松田龍平が長塚圭史の演出で、演劇界の金字塔『近松心中物語』に挑む
1979年に蜷川幸雄の演出で初演されて大ヒットして以来、キャストを変えながら幾度も上演されてきた『近松心中物語』。劇作家・秋元松代が、『冥途の飛脚』をはじめとする近松門左衛門の3作品をひとつに織り上げたこの人気作が、新芸術監督・長塚圭史の演出とスチャダラパーの音楽で、KAAT神奈川芸術劇場2021年メインシーズンの幕開けを飾る。傘屋与兵衛役を務めるのは、舞台『冒した者』(2013年、葛河思潮社公演)と『イーハトーボの劇列車』(2019年、こまつ座公演)で長塚演出を経験している松田龍平。さて、稽古初日を前にした松田の心境は?
ーー『イーハトーボの劇列車』以来、約2年ぶり5作品目の舞台出演となる松田さん。今回出演を決めたポイントは何だったのでしょう?
長塚さんとまたやりたかったからですかね。一つ前にやった『イーハトーボの劇列車』では汽車の機械音を役者が奏でたり、ギロだけで歌を歌ったり、自分の身ひとつで演じる感覚があって、やっていて面白くて。もちろん、役者同士が息をピタリと合わせる必要があったし、誤魔化しがきかないので、大変だったんですけど、やり始めると夢中になっちゃって。まあ、夢中にならないとできないという感じでしたね。僕はあまりストイックな方じゃないので、ありがたいです(笑)。思い返せば僕の場合、自分の中で「前に進めてないな」とか、なんとなく感じているときに舞台に呼んでもらうことが多くて、本当に、毎回、いい刺激をもらっています。ありがたいです。
ーー『近松心中物語』という作品は、以前からご存じでしたか?
このお話をいただいてからネットで調べたら、“演劇界の金字塔”と書いてあって、おお!? と思いました(笑)。1000回以上上演されていて、海外でも公演していて……それだけ愛されている作品ですから。もちろんそういう意味でもプレッシャーはありますけど、舞台のいいところは、皆と芝居を重ねる時間をもらえるというところですかね。この舞台も座組の皆さんと力を合わせて、作っていけたらと思います。
ーー元禄時代の大阪を舞台に、飛脚宿亀屋の真面目な養子・忠兵衛と遊女梅川、忠兵衛に梅川を身請けする手付金を貸したことから窮地に陥る古物商傘屋の若旦那・与兵衛とその妻・お亀という2組の男女の恋を描いた本作品。台本の印象はいかがですか?
話としては、複雑に入り組んでる話ではないから、その分、世界観とか、役柄みたいなものが浮き彫りになりそうだと思いました。あとは、ハートでどこまでやれるかですかね(笑)。僕が演じる与兵衛については、自分が本当はどう生きていきたいのか、違う生き方があるんじゃないかと模索している印象がありました。ただ、人との繋がりには、筋を通しているというイメージがあります。
ーー傘屋の箱入り娘で、婿養子の与兵衛にぞっこんの妻・お亀役は、石橋静河さん。女性にモテモテで、石橋さんが演じる役に思いを寄せられるところなど、与兵衛とドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』で松田さんが演じていた田中八作には、共通点を感じます。
たしかに、言われてみれば、そういうところもあるかもしれないですね。実は、石橋さんとの共演は、今回で5回目なんです。石橋さんとは親同士のつながりもあって、幼い頃から知っているので、すごい縁だなと。哲司さんの忠兵衛、笹本さんの遊女梅川をはじめ、めちゃめちゃ素敵なキャストが揃ってますし、自分もホントに頑張らないとヤバいですね。
ーー関西弁で演じることについてはどう感じていますか?
