との間に生まれるも、母の波津と当時隆一の部下だった岡倉天心(覚三)が
恋仲となり、父と母は別居することになる。九鬼は母のもとで育てられ、たまに父と会う
機会もあったようであるが、彼は父と母が会っているところを見たことはなかったという。
本来なら子供(自分)は夫婦の愛の結晶であるはずなのだが、隆一と波津の間はもう冷
え冷えとして何も残ってはいない。では、自分の存在とは一体何なのか。自分はなぜ、何
のために生まれてきたのか。複雑な幼少期の中で育った九鬼にはこの体験が深く根を下ろ
しており、それが自分の存在に対して疑問を抱かせる要因となったのは間違いないであろ
う。故に、九鬼が考える偶然性とは、存在の無根拠性、非必然性を意味する。つまり、彼
が偶然性を問題にするとき、それは存在することもしないこともあり得たにも関わらず、実
・
際に存
・
在してしまっている己の実存の無根拠性、非必然性の問題に他ならない。
さて、九鬼の主著である『偶然性の問題』は、坂部恵による『不在の歌―九鬼周造の世
界―』(TBS ブリタニカ、1990 年)の中で下記の引用のように、九鬼の偶然性に対する思
索の最終決定版のようなものとして見られている。
〈偶然性〉をめぐる考察においては、……それがまとまった形で述べられた最初から、
周造の思索の基本的な結構はほぼ定まっており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化
はそこに見られず、むしろ、最初の講演から刊本にかけて、さらなる整理・統合・洗練
と肉付けがなされて行くというのが実情にほかならないということである。(P154)
確かに『偶然性の問題』は非常に論理的に書かれているし、論文ではなく本という分量
から考えても、九鬼の偶然性に対する思索の全てがそこに詰まっていると考えて読んでも
差し支えないように思われるかもしれない。しかし、この書と後の偶然性を扱った他の論
考を合わせて読むと、主張に若干の食い違いが見られ、「思索の基本的な結構はほぼ定まっ
ており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化はそこに見られ」ないとはとても思えない。
ではこの食い違いは一体何なのか。本論考では、その主張のズレの意味と理由を考察した。
2.原始偶然、形而上的絶対者、運命
主張の食い違いの指摘や意味、理由の考察結果の前に、キーワードとして原始偶然、形
而上的絶対者、運命について説明しておく必要がある。
九鬼は『偶然性の問題』において、原始偶然とはもうそれ以上遡ることのできない偶然
のことだと述べる。例えば、甲と乙が病院でたまたま出会ったとしたら偶然に思うかもし
れないが、実は両方とも丙のお見舞いに来ていたとしたら厳密な意味で偶然とは言えない
だろう。だが、そもそも丙が入院したのは、たまたま丙が散歩の道中でバイクと接触した
という偶然によるものなのではないか。しかし、交通量の多い道路を赤信号にも関わらず
丙が横断したのだとしたらその事故は必然ではないのか。このように偶然と必然を無窮に
遡っていった先に、もうこれ以上遡ることのできない X へとたどり着く。この X こそが原
始偶然である。原始偶然とは Y や Z などの他の選択肢(離接肢)がありえたにも関わらず
X であったということに偶然性がある。
自然や動植物や世界自体が、あるいは我々実存があのような形やそのような形でもあり
えたにも関わらずこのような形で存在するのはなぜか。そもそもそれらが全く存在しない
こともありえたのに存在するのはなぜか。この問いを最果てまで遡及したときに見出す原
始偶然の問題こそが、はじめに九鬼の出生の部分で書いた、存在することもしないことも
あり得たにも関わらず、実
・
際に存
・
在してしまっている己の実存
・ ・
の無根拠性、非必然性の問
題に他ならない。そしてこの問題は九鬼だけではない、我々全ての実存の問題なのである。
