【新闻】【インタビュー】ドラマ「春の呪い」高橋ひかる 亡き妹の婚約者との“いけない恋”を描く本作は「『ねたみ』という言葉がぴったりの作品」
女優の高橋ひかるが主演するドラマ「春の呪い」が、毎週土曜日午後11時25分からテレビ東京系で放送中だ。本作は、最愛の妹・春を亡くした主人公の夏美が、妹の婚約者で財閥系の御曹司・冬吾に恋をする激情のラブストーリー。いけない恋に揺れる夏美を高橋が、良家の名にとらわれつつもあがく冬吾を工藤阿須加が演じ、恐怖の幻影として姿を現す春を桜田ひよりが演じる。本作で夏美を演じている高橋に、亡き妹の婚約者から交際を申し込まれるという難役に挑んだ感想や、共演者の印象、ドラマの見どころなどを聞いた。
-本作は、小西明日翔氏の同名漫画が原作ですが、まずは原作を読んだときの感想から教えてください。
夏美のゆがんだ感情や、痛々しさが伝わってきて、苦しくなりながらも、どんどん世界観に引き込まれていきました。夏美、冬吾、春、それぞれの目線から読むことができて、すごくリアルに心情が動く物語だったので、そういうところを表現できたらいいなと思いながら読みました。
-夏美は亡き妹に対して複雑な心境を抱いている役どころですが、どのように役作りをしていますか。
まずは、原作の絵から多くのイメージを頂いて、夏美の表情から、こう感じているのかな、こう考えているのかなという感情を読み取って膨らませたり、現場で監督と話をしながら感情を高めています。
-劇中では夏美、冬吾、春の“奇妙な三角関係”が描かれますが、演じる上で苦労しているところは?
夏美を通して、初めて感じる感情がとても多くて、今まで携わらせていただいたどの作品よりも、台本を肌身離さず持ち歩いて読んだり、台本や作品と向き合っています。春が生前に言っていたことは本当にその通りだったのかなとか、音で聞こえる言葉だけが真実ではないのかなとか、いろいろなことを深く考えるきっかけになりましたし、春が後ろから見守っていたりと、想像や空想の中のシーンも多くあるので、どのシーンも悩みながら演じています。
-劇中で描かれる「ねたみ」という感情については、どのようなことを考えましたか。
「嫉妬」は結構身近にあると思うんですけれど、「ねたみ」というのはもっと粘着力があって、深くてドロッした感情だと思います。劇中では、夏美が春に対してねたみを抱いているので、その言葉は、本当にこの作品にぴったりだなと思います。
-夏美という役と高橋さんご自身が似ているなと思う部分は?
夏美は笑顔が印象的で、心の底から笑ってはいるけれど、どこかで笑っていない自分がいたり、空元気がある女の子なので、その部分は感情移入できるなと思いました。私も今は元気がないけれど、明るく振る舞っていれば元気になるかなと思っていた時期もあったので、無理をしがちなところや明るい感じが似ているのかなと思います。
-本作はテレビ東京が4月に新設した“中毒性の高いテーマ”を扱う「サタドラ枠」の第2弾作ですが、攻めた作風なのでしょうか。
はい、撮影をしていても新しい試みだなと思うシーンが結構あるので、ぜひ期待していただきたいです。ただの恋愛ドラマじゃないぞ、純愛じゃないぞ、というのを念頭に置いて楽しんでいただければと思います。
-工藤阿須加さんや桜田ひよりさんと共演した感想は?
工藤さんは周りのことを瞬時に察知して動かれる方で、役者としても人間としても尊敬できる先輩だなと思います。私が作品について悩んでいたときも、親身になってアドバイスをくださったり、人間としての考え方まで教えてくださるので、本当に先生みたいな方です。桜田さんは、すごく芯を持っていて、目の奥から感じる熱量があるのでカッコいいなと思います。私がテークミスをしても「大丈夫だよ」と言っていただいたり、年齢は一つ下なのですが、お姉さんみたいな雰囲気があって、私が逆にいじられている感じです(笑)。
-どんなところに注目して、ドラマを見てもらいたいですか。
夏美も冬吾も一歩間違えれば、すごくひどい人に映ると思うんです。工藤さんとも現場で「好きになる感情は止められないよね」と話していたのですが、それぞれの真っすぐな気持ちとか、登場人物3人の気持ちのすれ違いとか、感情と行動が食い違うところを見てほしいです。
-ドラマを楽しみにしている視聴者に、メッセージをお願いします。
夏美と冬吾が、春を通して成長していくところが見どころになっています。2人の関係は「恋」ではなくて「愛」だなと感じたので、2人を見てほほ笑ましく思ってもらえるとうれしいです。
-高橋さんにとって、「恋」と「愛」の違いとは?
「恋」は自分に浸っていて、「何で会ってくれないの?」と言ったり、自分中心なところがあるのかなと思います。「愛」は無条件でその人自身を認めていて、家族に感じる愛に近いのかなと思います。夏美と冬吾の間にも、そういう部分が垣間見えるので、応援してもらえるような2人でいられたらなと思います。
ドラマ「春の呪い」は、毎週土曜午後11時25から、テレビ東京ほかで放送中(全6話)。
#高桥光[超话]# #高桥光# #髙橋ひかる#