大変そうですね。関西弁でお芝居をするのは初めてなので、どうしようかなと。勝手なイメージですけど、東北弁は口をあまり開けないでしゃべる感じで、意外と雰囲気で誤魔化せたんじゃないかと思っているのですが、関西弁だと、それも通用しなさそうですよね(笑)。ただ、この舞台での関西弁は、秋元さんが書かれた江戸時代の関西弁ですから。関西の方に「何弁?」って言われないように、そこは今のうちから、インタビューでなるべく主張していこうと思ってます(笑)。
ーー会見で「長塚さんはいつも僕に対してピリッとしたことを言ってくれる」と話されていましたが、印象に残る“ピリッとした言葉”があったら教えてください。
稽古中に長塚さんが話をしている時に、つい聞いてない時が(笑)。そう言うことで怒られてますね。変なタイミングで栗を食べたり。完全に僕が集中力足りてないだけですね(笑)。そういう部分はさて置き、そうですね。長塚さんの演出は、物語のテーマだったり、確固としたイメージがあるのを感じるんです。だからこそ、自分も同じ温度を保ってないと置いていかれるような緊張感があるし、応えたいと思うから、自分の気持ちもピリッとします。
ーーKAAT神奈川芸術劇場への出演は、『冒した者』以来ですね。劇場や横浜にはどんな思い出がありますか?
『冒した者』は、稽古もKAATでやらせてもらったので、懐かしいですね。僕は毎日、都内から自分の車で稽古に通っていたんですけど、運転しながらセリフを繰り返すと、結構覚えやすいなと思った記憶があります。ただ、道を覚える前にそれをやると、高速で降りるところを間違えたり、慣れるまで気をつけないといけないですね(笑)。僕の場合、家でも、普通に台本を読むより、何かちょっとした作業をしながらのほうが、セリフを覚えやすいです。
ーーコロナ禍では、どんなふうに過ごしていたのですか?
家でテレビを見たり、ゲームをしたりですね……もともと家で過ごすのが好きですし、仕事もけっこうスケジュールが先になったりして。でも、割りと大きくは変わらずでしたね。会社勤めだったり、コンスタントに動いていた人は急に生活スタイルが変わって大変なんだと思います。
僕としては「休めるならこのままずっと休みたい」と思ってしまう事のほうが怖かったです。
ーーお仕事を再開された時は、どんな思いがありましたか?
そうですね。久々の撮影は「どうやるんだっけ?」という感じでした(笑)。でもやっぱり楽しかったです。何よりありがたかったし、もっと楽しくするためにはどうしたらいいのか考えないとですね。この仕事ははっきりしたものがあるわけじゃないから、そういう思いは尽きることがないんでしょうけど。これからもずっと、そんなことを考えながら、繰り返していけたらって思います。
ーー松田さんが俳優になってよかったなと思うのは、どんな時ですか?
お芝居は、コミュニケーションの上にあるものなので、役に対して混じりっけなく真っ直ぐになれた時は、気持ちいいなと感じます。普段の人との会話もそうですよね。不安とか嫉妬とか、そういう余計な要素がなく、相手に対してお互いに真っ直ぐ話し合えたら、それは幸せな時間ですし。自分はそういう機会を、いろいろな役やシチュエーションを通して得ているのかもしれません。そういう意味では、こんなに楽しいことはないなと思います。特に舞台は何度も稽古を重ねたうえで役と向き合えるので最高ですね。
ーーこの『近松心中物語』で始まるKAATの2021年メインシーズンのテーマは“冒”だそうです。松田さんが冒険、挑戦したいことを教えてください。
色々な国の人と仕事をしたいですね。もちろん言葉の壁はありますけど、繋がり方も変わってきていると思うし。チャンスはあるんじゃないかな。まあ、今は『近松心中物語』をやり切らないとですね。こんな世の中で、出掛けるのはなかなか難しい状況になるかもしれませんが、『近松心中物語』。「心中」に魅了された男女の物語をぜひ劇場でご覧ください。
ヘアメイク:赤松絵利(ESPER)
スタイリスト:石井大
取材・文=岡﨑 香 撮影=西村彩子(SELF:PSY’S)
1979年に蜷川幸雄の演出で初演されて大ヒットして以来、キャストを変えながら幾度も上演されてきた『近松心中物語』。劇作家・秋元松代が、『冥途の飛脚』をはじめとする近松門左衛門の3作品をひとつに織り上げたこの人気作が、新芸術監督・長塚圭史の演出とスチャダラパーの音楽で、KAAT神奈川芸術劇場2021年メインシーズンの幕開けを飾る。傘屋与兵衛役を務めるのは、舞台『冒した者』(2013年、葛河思潮社公演)と『イーハトーボの劇列車』(2019年、こまつ座公演)で長塚演出を経験している松田龍平。さて、稽古初日を前にした松田の心境は?
