「椅子的故事」
本日は、晴れ。
今日は、Mステです。
リアルタイムの僕たち6人とみんながやっと会えるね。
今回の【僕らは まだ】の演出では、
ジャン・プルーヴェの椅子を使用して歌唱します。
プルーヴェは結核のために学業を途中で断念し、16歳で鉄鋼職人としてのキャリアをスタートさせます。その為、学校という場所に特別な思いを馳せていました。
スタンダードチェアは1934年にデザインを開始し、晩年の80年代まで完成を求めた代表作です。その多くがフレームと脚が金属、座面と背もたれが木材を用いたものでした。
機能と構造の美しさを兼ね備えた、どこにでもありそうだけれど誰も作ることができない時代を造った椅子です。
学生が後ろ脚に重心を傾けて椅子に座る姿を見たことがこの椅子を作るきっかけとなりました。実際に大学などの数多くの公共施設でこの椅子が採用されました。
プルーヴェのウッドスタンダードは、今年が誕生からちょうど70年の年です。
1941年、戦争による金属不足によりウッドスタンダードをデザインする。プルーヴェは木に関しては専門分野ではありませんでしたが、自らが代表を務めるアトリエのメンバーの生活を守るため、試行錯誤を重ねて完成。
日本を代表する建築家の1人でもある坂倉準三は、ル・コルビュジエのアトリエ在籍時代に知り合ったプルーヴェのスタンダードチェアを元に、日本における『スタンダードチェア』をデザインします。それが『小椅子』と言われる椅子で、現在も山形の天童木工で製作されています。
小椅子は50年代から日本で数多くの公共施設や住宅、企業で採用されており、戦後の日本デザイン史で最も有名な椅子のひとつですが、実はプルーヴェのスタンダードチェアが元になっています。
ここまで長々と説明していますが、家具に全く興味のない人に簡単に説明しますと、
(プルーヴェのこの椅子は坂倉準三の椅子の元になったので、プルーヴェは戦後の日本のデザインに影響を与えたフランス人と言っても過言ではないです。そんな歴史ある偉大な人の椅子ということです(笑)。)
話を戻します。
この椅子は、プルーヴェが戦時中の鉄不足の中で、アトリエのメンバーに給料を払うために、専門分野ではない木で試行錯誤して完成させた椅子です。
プルーヴェはアトリエのメンバーの生活のために木製の椅子を作りました。
僕たちは、ファンのみんなに喜んでもらう為に試行錯誤してきた四半世紀。
自身の為ではなく、人の為にという想いに共通点があり、そこに想いを重ねて、この椅子を使用した演出で歌唱します。
経年変化を重ねたビンテージ家具と、95年から26年に渡り活動して来た僕たちV6を重ね合わせることで、僕たちのこれまでの歴史と26年間の想いを表現出来たらと思っています。
スタンダードチェアは前の顔と横の顔では、全く異なる2面性を持ち、その2つのフォルムが一脚を織りなしている。
それは、トニセン、カミセン、2つのグループで構成された僕たちV6に重なる。
16歳でV6の活動を始めた僕とプルーヴェのスタートラインが重なる。
そして、プルーヴェがウッドスタンダードを制作していた時の年齢が41歳なので、これから新しいスタートを切っていく自分の年齢とも重なり、そんな偶然からもプルーヴェのウッドスタンダードチェアが今回のコンセプトにぴったりだなと感じて選びました。
プルーヴェが1943年にデザインを開始してからの晩年の80年代まで完成を追い求めていたこのスタンダードチェア。
半世紀にわたり、スチール、木、アルミなど、時流に適合した素材を模索し続けて作られた椅子はある意味、『未完成の椅子』です。
【僕らは まだ】のテーマとも重なる未完成であること。
僕たちも常に新しい素材を自分たちに取り入れて、模索し続けて完成を追い求めここまでやって来ました。
調べれば調べる程、改めて、プルーヴェとの重なりが多くて自分でも本当にびっくりしています。
半世紀以上にわたり、歴史あるバトンを引き継いできた椅子。
我が家から連れて来ちゃいました(笑)。
医療従事者、関係者の皆様、昼夜問わず最前線で戦い続け、日々、患者さんに真摯に向き合い、寄り添いご尽力くださりありがとうございます。
リスクのある中、働く全ての職業の皆様、生活を支えてくださる全ての皆様、ありがとうございます。
p.s.