もし地球の酸素含有量が突然3億年前に戻ったら、何が起こりますか?地球は美しい生命の星で、46億年前に誕生した。誕生して間もない地球はいろいろな幸運により、すぐに完璧な生態を持つ星になりました。生命を懐胎する過程の中で、1つの重要な要素に離れられないで、それは酸素です。

私達はすべて知っていて、地球の大部分の生物の生存はすべて酸素に離れられないで、ごく少数の嫌気性の生物だけあります。ある人は地球の大部分の生物と人類の生態はすべて酸素に離れられないで、あの地球の酸素の含有量はきっと最高ですか?実際には、現在の地球の大気中のガスは、主に78%の窒素、21%の酸素、そして1%の希ガスと不純物からなる混合物です。

以上のデータから分かるように、今の地球の酸素の量は多くないですが、地球の酸素の量は大昔から今までずっとこのようですか?実際にもそうではないです。地球は長い数十億年の歳月の中で、何度もの生態の巨大な変化を経験して、毎回の生態の巨大な変化の後で、大気の酸素の含有量はいずれも明らかな変化が発生して、主要な成り行きは下がるのです。

3億年前の地球大気の酸素含有量は今よりずっと高くなりました。約35%以上です。酸素の含有量が高いと空気が清新になり、動物や人間がよりよく生存できるという問題があるかもしれません。もし地球の酸素埋蔵量が突然3億年前に戻ったら、何が起こるかという問題があります。世界がシャッフルするかもしれません。

この謎が解明される前に、まず3億年前の高酸素時代の地球を見てみましょう。3億年以上前は石炭紀の時代で、この時代には「巨虫時代」という呼び名がありました。なぜ巨虫時代と呼ぶのですか?そのころ世界制覇していたのは、私たちが今軽蔑している、とてもちっぽけな昆虫だったからです。

虫は現代人の目には、手当たり次第に手を叩いて、足を勝手に踏み潰してしまう小さな生き物です。しかし、3億年前の石炭紀は違っています。その時の昆虫はとても巨大で、一番小さい昆虫は今の鷹のように大きいです。トンボの体の長さは1メートルぐらいに達しています。ムカデの身長は3メートルぐらいにも達しています。

その頃は昆虫よりも大きな生物もたくさんいましたが、昆虫には特に力が強いという先天的な利点がありますので、アリが自分の倍の重さの食べ物を簡単に持ち上げることができると想像できます。また昆虫は往々にして強い攻撃器官を持っていますので、巨虫の時代には他の生物が昆虫よりも大きくても、はるかに昆虫の相手ではなかったので、昆虫が支配する時代でした。