原始偶然は離接肢の一つに過ぎない。だが、離接肢の一つだと考えることは背後に別の
離接肢の存在を想定することであり、かつまた離接肢全体を想定するということでもある。
九鬼はこの離接肢全体のことを絶対的形而上的必然と呼ぶ。さらに九鬼は、原始偶然は絶
対的形而上的必然(全体)に対する一部分であるが、その部分には絶対的形而上的必然(全
体)の全てが含まれており、それはもはや絶対的形而上的必然(全体)と考えられるのだ
という。九鬼にとって原始偶然と絶対的形而上的必然とはイコールの関係で結ばれるもの
であり、九鬼はこの「原始偶然=絶対的形而上的必然」を形而上的絶対者と名付ける。形
而上的絶対者とは例えるならばコインのようなものであり、絶対的形而上的必然と原始偶
然はコインの表と裏をそれぞれ担っている。つまり、形而上的絶対者は単なる必然でも偶
然でもなく、「必然―偶然者」という相反する性格を備えたものなのである。
ところで、我々が運命と呼ぶのは如何なるものであろうか。九鬼は偶然か必然か判然と
できない、自分の人生にとって重大な事柄が運命であると説明する。例えば、目の前で崖
崩れが起こった場合は単なる偶然に過ぎないが、自身がその崖崩れに巻き込まれたときは
そこに何らかの運命を感じるといった場合である。このような運命とは偶然か必然かとい
うことではなく、むしろその二つを内包した「必然―偶然者」構造を持つものなのだと九
鬼は述べる。さらに九鬼は離接肢の一つである我々及び我々の運命という各部分は形而上
的絶対者の制約を受けているため、絶対者の「必然―偶然者」の性格を帯びざるを得ず、
従って運命は「必然―偶然者」の構造を持つというように、別の観点からも運命が「必然
―偶然者」構造であることを説明する。
3.主張の食い違いの指摘
さて、『偶然性の問題』と他の論考の主張のズレは二つある。
一つ目は、上述したとおり『偶然性の問題』では、形而上的絶対者も運命も「必然―偶
然者」という相反する性格を備えたものと説明されており、この「必然―偶然者」構造と
いうのが『偶然性の問題』の話の骨子であった。しかし、この書の後の論考を読むと、そ
れが強調されることなく原始偶然について語られ、かつ、このとき語られている原始偶然
は「原始偶然=絶対的形而上的必然」の関係であることよりも、離接肢の一つであるとい
うことの方が強調されて書かれている点である。
二つ目は『偶然性の問題』においてはほとんど言及されることのなかった運命愛の思想
が他の論考では強調されている点である。運命愛とは、ニーチェなどに代表される、己の
生や運命がたとえどのように過酷であったとしても、その運命を愛し、もし生まれ変わる
ようなことがあるならば、もう一度この生で、この運命で生まれることを欲するという思
想である。『偶然性の問題』でもヤスパースやニーチェを引用しつつ、この思想は取り上げ
られていた。しかし、それは本全体の中でもほんの一部分にすぎず、強調して語られてい
るという印象は受けなかった。一方、他の論考では積極的に一つの離接肢(原始偶然)で
ある己の運命を愛するようにと述べられているのである。
4.主張の食い違いの意味と理由
このような違いはなぜ発生したのか。主張の食い違いの理由を考えるために、まずは九
鬼が一体何のために偶然性の思索を行なっていたのかを考えることから始めていきたい。
必然と偶然を無限に遡及した後、最終的に辿りつくのが原始偶然であり、我々個物が自
身の存在は全くの偶然であると自覚してしまったとき、その個物の存在の根拠は足許から
崩れ去る。そうやって個物が理由や根拠のない自己を見つめるとき、不安や寂しさという
負の感情を強く感じる。自身の存在を疑うことなく生きていけた方が個物にとっては楽な
のだが、一度原始偶然を自覚してしまった者はそれを知らなかった自分には戻れない。
