只有两千多字 但是写得很好一点都不ooc 把官漫一起玩游戏的梗很好地接上了 总之比官方随时抽风的相处模式舒服多了
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スクールアイドル雑誌の表紙を飾ることになった私たち。しかも、あの超有名な先輩スクールアイドルの方々と一緒にね。とても光栄だし、嬉しかった。
ドルオタじゃない私ですら思わずテンション上がっちゃったったら上がっちゃったわよ。
今月号は私が写っていて今日はそのサンプルが届いた。さっき確認して見たんだけど、まぁまぁイケていたと思うわ。
で、そしたら何故か可可が確認させろ確認させろってうるさくってね。仕方なく見せてあげたんだけど…。
「なっ…な、な、なっ、なーっ…!?」
「…な?」
「なぁんデスかーこれはぁぁぁー!?」
…と、こんな感じで。
もう。一体どうしたのかしら。
「何をこのっ…こんな…こんなっ…!」
「何ってそりゃ、この前の…」
「そんなん見りゃ分かりマス!!」
なんかすごい怒ってる。
何がそんなに気に入らないのかしら。
「ちょっとなんなのよー?」
「(中国語)!?(中国語)!!!」
「いや分からんし…」
翻訳しようと思ったけど、スマホは鞄の中。
今は手元にないから翻訳出来ない。
だから何言ってるのかさっぱり。
ま、言葉は分からないけど真っ赤になりながら叫んでいるし、怒ってるってことでいいのかしら。
んー…このサンプルに何かいけない部分があるってこと?
もう降参ね。
分からないし直接聞いてしまおう。
「何が気に入らないのよ?」
「こんのっグッソクムシっ!!まだ分からないのデスかっ!?」
「分かんないわよー…なに?どこ?さっさと教えなさいよー?」
「…っ」
すると黙ってしまった。
えぇー。なんで教えてくれないの?
ていうか、自分では今回結構自信あったのに。この写真の中でそんなダメな部分があるのかしら。
「顔、デス…」
「えっ…か、顔…?」
まさかの顔のダメ出し!
いや、辛過ぎるったら辛過ぎるわよ。
「ちょ、ちょっと!そんなストレートに顔を否定されたら流石の私も少し傷つくわよ?」
「違いマス。このっ…ひょ、表情デス…」
「表情?」
「こ、こんなっ…こんなっ…!」
まーた、こんなこんなって言い出しちゃった。
そんな真っ赤っかになるほど怒らなくても。
それより表情か。んー。なんだろう。
何がいけないのかしらね…。
あっ…!
天才カリスマギャラクシースクールアイドル私、完全に理解。は〜そうよそうよ。こいつがドルオタなのすっかり忘れていたわ。
つまりこういうことよ。
『スバラシキ大先輩方の前で何デスかその生意気な態度(顔)はぁー!?』ね?こういうことだわ。
「あーごめんごめん。でも仕方ないじゃないの。そういう指示だったんだから」
「…ン?」
「ま、態度悪そうに見えたかもしれないけどちゃんと失礼のないように行動したから安心しなさい。ショービジネスの世界を生きていく上で、先輩を立てるのは基本中の基本よ!」
「なんの話デスか」
「えっ」
絶対当たりだと思ったがどうやら違うらしい。
んー…いよいよ分からないわね。
すると、可可は続けた。
「こんな表情をしたら…だ、誰だって…!」
「誰だって?」
「あなたはスクールアイドルとしてまだまだデス。デスから、この雑誌を手に取ったファンの方があなたに心惹かれるのはいいデス、が…」
「く、可可?」
「この場にいる皆さんまであなたに心奪われてしまったら、ど、どうするのデスかっ…バカッ!」
あれ?なんか…めっちゃ褒められてる…?
これ、自惚れてもいい?憧れの人達を前にして尚、私に釘付けになったってことでいいの?
「ありがとう…」
「な、何お礼言ってるデスか!?」
そっか。
この子の素直じゃない褒め言葉だ。
もう。そんなこと言われたら。
私の、今の表情はきっと──
「すみれはこの時何を考えいたのデスか…。こんな表情、可可の前でも…じゃなくて!み、見たことないデス…」
「何考えてたと思う?」
「し、知るわけないデス!!」
「じゃあ、特別に教えてあげる」
──きっと、今の表情は。
けど、そんなに知りたいなら教えてあげよう。
私が何故あんな表情を出来たのか。
彼女の方へと距離を縮め、そして囁く。
「あなたのことよ、可可」
「っ…!すみ、れっ…!」
「って、言ったらどうするっ?」
「ぶぇっ…!?」
ニヤニヤしながらペロッと舌を出してやれば、可可は再び真っ赤っかになってしまった。あーあ、今度は本気で怒らせたかもね。ま、偶には私が揶揄ってもいいでしょ?