昆虫の制覇以外にも、3億年前の石炭紀は植物が非常に盛んだった熱帯雨林時代で、その時の気温は熱すぎて、至るところに大きな木や各種の植物があって、生態環境の美しさは現代をはるかに超えています。

以上が3億年前の生態や生物の状況です。その理由の一つとして、当時の酸素含有量が35%以上もあったことが重要です。今、地球の酸素の量が再び3億年前の高酸素時代に戻ったら、再び巨虫時代に戻ることはできますか?答えは完全に可能です。でも、その時に地球を制覇したのは依然として人類かもしれません。でも、人類の生存も今よりずっと難しいです。

地球の酸素の含有量が再び35%以上に戻った時、地球の生態は大きな変化を迎えます。大部分の動物と人類の生存は酸素に離れられないが、酸素の含有量が高いほどいいというわけではないです。生物の生存状態はどのようにしても自然によって決められています。自然の生態によって異なる生物状態が作られます。

今のところ地球の生物界の現状は自然の酸素含有量から21%まで下がる時進化を始めて、今から前億年以上があるかもしれません。地球の生物は長い21%の酸素含有量の生態系を経て進化し、現在の状態に成長している。これは自然物の対天沢、適者生存選択の結果です。

大気中の酸素含有量が大幅に増加すれば、自然は生態系を調整し、既存の生物に対して再び物を使って天沢に対して、適者生存の原則を選ぶことになる。この過程で、地球上のほとんどの生物は絶滅します。もちろんこの場合、地球に第六回生物大絶滅事件をもたらすことはありません。なぜなら、人間という異数があるからです。

人類の存在は、本来持ってくるかもしれない第6次生物大絶滅事件を新たに変化させた。地球の酸素の含有量が3億年前に戻り、地球上のほとんどの生物は短期間で適応できなくなりました。自然界の動植物は、新しい高酸素環境に適応するしかない。

しかし、人間は違っています。人間は知的生命であり、科学技術文明にも入りました。地球の酸素環境が大きく変化した後、人類は科学技術の手段に頼ってべつに多すぎる損失があることはできなくて、その時私達はとても多い閉鎖的な環境を造るかもしれなくて、その中の酸素の含有量はやはりもとの21%を維持します。人間が外出する時には、酸素の変換装置を装着して、外部の酸素をバランスさせて、呼吸している酸素は大幅に増加しません。科学技術の助けの下で、人類は高酸素環境が私達に持ってくる巨大な危害を心配する必要はなくて、その他の種の絶滅するかもしれない代価を使って新しい酸素環境に適応する必要はありません。

人類は科学技術の助けの上で依然として地球の上で生存することができますが、依然として地球の覇者で、しかし酸素の環境の巨大な変化のため、依然として人類の生存に巨大な危機を持ってきて、その中の最も恐ろしい危機は昆虫の異変です。

3億年前は昆虫が支配していた時代で、昆虫が異常に巨大になったのは、当時の高酸素環境のせいだと紹介しました。酸素が再び3億年前の状態に戻ると、昆虫の春が来ます。大量の昆虫が新たな生態環境のもとで、再び巨大な進化を遂げる。

100年後、地球は巨大な昆虫であふれています。過去に私たちが軽蔑していた小さな昆虫は、いつでも人間の生存を脅かしています。人々は外出にも気をつけています。よくないと昆虫に襲われます。もちろん、すべての昆虫が人間を攻撃するわけではありません。自然界の昆虫は人間にとって非常に友好的なものが多いです。

そのため、昆虫の巨大な変化が戻ってきた後、人類に対して危機であることはもちろんの機会でもあります。人間に優しい昆虫を引き取って、巨大なトンボに乗って飛行させてくれます。同時に、科学者は巨虫を研究することによって、彼らを大きくさせる遺伝子コードを解読することができます。同じように人類を再進化させ、自然に外部の高酸素環境に適応できるかもしれません。