ーー『イーハトーボの劇列車』以来、約2年ぶり5作品目の舞台出演となる松田さん。今回出演を決めたポイントは何だったのでしょう?
長塚さんとまたやりたかったからですかね。一つ前にやった『イーハトーボの劇列車』では汽車の機械音を役者が奏でたり、ギロだけで歌を歌ったり、自分の身ひとつで演じる感覚があって、やっていて面白くて。もちろん、役者同士が息をピタリと合わせる必要があったし、誤魔化しがきかないので、大変だったんですけど、やり始めると夢中になっちゃって。まあ、夢中にならないとできないという感じでしたね。僕はあまりストイックな方じゃないので、ありがたいです(笑)。思い返せば僕の場合、自分の中で「前に進めてないな」とか、なんとなく感じているときに舞台に呼んでもらうことが多くて、本当に、毎回、いい刺激をもらっています。ありがたいです。
ーー『近松心中物語』という作品は、以前からご存じでしたか?
このお話をいただいてからネットで調べたら、“演劇界の金字塔”と書いてあって、おお!? と思いました(笑)。1000回以上上演されていて、海外でも公演していて……それだけ愛されている作品ですから。もちろんそういう意味でもプレッシャーはありますけど、舞台のいいところは、皆と芝居を重ねる時間をもらえるというところですかね。この舞台も座組の皆さんと力を合わせて、作っていけたらと思います。
ーー元禄時代の大阪を舞台に、飛脚宿亀屋の真面目な養子・忠兵衛と遊女梅川、忠兵衛に梅川を身請けする手付金を貸したことから窮地に陥る古物商傘屋の若旦那・与兵衛とその妻・お亀という2組の男女の恋を描いた本作品。台本の印象はいかがですか?
話としては、複雑に入り組んでる話ではないから、その分、世界観とか、役柄みたいなものが浮き彫りになりそうだと思いました。あとは、ハートでどこまでやれるかですかね(笑)。僕が演じる与兵衛については、自分が本当はどう生きていきたいのか、違う生き方があるんじゃないかと模索している印象がありました。ただ、人との繋がりには、筋を通しているというイメージがあります。
ーー傘屋の箱入り娘で、婿養子の与兵衛にぞっこんの妻・お亀役は、石橋静河さん。女性にモテモテで、石橋さんが演じる役に思いを寄せられるところなど、与兵衛とドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』で松田さんが演じていた田中八作には、共通点を感じます。
たしかに、言われてみれば、そういうところもあるかもしれないですね。実は、石橋さんとの共演は、今回で5回目なんです。石橋さんとは親同士のつながりもあって、幼い頃から知っているので、すごい縁だなと。哲司さんの忠兵衛、笹本さんの遊女梅川をはじめ、めちゃめちゃ素敵なキャストが揃ってますし、自分もホントに頑張らないとヤバいですね。
ーー関西弁で演じることについてはどう感じていますか?
大変そうですね。関西弁でお芝居をするのは初めてなので、どうしようかなと。勝手なイメージですけど、東北弁は口をあまり開けないでしゃべる感じで、意外と雰囲気で誤魔化せたんじゃないかと思っているのですが、関西弁だと、それも通用しなさそうですよね(笑)。ただ、この舞台での関西弁は、秋元さんが書かれた江戸時代の関西弁ですから。関西の方に「何弁?」って言われないように、そこは今のうちから、インタビューでなるべく主張していこうと思ってます(笑)。
ーー会見で「長塚さんはいつも僕に対してピリッとしたことを言ってくれる」と話されていましたが、印象に残る“ピリッとした言葉”があったら教えてください。
稽古中に長塚さんが話をしている時に、つい聞いてない時が(笑)。そう言うことで怒られてますね。変なタイミングで栗を食べたり。完全に僕が集中力足りてないだけですね(笑)。そういう部分はさて置き、そうですね。長塚さんの演出は、物語のテーマだったり、確固としたイメージがあるのを感じるんです。だからこそ、自分も同じ温度を保ってないと置いていかれるような緊張感があるし、応えたいと思うから、自分の気持ちもピリッとします。
ーーKAAT神奈川芸術劇場への出演は、『冒した者』以来ですね。劇場や横浜にはどんな思い出がありますか?