僕の大好きな椅子と、僕の大好きな人たちと共に、大好きなみんなへ、今の想いを乗せて、僕たちそのものを届けます。
今日も1日、一緒に頑張ろうね。
あとでね。
☆健☆
本日は、晴れ。
今日は、Mステです。
リアルタイムの僕たち6人とみんながやっと会えるね。
今回の【僕らは まだ】の演出では、
ジャン・プルーヴェの椅子を使用して歌唱します。
プルーヴェは結核のために学業を途中で断念し、16歳で鉄鋼職人としてのキャリアをスタートさせます。その為、学校という場所に特別な思いを馳せていました。
スタンダードチェアは1934年にデザインを開始し、晩年の80年代まで完成を求めた代表作です。その多くがフレームと脚が金属、座面と背もたれが木材を用いたものでした。
機能と構造の美しさを兼ね備えた、どこにでもありそうだけれど誰も作ることができない時代を造った椅子です。
学生が後ろ脚に重心を傾けて椅子に座る姿を見たことがこの椅子を作るきっかけとなりました。実際に大学などの数多くの公共施設でこの椅子が採用されました。
プルーヴェのウッドスタンダードは、今年が誕生からちょうど70年の年です。
1941年、戦争による金属不足によりウッドスタンダードをデザインする。プルーヴェは木に関しては専門分野ではありませんでしたが、自らが代表を務めるアトリエのメンバーの生活を守るため、試行錯誤を重ねて完成。
日本を代表する建築家の1人でもある坂倉準三は、ル・コルビュジエのアトリエ在籍時代に知り合ったプルーヴェのスタンダードチェアを元に、日本における『スタンダードチェア』をデザインします。それが『小椅子』と言われる椅子で、現在も山形の天童木工で製作されています。
小椅子は50年代から日本で数多くの公共施設や住宅、企業で採用されており、戦後の日本デザイン史で最も有名な椅子のひとつですが、実はプルーヴェのスタンダードチェアが元になっています。
ここまで長々と説明していますが、家具に全く興味のない人に簡単に説明しますと、
(プルーヴェのこの椅子は坂倉準三の椅子の元になったので、プルーヴェは戦後の日本のデザインに影響を与えたフランス人と言っても過言ではないです。そんな歴史ある偉大な人の椅子ということです(笑)。)
話を戻します。
この椅子は、プルーヴェが戦時中の鉄不足の中で、アトリエのメンバーに給料を払うために、専門分野ではない木で試行錯誤して完成させた椅子です。
プルーヴェはアトリエのメンバーの生活のために木製の椅子を作りました。
僕たちは、ファンのみんなに喜んでもらう為に試行錯誤してきた四半世紀。
自身の為ではなく、人の為にという想いに共通点があり、そこに想いを重ねて、この椅子を使用した演出で歌唱します。
経年変化を重ねたビンテージ家具と、95年から26年に渡り活動して来た僕たちV6を重ね合わせることで、僕たちのこれまでの歴史と26年間の想いを表現出来たらと思っています。
スタンダードチェアは前の顔と横の顔では、全く異なる2面性を持ち、その2つのフォルムが一脚を織りなしている。
それは、トニセン、カミセン、2つのグループで構成された僕たちV6に重なる。
16歳でV6の活動を始めた僕とプルーヴェのスタートラインが重なる。
そして、プルーヴェがウッドスタンダードを制作していた時の年齢が41歳なので、これから新しいスタートを切っていく自分の年齢とも重なり、そんな偶然からもプルーヴェのウッドスタンダードチェアが今回のコンセプトにぴったりだなと感じて選びました。
プルーヴェが1943年にデザインを開始してからの晩年の80年代まで完成を追い求めていたこのスタンダードチェア。
半世紀にわたり、スチール、木、アルミなど、時流に適合した素材を模索し続けて作られた椅子はある意味、『未完成の椅子』です。
【僕らは まだ】のテーマとも重なる未完成であること。
僕たちも常に新しい素材を自分たちに取り入れて、模索し続けて完成を追い求めここまでやって来ました。
調べれば調べる程、改めて、プルーヴェとの重なりが多くて自分でも本当にびっくりしています。
半世紀以上にわたり、歴史あるバトンを引き継いできた椅子。
我が家から連れて来ちゃいました(笑)。
医療従事者、関係者の皆様、昼夜問わず最前線で戦い続け、日々、患者さんに真摯に向き合い、寄り添いご尽力くださりありがとうございます。
リスクのある中、働く全ての職業の皆様、生活を支えてくださる全ての皆様、ありがとうございます。
p.s.