「すぅ〜みぃ〜れぇ〜っ…!!!」
「あっははっ!」
「ゼ〜ッタイに許さないデス!!くすぐりの刑デス!!覚悟するデス!!」
「だ〜から効かないってばっ。ま、でも捕まえられるもんならっ!ほ〜らっ、捕まえてごらんなさ〜いっ」
「あぁっ…!待ちやがれデスッ!!」
ま、嘘とも言ってないんだけどね。
可可は誤解してるかもしれないけど、本当よ。
あの時、私はあなたのことを考えていた。
それに、そんな心配しなくっても私の可可にしか見せない表情はたっくさんあるのに。今だって、さっきだって、私はあなたといる時、あなたにしか見せない表情をしているもの。
だから、あなたの今の表情も私だけにしか見せない表情だったら…いいなっ。
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スクールアイドル雑誌の表紙を飾ることになった私たち。しかも、あの超有名な先輩スクールアイドルの方々と一緒にね。とても光栄だし、嬉しかった。
ドルオタじゃない私ですら思わずテンション上がっちゃったったら上がっちゃったわよ。
今月号は私が写っていて今日はそのサンプルが届いた。さっき確認して見たんだけど、まぁまぁイケていたと思うわ。
で、そしたら何故か可可が確認させろ確認させろってうるさくってね。仕方なく見せてあげたんだけど…。
「なっ…な、な、なっ、なーっ…!?」
「…な?」
「なぁんデスかーこれはぁぁぁー!?」
…と、こんな感じで。
もう。一体どうしたのかしら。
「何をこのっ…こんな…こんなっ…!」
「何ってそりゃ、この前の…」
「そんなん見りゃ分かりマス!!」
なんかすごい怒ってる。
何がそんなに気に入らないのかしら。
「ちょっとなんなのよー?」
「(中国語)!?(中国語)!!!」
「いや分からんし…」
翻訳しようと思ったけど、スマホは鞄の中。
今は手元にないから翻訳出来ない。
だから何言ってるのかさっぱり。
ま、言葉は分からないけど真っ赤になりながら叫んでいるし、怒ってるってことでいいのかしら。
んー…このサンプルに何かいけない部分があるってこと?
もう降参ね。
分からないし直接聞いてしまおう。
「何が気に入らないのよ?」
「こんのっグッソクムシっ!!まだ分からないのデスかっ!?」
「分かんないわよー…なに?どこ?さっさと教えなさいよー?」
「…っ」
すると黙ってしまった。
えぇー。なんで教えてくれないの?
ていうか、自分では今回結構自信あったのに。この写真の中でそんなダメな部分があるのかしら。
「顔、デス…」
「えっ…か、顔…?」
まさかの顔のダメ出し!
いや、辛過ぎるったら辛過ぎるわよ。
「ちょ、ちょっと!そんなストレートに顔を否定されたら流石の私も少し傷つくわよ?」
「違いマス。このっ…ひょ、表情デス…」
「表情?」
「こ、こんなっ…こんなっ…!」
まーた、こんなこんなって言い出しちゃった。
そんな真っ赤っかになるほど怒らなくても。
それより表情か。んー。なんだろう。
何がいけないのかしらね…。
あっ…!
天才カリスマギャラクシースクールアイドル私、完全に理解。は〜そうよそうよ。こいつがドルオタなのすっかり忘れていたわ。
つまりこういうことよ。
『スバラシキ大先輩方の前で何デスかその生意気な態度(顔)はぁー!?』ね?こういうことだわ。
「あーごめんごめん。でも仕方ないじゃないの。そういう指示だったんだから」
「…ン?」
「ま、態度悪そうに見えたかもしれないけどちゃんと失礼のないように行動したから安心しなさい。ショービジネスの世界を生きていく上で、先輩を立てるのは基本中の基本よ!」
「なんの話デスか」
「えっ」
絶対当たりだと思ったがどうやら違うらしい。
んー…いよいよ分からないわね。
すると、可可は続けた。
「こんな表情をしたら…だ、誰だって…!」
「誰だって?」
「あなたはスクールアイドルとしてまだまだデス。デスから、この雑誌を手に取ったファンの方があなたに心惹かれるのはいいデス、が…」
「く、可可?」
「この場にいる皆さんまであなたに心奪われてしまったら、ど、どうするのデスかっ…バカッ!」
あれ?なんか…めっちゃ褒められてる…?
これ、自惚れてもいい?憧れの人達を前にして尚、私に釘付けになったってことでいいの?
「ありがとう…」
「な、何お礼言ってるデスか!?」
そっか。
この子の素直じゃない褒め言葉だ。
もう。そんなこと言われたら。
私の、今の表情はきっと──
「すみれはこの時何を考えいたのデスか…。こんな表情、可可の前でも…じゃなくて!み、見たことないデス…」
「何考えてたと思う?」
「し、知るわけないデス!!」
「じゃあ、特別に教えてあげる」
──きっと、今の表情は。
けど、そんなに知りたいなら教えてあげよう。
私が何故あんな表情を出来たのか。
彼女の方へと距離を縮め、そして囁く。
「あなたのことよ、可可」
「っ…!すみ、れっ…!」
「って、言ったらどうするっ?」
「ぶぇっ…!?」
ニヤニヤしながらペロッと舌を出してやれば、可可は再び真っ赤っかになってしまった。あーあ、今度は本気で怒らせたかもね。ま、偶には私が揶揄ってもいいでしょ?