だから、毎回の地球の生態の巨大な変化、生物にとって一回の巨大な危機で、同時に一回の更に高級な生命に進化する機会です。地球の生命は最も原始的な生命から現在の複雑さ、高級な生命に成長することができます。人類の自然進化の道は数万年前に止まっています。もう一回の自然進化を実現するには、もっと高級な生物に進化するには、新しい生態変化が必要かもしれません。

九鬼周造における〈偶然性〉の研究
人間文化課程 思想文化コース
12H1003 安立衣津美
〈要旨〉
1.九鬼周造という人物と問題提起
京都学派と呼ばれる京都帝国大学の哲学者らの活動が盛んだった頃、約 7 年もの西洋留
学を経て、京都帝国大学に赴任し、彼らとは毛色の違う思想を唱えたのが九鬼周造
(1888-1941 年)である。
彼の主著としては『いきの構造』や『偶然性の問題』があり、他にも「形而上的時間」
や「日本詩の押韻」などの論文を書き上げているが、どの論考においても〈偶然性〉とい
うテーマが見え隠れする。偶然性とは九鬼の哲学において重要な言葉であるが、なぜ九鬼
は偶然性にこだわったのか。それを知るには彼の人生を簡単に振り返る必要がある。
九鬼周造は 1888 年(明治 21 年)、官僚である父の九鬼隆一と京都の祇園の出と言われて
いる母の波津との間に生まれるも、母の波津と当時隆一の部下だった岡倉天心(覚三)が
恋仲となり、父と母は別居することになる。九鬼は母のもとで育てられ、たまに父と会う
機会もあったようであるが、彼は父と母が会っているところを見たことはなかったという。
本来なら子供(自分)は夫婦の愛の結晶であるはずなのだが、隆一と波津の間はもう冷
え冷えとして何も残ってはいない。では、自分の存在とは一体何なのか。自分はなぜ、何
のために生まれてきたのか。複雑な幼少期の中で育った九鬼にはこの体験が深く根を下ろ
しており、それが自分の存在に対して疑問を抱かせる要因となったのは間違いないであろ
う。故に、九鬼が考える偶然性とは、存在の無根拠性、非必然性を意味する。つまり、彼
が偶然性を問題にするとき、それは存在することもしないこともあり得たにも関わらず、実

際に存

在してしまっている己の実存の無根拠性、非必然性の問題に他ならない。
さて、九鬼の主著である『偶然性の問題』は、坂部恵による『不在の歌―九鬼周造の世
界―』(TBS ブリタニカ、1990 年)の中で下記の引用のように、九鬼の偶然性に対する思
索の最終決定版のようなものとして見られている。
〈偶然性〉をめぐる考察においては、……それがまとまった形で述べられた最初から、
周造の思索の基本的な結構はほぼ定まっており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化
はそこに見られず、むしろ、最初の講演から刊本にかけて、さらなる整理・統合・洗練
と肉付けがなされて行くというのが実情にほかならないということである。(P154)
確かに『偶然性の問題』は非常に論理的に書かれているし、論文ではなく本という分量
から考えても、九鬼の偶然性に対する思索の全てがそこに詰まっていると考えて読んでも
差し支えないように思われるかもしれない。しかし、この書と後の偶然性を扱った他の論
考を合わせて読むと、主張に若干の食い違いが見られ、「思索の基本的な結構はほぼ定まっ
ており、発展や変遷と呼ぶに値するほどの変化はそこに見られ」ないとはとても思えない。
ではこの食い違いは一体何なのか。本論考では、その主張のズレの意味と理由を考察した。
2.原始偶然、形而上的絶対者、運命
主張の食い違いの指摘や意味、理由の考察結果の前に、キーワードとして原始偶然、形
而上的絶対者、運命について説明しておく必要がある。
九鬼は『偶然性の問題』において、原始偶然とはもうそれ以上遡ることのできない偶然
のことだと述べる。例えば、甲と乙が病院でたまたま出会ったとしたら偶然に思うかもし
れないが、実は両方とも丙のお見舞いに来ていたとしたら厳密な意味で偶然とは言えない
だろう。だが、そもそも丙が入院したのは、たまたま丙が散歩の道中でバイクと接触した
という偶然によるものなのではないか。しかし、交通量の多い道路を赤信号にも関わらず
丙が横断したのだとしたらその事故は必然ではないのか。このように偶然と必然を無窮に
遡っていった先に、もうこれ以上遡ることのできない X へとたどり着く。この X こそが原
始偶然である。原始偶然とは Y や Z などの他の選択肢(離接肢)がありえたにも関わらず
X であったということに偶然性がある。
自然や動植物や世界自体が、あるいは我々実存があのような形やそのような形でもあり
えたにも関わらずこのような形で存在するのはなぜか。そもそもそれらが全く存在しない
こともありえたのに存在するのはなぜか。この問いを最果てまで遡及したときに見出す原
始偶然の問題こそが、はじめに九鬼の出生の部分で書いた、存在することもしないことも
あり得たにも関わらず、実