『冒した者』は、稽古もKAATでやらせてもらったので、懐かしいですね。僕は毎日、都内から自分の車で稽古に通っていたんですけど、運転しながらセリフを繰り返すと、結構覚えやすいなと思った記憶があります。ただ、道を覚える前にそれをやると、高速で降りるところを間違えたり、慣れるまで気をつけないといけないですね(笑)。僕の場合、家でも、普通に台本を読むより、何かちょっとした作業をしながらのほうが、セリフを覚えやすいです。
ーーコロナ禍では、どんなふうに過ごしていたのですか?
家でテレビを見たり、ゲームをしたりですね……もともと家で過ごすのが好きですし、仕事もけっこうスケジュールが先になったりして。でも、割りと大きくは変わらずでしたね。会社勤めだったり、コンスタントに動いていた人は急に生活スタイルが変わって大変なんだと思います。
僕としては「休めるならこのままずっと休みたい」と思ってしまう事のほうが怖かったです。
ーーお仕事を再開された時は、どんな思いがありましたか?
そうですね。久々の撮影は「どうやるんだっけ?」という感じでした(笑)。でもやっぱり楽しかったです。何よりありがたかったし、もっと楽しくするためにはどうしたらいいのか考えないとですね。この仕事ははっきりしたものがあるわけじゃないから、そういう思いは尽きることがないんでしょうけど。これからもずっと、そんなことを考えながら、繰り返していけたらって思います。
ーー松田さんが俳優になってよかったなと思うのは、どんな時ですか?
お芝居は、コミュニケーションの上にあるものなので、役に対して混じりっけなく真っ直ぐになれた時は、気持ちいいなと感じます。普段の人との会話もそうですよね。不安とか嫉妬とか、そういう余計な要素がなく、相手に対してお互いに真っ直ぐ話し合えたら、それは幸せな時間ですし。自分はそういう機会を、いろいろな役やシチュエーションを通して得ているのかもしれません。そういう意味では、こんなに楽しいことはないなと思います。特に舞台は何度も稽古を重ねたうえで役と向き合えるので最高ですね。
ーーこの『近松心中物語』で始まるKAATの2021年メインシーズンのテーマは“冒”だそうです。松田さんが冒険、挑戦したいことを教えてください。
色々な国の人と仕事をしたいですね。もちろん言葉の壁はありますけど、繋がり方も変わってきていると思うし。チャンスはあるんじゃないかな。まあ、今は『近松心中物語』をやり切らないとですね。こんな世の中で、出掛けるのはなかなか難しい状況になるかもしれませんが、『近松心中物語』。「心中」に魅了された男女の物語をぜひ劇場でご覧ください。
ヘアメイク:赤松絵利(ESPER)
スタイリスト:石井大
取材・文=岡﨑 香 撮影=西村彩子(SELF:PSY’S)
#中华书局#
《春秋正辞笺》十一卷,清庄存与撰,辛智慧笺,主要发挥《春秋公羊传》的微言大义,是清代今文经学、公羊学的开山之作,直接开启了晚清百余年的公羊学思潮,对清代后期的学术、思潮乃至政治氛围,皆有重大影响。该书所开创的公羊学派,经过庄述祖、刘逢禄、宋翔凤的发展之后,成为晚清学者,如魏源、龚自珍等相继研讨的对象,并*终至康有为而大放异彩。钱穆称其“足以掩胁晚清百余年来之风气而震荡摇撼之”(《中国近三百年学术史》)。但《春秋正辞》向以艰深晦涩著称,一者家法肃然,又有固定的解释路径,事、义、例纷繁深奥;二者庄氏“素称魁儒”,湛深经术,其文风质厚渊懿,有类誥铭,难以卒读。本书笺注,主要以探究庄氏文辞、典实、义例的来源为主,从《春秋》三传以及历代《春秋》学著作中逐句探析,使字无疑义,句无剩蕴,为学界研究提供了一个清通显白的读本。
