#极乐莲花世界[超话]#[微风]#净土法义#
【阿弥陀佛与波斯阿弥陀庾斯】
古代的波斯帝国是现在的伊朗。波斯帝国是古代伊朗以波斯人为中心形成的帝国。
波斯兴起于伊朗高原的西南部。自从公元前600年开始,希腊人把这一地区叫做“波斯”。波斯人则从依兰沙赫尔时期起开始称呼自己的古代君主制国家为埃兰沙赫尔,意为“中古雅利安人的帝国”。
雅利安人【梵文:âryâ】原是俄罗斯乌拉尔山脉南部草原上的一个古老游牧民族,迁移至中亚的阿姆河和锡尔河之间的平原。这些人被称为雅利安-旁遮普人,大约在公元前14世纪,雅利安-旁遮普人南下进入南亚次大陆西北部,这就是印度古文献中提及的雅利安人,他们往南驱逐古达罗毗荼人,创造了婆罗门教的《吠陀》文化和建立了种姓制度,把雅利安-旁遮普语族的语言(梵文)带到了印度。
雅利安人的种姓制度就是吠陀人给印度种下的烙印。印度的族群大概分两类:72%的印度-雅利安人和25%的达罗毗荼人。达罗毗荼各民族是什么样的人种呢?从基因结构分析,他们与北印度和西印度的印度人有着非常显著的差异,有研究者认为他们是从地中海沿岸或小亚细亚进入印度的,但有些基因考证却也证实了达罗毗荼语系的人种源自南亚次大陆。不过,他们居住在印度次大陆的时间是要早于印欧语系人种,也就是说,他们才是印度地区的原住民。
释迦族考证(1):
约在公元前一千年出现在印度半岛,因晚于雅利安人进入,故居于现今印度北方邦、比哈尔邦和尼泊尔国等当时属于边远的地区。据研究,迦毗罗卫城、拘尸那揭罗城(Ku1agrapura)、旧王舍城等均居住有释迦人,而佛祖释迦牟尼的意译即为“释迦族的圣人”。
佛典《杂阿含经》作“释迦”,《正法念处经》作“赊迦”,《孔雀王经》作“铄迦”或“烁迦”,等。汉典又做“西古提”人(Skutai)、西徐亚人或赛西亚人。古代波斯人称之为Sakā(萨卡人),分为戴尖帽塞人、饮豪麻汁塞人、海那边的塞人。古代亚述人称之为Ashkuzai。古希腊人称之为Skuthoi或Sacae。均指印欧语系东伊朗语族系的游牧民族——斯基泰人。
释迦族自称为印度甘蔗王(巴利文okkāka)族的后裔 ,与《罗摩衍那》的主角罗摩同出一系,属刹帝利种,为古代印度的雅利安人。但是因为释迦族所处偏远,僻处婆罗门文化圈之外,雅利安人到达的时间很晚,被认为是未开化地区 。“释迦部落”的所在位置。它位于现今尼泊尔西南境,与印度交界的地方,拉普济河东岸,罗泊提河的北部。当初的“释迦部落”,以“迦毗罗”城为主。
释迦族(2)考证:
但如今尼泊尔的著名学者阿木汉松却通过史料说出了1个让人惊讶的论断:佛祖本是中国人,而且还是神农的后裔。按阿木汉松的说法:他在翻阅了很多相关史料后发现,原来释迦牟尼是炎帝神农氏的后代,本来就是中国人;同时古今印度概念还不大一样,他的推测后来引起了史学家的广泛议论。
在古代的时候,尼泊尔本就是中国的属地,这是公认的历史。
释迦族与白色的雅利安人、黑色的印度原住民、黄色的中国人,似乎都有关系,真是不可思议!但地缘的不同,释迦族的肤色——金色,即不像雅利安人——白色,不像印度的原住民——黑色,也不像中国人——黄色。但的确属于有色人种。
释迦牟尼佛造立佛教,其文化内涵超越雅利安人婆罗门教的吠陀、与印度原住民的达罗毗荼语系的文化、(中国人的文化避而不提)。超越的意义不是离却,而是【即俗而真、即假为如】的渡化。故而<【不即不离】空性的真理,使佛教与以上三种文化碰撞而不融合,规避而不分离>。