「すぅ〜みぃ〜れぇ〜っ…!!!」
「あっははっ!」
「ゼ〜ッタイに許さないデス!!くすぐりの刑デス!!覚悟するデス!!」
「だ〜から効かないってばっ。ま、でも捕まえられるもんならっ!ほ〜らっ、捕まえてごらんなさ〜いっ」
「あぁっ…!待ちやがれデスッ!!」
ま、嘘とも言ってないんだけどね。
可可は誤解してるかもしれないけど、本当よ。
あの時、私はあなたのことを考えていた。
それに、そんな心配しなくっても私の可可にしか見せない表情はたっくさんあるのに。今だって、さっきだって、私はあなたといる時、あなたにしか見せない表情をしているもの。
だから、あなたの今の表情も私だけにしか見せない表情だったら…いいなっ。
#剧版温周[超话]#
岭之温周服饰赏析(五)
服饰命名:阿絮-数峰青;老温-声声慢。
经典场景:1.初遇叶白衣;2.雨夜摔箫。
剧集分布:13-14。
Part1.阿絮-数峰青
款式:右衽交领束腰长袍
主色:梧枝青(设定集为正青,疑有误)。与老温青梧老死之语相呼应(古人将丧偶叫做梧桐死,例如宋代词人贺铸的《半死桐》),辅以软缎质地,柔软无力、泛着清冷的光辉,如一江春水,春草碧色,春水渌波。送君南浦,伤如之何,烘托阿絮面对老温时,那种凄恻、怆然心境。
材质:软缎。柔和服帖,隐隐生辉,除了配合主色营造氛围,还暗合阿絮对于老温来说是自己的光。软缎光泽度较弱,也如同老温不得不面对的,他刚寻到的光却就要灭了。
纹饰:远山纹同色刺绣。前后襟、肩部、腰部、下摆均有大面积远山刺绣,配合主色,远山迷蒙,突出阿絮眷恋老温、但又不想赖活的纠结悱恻的情绪。君臣一梦,今古空名。但远山长,云山乱,晓山青。
领式:右衽交领,镶素采、黛青色(设定集为螺子黛,疑有误)撞色窄边。V形领部线条,配合撞色,从老温视角看过去,锋利冰冷,分外刺眼。突出将死一事对于老温的摧残、痛苦程度。(虽然,我其实想说,这个领子主要为了方便扒衣服。)
肩式:连肩袖。柔软贴合,毫无支撑感,如同阿絮对于自己将死一事的无力感、无奈感。
袖式:广袖。当风自舞,宽宽大大,如同自己心里空落落的,倍增落寞之感。从外至内层层叠叠,隐喻阿絮面对老温和自己之死,心绪纠结纷乱。
腰式:黛青色宽型腰封系同色大带。腰封较宽,紧绷束法,有束缚感、支撑感,象征命运对阿絮的桎梏;(我绝对不会告诉你,紧绷束法之下,阿絮的腰臀线条一览无遗,在阿絮与叶白衣较劲老温伸手接住阿絮纤腰的场景中,格外衬得他纤腰不盈一握、令人心旌摇曳,哦不,令老温)同时,选用软缎质地又削弱了固执感。与阿絮坚持好好活,却又心疼老温要面对自己将死的复杂心情相呼应。大带打单边结款款垂于身前,既温柔多情,又添落寞、飘摇之意。
配饰:无。对生命缺乏热情、无意于外物。
内袍:凝脂色交领内袍。素净的颜色,暗合阿絮对生命无强求之奢望;领边轻轧细密肌理纹,如阿絮千头万绪、百感交集的心境。白色里衣,常规内衬。
名称含义:该套服装的主要用途就是要将阿絮命不久矣的现实,血淋淋送到无比贪恋阿絮的老温面前。低饱和度的淡绿,泛着清冷的微光,行动处,大面积远山纹样飘来荡去,极好得衬托出阿絮那种为了老温已经动了活下去的念头,却还未解开过往心魔造成的好好死、好好活二选一的复杂心理。平芜尽处是春山,行人更在春山外,曲终人不见,江上数峰青,自己就像远山之人,眼前的静好生活、老温的陪伴,就像手中沙,欲留难留。
Part2.老温-声声慢
款式:比甲(注7)式飞肩长袍,配右衽交领内袍
主色:紫菂色。菂者,莲子也,此色为莲子初熟之色,故也称莲紫。紫色为间色(注8),表达老温想留住阿絮、又留不住阿絮的情绪碰撞。且以莲子心中苦比喻老温内心的绝望和痛楚。
材质:薄绸。很轻薄,又很挺阔垂顺,版型宽大飘荡,衬托老温的无助、绝望、痛苦。光泽度极佳,尤其在灯烛之光和闪电之下,一身惆怅紫色耀眼夺目,直击人心,将老温内心痛苦的表现效果拉上巅峰。