個物は原始偶然を自覚した瞬間から死ぬまでずっとその不安や寂しさといった負の感情
を感じ続けなければならないのだろうか。このように原始偶然は実存に差し迫ってくる問
題であり、九鬼もその生い立ちからこの問題に深く悩まされていたからこそ、真正面から
この問題を受け止め、解決しようと思索したのであろう。つまり、九鬼の偶然性に対する
思想は一貫して実存の無根拠性、非必然性の問題を解決する(己を、ひいては個物をこの
問題から救済する)という目的に沿って行なわれていたと考えられる。
『偶然性の問題』もその例外ではない。九鬼にとってこの書は、それまでの人生で考え抜
いた実存の問題に対する答えの書であった。「原始偶然=絶対的形而上的必然」という形而
上的絶対者を導き出すことで、我々個物の運命も「必然―偶然者」の性格を持つものと考
えられ、必然性を帯びたものとして原始偶然を捉えることが可能となる。そうすることで、
数ある離接肢の中でこの離接肢でしかありえなかったのだと己を納得させ、自身の存在の
不確かさを払拭することができる。『偶然性の問題』において、九鬼は以上のように考える
ことで、個物を実存の無根拠性、非必然性の問題から救済できるとしたのである。
しかし、実存の無根拠性、非必然性の問題は、無限にある離接肢の中でどの離接肢が選
ばれるかという問題以上に、そもそもある一つの離接肢が顕現するか否かということが問
題なのである。それは個物の運命や実存を「必然―偶然者」として捉える以前の問題、今
ここに己自身として存在していることではなく、そもそも自分が存在してしまっているこ
との問題なのだ。『偶然性の問題』で出した答えは無限にある離接肢の中でこの離接肢が選
ばれた問題(今ここに己自身として存在していることの問題)に対する答えであり、そも
そもある一つの離接肢(原始偶然)が顕現するか否かという己の実存の無根拠性、非必然
性の問題(そもそも自分が存在してしまっていることの問題)に対する答えではなかった。
そして前者の答えでは個物を救済することができなかったからこそ、この書以降の他の論
考では主張を変え、実存の問題に対する別の答えを見出したのだと思われる。以上が『偶
然性の問題』と他の論考で主張が食い違っていた理由だと私は考えた。
人間文化課程 思想文化コース
12H1003 安立衣津美
〈要旨〉
1.九鬼周造という人物と問題提起
京都学派と呼ばれる京都帝国大学の哲学者らの活動が盛んだった頃、約 7 年もの西洋留
学を経て、京都帝国大学に赴任し、彼らとは毛色の違う思想を唱えたのが九鬼周造
(1888-1941 年)である。
彼の主著としては『いきの構造』や『偶然性の問題』があり、他にも「形而上的時間」
や「日本詩の押韻」などの論文を書き上げているが、どの論考においても〈偶然性〉とい
うテーマが見え隠れする。偶然性とは九鬼の哲学において重要な言葉であるが、なぜ九鬼
は偶然性にこだわったのか。それを知るには彼の人生を簡単に振り返る必要がある。
九鬼周造は 1888 年(明治 21 年)、官僚である父の九鬼隆一と京都の祇園の出と言われて
いる母の波津との間に生まれるも、母の波津と当時隆一の部下だった岡倉天心(覚三)が
恋仲となり、父と母は別居することになる。九鬼は母のもとで育てられ、たまに父と会う
機会もあったようであるが、彼は父と母が会っているところを見たことはなかったという。
本来なら子供(自分)は夫婦の愛の結晶であるはずなのだが、隆一と波津の間はもう冷
え冷えとして何も残ってはいない。では、自分の存在とは一体何なのか。自分はなぜ、何
のために生まれてきたのか。複雑な幼少期の中で育った九鬼にはこの体験が深く根を下ろ
しており、それが自分の存在に対して疑問を抱かせる要因となったのは間違いないであろ
う。故に、九鬼が考える偶然性とは、存在の無根拠性、非必然性を意味する。つまり、彼
が偶然性を問題にするとき、それは存在することもしないこともあり得たにも関わらず、実