僕の大好きな椅子と、僕の大好きな人たちと共に、大好きなみんなへ、今の想いを乗せて、僕たちそのものを届けます。
今日も1日、一緒に頑張ろうね。
あとでね。
☆健☆
【Johnny's net】弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)に関するご報告
平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
この度、弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)は、2021年3月31日をもちまして、King & Princeとしての活動を終えるとともに、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道へと進みますことをご報告申し上げます。
はじめに、ジャニーズJr.時代からご支援くださった関係者の皆様、そして、何より、活動再開を願い、今日まで待ち続けてくださったファンの皆様には急なご報告となりますこと、心よりお詫び申し上げるとともに、これまで岩橋にいただいた温かいご声援の数々に御礼申し上げます。
岩橋は、幼少期にパニック障害を患い、現在まで向き合ってまいりました。
2018年5月にKing & PrinceとしてCDデビューし、自身を取り巻く環境が大きく変化したことにより、心身のバランスを保つことが難しくなったことからパニック障害が悪化いたしました。この状況に直面し、将来ある一人の若者の人生として考えたときに、たとえデビュー直後の大切な時期であったとしても、目の前のことを優先して将来の可能性を失うことがあってはならないと考えました。大切なことを先送りすることなく、何より心身ともに健康で、長く社会で活躍できることが岩橋の人生にとって優先すべきことだと考えたことから、本人・ご家族・医師・メンバー・ジャニーズ事務所がそれぞれ話し合いを重ねた結果、2018年11月より芸能活動を休止した上で、治療に専念することといたしました。
休養期間中、岩橋は、King & Princeでの活動再開を目指してパニック障害の克服に努めてまいりました。症状が現れることもあれば落ち着くこともあり、一進一退を繰り返した約2年5か月に及ぶ活動休止期間を経て、最終的に岩橋自身が出した結論は、King & Princeとしての活動を終え、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道を進むというものでした。これは、パニック障害を克服する難しさとタレントという職業においてかかるプレッシャーや緊張感の大きさを知っている岩橋が、今の自分の状態を踏まえて今後の人生を見つめ直し、辿り着いた結論でございます。今回、岩橋より自分の言葉で申し出があり、その言葉から、岩橋がKing & Princeとファンの皆様を大切に思うからこその決断であることが伝わってまいりましたので、岩橋の意向を尊重することといたしました。
メンバーも6人でステージに立てる日が来ることを信じておりましたが、岩橋より決断を聞き、6人で話し合った結果、大切な仲間だからこそ前向きに送り出すべきだと考え、5人で歩んでいくことを決意いたしました。再び6人で活動することは叶いませんでしたが、メンバー自身がお互いに尊重した上での前向きな結論でございますので、何卒ご理解賜れますと幸甚に存じます。
岩橋につきましては、引き続き、パニック障害の治療を行いながら、新たな道を歩んでまいります。
そして、平野・永瀬・髙橋・岸・神宮寺につきましても、これから5人のKing & Princeとして新たな道を歩んでまいります。2021年3月31日をもちまして、歩む道は分かれることとなりますが、King & Princeが6人でデビューした事実はこれからも変わることはございません。岩橋にとって、King & Princeのメンバーとして過ごした時間は、苦しいことも多かったかもしれませんが、いつの日か「この経験があったからこそ今の自分がある」と言える日が来ることを心から願っております。そして、King & Princeのメンバーとして、皆様に応援していただいた経験は、これからの人生の糧となることと思います。
改めまして、ファンの皆様並びに関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。
岩橋が、パニック障害と向き合う中で、今日まで気持ちが途切れることなく、前を向いて進むことができたのは、応援してくださる皆様の存在によるものです。
そして、この休養期間中にご尽力いただきました病院関係者の皆様はじめ、ご支援くださいましたすべての方々に心より御礼申し上げます。