纹饰:外袍肩部前后密压风琴百褶,齐胸、肩胛骨处自然开逸。就像老温的情绪,阿絮在时他还能理智压抑自己的悲怆,阿絮拂袖而去后,他就像那突然散开的百褶,彻底失控。百褶让袍幅巨大,飘荡宽大,更添落寞、无助、绝望之感。内袍另有大面积云烟水波纹(赏析详见内袍栏次)。
领式:凝夜紫镶边直领叠短飘带。凝夜紫深沉悲怆,大直领飞流直下,如老温跌入谷底的绝望情绪;叠加半飘带,繁复的层次感衬托老温情绪的厚重性,且飘带随着举手投足轻摆,也如同老温难以平静的心绪。
肩式:小飞肩。棱角分明,冰冷锋利,暗合阿絮将死对于老温来说,如利刃扎心。
袖式:广袖。当风自舞,宽宽大大,如同老温空落落的心,倍显落寞凄恻。从外至内层层叠叠,隐喻心思之重。
腰式:凝夜紫嵌银质雕花宽型腰封。腰封代表着束缚,而外加一层金属装饰,愈发沉重、如同枷锁无法挣脱。老温知道阿絮命不久矣真得快要窒息了。
配饰:银质雕花系内袍同色流苏腰链。蜿蜒流连于腰间,摇摇欲坠,欲留难留,如同阿絮。(虽然此处我觉得与阿絮的绕腰白衣剑有些呼应)
内袍:从外至内两层依次是。香炉烟紫色内袍、曙赤色内袍。香炉烟紫色内袍:香炉烟紫色柔和朦胧,配以大面积云烟水波纹,老温对于阿絮的留恋之情,浩如烟海,铺天盖地。云烟水波纹常用来表达送别的悲伤情绪或世事变幻无常的情感,例如城阙辅三秦,风烟望五津。与君离别意,同是宦游人昔人已乘黄鹤去,此地空余黄鹤楼。黄鹤一去不复返,白云千载空悠悠烟波江上使人愁孤帆远影碧空尽,唯见长江天际流万里何时来,烟波白浩浩,此处亦然。里面还穿了一层曙赤色内袍:领口以凝脂色拼接,红色若隐若现;红色内袍下摆在老温一举一动时,于外袍间翻飞跳跃,老温的鬼主疯劲呼之欲出,为他摔箫夜走的情绪作烘托,也为他下一步参加英雄大会作铺垫。白色里衣,常规内衬。
名称含义:该套服装的主要用途就是衬托老温不得不面对阿絮将死的情绪,从外至内,夜紫、深紫、浅紫、宽大飘荡的版型设计,配合风雨如晦的氛围,将老温绝望、无助、不甘、又无可奈何的激烈情绪,衬托得恰到好处。内中一袭红色内袍实为点睛之笔,又将他对阿絮爱之炽烈,和盘托出。老温悲怆至极时,箫声如怨如慕,如泣如诉,一声一缕,似欲在祈愿阿絮的生命走得慢一点、再慢一点,使人肝肠寸断;他独自沉吟凉雨知秋,青梧老死,很有李清照《声声慢》寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚之悲怆。故名之。
注释:
7.比甲:古时一种无袖、无领、对襟、下摆两侧开叉、长度至膝以下甚至及足的马甲,元、明两朝最为流行。
8.间色:古代将红、黄、蓝称为原色,将两种以上原色混合得到的色彩称为间色,例如,紫色就是红、蓝混合而成的间色。岭中,设计师很好的运用了紫色的间色概念,红色部分代表无可奈何的现实,蓝色代表心中向往,每当老温内心遇到两种身份带来的激烈情绪冲突时,如阿絮将死、龙渊阁面临师弟身份、夜战叶白衣、武库双修,都要穿紫,一边是和阿絮在一起,一边是面对毁灭,极力展现冲突之下的情感撕扯。
岭之温周服饰赏析(五)
服饰命名:阿絮-数峰青;老温-声声慢。
经典场景:1.初遇叶白衣;2.雨夜摔箫。
剧集分布:13-14。
Part1.阿絮-数峰青
款式:右衽交领束腰长袍
主色:梧枝青(设定集为正青,疑有误)。与老温青梧老死之语相呼应(古人将丧偶叫做梧桐死,例如宋代词人贺铸的《半死桐》),辅以软缎质地,柔软无力、泛着清冷的光辉,如一江春水,春草碧色,春水渌波。送君南浦,伤如之何,烘托阿絮面对老温时,那种凄恻、怆然心境。
材质:软缎。柔和服帖,隐隐生辉,除了配合主色营造氛围,还暗合阿絮对于老温来说是自己的光。软缎光泽度较弱,也如同老温不得不面对的,他刚寻到的光却就要灭了。
纹饰:远山纹同色刺绣。前后襟、肩部、腰部、下摆均有大面积远山刺绣,配合主色,远山迷蒙,突出阿絮眷恋老温、但又不想赖活的纠结悱恻的情绪。君臣一梦,今古空名。但远山长,云山乱,晓山青。