【切莫误解为:佛法的无碍是与世俗哲学和宗教的圆融、和合。切莫误解为:佛法是儒释道三者的融合】。
所以,佛教净土宗的阿弥陀佛与波斯阿弥陀庾斯是不即不离【情入众生】的摄化——【同事摄】(同缘于太阳温暖的情怀)摄受,决不应说阿弥陀佛的信仰是源于波斯、希腊等的太阳神教,而应该说阿弥陀佛是接引外道入佛法的胜异方便。
佛陀入世,世间本无佛弟子。佛陀所化,皆为外道,以外道身入佛法而成为佛弟子,而后成为僧伽于正法的示范。
如下图:图①白色雅利安人、图②金色释迦族人、图③黑色印度原住民。
【阿弥陀佛与波斯阿弥陀庾斯】
古代的波斯帝国是现在的伊朗。波斯帝国是古代伊朗以波斯人为中心形成的帝国。
波斯兴起于伊朗高原的西南部。自从公元前600年开始,希腊人把这一地区叫做“波斯”。波斯人则从依兰沙赫尔时期起开始称呼自己的古代君主制国家为埃兰沙赫尔,意为“中古雅利安人的帝国”。
雅利安人【梵文:âryâ】原是俄罗斯乌拉尔山脉南部草原上的一个古老游牧民族,迁移至中亚的阿姆河和锡尔河之间的平原。这些人被称为雅利安-旁遮普人,大约在公元前14世纪,雅利安-旁遮普人南下进入南亚次大陆西北部,这就是印度古文献中提及的雅利安人,他们往南驱逐古达罗毗荼人,创造了婆罗门教的《吠陀》文化和建立了种姓制度,把雅利安-旁遮普语族的语言(梵文)带到了印度。
雅利安人的种姓制度就是吠陀人给印度种下的烙印。印度的族群大概分两类:72%的印度-雅利安人和25%的达罗毗荼人。达罗毗荼各民族是什么样的人种呢?从基因结构分析,他们与北印度和西印度的印度人有着非常显著的差异,有研究者认为他们是从地中海沿岸或小亚细亚进入印度的,但有些基因考证却也证实了达罗毗荼语系的人种源自南亚次大陆。不过,他们居住在印度次大陆的时间是要早于印欧语系人种,也就是说,他们才是印度地区的原住民。
释迦族考证(1):
约在公元前一千年出现在印度半岛,因晚于雅利安人进入,故居于现今印度北方邦、比哈尔邦和尼泊尔国等当时属于边远的地区。据研究,迦毗罗卫城、拘尸那揭罗城(Ku1agrapura)、旧王舍城等均居住有释迦人,而佛祖释迦牟尼的意译即为“释迦族的圣人”。
佛典《杂阿含经》作“释迦”,《正法念处经》作“赊迦”,《孔雀王经》作“铄迦”或“烁迦”,等。汉典又做“西古提”人(Skutai)、西徐亚人或赛西亚人。古代波斯人称之为Sakā(萨卡人),分为戴尖帽塞人、饮豪麻汁塞人、海那边的塞人。古代亚述人称之为Ashkuzai。古希腊人称之为Skuthoi或Sacae。均指印欧语系东伊朗语族系的游牧民族——斯基泰人。
释迦族自称为印度甘蔗王(巴利文okkāka)族的后裔 ,与《罗摩衍那》的主角罗摩同出一系,属刹帝利种,为古代印度的雅利安人。但是因为释迦族所处偏远,僻处婆罗门文化圈之外,雅利安人到达的时间很晚,被认为是未开化地区 。“释迦部落”的所在位置。它位于现今尼泊尔西南境,与印度交界的地方,拉普济河东岸,罗泊提河的北部。当初的“释迦部落”,以“迦毗罗”城为主。
释迦族(2)考证:
