「信自(自心を信じること)」とは、我の現前の一念の心を信じることである。この心は、本来肉団の心臓に非(あら)ず、また縁の影にも非(あら)ず。縦の時間軸から見れば初後(しょご)が無く、横の空間軸から見れば辺涯(へんがい)が絶えている。終日(しゅうじつ)縁に随(したが)いながら、また同時に終日変わらないのである。十方の虚空、微塵の国土、(これら全て)元は我の一念で心中に現われた物である。我は昏迷し顛倒(てんどう)すると雖(いえど)も、一念でも回心(えしん)すれば、自心が本来具える極楽に生まれることを決定(けつじょう)し得るのである。これらのことを信じて、更には疑慮(ぎりょ)しないこと。これを「信自」と名づけるのである。「信他(他を信じること)」とは、釈迦如来には決して誑(たぶら)かす語が無く、弥陀世尊には決して虛(うつ)ろな願が無く、六方の諸仏の広長舌には、決して二言が無いと信じることである。諸仏による真実の教誨(きょうかい)に随順(ずいじゅん)して、往生を求める志を決めること。そして更なる疑惑(ぎわく)が無いこと。これを「信他」と名づけるのである。
6月22日 非无安居也,我无安心也
安居なきに非ず、我に安心なきなり
『墨子』
心さえ満ち足りていれば、どんな境遇におかれても安らかに暮らすことができる。安らかに暮らすことができないのは、我が心に問題があるからだ、というのである。
『韓非子』に、こんな話がある。
斉の国の慶封という重臣が国もとで反乱を起こし、失敗して越の国に逃げようとした。それを見た親族のものが、「晋のほうが近いのに、どうして晋に逃げないのか」と尋ねたところ、慶封は、「越のほうが遠いから、身を隠すのに都合がいい」と答えた。
「心さえ入れ替えたら、晋に居ても恐れる必要がない。肝心の心がそのままでは、越まで逃げていったところで、安心はできない」
むろん環境の大切なことは否定できない。だが、どんなに環境に恵まれても、心が不安定では、真の安らぎは得られないということだ。
安居なきに非ず、我に安心なきなり
『墨子』
心さえ満ち足りていれば、どんな境遇におかれても安らかに暮らすことができる。安らかに暮らすことができないのは、我が心に問題があるからだ、というのである。
『韓非子』に、こんな話がある。
斉の国の慶封という重臣が国もとで反乱を起こし、失敗して越の国に逃げようとした。それを見た親族のものが、「晋のほうが近いのに、どうして晋に逃げないのか」と尋ねたところ、慶封は、「越のほうが遠いから、身を隠すのに都合がいい」と答えた。
「心さえ入れ替えたら、晋に居ても恐れる必要がない。肝心の心がそのままでは、越まで逃げていったところで、安心はできない」
むろん環境の大切なことは否定できない。だが、どんなに環境に恵まれても、心が不安定では、真の安らぎは得られないということだ。
【悲传、慈传】
【慈悲】
悲传里有提到
心に非ずと書いて悲しい
【心不在为心、是谓悲】
————
鹤丸对爷爷说过
「人生には驚きが必要なのさ、予想し得る出来事だけじゃ心が先に死んでいく」
因为爷爷在轮回中
所有的事情他都知道结果
也就是
【予想し得る出来事】
所以爷爷的心已经死了…
不再是心…所以是悲…
本丸里爷爷不在了…
爷爷去哪儿了?
爷爷的心去哪儿了?
慈
兹に心
ここに心がある。
心就在这里。
副标题:日日の葉よ散るらむ
译作:日々の葉はどうして散るのだろうか
⬇️
心在这里 你却为何凋落而去
————————
慈
糸二つに心
結いの目に心
結いの目在悲传指的是爷爷…………
【慈悲】
悲传里有提到
心に非ずと書いて悲しい
【心不在为心、是谓悲】
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鹤丸对爷爷说过
「人生には驚きが必要なのさ、予想し得る出来事だけじゃ心が先に死んでいく」
因为爷爷在轮回中
所有的事情他都知道结果
也就是
【予想し得る出来事】
所以爷爷的心已经死了…
不再是心…所以是悲…
本丸里爷爷不在了…
爷爷去哪儿了?
爷爷的心去哪儿了?
慈
兹に心
ここに心がある。
心就在这里。
副标题:日日の葉よ散るらむ
译作:日々の葉はどうして散るのだろうか
⬇️
心在这里 你却为何凋落而去
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慈
糸二つに心
結いの目に心
結いの目在悲传指的是爷爷…………
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