领式:右衽交领,镶素采、黛青色(设定集为螺子黛,疑有误)撞色窄边。V形领部线条,配合撞色,从老温视角看过去,锋利冰冷,分外刺眼。突出将死一事对于老温的摧残、痛苦程度。(虽然,我其实想说,这个领子主要为了方便扒衣服。)
肩式:连肩袖。柔软贴合,毫无支撑感,如同阿絮对于自己将死一事的无力感、无奈感。
袖式:广袖。当风自舞,宽宽大大,如同自己心里空落落的,倍增落寞之感。从外至内层层叠叠,隐喻阿絮面对老温和自己之死,心绪纠结纷乱。
腰式:黛青色宽型腰封系同色大带。腰封较宽,紧绷束法,有束缚感、支撑感,象征命运对阿絮的桎梏;(我绝对不会告诉你,紧绷束法之下,阿絮的腰臀线条一览无遗,在阿絮与叶白衣较劲老温伸手接住阿絮纤腰的场景中,格外衬得他纤腰不盈一握、令人心旌摇曳,哦不,令老温)同时,选用软缎质地又削弱了固执感。与阿絮坚持好好活,却又心疼老温要面对自己将死的复杂心情相呼应。大带打单边结款款垂于身前,既温柔多情,又添落寞、飘摇之意。
配饰:无。对生命缺乏热情、无意于外物。
内袍:凝脂色交领内袍。素净的颜色,暗合阿絮对生命无强求之奢望;领边轻轧细密肌理纹,如阿絮千头万绪、百感交集的心境。白色里衣,常规内衬。
名称含义:该套服装的主要用途就是要将阿絮命不久矣的现实,血淋淋送到无比贪恋阿絮的老温面前。低饱和度的淡绿,泛着清冷的微光,行动处,大面积远山纹样飘来荡去,极好得衬托出阿絮那种为了老温已经动了活下去的念头,却还未解开过往心魔造成的好好死、好好活二选一的复杂心理。平芜尽处是春山,行人更在春山外,曲终人不见,江上数峰青,自己就像远山之人,眼前的静好生活、老温的陪伴,就像手中沙,欲留难留。
Part2.老温-声声慢
款式:比甲(注7)式飞肩长袍,配右衽交领内袍
主色:紫菂色。菂者,莲子也,此色为莲子初熟之色,故也称莲紫。紫色为间色(注8),表达老温想留住阿絮、又留不住阿絮的情绪碰撞。且以莲子心中苦比喻老温内心的绝望和痛楚。
材质:薄绸。很轻薄,又很挺阔垂顺,版型宽大飘荡,衬托老温的无助、绝望、痛苦。光泽度极佳,尤其在灯烛之光和闪电之下,一身惆怅紫色耀眼夺目,直击人心,将老温内心痛苦的表现效果拉上巅峰。
纹饰:外袍肩部前后密压风琴百褶,齐胸、肩胛骨处自然开逸。就像老温的情绪,阿絮在时他还能理智压抑自己的悲怆,阿絮拂袖而去后,他就像那突然散开的百褶,彻底失控。百褶让袍幅巨大,飘荡宽大,更添落寞、无助、绝望之感。内袍另有大面积云烟水波纹(赏析详见内袍栏次)。
领式:凝夜紫镶边直领叠短飘带。凝夜紫深沉悲怆,大直领飞流直下,如老温跌入谷底的绝望情绪;叠加半飘带,繁复的层次感衬托老温情绪的厚重性,且飘带随着举手投足轻摆,也如同老温难以平静的心绪。
肩式:小飞肩。棱角分明,冰冷锋利,暗合阿絮将死对于老温来说,如利刃扎心。
袖式:广袖。当风自舞,宽宽大大,如同老温空落落的心,倍显落寞凄恻。从外至内层层叠叠,隐喻心思之重。
腰式:凝夜紫嵌银质雕花宽型腰封。腰封代表着束缚,而外加一层金属装饰,愈发沉重、如同枷锁无法挣脱。老温知道阿絮命不久矣真得快要窒息了。
配饰:银质雕花系内袍同色流苏腰链。蜿蜒流连于腰间,摇摇欲坠,欲留难留,如同阿絮。(虽然此处我觉得与阿絮的绕腰白衣剑有些呼应)
内袍:从外至内两层依次是。香炉烟紫色内袍、曙赤色内袍。香炉烟紫色内袍:香炉烟紫色柔和朦胧,配以大面积云烟水波纹,老温对于阿絮的留恋之情,浩如烟海,铺天盖地。云烟水波纹常用来表达送别的悲伤情绪或世事变幻无常的情感,例如城阙辅三秦,风烟望五津。与君离别意,同是宦游人昔人已乘黄鹤去,此地空余黄鹤楼。黄鹤一去不复返,白云千载空悠悠烟波江上使人愁孤帆远影碧空尽,唯见长江天际流万里何时来,烟波白浩浩,此处亦然。里面还穿了一层曙赤色内袍:领口以凝脂色拼接,红色若隐若现;红色内袍下摆在老温一举一动时,于外袍间翻飞跳跃,老温的鬼主疯劲呼之欲出,为他摔箫夜走的情绪作烘托,也为他下一步参加英雄大会作铺垫。白色里衣,常规内衬。