但如今尼泊尔的著名学者阿木汉松却通过史料说出了1个让人惊讶的论断:佛祖本是中国人,而且还是神农的后裔。按阿木汉松的说法:他在翻阅了很多相关史料后发现,原来释迦牟尼是炎帝神农氏的后代,本来就是中国人;同时古今印度概念还不大一样,他的推测后来引起了史学家的广泛议论。
在古代的时候,尼泊尔本就是中国的属地,这是公认的历史。
释迦族与白色的雅利安人、黑色的印度原住民、黄色的中国人,似乎都有关系,真是不可思议!但地缘的不同,释迦族的肤色——金色,即不像雅利安人——白色,不像印度的原住民——黑色,也不像中国人——黄色。但的确属于有色人种。
释迦牟尼佛造立佛教,其文化内涵超越雅利安人婆罗门教的吠陀、与印度原住民的达罗毗荼语系的文化、(中国人的文化避而不提)。超越的意义不是离却,而是【即俗而真、即假为如】的渡化。故而<【不即不离】空性的真理,使佛教与以上三种文化碰撞而不融合,规避而不分离>。
【切莫误解为:佛法的无碍是与世俗哲学和宗教的圆融、和合。切莫误解为:佛法是儒释道三者的融合】。
所以,佛教净土宗的阿弥陀佛与波斯阿弥陀庾斯是不即不离【情入众生】的摄化——【同事摄】(同缘于太阳温暖的情怀)摄受,决不应说阿弥陀佛的信仰是源于波斯、希腊等的太阳神教,而应该说阿弥陀佛是接引外道入佛法的胜异方便。
佛陀入世,世间本无佛弟子。佛陀所化,皆为外道,以外道身入佛法而成为佛弟子,而后成为僧伽于正法的示范。
如下图:图①白色雅利安人、图②金色释迦族人、图③黑色印度原住民。
【DIVOC-12】Interview 1/2
チャンスは自分から作っていくしかない 藤原季節
歩の年表を埋めたり衣装を着て生活することで余白をひとつひとつ埋めていった
――今作に参加されたきっかけを教えてください。
藤原 僕がW主演を務めた短編映画『中村屋酒店の兄弟』(20)が、「東京学生映画祭」というコンテストでグランプリをいただいたんですが、そのときの審査員が三島有紀子監督で、そこでご挨拶させて頂いたことがありました。いつか三島監督の作品に出演したいと思っていたので、この作品のお話をいただいたときはうれしかったですね。
――実際に作品をご覧になって、いかがでしたか?
藤原 この作品は世界の片隅で誰にも知られず生きている人たちが出会う物語だなと思っています。その人たちを取り巻く環境は閉塞しているけど、こういった状況を出会いという物語で打ち倒すんだという気概というか、気持ちにあふれた映画になっていて。現実を厳しく見つめながらも、物語にロマンを持っている三島監督だからこそ撮れた作品だと思いました。他の『DIVOC-12』の作品とはいい意味で全然似ていなくて、この作品に出演できて本当に幸せです。
――短編だけに余白が多く、説明されない部分も多かったと思います。
藤原 台本から読み取れることは本当に少なかったです。三島さんと初めて打ち合わせをしたときに、主人公の歩という人物に何があったのかが書かれた年表みたいなものをもらって、「どんどん自分で埋めていっていいから」と言われて。衣装が決まってからは普段から歩の衣装を着て生活させてもらって、歩という人物を自分の中に馴染ませていきました。最初に本を読んだ段階では余白の部分が多くて、「なぜこのセリフになってるんだろう」と簡単には結びつかなかったので、三島さんと相談しながら一つ一つ埋めていった感じです。
――それを演技で伝える難しさはありましたか?