際に存

在してしまっている己の実存
・ ・
の無根拠性、非必然性の問
題に他ならない。そしてこの問題は九鬼だけではない、我々全ての実存の問題なのである。
原始偶然は離接肢の一つに過ぎない。だが、離接肢の一つだと考えることは背後に別の
離接肢の存在を想定することであり、かつまた離接肢全体を想定するということでもある。
九鬼はこの離接肢全体のことを絶対的形而上的必然と呼ぶ。さらに九鬼は、原始偶然は絶
対的形而上的必然(全体)に対する一部分であるが、その部分には絶対的形而上的必然(全
体)の全てが含まれており、それはもはや絶対的形而上的必然(全体)と考えられるのだ
という。九鬼にとって原始偶然と絶対的形而上的必然とはイコールの関係で結ばれるもの
であり、九鬼はこの「原始偶然=絶対的形而上的必然」を形而上的絶対者と名付ける。形
而上的絶対者とは例えるならばコインのようなものであり、絶対的形而上的必然と原始偶
然はコインの表と裏をそれぞれ担っている。つまり、形而上的絶対者は単なる必然でも偶
然でもなく、「必然―偶然者」という相反する性格を備えたものなのである。
ところで、我々が運命と呼ぶのは如何なるものであろうか。九鬼は偶然か必然か判然と
できない、自分の人生にとって重大な事柄が運命であると説明する。例えば、目の前で崖
崩れが起こった場合は単なる偶然に過ぎないが、自身がその崖崩れに巻き込まれたときは
そこに何らかの運命を感じるといった場合である。このような運命とは偶然か必然かとい
うことではなく、むしろその二つを内包した「必然―偶然者」構造を持つものなのだと九
鬼は述べる。さらに九鬼は離接肢の一つである我々及び我々の運命という各部分は形而上
的絶対者の制約を受けているため、絶対者の「必然―偶然者」の性格を帯びざるを得ず、
従って運命は「必然―偶然者」の構造を持つというように、別の観点からも運命が「必然
―偶然者」構造であることを説明する。
3.主張の食い違いの指摘
さて、『偶然性の問題』と他の論考の主張のズレは二つある。
一つ目は、上述したとおり『偶然性の問題』では、形而上的絶対者も運命も「必然―偶
然者」という相反する性格を備えたものと説明されており、この「必然―偶然者」構造と
いうのが『偶然性の問題』の話の骨子であった。しかし、この書の後の論考を読むと、そ
れが強調されることなく原始偶然について語られ、かつ、このとき語られている原始偶然
は「原始偶然=絶対的形而上的必然」の関係であることよりも、離接肢の一つであるとい
うことの方が強調されて書かれている点である。
二つ目は『偶然性の問題』においてはほとんど言及されることのなかった運命愛の思想
が他の論考では強調されている点である。運命愛とは、ニーチェなどに代表される、己の
生や運命がたとえどのように過酷であったとしても、その運命を愛し、もし生まれ変わる
ようなことがあるならば、もう一度この生で、この運命で生まれることを欲するという思
想である。『偶然性の問題』でもヤスパースやニーチェを引用しつつ、この思想は取り上げ
られていた。しかし、それは本全体の中でもほんの一部分にすぎず、強調して語られてい
るという印象は受けなかった。一方、他の論考では積極的に一つの離接肢(原始偶然)で