・
際に存
・
在してしまっている己の実存の無根拠性、非必然性の問題に他ならない。
さて、九鬼の主著である『偶然性の問題』は、坂部恵による『不在の歌―九鬼周造の世
界―』(TBS ブリタニカ、1990 年)の中で下記の引用のように、九鬼の偶然性に対する思
索の最終決定版のようなものとして見られている。
〈偶然性〉をめぐる考察においては、……それがまとまった形で述べられた最初から、
周造の思索の基本的な結構はほぼ定まっており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化
はそこに見られず、むしろ、最初の講演から刊本にかけて、さらなる整理・統合・洗練
と肉付けがなされて行くというのが実情にほかならないということである。(P154)
確かに『偶然性の問題』は非常に論理的に書かれているし、論文ではなく本という分量
から考えても、九鬼の偶然性に対する思索の全てがそこに詰まっていると考えて読んでも
差し支えないように思われるかもしれない。しかし、この書と後の偶然性を扱った他の論
考を合わせて読むと、主張に若干の食い違いが見られ、「思索の基本的な結構はほぼ定まっ
ており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化はそこに見られ」ないとはとても思えない。
ではこの食い違いは一体何なのか。本論考では、その主張のズレの意味と理由を考察した。
2.原始偶然、形而上的絶対者、運命
主張の食い違いの指摘や意味、理由の考察結果の前に、キーワードとして原始偶然、形
而上的絶対者、運命について説明しておく必要がある。
九鬼は『偶然性の問題』において、原始偶然とはもうそれ以上遡ることのできない偶然
のことだと述べる。例えば、甲と乙が病院でたまたま出会ったとしたら偶然に思うかもし
れないが、実は両方とも丙のお見舞いに来ていたとしたら厳密な意味で偶然とは言えない
だろう。だが、そもそも丙が入院したのは、たまたま丙が散歩の道中でバイクと接触した
という偶然によるものなのではないか。しかし、交通量の多い道路を赤信号にも関わらず
丙が横断したのだとしたらその事故は必然ではないのか。このように偶然と必然を無窮に
遡っていった先に、もうこれ以上遡ることのできない X へとたどり着く。この X こそが原
始偶然である。原始偶然とは Y や Z などの他の選択肢(離接肢)がありえたにも関わらず
X であったということに偶然性がある。
自然や動植物や世界自体が、あるいは我々実存があのような形やそのような形でもあり
えたにも関わらずこのような形で存在するのはなぜか。そもそもそれらが全く存在しない
こともありえたのに存在するのはなぜか。この問いを最果てまで遡及したときに見出す原
始偶然の問題こそが、はじめに九鬼の出生の部分で書いた、存在することもしないことも
あり得たにも関わらず、実
・
際に存
・
在してしまっている己の実存
・ ・
の無根拠性、非必然性の問
題に他ならない。そしてこの問題は九鬼だけではない、我々全ての実存の問題なのである。
原始偶然は離接肢の一つに過ぎない。だが、離接肢の一つだと考えることは背後に別の
離接肢の存在を想定することであり、かつまた離接肢全体を想定するということでもある。
九鬼はこの離接肢全体のことを絶対的形而上的必然と呼ぶ。さらに九鬼は、原始偶然は絶
対的形而上的必然(全体)に対する一部分であるが、その部分には絶対的形而上的必然(全
体)の全てが含まれており、それはもはや絶対的形而上的必然(全体)と考えられるのだ
という。九鬼にとって原始偶然と絶対的形而上的必然とはイコールの関係で結ばれるもの
であり、九鬼はこの「原始偶然=絶対的形而上的必然」を形而上的絶対者と名付ける。形
而上的絶対者とは例えるならばコインのようなものであり、絶対的形而上的必然と原始偶