藤原 画面の向こう側にどう届けるかというのは、監督や見てくださるお客さんにゆだねた部分は大きいです。自分自身がリアリティーを感じ、それを信じることが大切だと思いました。一つ一つ、目に見えないものを埋めていくことでようやく信じる気持ちが強くなっていくというか。自分の中でそういうものが弱いと、自分の存在は正解なのだろうかみたいな気持ちになって、立っているだけで不安になるような気がします。それを埋めていくことで初めて、現場に立っても怖くなくなるのかなと思っています。
――改めて三島監督の印象をお聞かせください。
藤原 現場でも、われ先に行くというか、誰よりも率先して傷つきにいく姿を見せてくださいます。三島さんが撮った『ぶどうのなみだ』(14)という映画は、大泉洋さん演じるアオがもがき苦しみながらやっと一本のワインを誕生させるという物語なんですけど、その主人公を地で体現している監督というか。10分の映画を撮るためにここまで魂を削っているんだなというのを間近で見せて頂きましたね。感受性が豊かな方ってたくさんいらっしゃると思うんですけど、三島さんは感受性がせき止められずにあふれ出ちゃっている感じです。
――共演した富司純子さんに対する印象を教えてください。
藤原 去年の緊急事態宣言中に、家でずっと高倉健さんの映画を見ていたんです。その中で富司さんが主演を務められている作品もあって、「この女優さん素晴らしいな」と思っていた矢先のことだったので、体が震えました。そんな伝説の方とご一緒できるんだ、と思って。でも実際にお会いするとすごく優しい方でした。完成した映画を見たときに一番驚いたのは、富司さんがあまりに軽やかに演じられていたことです。懸命さやひたむきさという分かりやすいことはさておき、もっともっとリアリティーを持って生活されていて。必死に生きていて、辛くて辛くてという人が何かを変えようとする映画じゃなくて、たくましく生きているけど「焼肉食べたい、ハーゲンダッツ食べたい」と思ったときに、人生を変えようとするっていうのはこの作品っぽいなと思いました。
一つの作品を通過するたびに大切な出会いが増えている
――富司さん演じる冬海さんと出会ったことで、歩が生き生きしてきたように思えました。
藤原 お金だとか目に見えるもの……、そういうものでしか大切なことを語れなくなっちゃっていたんだろうなと思います。僕もこの1年間でそうなってしまいそうだったんですけど、そのたびにこういう作品が人間らしいところに引き戻してくれている感じがしました。だから多分、歩にとっては冬海さんがまさにそういう存在だったのかな。大切なものはそれだけじゃないんだよと、心というものを取り戻すきっかけになったんだと思います。
――出演が発表されたときに、「この作品のことを思い出そうとすると頭が真っ白になります」とコメントされていたのも印象的です。
藤原 この作品のタイトルが入る場面を撮ったときに、余計なことは何も考えられなくなりました。自分自身がこの物語にすごく救われているんだなと思ったんです。それまで悶々とした生活を送っていて、携帯とかテレビから入ってくるいろいろな情報に自分自身が踊らされて、アタフタして暮らしていたんです。でも、あの海に立った瞬間だけは冬海さんの姿しか見えなかったので、そこに向かって駆け出していくときは、開放感に満ち溢れていました。三島さんが泥だらけになりながらそういう環境を与えてくださって、本当に頭が真っ白になるような感覚でしたね。たった2日間の撮影であそこまでひとつの役に入れ込んだことは初めてかもしれないですし、仮に撮影期間の長い作品であっても、現場に入る前に10日間役として生活するというのはやったことがなかったので、不思議な体験でした。この作品に自分自身が何かを懸けて臨んでいたな、と思います。
――『よろこびのうた』が伝えたいテーマは何だと思いますか?
藤原 言葉にするとちょっと簡単に聞こえてしまうかもしれないんですけど、不安や喜びを分かち合うということ。生きていると、一緒にいることでより悲しくなったりとか、よりうれしくなったりすることもありますよね。この人と出会わなければこんな苦しい思いをせずに済んだのにと思いつつ、この人と過ごしたから自分は豊かさを知ることができたなという。豊かさを知るのは痛みを伴うことだと思うんですけど、それがまさに歩にとって冬海さんと経験したことで、その後のカラオケのシーンでは涙が止まらなくなる。知らなくてもよかったかもしれないんですけど、僕は歩にとって必要な時間だったのかなと思いました。実はあのカラオケのシーン、ザ・ブルーハーツを歌っているんですよ。三島さんと一緒に決めたんです。
――歩が冬海さんに出会ったように、今までの人生で藤原さんにとって印象的な出会いはありますか?