名称含义:该套服装的主要用途就是衬托老温不得不面对阿絮将死的情绪,从外至内,夜紫、深紫、浅紫、宽大飘荡的版型设计,配合风雨如晦的氛围,将老温绝望、无助、不甘、又无可奈何的激烈情绪,衬托得恰到好处。内中一袭红色内袍实为点睛之笔,又将他对阿絮爱之炽烈,和盘托出。老温悲怆至极时,箫声如怨如慕,如泣如诉,一声一缕,似欲在祈愿阿絮的生命走得慢一点、再慢一点,使人肝肠寸断;他独自沉吟凉雨知秋,青梧老死,很有李清照《声声慢》寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚之悲怆。故名之。
注释:
7.比甲:古时一种无袖、无领、对襟、下摆两侧开叉、长度至膝以下甚至及足的马甲,元、明两朝最为流行。
8.间色:古代将红、黄、蓝称为原色,将两种以上原色混合得到的色彩称为间色,例如,紫色就是红、蓝混合而成的间色。岭中,设计师很好的运用了紫色的间色概念,红色部分代表无可奈何的现实,蓝色代表心中向往,每当老温内心遇到两种身份带来的激烈情绪冲突时,如阿絮将死、龙渊阁面临师弟身份、夜战叶白衣、武库双修,都要穿紫,一边是和阿絮在一起,一边是面对毁灭,极力展现冲突之下的情感撕扯。
[鲜花]天台宗第十八代祖师临海市东掖山白莲讲寺神照本如大师略传
神照本如大师(981或982年~1050或1051年),族姓林氏,乃四明句章(今宁波慈溪)人。
初受业剃度于本郡国宁寺(今宁波鄞州区国宁寺),后依止天台宗十七祖四明知礼法智大师座下,为知礼大师座下三位最出色弟子之一,修为高深,敏慧博知,不仅广受世人称颂,也普受同门的尊重。《佛祖统纪·本如传》赞其“初依法智,于千众中,有少俊声,史典词翰有法则,为世所爱。”
据《释门正统》所载,本如大师初依止知礼大师时,曾向知礼大师“请益经王义”,知礼大师回答说:“为我作三年监院,却向汝道。”本如大师即谨遵知礼大师旨意,勤勤恳恳履行职责,一心一意服务常住。
待三年期满,又向其师请益,其时知礼大师厉声一喝,复呼云:本如。师豁然有悟,即说颂曰:“处处逢归路,头头复故乡;本来成现事,何必待思量!”知礼大师直下印可说:“向来若为汝说,岂有今日?”
本如大师虽是天台宗僧人,属于教下,然考本如大师悟道的经历,则其悟处实与禅宗门下,别无二致,这完全可以从他的这首悟道偈中看得出来。
北宋宋真宗祥符四年(1011 年),遵式大师应杭州刺史薛颜之命,入主灵山精庐(古天竺寺)。不久灵山忏讲不绝,法务繁忙,四远来归的繁荣境况,使他再无暇旁顾东掖山弘法事务,故遵式大师专程赴知礼大师会下,求其举荐才俊,继席东掖。
关于此一求荐情节,《佛祖统纪》记载云:“祥符四年(1011 年),慈云(遵式大师)迁灵山,亲往法智(知礼大师)会下,求可为继。法智(知礼大师)曰:当于众中自择之。慈云(遵式大师)阅视至师(本如大师),即云:斯人可也。”
本如大师旋即被遵式大师“授以东山学者”。自始本如大师即在东掖山能仁寺大开法筵,历三十年,众常五六百。在此期间,先后宣说《妙法莲华经》、《涅槃经》、《金光明经》、《观无量寿经》、《请观音经》、《摩诃止观》、《观心论》、《金刚錍》、《观音别行玄记》等经论,皆讲解了六、七遍。
本如大师勤于讲说的同时,还非常注重修忏,尝集百僧修法华忏,长达一年,瑞验屡见,北宋庆历二年(1042)七月,驸马李遵勗(xù)奏请朝廷,宋仁宗感念其德,赐“神照法师”之号及紫衣袈裟,并智者之教文四千五百卷,以资讲说。
本如大师除讲忏之外,其晚年则专行净土,慕庐山之风,与丞相章郇公及诸贤于能仁寺西南隅,结白莲社,一心念佛,宋仁宗钦其道,遂赐“白莲庵院”匾额。
白莲庵院始由本如大师结屋为庵,仅六七年遂成巨剎。后乃以能仁(寺)山林三分其一,指岭为界,以供白莲庵院樵薪。据《佛祖统纪》云:“(本如大师)尝于寺西南隅,见一虎睡,以杖击之曰:此非汝睡处。虎俛(fǔ俯)首而去,后于虎卧处结屋为菴,归闲其中。”