《春秋正辞笺》十一卷,清庄存与撰,辛智慧笺,主要发挥《春秋公羊传》的微言大义,是清代今文经学、公羊学的开山之作,直接开启了晚清百余年的公羊学思潮,对清代后期的学术、思潮乃至政治氛围,皆有重大影响。该书所开创的公羊学派,经过庄述祖、刘逢禄、宋翔凤的发展之后,成为晚清学者,如魏源、龚自珍等相继研讨的对象,并*终至康有为而大放异彩。钱穆称其“足以掩胁晚清百余年来之风气而震荡摇撼之”(《中国近三百年学术史》)。但《春秋正辞》向以艰深晦涩著称,一者家法肃然,又有固定的解释路径,事、义、例纷繁深奥;二者庄氏“素称魁儒”,湛深经术,其文风质厚渊懿,有类誥铭,难以卒读。本书笺注,主要以探究庄氏文辞、典实、义例的来源为主,从《春秋》三传以及历代《春秋》学著作中逐句探析,使字无疑义,句无剩蕴,为学界研究提供了一个清通显白的读本。
名人与佛:林则徐学佛如何影响他的为官与做人
林则徐随张师诚工作4年,深受张的器重,在学佛方面也深受张的教导和影响。二人在忙于政事之余,时常畅谈国家大计,而学佛修净土也是二人经常触及的话题。当林则徐进入张师诚幕府的那一年,就时常为张师诚的太夫人书写佛经。张师诚“平昔双修儒佛”,林则徐便虔诚地为她抄写《佛说阿弥陀经》、《金刚般若波罗蜜经》、《般若波罗蜜多心经》、《大悲咒》、《往生咒》5种经咒,共贮一函,上题“行舆日课”、“净土资粮”八个字,作为每日必诵的功课。
这些经本只有四寸多长、三寸多宽,每面六行,每行十二个字,便于随身携带。他书写的经本字迹清晰,而且一丝不苟,足见其对佛教的虔诚和恭敬。正所谓“至诚心念,从心持、口出声、耳听明、摄还归心,这样便念念是佛……心净澄寂”。这里可以看出林则徐虽公务繁忙,然对其所书经书必坚持课诵,行持诚笃,从不怠慢,真正达到了“净土资粮,为信、愿、行三者,如鼎之三足,缺一不可”的修佛境界。
1998年2月,上海佛学书局再版的《林则徐手书经咒日课》一书,附录林则徐的曾孙林大任于1933年6月所书跋语,讲述了林则徐学佛的渊源,其中有云:“先公早岁以文字受知于张兰渚中丞,遂佐其幕府。尝以急促之时,治繁重之务,振笔累千言,精神贯注,略无疏懈,张公叹为奇才。按张公平生奉佛甚谨,曾辑《径中径又径》一书,劝策行人,专修净业,多切至之语。文公忠写经之岁,即张公秉节吾闽之时。”由此可见,林则徐青年时期便受佛法熏陶,并深信力行,从而奠定了他终生坚持以“不为自己求安乐,但愿众生得离苦”为做人作事准则的深厚思想基础。
道光十年张师诚因病离世,林则徐捶胸顿足,伤心不已,遂作《挽张兰渚侍郎师诚》,其中有云:“感恩知己两兼之,拟今春重谒门庭,谁知一纸音书,竟成绝笔。尽忠补过今已矣,忆平昔双修儒佛,但计卅年宦绩,也合升天”。张师诚外儒内佛的处世为官,以及学佛的恭敬诚笃,与林则徐是薪火相传,前后辉映,也成就了近代现宰官身修净土的一段佳话。
与佛教界人士的直接交往
林则徐为官期间,勤政爱民,与人友善,佛教界人士也不例外。在与林则徐交往的佛教界人士中既有在寺出家的诗僧,也有在家修行的民间居士。林则徐能够在戎马倥偬中修持佛法,佛教界人士对他的影响也是非常大的。
在佛门诗僧中,根据林则徐日记和诗词可以肯定的有两位高僧,一位是道光二年林则徐初识并赞誉其“诗亦清隽”的镇江焦山定慧寺方丈巨超,还有一位是林则徐任职云贵期间的昆明西山华亭寺方丈岩栖。