藤原 たくさんありましたね。この映画でいえば冬海さん、三島監督との出会い、あと『DIVOC-12』には12本の映画が集まっていて、同世代の俳優や新しい監督たちともたくさん出会うことができました。僕の人生でいえば、二十歳のときの松田美由紀さんとの出会い、『his』(20)という映画で宮沢氷魚という男に出会ったこと、『佐々木、イン、マイマイン』(20)の細川岳。一つの作品を通過するたびに大切な出会いがどんどん増えている感じがします。逆にそれがあるから続けていられるのかもしれません。
――具体的にお名前があがった松田さんと宮沢さんとの出会いは、藤原さんにとってどんな出来事だったのでしょうか。
藤原 最近『his』を見直したんですけど、宮沢くんは一滴の涙も流さずに悲しみを表現していたんだなと思ったんです。なんて正々堂々と演技する人だろう、とすごい発見でした。一方の僕は、すべてのシーンでめそめそ泣きそうな感じで芝居していたんですけど、それを包むように宮沢くんは演技してくれたんだなと思って。撮影が終わって数年経って、こんなに支えてもらっていたんだなと彼の優しさに改めて気づきました。あんな俳優になりたいという意味でもすごく尊敬しています。高倉健さんの映画にハマっているときは、彼の家の前に「高倉健さんの映画観て」と置き手紙したこともありました(笑)。美由紀さんは僕にとって、唯一怒ってくれる存在。僕が熊本の天草で撮影していた「のさりの島」という映画の現場に会いに来てくれたこともあります。言葉では尽くせない恩がありますね。
https://t.cn/A6M6b0Pd
チャンスは自分から作っていくしかない 藤原季節
歩の年表を埋めたり衣装を着て生活することで余白をひとつひとつ埋めていった
――今作に参加されたきっかけを教えてください。
藤原 僕がW主演を務めた短編映画『中村屋酒店の兄弟』(20)が、「東京学生映画祭」というコンテストでグランプリをいただいたんですが、そのときの審査員が三島有紀子監督で、そこでご挨拶させて頂いたことがありました。いつか三島監督の作品に出演したいと思っていたので、この作品のお話をいただいたときはうれしかったですね。
――実際に作品をご覧になって、いかがでしたか?
藤原 この作品は世界の片隅で誰にも知られず生きている人たちが出会う物語だなと思っています。その人たちを取り巻く環境は閉塞しているけど、こういった状況を出会いという物語で打ち倒すんだという気概というか、気持ちにあふれた映画になっていて。現実を厳しく見つめながらも、物語にロマンを持っている三島監督だからこそ撮れた作品だと思いました。他の『DIVOC-12』の作品とはいい意味で全然似ていなくて、この作品に出演できて本当に幸せです。
――短編だけに余白が多く、説明されない部分も多かったと思います。
藤原 台本から読み取れることは本当に少なかったです。三島さんと初めて打ち合わせをしたときに、主人公の歩という人物に何があったのかが書かれた年表みたいなものをもらって、「どんどん自分で埋めていっていいから」と言われて。衣装が決まってからは普段から歩の衣装を着て生活させてもらって、歩という人物を自分の中に馴染ませていきました。最初に本を読んだ段階では余白の部分が多くて、「なぜこのセリフになってるんだろう」と簡単には結びつかなかったので、三島さんと相談しながら一つ一つ埋めていった感じです。
――それを演技で伝える難しさはありましたか?