关于白莲庵院,除为虎卧奇特之地外,另尚别有神奇故事。据《佛祖统纪》云:“先是有五通神居于此,师每禅坐,必连床升行空中,师未尝问。一日,五神请曰:师既踞吾居,乞于此向山冈,建祠塑像,已备泥在山矣。师往视冈上,有新泥一垛,以之塑像无所余。”
本如大师也圆寂辞世于白莲庵院,但关于其辞世具体年份,宋代天台宗学者所作史籍记载却存有异说。其中,南宋宗鉴法师编撰的《释门正统》卷六,认为本如大师圆寂于皇祐二年(1050年);成书稍晚,由南宋志磬法师编撰的《佛祖统纪》卷十二,则认为是皇祐三年(1051年),两者相较仅差一年。虽成书较早的《释门正统》所载似更为可靠,但也不足以证明《佛祖统纪》的记载有误,所以本如大师圆寂于公元1050年或公元1051年似皆有可能。
若按《佛祖统纪》记载,本如大师逝于北宋皇祐三年(1051年),及世寿70岁来推算,其应出生于北宋太平兴国七年(982年)。而若按《释门正统》所载,其寂于皇祐二年来推算,则其当生于太平兴国六年(981年)。至于二书皆谓大师“腊五十三”,到底是僧腊,还是戒腊,则难以判定。
本如大师圆寂前后,曾出现诸多祥瑞异象,据《佛祖统纪》云:“皇祐三年(1051年),五月十八日微疾,即升座说法,与众诀别。其夕,法堂藏阁、方丈栋梁皆折,锺鼓击之无声。江上渔人见云端有僧,西向而去。诘旦,右脇安庠而逝,时天气盛热,异香非常。明年(1052年)三月,塔全身于寺北,门人启钥,视尊容如生,爪发俱长,有大莲华,产于塔前。”故后天台宗诗僧梵才大师祭文有“圆寂经岁,肉体如生”语。
《释门正统》云:“师轻乐财施,弘教为己任,敝衾坏衲,裕然以老。”仅此一言,可说是对本如大师一生最为客观的评价了。
本如大师著有《观普贤菩萨行法经义疏》二卷及《仁王忏仪》,后者今已不存。《观普贤菩萨行法经义疏》则注释至十种境界时停笔,后由其高弟处咸大师续而全之,镂版施印达万卷,此书现存于《卍续藏》第35卷之中。
本如大师一生嗣法弟子甚多,著名者如法真处咸、神悟处谦、楂庵有严、天台元璪、承天择仁、永嘉元掺、天台宝织、杭州义全、台州怀雅、承天法宝等诸师。
本如大师一生另尚显有诸多神异境界,如据《佛祖统纪》所载:“师尝于天台邑中,为众施戒,方秉羯磨,忽有光明,自智者塔、国清寺、赤城山,交射于法座之上。”“又因供千佛、饭一千贫人,置华于席下,佛座华应不萎而反萎,贫人座华应萎而反不萎,举众为之叹异。”
附 记:
问宣子记曰:(南宋)嘉定四年(1211年)春,住山鉴堂谓:师塔当方丈后,狃(niǔ)于风水非宜之说,将迁之。破土数寸,香气袭人,棺上产莲华一茎,光明奕奕。暨发函,慈颜俨然,须发长垂,衣被不坏,舍利满龛,一众惊叹,于是亟掩藏之。
镜菴论之曰:法师血肉之身,衣被之饰,在土二百年而不坏,非夫戒定慧三昧之力所持,畴能若是。人或以轻发祖塔,咎鉴堂者,非夫假此日之启视之,曷足以知法师正报亲依、坚固不坏之瑞?为此举者,其祖冥使之乎(《观经疏》以华座观为亲依,今以衣被例之)。
神照本如大师(981或982年~1050或1051年),族姓林氏,乃四明句章(今宁波慈溪)人。
初受业剃度于本郡国宁寺(今宁波鄞州区国宁寺),后依止天台宗十七祖四明知礼法智大师座下,为知礼大师座下三位最出色弟子之一,修为高深,敏慧博知,不仅广受世人称颂,也普受同门的尊重。《佛祖统纪·本如传》赞其“初依法智,于千众中,有少俊声,史典词翰有法则,为世所爱。”
据《释门正统》所载,本如大师初依止知礼大师时,曾向知礼大师“请益经王义”,知礼大师回答说:“为我作三年监院,却向汝道。”本如大师即谨遵知礼大师旨意,勤勤恳恳履行职责,一心一意服务常住。
待三年期满,又向其师请益,其时知礼大师厉声一喝,复呼云:本如。师豁然有悟,即说颂曰:“处处逢归路,头头复故乡;本来成现事,何必待思量!”知礼大师直下印可说:“向来若为汝说,岂有今日?”