巨超,镇江焦山定慧寺方丈,写得一手好诗,是佛教界著名的诗僧。道光三年十月,林则徐在江苏按察使任上回京述职。途经镇江,偕友同游焦山期间,会见了巨超法师。两人一见如故,巨超曾示杨忠愍手迹与林则徐共赏之。道光十五年四月,时任江苏巡抚的林则徐因公赴镇(镇江)办理漕运总督朱为弼提船一事。到镇后,登船游玩了自然庵、海西庵、水晶庵等景,同时又与退院高僧巨超相遇,惊喜之余,两人吟诗作对,林则徐因此而赞其“诗亦清隽”。
岩栖,时任云南省昆明华亭寺方丈,是著名的得道高僧。林则徐与岩栖趣味相投,过从甚密,林则徐曾为其题诗四首,皆为七言绝句,林则徐亲笔题书的这四首诗被后人刻于一块大理石屏上,显示了岩栖法师与林则徐这对诗友的一见如故,岩栖圆寂后即嵌于其舍利塔内,以当塔铭。今塔已毁,诗屏犹存。近年华亭寺已将该屏嵌于新建藏经楼左侧墙壁上, 以供观赏。
林则徐与僧人的频繁交往,“尤其强化了他以佛理补益其经世之学的意识”,从而成为经世致用思潮的践行者,并将佛家慈悲利人的精神落实于爱国爱民的具体施政中,更好地为现实社会服务。
林则徐日课“三经二咒”,以净土为依归,除了张师诚的启发,另有同行善友为依。龚自珍、魏源二人正是林则徐在菩提道上的挚友。
龚自珍,清代著名思想家、文学家及改良主义的先驱者。他38岁中进士,曾任内阁中书、宗人府主事和礼部主事等官职。主张革除弊政,抵制外国侵略,曾全力支持林则徐禁除鸦片。龚自珍也是一位著名的佛门居士,他推崇天台宗,批判禅宗。魏源,名远达,字默深,是清代启蒙思想家、政治家、文学家。道光二十五年中进士,官高邮知州,晚年弃官归隐,潜心佛学,提倡净土。
龚自珍小林则徐7岁,魏源小林则徐9岁,三人曾一度齐集北京,与“宣南诗社”成员过往甚密。诗社成员多是有志之士,在“消寒、赏菊、忆梅、试茶、观摩古董……”等休闲活动之余,也对时局有所评议。三人怀抱共同的理想,并互相砥砺。在禁烟立场、学佛修佛的态度上,三人更是如出一辙。
一生为国为民谋福祉的林则徐,是值得我们后人永远纪念的。但他高尚的思想品质和卓越政绩的背后,却有着坚定的佛家信仰在支撑。林公能够在菩提路上觅得真理,并日夜诵课,与其妻郑夫人、张师诚以及佛教界人士有着莫大的渊源。正是因为他们的指引和诱导,才使得林公在佛法的熏陶下,成就了一代不世之功。 https://t.cn/Rx1xhAW
林则徐随张师诚工作4年,深受张的器重,在学佛方面也深受张的教导和影响。二人在忙于政事之余,时常畅谈国家大计,而学佛修净土也是二人经常触及的话题。当林则徐进入张师诚幕府的那一年,就时常为张师诚的太夫人书写佛经。张师诚“平昔双修儒佛”,林则徐便虔诚地为她抄写《佛说阿弥陀经》、《金刚般若波罗蜜经》、《般若波罗蜜多心经》、《大悲咒》、《往生咒》5种经咒,共贮一函,上题“行舆日课”、“净土资粮”八个字,作为每日必诵的功课。
这些经本只有四寸多长、三寸多宽,每面六行,每行十二个字,便于随身携带。他书写的经本字迹清晰,而且一丝不苟,足见其对佛教的虔诚和恭敬。正所谓“至诚心念,从心持、口出声、耳听明、摄还归心,这样便念念是佛……心净澄寂”。这里可以看出林则徐虽公务繁忙,然对其所书经书必坚持课诵,行持诚笃,从不怠慢,真正达到了“净土资粮,为信、愿、行三者,如鼎之三足,缺一不可”的修佛境界。
1998年2月,上海佛学书局再版的《林则徐手书经咒日课》一书,附录林则徐的曾孙林大任于1933年6月所书跋语,讲述了林则徐学佛的渊源,其中有云:“先公早岁以文字受知于张兰渚中丞,遂佐其幕府。尝以急促之时,治繁重之务,振笔累千言,精神贯注,略无疏懈,张公叹为奇才。按张公平生奉佛甚谨,曾辑《径中径又径》一书,劝策行人,专修净业,多切至之语。文公忠写经之岁,即张公秉节吾闽之时。”由此可见,林则徐青年时期便受佛法熏陶,并深信力行,从而奠定了他终生坚持以“不为自己求安乐,但愿众生得离苦”为做人作事准则的深厚思想基础。