新たな道を歩むこととなります岩橋玄樹並びにKing & Princeを、これからも温かく見守っていただけますと幸甚に存じます。
なお、岩橋は、引き続き治療に取り組んでまいりますので、岩橋本人及びご家族並びに医療機関への取材等は、治療活動への支障や他の患者様、医療機関のご迷惑にもなりかねないことから、恐れ入りますが、差し控えていただきますよう、何卒ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
2021年3月29日
株式会社ジャニーズ事務所
岩橋玄樹(King & Prince)よりご報告
まずはじめに、応援してくださっているファンの皆様、そしてお世話になった関係者の皆様にきちんとしたご報告が長い間出来ていなかった事をお詫びいたします。
僕は2018年から、小さいころから患っていたパニック障害を治療するために、
入院をして、自分なりに頑張ってなんとか回復させて、
また皆さんの前にたてるよう、
またメンバーと一緒の時間を過ごせるよう、
これまで病気と向き合ってきました。
でも、現在も僕の病気は完全には治っていません。
僕の症状には波があり、ひどく症状が出てしまう時と、おさまっている時があります。
そんな自分の状態をうまく説明できなくて、なかなか周囲の方に理解してもらえない時もありました。
そして、休養をしてから2年以上が経過してしまい、
いつもそばで見守ってくれたメンバーや、
ずっと応援してくれているファンの皆さんに対して、
はっきりとした報告もできないまま、この先もこれ以上待たせてしまう事が、本当につらく感じてしまいました。
そのような気持ちを抱えて過ごす中で、色々な葛藤がありましたが、
とても勝手かもしれませんが、自分のなかでの一つのけじめとして、
2021年3月31日をもちましてKing & Princeからの脱退と、
ジャニーズ事務所を退所させていただく事になりました。
メンバーを含め、たくさんの方々が応援し続けて待ってくれているにも関わらず、自分の心の弱さから、皆さんとの約束を果たす事が出来なくなってしまった事を、本当に申し訳なく思っております。
ティアラの皆さん、ずっと僕の事を好きでいてくれてありがとうございました。常に心配をかけてしまったけれど、どんな時でもティアラの皆さんの気持ちはすごく伝わっていました。
約11年間応援してくれて本当にありがとうございました。
新しい道に進んでも僕はティアラの事が大好きです。
これまでお世話になった関係者の皆様、本当にありがとうございました。
皆様から色々な事を学ぶ事ができ、本当に楽しかったし、勉強になりました。
皆様のお力がなかったら、ここまで歩めなかったと思います。今後はその学んだ事を生かしながら、新しい道を進んでいきたいと思っております。
そして、いつも僕の居場所を守って、ずっと寄り添ってくれて、僕の決断を尊重してくれた、
紫耀、廉、海人、岸くん、神宮寺には言い表せないくらいの感謝の思いでいっぱいです。
中学生の頃からお互い切磋琢磨し、時には喧嘩をして、時には泣き、笑い、
本当に僕の青春時代をみんなと共に過ごせた事は、人生最高の思い出です。
そしてKing & Princeのメンバーとして一緒にデビュー出来た事は、人生最高の誇りです。
この先は、オスティアラとしてKing & Princeを応援し続けたいと思います。
僕はずっとずっとメンバーの事が本当に大好きです。
また、ここまで大きく成長させてくれて、僕の生きる意味を教えてくれた、ジャニーさんにもたくさん感謝しております。
ジャニーさんと出会ってなかったら僕はいませんでした。メンバーにもファンの皆さんにも会えなかったと思います。
ジャニーさんは僕にとって、お父さんのような存在でした。たくさん怒られ、たくさん褒めてくれ、最後の最後まで心配をしてくれていました。
ジャニーさんの教えてくれた事は芸能界問わず、社会に出ても大切な事ばかりです。
その事を胸に刻み、ジャニーさんが笑って、安心してもらえるような人生を歩んでいきたいと思っております。
この先、新しい道に進みますが、僕とメンバー、そしてティアラの絆は、この大きな空を通して永遠に繋がり続けると思います。
またこの先、大きな壁が立ち塞がる事もあると思いますが、その時は自分自身に『大丈夫』と言い聞かせ、1人の人間としてより強くなりたいです。
そして今後、病気が治った時はもっともっと笑っていたいです。
また、多くの先輩方、仲良くしてくれたジャニーズの皆さん全員に心の底から『本当にありがとうございました』と伝えたいです。
今後もきちんと自分の病気を克服するために、今までとは少しだけ環境を変えて、しっかりと自分のペースで治療を頑張ります。そして、応援してくださった皆さんにいつの日かまた再び笑顔を届けられるようにしっかりと人生を歩んでいきたいと思います。
本当にありがとうございました。
2021年3月29日
岩橋玄樹