藤原 画面の向こう側にどう届けるかというのは、監督や見てくださるお客さんにゆだねた部分は大きいです。自分自身がリアリティーを感じ、それを信じることが大切だと思いました。一つ一つ、目に見えないものを埋めていくことでようやく信じる気持ちが強くなっていくというか。自分の中でそういうものが弱いと、自分の存在は正解なのだろうかみたいな気持ちになって、立っているだけで不安になるような気がします。それを埋めていくことで初めて、現場に立っても怖くなくなるのかなと思っています。
――改めて三島監督の印象をお聞かせください。
藤原 現場でも、われ先に行くというか、誰よりも率先して傷つきにいく姿を見せてくださいます。三島さんが撮った『ぶどうのなみだ』(14)という映画は、大泉洋さん演じるアオがもがき苦しみながらやっと一本のワインを誕生させるという物語なんですけど、その主人公を地で体現している監督というか。10分の映画を撮るためにここまで魂を削っているんだなというのを間近で見せて頂きましたね。感受性が豊かな方ってたくさんいらっしゃると思うんですけど、三島さんは感受性がせき止められずにあふれ出ちゃっている感じです。
――共演した富司純子さんに対する印象を教えてください。
藤原 去年の緊急事態宣言中に、家でずっと高倉健さんの映画を見ていたんです。その中で富司さんが主演を務められている作品もあって、「この女優さん素晴らしいな」と思っていた矢先のことだったので、体が震えました。そんな伝説の方とご一緒できるんだ、と思って。でも実際にお会いするとすごく優しい方でした。完成した映画を見たときに一番驚いたのは、富司さんがあまりに軽やかに演じられていたことです。懸命さやひたむきさという分かりやすいことはさておき、もっともっとリアリティーを持って生活されていて。必死に生きていて、辛くて辛くてという人が何かを変えようとする映画じゃなくて、たくましく生きているけど「焼肉食べたい、ハーゲンダッツ食べたい」と思ったときに、人生を変えようとするっていうのはこの作品っぽいなと思いました。
一つの作品を通過するたびに大切な出会いが増えている
――富司さん演じる冬海さんと出会ったことで、歩が生き生きしてきたように思えました。
藤原 お金だとか目に見えるもの……、そういうものでしか大切なことを語れなくなっちゃっていたんだろうなと思います。僕もこの1年間でそうなってしまいそうだったんですけど、そのたびにこういう作品が人間らしいところに引き戻してくれている感じがしました。だから多分、歩にとっては冬海さんがまさにそういう存在だったのかな。大切なものはそれだけじゃないんだよと、心というものを取り戻すきっかけになったんだと思います。
――出演が発表されたときに、「この作品のことを思い出そうとすると頭が真っ白になります」とコメントされていたのも印象的です。
藤原 この作品のタイトルが入る場面を撮ったときに、余計なことは何も考えられなくなりました。自分自身がこの物語にすごく救われているんだなと思ったんです。それまで悶々とした生活を送っていて、携帯とかテレビから入ってくるいろいろな情報に自分自身が踊らされて、アタフタして暮らしていたんです。でも、あの海に立った瞬間だけは冬海さんの姿しか見えなかったので、そこに向かって駆け出していくときは、開放感に満ち溢れていました。三島さんが泥だらけになりながらそういう環境を与えてくださって、本当に頭が真っ白になるような感覚でしたね。たった2日間の撮影であそこまでひとつの役に入れ込んだことは初めてかもしれないですし、仮に撮影期間の長い作品であっても、現場に入る前に10日間役として生活するというのはやったことがなかったので、不思議な体験でした。この作品に自分自身が何かを懸けて臨んでいたな、と思います。
――『よろこびのうた』が伝えたいテーマは何だと思いますか?
藤原 言葉にするとちょっと簡単に聞こえてしまうかもしれないんですけど、不安や喜びを分かち合うということ。生きていると、一緒にいることでより悲しくなったりとか、よりうれしくなったりすることもありますよね。この人と出会わなければこんな苦しい思いをせずに済んだのにと思いつつ、この人と過ごしたから自分は豊かさを知ることができたなという。豊かさを知るのは痛みを伴うことだと思うんですけど、それがまさに歩にとって冬海さんと経験したことで、その後のカラオケのシーンでは涙が止まらなくなる。知らなくてもよかったかもしれないんですけど、僕は歩にとって必要な時間だったのかなと思いました。実はあのカラオケのシーン、ザ・ブルーハーツを歌っているんですよ。三島さんと一緒に決めたんです。
――歩が冬海さんに出会ったように、今までの人生で藤原さんにとって印象的な出会いはありますか?