然はコインの表と裏をそれぞれ担っている。つまり、形而上的絶対者は単なる必然でも偶
然でもなく、「必然―偶然者」という相反する性格を備えたものなのである。
ところで、我々が運命と呼ぶのは如何なるものであろうか。九鬼は偶然か必然か判然と
できない、自分の人生にとって重大な事柄が運命であると説明する。例えば、目の前で崖
崩れが起こった場合は単なる偶然に過ぎないが、自身がその崖崩れに巻き込まれたときは
そこに何らかの運命を感じるといった場合である。このような運命とは偶然か必然かとい
うことではなく、むしろその二つを内包した「必然―偶然者」構造を持つものなのだと九
鬼は述べる。さらに九鬼は離接肢の一つである我々及び我々の運命という各部分は形而上
的絶対者の制約を受けているため、絶対者の「必然―偶然者」の性格を帯びざるを得ず、
従って運命は「必然―偶然者」の構造を持つというように、別の観点からも運命が「必然
―偶然者」構造であることを説明する。
3.主張の食い違いの指摘
さて、『偶然性の問題』と他の論考の主張のズレは二つある。
一つ目は、上述したとおり『偶然性の問題』では、形而上的絶対者も運命も「必然―偶
然者」という相反する性格を備えたものと説明されており、この「必然―偶然者」構造と
いうのが『偶然性の問題』の話の骨子であった。しかし、この書の後の論考を読むと、そ
れが強調されることなく原始偶然について語られ、かつ、このとき語られている原始偶然
は「原始偶然=絶対的形而上的必然」の関係であることよりも、離接肢の一つであるとい
うことの方が強調されて書かれている点である。
二つ目は『偶然性の問題』においてはほとんど言及されることのなかった運命愛の思想
が他の論考では強調されている点である。運命愛とは、ニーチェなどに代表される、己の
生や運命がたとえどのように過酷であったとしても、その運命を愛し、もし生まれ変わる
ようなことがあるならば、もう一度この生で、この運命で生まれることを欲するという思
想である。『偶然性の問題』でもヤスパースやニーチェを引用しつつ、この思想は取り上げ
られていた。しかし、それは本全体の中でもほんの一部分にすぎず、強調して語られてい
るという印象は受けなかった。一方、他の論考では積極的に一つの離接肢(原始偶然)で
ある己の運命を愛するようにと述べられているのである。
4.主張の食い違いの意味と理由
このような違いはなぜ発生したのか。主張の食い違いの理由を考えるために、まずは九
鬼が一体何のために偶然性の思索を行なっていたのかを考えることから始めていきたい。
必然と偶然を無限に遡及した後、最終的に辿りつくのが原始偶然であり、我々個物が自
身の存在は全くの偶然であると自覚してしまったとき、その個物の存在の根拠は足許から
崩れ去る。そうやって個物が理由や根拠のない自己を見つめるとき、不安や寂しさという
負の感情を強く感じる。自身の存在を疑うことなく生きていけた方が個物にとっては楽な
のだが、一度原始偶然を自覚してしまった者はそれを知らなかった自分には戻れない。
個物は原始偶然を自覚した瞬間から死ぬまでずっとその不安や寂しさといった負の感情
を感じ続けなければならないのだろうか。このように原始偶然は実存に差し迫ってくる問
題であり、九鬼もその生い立ちからこの問題に深く悩まされていたからこそ、真正面から
この問題を受け止め、解決しようと思索したのであろう。つまり、九鬼の偶然性に対する
思想は一貫して実存の無根拠性、非必然性の問題を解決する(己を、ひいては個物をこの
問題から救済する)という目的に沿って行なわれていたと考えられる。
『偶然性の問題』もその例外ではない。九鬼にとってこの書は、それまでの人生で考え抜
いた実存の問題に対する答えの書であった。「原始偶然=絶対的形而上的必然」という形而
上的絶対者を導き出すことで、我々個物の運命も「必然―偶然者」の性格を持つものと考