平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
この度、弊社所属タレント岩橋玄樹(King & Prince)は、2021年3月31日をもちまして、King & Princeとしての活動を終えるとともに、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道へと進みますことをご報告申し上げます。
はじめに、ジャニーズJr.時代からご支援くださった関係者の皆様、そして、何より、活動再開を願い、今日まで待ち続けてくださったファンの皆様には急なご報告となりますこと、心よりお詫び申し上げるとともに、これまで岩橋にいただいた温かいご声援の数々に御礼申し上げます。
岩橋は、幼少期にパニック障害を患い、現在まで向き合ってまいりました。
2018年5月にKing & PrinceとしてCDデビューし、自身を取り巻く環境が大きく変化したことにより、心身のバランスを保つことが難しくなったことからパニック障害が悪化いたしました。この状況に直面し、将来ある一人の若者の人生として考えたときに、たとえデビュー直後の大切な時期であったとしても、目の前のことを優先して将来の可能性を失うことがあってはならないと考えました。大切なことを先送りすることなく、何より心身ともに健康で、長く社会で活躍できることが岩橋の人生にとって優先すべきことだと考えたことから、本人・ご家族・医師・メンバー・ジャニーズ事務所がそれぞれ話し合いを重ねた結果、2018年11月より芸能活動を休止した上で、治療に専念することといたしました。
休養期間中、岩橋は、King & Princeでの活動再開を目指してパニック障害の克服に努めてまいりました。症状が現れることもあれば落ち着くこともあり、一進一退を繰り返した約2年5か月に及ぶ活動休止期間を経て、最終的に岩橋自身が出した結論は、King & Princeとしての活動を終え、ジャニーズ事務所を退所し、新たな道を進むというものでした。これは、パニック障害を克服する難しさとタレントという職業においてかかるプレッシャーや緊張感の大きさを知っている岩橋が、今の自分の状態を踏まえて今後の人生を見つめ直し、辿り着いた結論でございます。今回、岩橋より自分の言葉で申し出があり、その言葉から、岩橋がKing & Princeとファンの皆様を大切に思うからこその決断であることが伝わってまいりましたので、岩橋の意向を尊重することといたしました。
メンバーも6人でステージに立てる日が来ることを信じておりましたが、岩橋より決断を聞き、6人で話し合った結果、大切な仲間だからこそ前向きに送り出すべきだと考え、5人で歩んでいくことを決意いたしました。再び6人で活動することは叶いませんでしたが、メンバー自身がお互いに尊重した上での前向きな結論でございますので、何卒ご理解賜れますと幸甚に存じます。
岩橋につきましては、引き続き、パニック障害の治療を行いながら、新たな道を歩んでまいります。
そして、平野・永瀬・髙橋・岸・神宮寺につきましても、これから5人のKing & Princeとして新たな道を歩んでまいります。2021年3月31日をもちまして、歩む道は分かれることとなりますが、King & Princeが6人でデビューした事実はこれからも変わることはございません。岩橋にとって、King & Princeのメンバーとして過ごした時間は、苦しいことも多かったかもしれませんが、いつの日か「この経験があったからこそ今の自分がある」と言える日が来ることを心から願っております。そして、King & Princeのメンバーとして、皆様に応援していただいた経験は、これからの人生の糧となることと思います。
改めまして、ファンの皆様並びに関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。
岩橋が、パニック障害と向き合う中で、今日まで気持ちが途切れることなく、前を向いて進むことができたのは、応援してくださる皆様の存在によるものです。
そして、この休養期間中にご尽力いただきました病院関係者の皆様はじめ、ご支援くださいましたすべての方々に心より御礼申し上げます。
新たな道を歩むこととなります岩橋玄樹並びにKing & Princeを、これからも温かく見守っていただけますと幸甚に存じます。
なお、岩橋は、引き続き治療に取り組んでまいりますので、岩橋本人及びご家族並びに医療機関への取材等は、治療活動への支障や他の患者様、医療機関のご迷惑にもなりかねないことから、恐れ入りますが、差し控えていただきますよう、何卒ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
2021年3月29日
株式会社ジャニーズ事務所