本如大师虽是天台宗僧人,属于教下,然考本如大师悟道的经历,则其悟处实与禅宗门下,别无二致,这完全可以从他的这首悟道偈中看得出来。
北宋宋真宗祥符四年(1011 年),遵式大师应杭州刺史薛颜之命,入主灵山精庐(古天竺寺)。不久灵山忏讲不绝,法务繁忙,四远来归的繁荣境况,使他再无暇旁顾东掖山弘法事务,故遵式大师专程赴知礼大师会下,求其举荐才俊,继席东掖。
关于此一求荐情节,《佛祖统纪》记载云:“祥符四年(1011 年),慈云(遵式大师)迁灵山,亲往法智(知礼大师)会下,求可为继。法智(知礼大师)曰:当于众中自择之。慈云(遵式大师)阅视至师(本如大师),即云:斯人可也。”
本如大师旋即被遵式大师“授以东山学者”。自始本如大师即在东掖山能仁寺大开法筵,历三十年,众常五六百。在此期间,先后宣说《妙法莲华经》、《涅槃经》、《金光明经》、《观无量寿经》、《请观音经》、《摩诃止观》、《观心论》、《金刚錍》、《观音别行玄记》等经论,皆讲解了六、七遍。
本如大师勤于讲说的同时,还非常注重修忏,尝集百僧修法华忏,长达一年,瑞验屡见,北宋庆历二年(1042)七月,驸马李遵勗(xù)奏请朝廷,宋仁宗感念其德,赐“神照法师”之号及紫衣袈裟,并智者之教文四千五百卷,以资讲说。
本如大师除讲忏之外,其晚年则专行净土,慕庐山之风,与丞相章郇公及诸贤于能仁寺西南隅,结白莲社,一心念佛,宋仁宗钦其道,遂赐“白莲庵院”匾额。
白莲庵院始由本如大师结屋为庵,仅六七年遂成巨剎。后乃以能仁(寺)山林三分其一,指岭为界,以供白莲庵院樵薪。据《佛祖统纪》云:“(本如大师)尝于寺西南隅,见一虎睡,以杖击之曰:此非汝睡处。虎俛(fǔ俯)首而去,后于虎卧处结屋为菴,归闲其中。”
关于白莲庵院,除为虎卧奇特之地外,另尚别有神奇故事。据《佛祖统纪》云:“先是有五通神居于此,师每禅坐,必连床升行空中,师未尝问。一日,五神请曰:师既踞吾居,乞于此向山冈,建祠塑像,已备泥在山矣。师往视冈上,有新泥一垛,以之塑像无所余。”
本如大师也圆寂辞世于白莲庵院,但关于其辞世具体年份,宋代天台宗学者所作史籍记载却存有异说。其中,南宋宗鉴法师编撰的《释门正统》卷六,认为本如大师圆寂于皇祐二年(1050年);成书稍晚,由南宋志磬法师编撰的《佛祖统纪》卷十二,则认为是皇祐三年(1051年),两者相较仅差一年。虽成书较早的《释门正统》所载似更为可靠,但也不足以证明《佛祖统纪》的记载有误,所以本如大师圆寂于公元1050年或公元1051年似皆有可能。
若按《佛祖统纪》记载,本如大师逝于北宋皇祐三年(1051年),及世寿70岁来推算,其应出生于北宋太平兴国七年(982年)。而若按《释门正统》所载,其寂于皇祐二年来推算,则其当生于太平兴国六年(981年)。至于二书皆谓大师“腊五十三”,到底是僧腊,还是戒腊,则难以判定。
本如大师圆寂前后,曾出现诸多祥瑞异象,据《佛祖统纪》云:“皇祐三年(1051年),五月十八日微疾,即升座说法,与众诀别。其夕,法堂藏阁、方丈栋梁皆折,锺鼓击之无声。江上渔人见云端有僧,西向而去。诘旦,右脇安庠而逝,时天气盛热,异香非常。明年(1052年)三月,塔全身于寺北,门人启钥,视尊容如生,爪发俱长,有大莲华,产于塔前。”故后天台宗诗僧梵才大师祭文有“圆寂经岁,肉体如生”语。
《释门正统》云:“师轻乐财施,弘教为己任,敝衾坏衲,裕然以老。”仅此一言,可说是对本如大师一生最为客观的评价了。
本如大师著有《观普贤菩萨行法经义疏》二卷及《仁王忏仪》,后者今已不存。《观普贤菩萨行法经义疏》则注释至十种境界时停笔,后由其高弟处咸大师续而全之,镂版施印达万卷,此书现存于《卍续藏》第35卷之中。
本如大师一生嗣法弟子甚多,著名者如法真处咸、神悟处谦、楂庵有严、天台元璪、承天择仁、永嘉元掺、天台宝织、杭州义全、台州怀雅、承天法宝等诸师。
本如大师一生另尚显有诸多神异境界,如据《佛祖统纪》所载:“师尝于天台邑中,为众施戒,方秉羯磨,忽有光明,自智者塔、国清寺、赤城山,交射于法座之上。”“又因供千佛、饭一千贫人,置华于席下,佛座华应不萎而反萎,贫人座华应萎而反不萎,举众为之叹异。”
附 记:
问宣子记曰:(南宋)嘉定四年(1211年)春,住山鉴堂谓:师塔当方丈后,狃(niǔ)于风水非宜之说,将迁之。破土数寸,香气袭人,棺上产莲华一茎,光明奕奕。暨发函,慈颜俨然,须发长垂,衣被不坏,舍利满龛,一众惊叹,于是亟掩藏之。
镜菴论之曰:法师血肉之身,衣被之饰,在土二百年而不坏,非夫戒定慧三昧之力所持,畴能若是。人或以轻发祖塔,咎鉴堂者,非夫假此日之启视之,曷足以知法师正报亲依、坚固不坏之瑞?为此举者,其祖冥使之乎(《观经疏》以华座观为亲依,今以衣被例之)。
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