えられ、必然性を帯びたものとして原始偶然を捉えることが可能となる。そうすることで、
数ある離接肢の中でこの離接肢でしかありえなかったのだと己を納得させ、自身の存在の
不確かさを払拭することができる。『偶然性の問題』において、九鬼は以上のように考える
ことで、個物を実存の無根拠性、非必然性の問題から救済できるとしたのである。
しかし、実存の無根拠性、非必然性の問題は、無限にある離接肢の中でどの離接肢が選
ばれるかという問題以上に、そもそもある一つの離接肢が顕現するか否かということが問
題なのである。それは個物の運命や実存を「必然―偶然者」として捉える以前の問題、今
ここに己自身として存在していることではなく、そもそも自分が存在してしまっているこ
との問題なのだ。『偶然性の問題』で出した答えは無限にある離接肢の中でこの離接肢が選
ばれた問題(今ここに己自身として存在していることの問題)に対する答えであり、そも
そもある一つの離接肢(原始偶然)が顕現するか否かという己の実存の無根拠性、非必然
性の問題(そもそも自分が存在してしまっていることの問題)に対する答えではなかった。
そして前者の答えでは個物を救済することができなかったからこそ、この書以降の他の論
考では主張を変え、実存の問題に対する別の答えを見出したのだと思われる。以上が『偶
然性の問題』と他の論考で主張が食い違っていた理由だと私は考えた。
TV动画「魔偶马戏团」(「からくりサーカス」)新主视图,追加CAST解禁。
主视图(第一弹):https://t.cn/E7GZk8W
PV第一弹:https://t.cn/E7GZk8N
PV第二弹:https://t.cn/E7GZk8C
PV第三弹:https://t.cn/E7GZk8O
追加CAST:
アルレッキーノ:福山潤
パンタローネ:中田譲治
コロンビーヌ:悠木碧
ドットーレ:大友龍三郎
【STAFF】
原作:藤田和日郎(小学館 少年サンデーコミックス刊)
監督:西村聡
シリーズ構成:井上敏樹、藤田和日郎
キャラクターデザイン:吉松孝博
音楽:林ゆうき
アニメーション制作:スタジオヴォルン
製作:ツインエンジン
【CAST】
才賀勝:植田千尋
加藤鳴海:小山力也
才賀しろがね:林原めぐみ
阿紫花英良:櫻井孝宏
ギイ・クリストフ・レッシュ:佐々木望
タランダ・リーゼロッテ・橘:黒沢ともよ
ヴィルマ・ソーン:井上麻里奈
仲町信夫:江川央生
仲町紀之:岩崎諒太
仲町浩男:石川界人
才賀正二:田中正彦
才賀善治:大塚明夫
ルシール・ベルヌイユ:朴ろ美
アルレッキーノ:福山潤
パンタローネ:中田譲治
コロンビーヌ:悠木碧
ドットーレ:大友龍三郎
主视图(第一弹):https://t.cn/E7GZk8W
PV第一弹:https://t.cn/E7GZk8N
PV第二弹:https://t.cn/E7GZk8C
PV第三弹:https://t.cn/E7GZk8O
追加CAST:
アルレッキーノ:福山潤
パンタローネ:中田譲治
コロンビーヌ:悠木碧
ドットーレ:大友龍三郎
【STAFF】
原作:藤田和日郎(小学館 少年サンデーコミックス刊)
監督:西村聡
シリーズ構成:井上敏樹、藤田和日郎
キャラクターデザイン:吉松孝博
音楽:林ゆうき
アニメーション制作:スタジオヴォルン
製作:ツインエンジン
【CAST】
才賀勝:植田千尋
加藤鳴海:小山力也
才賀しろがね:林原めぐみ
阿紫花英良:櫻井孝宏
ギイ・クリストフ・レッシュ:佐々木望
タランダ・リーゼロッテ・橘:黒沢ともよ
ヴィルマ・ソーン:井上麻里奈
仲町信夫:江川央生
仲町紀之:岩崎諒太
仲町浩男:石川界人
才賀正二:田中正彦
才賀善治:大塚明夫
ルシール・ベルヌイユ:朴ろ美
アルレッキーノ:福山潤
パンタローネ:中田譲治
コロンビーヌ:悠木碧
ドットーレ:大友龍三郎
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