藤原 たくさんありましたね。この映画でいえば冬海さん、三島監督との出会い、あと『DIVOC-12』には12本の映画が集まっていて、同世代の俳優や新しい監督たちともたくさん出会うことができました。僕の人生でいえば、二十歳のときの松田美由紀さんとの出会い、『his』(20)という映画で宮沢氷魚という男に出会ったこと、『佐々木、イン、マイマイン』(20)の細川岳。一つの作品を通過するたびに大切な出会いがどんどん増えている感じがします。逆にそれがあるから続けていられるのかもしれません。
――具体的にお名前があがった松田さんと宮沢さんとの出会いは、藤原さんにとってどんな出来事だったのでしょうか。
藤原 最近『his』を見直したんですけど、宮沢くんは一滴の涙も流さずに悲しみを表現していたんだなと思ったんです。なんて正々堂々と演技する人だろう、とすごい発見でした。一方の僕は、すべてのシーンでめそめそ泣きそうな感じで芝居していたんですけど、それを包むように宮沢くんは演技してくれたんだなと思って。撮影が終わって数年経って、こんなに支えてもらっていたんだなと彼の優しさに改めて気づきました。あんな俳優になりたいという意味でもすごく尊敬しています。高倉健さんの映画にハマっているときは、彼の家の前に「高倉健さんの映画観て」と置き手紙したこともありました(笑)。美由紀さんは僕にとって、唯一怒ってくれる存在。僕が熊本の天草で撮影していた「のさりの島」という映画の現場に会いに来てくれたこともあります。言葉では尽くせない恩がありますね。
https://t.cn/A6M6b0Pd
那些可以支撑你走很久的句子。
1.在最黑暗的那段人生,是我自己把我自己拉出深渊。没有那个人,我就做那个人。
——中岛美嘉
2.不赶什么浪潮,也不搭什么船,我自己有海。
——陈粒
3.生命是纯粹的火焰,我们靠我们体内一个看不见的太阳活着。
——托马斯·布朗《瓮葬》
4.成年人自己要给自己拥抱,当你有力量拥抱自己的时候,你才有力量拥抱所有人。
——傅首尔
5.不可能天天都是好日子,有了不顺心的日子,好日子才会闪闪发亮。
——坂本健一
6.懒惰是很奇怪的东西,它使你以为那是安逸,是休息,是福气;但实际上它所给你的是无聊,时倦怠,是消沉;它剥夺你对前途的希望,割断你和别人之间的友情,使你心胸日益狭窄,对人生也越来越怀疑。
——罗兰《忙碌与进取》
7.平凡的我在人多的地方曾极力小心翼翼,但不知从何起,我不太在意别人的目光了。比起被人觉得是个怪人,我现在更害怕浪费时间。
——山本文绪
8.如果我们总在等待绝对的一切就绪,那我们将永远无法开始。
——屠格涅夫
9.你那么憎恨那些人,跟他们斗了那么久,最终却变得和他们一样,人世间没有任何理想值得以这样的沉沦作为代价。
——马尔克斯《百年孤独》
10.终有一天,你会跨过静谧无声的洗墨江,离开群山环抱的旧桃源,来到无边阴霾的夜空之下。你会目睹无数不可攀爬之山相继倾覆,不可逾越干涸成田,你要记得,你的命运悬在刀尖上,而刀尖须得永远向前。
——priest
11.请你,担负起对自己的责任来,不单是活着就算了,更要活得热烈而起劲,不要懦弱,更不要太多人的指引。每一天,活得踏实,将份内的工作,做得尽自己能力之内的完美,就无愧于天地。
——三毛
12.这是爸爸说的,无论什么困难的事,只要硬着头皮去做,就闯过去了。
——林海音《城南旧事》
13.我告诫自己:你的话说得太多,你听别人倾诉得太多,你咖啡喝得太多,你在陌生的房间里坐的时间太长,你的睡眠质量太差,你醒着的时间太长,你平庸的事想得太多,你希望过多,你安慰自己太频繁。
——威廉·格纳齐诺