ある己の運命を愛するようにと述べられているのである。
4.主張の食い違いの意味と理由
このような違いはなぜ発生したのか。主張の食い違いの理由を考えるために、まずは九
鬼が一体何のために偶然性の思索を行なっていたのかを考えることから始めていきたい。
必然と偶然を無限に遡及した後、最終的に辿りつくのが原始偶然であり、我々個物が自
身の存在は全くの偶然であると自覚してしまったとき、その個物の存在の根拠は足許から
崩れ去る。そうやって個物が理由や根拠のない自己を見つめるとき、不安や寂しさという
負の感情を強く感じる。自身の存在を疑うことなく生きていけた方が個物にとっては楽な
のだが、一度原始偶然を自覚してしまった者はそれを知らなかった自分には戻れない。
個物は原始偶然を自覚した瞬間から死ぬまでずっとその不安や寂しさといった負の感情
を感じ続けなければならないのだろうか。このように原始偶然は実存に差し迫ってくる問
題であり、九鬼もその生い立ちからこの問題に深く悩まされていたからこそ、真正面から
この問題を受け止め、解決しようと思索したのであろう。つまり、九鬼の偶然性に対する
思想は一貫して実存の無根拠性、非必然性の問題を解決する(己を、ひいては個物をこの
問題から救済する)という目的に沿って行なわれていたと考えられる。
『偶然性の問題』もその例外ではない。九鬼にとってこの書は、それまでの人生で考え抜
いた実存の問題に対する答えの書であった。「原始偶然=絶対的形而上的必然」という形而
上的絶対者を導き出すことで、我々個物の運命も「必然―偶然者」の性格を持つものと考
えられ、必然性を帯びたものとして原始偶然を捉えることが可能となる。そうすることで、
数ある離接肢の中でこの離接肢でしかありえなかったのだと己を納得させ、自身の存在の
不確かさを払拭することができる。『偶然性の問題』において、九鬼は以上のように考える
ことで、個物を実存の無根拠性、非必然性の問題から救済できるとしたのである。
しかし、実存の無根拠性、非必然性の問題は、無限にある離接肢の中でどの離接肢が選
ばれるかという問題以上に、そもそもある一つの離接肢が顕現するか否かということが問
題なのである。それは個物の運命や実存を「必然―偶然者」として捉える以前の問題、今
ここに己自身として存在していることではなく、そもそも自分が存在してしまっているこ
との問題なのだ。『偶然性の問題』で出した答えは無限にある離接肢の中でこの離接肢が選
ばれた問題(今ここに己自身として存在していることの問題)に対する答えであり、そも
そもある一つの離接肢(原始偶然)が顕現するか否かという己の実存の無根拠性、非必然
性の問題(そもそも自分が存在してしまっていることの問題)に対する答えではなかった。
そして前者の答えでは個物を救済することができなかったからこそ、この書以降の他の論
考では主張を変え、実存の問題に対する別の答えを見出したのだと思われる。以上が『偶
然性の問題』と他の論考で主張が食い違っていた理由だと私は考えた。


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