岩橋玄樹(King & Prince)よりご報告
まずはじめに、応援してくださっているファンの皆様、そしてお世話になった関係者の皆様にきちんとしたご報告が長い間出来ていなかった事をお詫びいたします。
僕は2018年から、小さいころから患っていたパニック障害を治療するために、
入院をして、自分なりに頑張ってなんとか回復させて、
また皆さんの前にたてるよう、
またメンバーと一緒の時間を過ごせるよう、
これまで病気と向き合ってきました。
でも、現在も僕の病気は完全には治っていません。
僕の症状には波があり、ひどく症状が出てしまう時と、おさまっている時があります。
そんな自分の状態をうまく説明できなくて、なかなか周囲の方に理解してもらえない時もありました。
そして、休養をしてから2年以上が経過してしまい、
いつもそばで見守ってくれたメンバーや、
ずっと応援してくれているファンの皆さんに対して、
はっきりとした報告もできないまま、この先もこれ以上待たせてしまう事が、本当につらく感じてしまいました。
そのような気持ちを抱えて過ごす中で、色々な葛藤がありましたが、
とても勝手かもしれませんが、自分のなかでの一つのけじめとして、
2021年3月31日をもちましてKing & Princeからの脱退と、
ジャニーズ事務所を退所させていただく事になりました。
メンバーを含め、たくさんの方々が応援し続けて待ってくれているにも関わらず、自分の心の弱さから、皆さんとの約束を果たす事が出来なくなってしまった事を、本当に申し訳なく思っております。
ティアラの皆さん、ずっと僕の事を好きでいてくれてありがとうございました。常に心配をかけてしまったけれど、どんな時でもティアラの皆さんの気持ちはすごく伝わっていました。
約11年間応援してくれて本当にありがとうございました。
新しい道に進んでも僕はティアラの事が大好きです。
これまでお世話になった関係者の皆様、本当にありがとうございました。
皆様から色々な事を学ぶ事ができ、本当に楽しかったし、勉強になりました。
皆様のお力がなかったら、ここまで歩めなかったと思います。今後はその学んだ事を生かしながら、新しい道を進んでいきたいと思っております。
そして、いつも僕の居場所を守って、ずっと寄り添ってくれて、僕の決断を尊重してくれた、
紫耀、廉、海人、岸くん、神宮寺には言い表せないくらいの感謝の思いでいっぱいです。
中学生の頃からお互い切磋琢磨し、時には喧嘩をして、時には泣き、笑い、
本当に僕の青春時代をみんなと共に過ごせた事は、人生最高の思い出です。
そしてKing & Princeのメンバーとして一緒にデビュー出来た事は、人生最高の誇りです。
この先は、オスティアラとしてKing & Princeを応援し続けたいと思います。
僕はずっとずっとメンバーの事が本当に大好きです。
また、ここまで大きく成長させてくれて、僕の生きる意味を教えてくれた、ジャニーさんにもたくさん感謝しております。
ジャニーさんと出会ってなかったら僕はいませんでした。メンバーにもファンの皆さんにも会えなかったと思います。
ジャニーさんは僕にとって、お父さんのような存在でした。たくさん怒られ、たくさん褒めてくれ、最後の最後まで心配をしてくれていました。
ジャニーさんの教えてくれた事は芸能界問わず、社会に出ても大切な事ばかりです。
その事を胸に刻み、ジャニーさんが笑って、安心してもらえるような人生を歩んでいきたいと思っております。
この先、新しい道に進みますが、僕とメンバー、そしてティアラの絆は、この大きな空を通して永遠に繋がり続けると思います。
またこの先、大きな壁が立ち塞がる事もあると思いますが、その時は自分自身に『大丈夫』と言い聞かせ、1人の人間としてより強くなりたいです。
そして今後、病気が治った時はもっともっと笑っていたいです。
また、多くの先輩方、仲良くしてくれたジャニーズの皆さん全員に心の底から『本当にありがとうございました』と伝えたいです。
今後もきちんと自分の病気を克服するために、今までとは少しだけ環境を変えて、しっかりと自分のペースで治療を頑張ります。そして、応援してくださった皆さんにいつの日かまた再び笑顔を届けられるようにしっかりと人生を歩んでいきたいと思います。
本当にありがとうございました。
2021年3月29日
岩橋玄樹
#往復書簡#
片寄の「強さや聡明さ」が滲み出てきたのに対し…
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡22
コロナ禍の中で始まったこの連載。小竹のパートは今回が今年最後となる。小竹と親しい小泉今日子や妻夫木聡の両氏は、片寄の文章や人柄を評価しているようだ。
***
拝啓 片寄涼太様
この往復書簡、外部からの評判は私には入ってこないが(以前ここで書いた通りエゴサーチを封印したので)、私の友人・知人、同じ事務所のアーティスト・スタッフの中には毎週読んでくれている人がたくさんいる。