14.我或许败北,或许迷失自己,或许哪里也抵达不了,或许我已失去一切,任凭怎么挣扎也只能徒呼奈何,或许我只是徒然掬一把废墟灰烬,唯我一人蒙在鼓里,或许这里没有任何人把赌注下在我身上。无所谓。有一点是明确的:至少我有值得等待有值得寻求的东西。
——村上春树
15.人最终决定着自己的命运。在天赋和环境内,他成为什么是自己决定的结果。人不是简单的活着,而是时时需求对自己的前途做出思考,决定下一刻自己会成为什么样的人。每个人都有随时改变自己决定的自由。
——维克多·弗兰克尔《活出生命的意义》
16.每个人都会有一段异常艰难的时光,生活的压力,工作的失意,学业的压力,爱的惶惶不可终日,挺过来的,人生就会豁然开朗,挺不过来的,时间也会教你,怎么与它们握手言和,所以不必害怕的。
——杨绛
1.在最黑暗的那段人生,是我自己把我自己拉出深渊。没有那个人,我就做那个人。
——中岛美嘉
2.不赶什么浪潮,也不搭什么船,我自己有海。
——陈粒
3.生命是纯粹的火焰,我们靠我们体内一个看不见的太阳活着。
——托马斯·布朗《瓮葬》
4.成年人自己要给自己拥抱,当你有力量拥抱自己的时候,你才有力量拥抱所有人。
——傅首尔
5.不可能天天都是好日子,有了不顺心的日子,好日子才会闪闪发亮。
——坂本健一
6.懒惰是很奇怪的东西,它使你以为那是安逸,是休息,是福气;但实际上它所给你的是无聊,时倦怠,是消沉;它剥夺你对前途的希望,割断你和别人之间的友情,使你心胸日益狭窄,对人生也越来越怀疑。
——罗兰《忙碌与进取》
7.平凡的我在人多的地方曾极力小心翼翼,但不知从何起,我不太在意别人的目光了。比起被人觉得是个怪人,我现在更害怕浪费时间。
——山本文绪
8.如果我们总在等待绝对的一切就绪,那我们将永远无法开始。
——屠格涅夫
9.你那么憎恨那些人,跟他们斗了那么久,最终却变得和他们一样,人世间没有任何理想值得以这样的沉沦作为代价。
——马尔克斯《百年孤独》
10.终有一天,你会跨过静谧无声的洗墨江,离开群山环抱的旧桃源,来到无边阴霾的夜空之下。你会目睹无数不可攀爬之山相继倾覆,不可逾越干涸成田,你要记得,你的命运悬在刀尖上,而刀尖须得永远向前。
——priest
11.请你,担负起对自己的责任来,不单是活着就算了,更要活得热烈而起劲,不要懦弱,更不要太多人的指引。每一天,活得踏实,将份内的工作,做得尽自己能力之内的完美,就无愧于天地。
——三毛
12.这是爸爸说的,无论什么困难的事,只要硬着头皮去做,就闯过去了。
——林海音《城南旧事》
13.我告诫自己:你的话说得太多,你听别人倾诉得太多,你咖啡喝得太多,你在陌生的房间里坐的时间太长,你的睡眠质量太差,你醒着的时间太长,你平庸的事想得太多,你希望过多,你安慰自己太频繁。
——威廉·格纳齐诺
14.我或许败北,或许迷失自己,或许哪里也抵达不了,或许我已失去一切,任凭怎么挣扎也只能徒呼奈何,或许我只是徒然掬一把废墟灰烬,唯我一人蒙在鼓里,或许这里没有任何人把赌注下在我身上。无所谓。有一点是明确的:至少我有值得等待有值得寻求的东西。
——村上春树
15.人最终决定着自己的命运。在天赋和环境内,他成为什么是自己决定的结果。人不是简单的活着,而是时时需求对自己的前途做出思考,决定下一刻自己会成为什么样的人。每个人都有随时改变自己决定的自由。
——维克多·弗兰克尔《活出生命的意义》
16.每个人都会有一段异常艰难的时光,生活的压力,工作的失意,学业的压力,爱的惶惶不可终日,挺过来的,人生就会豁然开朗,挺不过来的,时间也会教你,怎么与它们握手言和,所以不必害怕的。
——杨绛
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