道光十年张师诚因病离世,林则徐捶胸顿足,伤心不已,遂作《挽张兰渚侍郎师诚》,其中有云:“感恩知己两兼之,拟今春重谒门庭,谁知一纸音书,竟成绝笔。尽忠补过今已矣,忆平昔双修儒佛,但计卅年宦绩,也合升天”。张师诚外儒内佛的处世为官,以及学佛的恭敬诚笃,与林则徐是薪火相传,前后辉映,也成就了近代现宰官身修净土的一段佳话。
与佛教界人士的直接交往
林则徐为官期间,勤政爱民,与人友善,佛教界人士也不例外。在与林则徐交往的佛教界人士中既有在寺出家的诗僧,也有在家修行的民间居士。林则徐能够在戎马倥偬中修持佛法,佛教界人士对他的影响也是非常大的。
在佛门诗僧中,根据林则徐日记和诗词可以肯定的有两位高僧,一位是道光二年林则徐初识并赞誉其“诗亦清隽”的镇江焦山定慧寺方丈巨超,还有一位是林则徐任职云贵期间的昆明西山华亭寺方丈岩栖。
巨超,镇江焦山定慧寺方丈,写得一手好诗,是佛教界著名的诗僧。道光三年十月,林则徐在江苏按察使任上回京述职。途经镇江,偕友同游焦山期间,会见了巨超法师。两人一见如故,巨超曾示杨忠愍手迹与林则徐共赏之。道光十五年四月,时任江苏巡抚的林则徐因公赴镇(镇江)办理漕运总督朱为弼提船一事。到镇后,登船游玩了自然庵、海西庵、水晶庵等景,同时又与退院高僧巨超相遇,惊喜之余,两人吟诗作对,林则徐因此而赞其“诗亦清隽”。
岩栖,时任云南省昆明华亭寺方丈,是著名的得道高僧。林则徐与岩栖趣味相投,过从甚密,林则徐曾为其题诗四首,皆为七言绝句,林则徐亲笔题书的这四首诗被后人刻于一块大理石屏上,显示了岩栖法师与林则徐这对诗友的一见如故,岩栖圆寂后即嵌于其舍利塔内,以当塔铭。今塔已毁,诗屏犹存。近年华亭寺已将该屏嵌于新建藏经楼左侧墙壁上, 以供观赏。
林则徐与僧人的频繁交往,“尤其强化了他以佛理补益其经世之学的意识”,从而成为经世致用思潮的践行者,并将佛家慈悲利人的精神落实于爱国爱民的具体施政中,更好地为现实社会服务。
林则徐日课“三经二咒”,以净土为依归,除了张师诚的启发,另有同行善友为依。龚自珍、魏源二人正是林则徐在菩提道上的挚友。
龚自珍,清代著名思想家、文学家及改良主义的先驱者。他38岁中进士,曾任内阁中书、宗人府主事和礼部主事等官职。主张革除弊政,抵制外国侵略,曾全力支持林则徐禁除鸦片。龚自珍也是一位著名的佛门居士,他推崇天台宗,批判禅宗。魏源,名远达,字默深,是清代启蒙思想家、政治家、文学家。道光二十五年中进士,官高邮知州,晚年弃官归隐,潜心佛学,提倡净土。
龚自珍小林则徐7岁,魏源小林则徐9岁,三人曾一度齐集北京,与“宣南诗社”成员过往甚密。诗社成员多是有志之士,在“消寒、赏菊、忆梅、试茶、观摩古董……”等休闲活动之余,也对时局有所评议。三人怀抱共同的理想,并互相砥砺。在禁烟立场、学佛修佛的态度上,三人更是如出一辙。
一生为国为民谋福祉的林则徐,是值得我们后人永远纪念的。但他高尚的思想品质和卓越政绩的背后,却有着坚定的佛家信仰在支撑。林公能够在菩提路上觅得真理,并日夜诵课,与其妻郑夫人、张师诚以及佛教界人士有着莫大的渊源。正是因为他们的指引和诱导,才使得林公在佛法的熏陶下,成就了一代不世之功。 https://t.cn/Rx1xhAW
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