「カイダン」の話を書いたときには驚くほど多くの人が私の怪我の心配をしてくれたし、粉瘤(ふんりゅう)手術のことを書いたあとはやたらとみんなが私の左耳のあたりを見るようになった気が。
メールで感想を送ってくれたり、会った際に「往復書簡、毎週楽しみにしています」と言ってくれたりする人が後を絶たない。クールに「どうも」などと対応する私ではあるが、内心パヤパヤと浮かれている。
小泉今日子氏は「片寄さんの文章は安定感がある」と言っていたし、妻夫木聡氏は「片寄くんはいい子だねえ。滲み出てるねえ」と感心していたよ。
あれ? 私の書いたものに関する感想はないんかーい!? と大声でツッコミたいところだが、往復書簡の相手に指名させてもらった君が褒められるのは私としても嬉しい限り。
こういう公の場で文章を書くってさ、私の場合はそれが本業だから当然1から10まで自分で書くが、君のようなアーティストや俳優の場合は、事前にインタビューを受けて、そこからさもその人が書いたようにライターや編集者が文章を起こすのが当たり前。
だが、君は毎回毎回しっかりと自分自身で文章を書いて締め切りを守っている。私は君からの手紙を受け取るたびにそのことに感心するし、「え、涼太、もう返事を書いてきやがった」と、新たに私に課された締め切りにプロらしからぬ当惑をおぼえたりする。それにしても涼太くん、またまた糧が増えるね。
で、子供の頃の私の話。今振り返ると私は、口の中で飴玉をずっと転がしているようなとても恵まれた(甘すぎるくらいの)環境でのほほーんと幼少期を過ごしていた。もっぱらの心配事は「お父さんが死んだらどうしよう」「お母さんが死んだらどうしよう」で、寝る前にそのことを考えてベソをかくような子供だった。
ああそうか、今も健在の、根は陽気なのに不必要に悲しいことばかり考える癖は幼少期にはすでに培われていたんだ。
そのくせ、「もしもこの世界に生息している人間が私一人だけだったら」と空想するのが大好きだった。サバイバルや自給自足の知識など、必要不可欠なことは他にいくらでもあるのに、何故か私はその空想上で「一人で生きていくためにまずは料理ができなきゃ話にならない」と、かなり幼い頃から料理に興味を抱き、今じゃそれは立派な特技になっている。
ああそうか、「ひとりでいたい願望」(言い換えると「孤独好き」)も料理への探求心も幼少期にはすでに芽生えていたのだな。
君みたいに映画「トゥルーマン・ショー」の世界に入り込んでしまったような錯覚に怯える賢さは私にはなかったかなあ。
君が利発的で冒険心に溢れるキラキラとした子供だったのは、今の君を見ていて容易に想像できる。そして私は、他の子供たちとは毛色の違う変な妄想癖があり、それに一喜一憂しながらもすぐまた別の妄想をするスライムみたいなどろどろダラーッとした子供だった。
いじめや素行不良とは縁がなかったが、妄想癖が強すぎるゆえにとても嘘つきな子供で、自分も他人も傷つかないが得もしない不可解な嘘ばっかりついていた私……。
年齢が親子ほど離れている君とのこの連載、回を重ねるごとにお互いの考え方の年齢差や温度差が出ていてめちゃめちゃ面白いなあと感じていたのだが、正直に書けば書くほど、君は強さや聡明さが滲み出てきたのに対し(たとえるなら原石が磨かれていくような?)、私はどうしようもなく間抜けで怠惰なところや情けない過去がむきだしになってきている(たとえるならメッキが剥がれていくような?)のは気のせいか?
さて、前回の君の書簡の文末での質問、「これは運命に導かれたと思うこと」だが、かなりある。それどころか、自分にとって大切な出会いや出来事はすべて運命に導かれたからこそだと思う。
ただし、運命に導かれるためには、条件があるとも思う。努力や実力だけでは補えない「運」と「タイミング」を持っていること。そして運命を手繰り寄せられるような自分なりの「個性」があること(個性は人生の武器なので)。
君に近しいところで言うと、EXILE HIROさんとの出会いはまさしく運命に導かれたのだと思う。私は、あんなに魅力的な男を他に知らない。
いろんな「すごい人」に出会わせてもらった人生だったが、後にも先にもHIROさんほど人間力が高い男はついぞ私の前に現れてこなかった。
作詞家・小竹正人を巧みに(実力以上に)プロデュースしてもらい、いつからか家族の一員のようになり、そしてHIROさんの子供は、私の人生の最愛で最後の生きがいになっている。これを「運命に導かれた」と言わずに何と言う?
小竹正人
p1 私の作詞家人生はE-girls(とFlower)なしでは語れない。数えきれない苦楽を共にした愛弟子で同志だった。伶菜、晴美、希、楓、夏恋、さーちん、ユリちゃん、アンナ、乃々華、柚、そして杏奈、ありがとう。これからも頑張れ!ますます輝け!
p2 片寄×小竹の往復書簡、私の手紙は今回が2020年のラストになります。読んでくださっている皆さま、Merry×Merry X'mas★!!良い年をお迎えください。そして来年もこの連載をぜひぜひお楽しみください
片寄の「強さや聡明さ」が滲み出てきたのに対し…
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡22
コロナ禍の中で始まったこの連載。小竹のパートは今回が今年最後となる。小竹と親しい小泉今日子や妻夫木聡の両氏は、片寄の文章や人柄を評価しているようだ。
***
拝啓 片寄涼太様
この往復書簡、外部からの評判は私には入ってこないが(以前ここで書いた通りエゴサーチを封印したので)、私の友人・知人、同じ事務所のアーティスト・スタッフの中には毎週読んでくれている人がたくさんいる。
「カイダン」の話を書いたときには驚くほど多くの人が私の怪我の心配をしてくれたし、粉瘤(ふんりゅう)手術のことを書いたあとはやたらとみんなが私の左耳のあたりを見るようになった気が。
メールで感想を送ってくれたり、会った際に「往復書簡、毎週楽しみにしています」と言ってくれたりする人が後を絶たない。クールに「どうも」などと対応する私ではあるが、内心パヤパヤと浮かれている。
小泉今日子氏は「片寄さんの文章は安定感がある」と言っていたし、妻夫木聡氏は「片寄くんはいい子だねえ。滲み出てるねえ」と感心していたよ。
あれ? 私の書いたものに関する感想はないんかーい!? と大声でツッコミたいところだが、往復書簡の相手に指名させてもらった君が褒められるのは私としても嬉しい限り。
こういう公の場で文章を書くってさ、私の場合はそれが本業だから当然1から10まで自分で書くが、君のようなアーティストや俳優の場合は、事前にインタビューを受けて、そこからさもその人が書いたようにライターや編集者が文章を起こすのが当たり前。
だが、君は毎回毎回しっかりと自分自身で文章を書いて締め切りを守っている。私は君からの手紙を受け取るたびにそのことに感心するし、「え、涼太、もう返事を書いてきやがった」と、新たに私に課された締め切りにプロらしからぬ当惑をおぼえたりする。それにしても涼太くん、またまた糧が増えるね。
で、子供の頃の私の話。今振り返ると私は、口の中で飴玉をずっと転がしているようなとても恵まれた(甘すぎるくらいの)環境でのほほーんと幼少期を過ごしていた。もっぱらの心配事は「お父さんが死んだらどうしよう」「お母さんが死んだらどうしよう」で、寝る前にそのことを考えてベソをかくような子供だった。
ああそうか、今も健在の、根は陽気なのに不必要に悲しいことばかり考える癖は幼少期にはすでに培われていたんだ。
そのくせ、「もしもこの世界に生息している人間が私一人だけだったら」と空想するのが大好きだった。サバイバルや自給自足の知識など、必要不可欠なことは他にいくらでもあるのに、何故か私はその空想上で「一人で生きていくためにまずは料理ができなきゃ話にならない」と、かなり幼い頃から料理に興味を抱き、今じゃそれは立派な特技になっている。
ああそうか、「ひとりでいたい願望」(言い換えると「孤独好き」)も料理への探求心も幼少期にはすでに芽生えていたのだな。
君みたいに映画「トゥルーマン・ショー」の世界に入り込んでしまったような錯覚に怯える賢さは私にはなかったかなあ。
君が利発的で冒険心に溢れるキラキラとした子供だったのは、今の君を見ていて容易に想像できる。そして私は、他の子供たちとは毛色の違う変な妄想癖があり、それに一喜一憂しながらもすぐまた別の妄想をするスライムみたいなどろどろダラーッとした子供だった。
いじめや素行不良とは縁がなかったが、妄想癖が強すぎるゆえにとても嘘つきな子供で、自分も他人も傷つかないが得もしない不可解な嘘ばっかりついていた私……。
年齢が親子ほど離れている君とのこの連載、回を重ねるごとにお互いの考え方の年齢差や温度差が出ていてめちゃめちゃ面白いなあと感じていたのだが、正直に書けば書くほど、君は強さや聡明さが滲み出てきたのに対し(たとえるなら原石が磨かれていくような?)、私はどうしようもなく間抜けで怠惰なところや情けない過去がむきだしになってきている(たとえるならメッキが剥がれていくような?)のは気のせいか?
さて、前回の君の書簡の文末での質問、「これは運命に導かれたと思うこと」だが、かなりある。それどころか、自分にとって大切な出会いや出来事はすべて運命に導かれたからこそだと思う。
ただし、運命に導かれるためには、条件があるとも思う。努力や実力だけでは補えない「運」と「タイミング」を持っていること。そして運命を手繰り寄せられるような自分なりの「個性」があること(個性は人生の武器なので)。
君に近しいところで言うと、EXILE HIROさんとの出会いはまさしく運命に導かれたのだと思う。私は、あんなに魅力的な男を他に知らない。
いろんな「すごい人」に出会わせてもらった人生だったが、後にも先にもHIROさんほど人間力が高い男はついぞ私の前に現れてこなかった。
作詞家・小竹正人を巧みに(実力以上に)プロデュースしてもらい、いつからか家族の一員のようになり、そしてHIROさんの子供は、私の人生の最愛で最後の生きがいになっている。これを「運命に導かれた」と言わずに何と言う?
小竹正人
p1 私の作詞家人生はE-girls(とFlower)なしでは語れない。数えきれない苦楽を共にした愛弟子で同志だった。伶菜、晴美、希、楓、夏恋、さーちん、ユリちゃん、アンナ、乃々華、柚、そして杏奈、ありがとう。これからも頑張れ!ますます輝け!
p2 片寄×小竹の往復書簡、私の手紙は今回が2020年のラストになります。読んでくださっている皆さま、Merry×Merry X'mas★!!良い年をお迎えください。そして来年もこの連載をぜひぜひお楽しみください
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