#往復書簡#
片寄は「コロナ禍で往復書簡が始まったのは運命」と振り返って
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡23
こんな時代に、いやこんな時代だからこそこの企画は始まったのではと運命的なものを感じる片寄が2020年を振り返って……。
***
拝啓 小竹正人さま
お褒めのメッセージを頂いたそばから早速、締め切りを過ぎてしまって申し訳ないです(笑)。ライブの準備であったり、仕事が立て込んだりしてくると段々余裕がなくなってくるものですね。。
ですが世の中がなかなか人に会いづらくなるとはまさか想像もしていなかったときに、この往復書簡のお話が実現したのはすごく運命的であり、いまの時代にとてもフィットしたコミュニケーションのカタチであるなと改めて感じます。
人と繋がれたり時間を過ごせたりすることが愛おしく思えるいまだからこそ、すごく良い企画だなあと…。錚々たる方々のご感想を伺うことができ大変嬉しいです。多少意識してしまって、緊張も感じております。汗
さて最近は物事に対する「エネルギーのさじ加減」を考えることが多いです。20代の前半までは「やるか、やらないか」の選択をすることなどが多く、やると決めたら全力でやり切る意識で突っ走った感覚がありました。
今年に入ってコロナの影響で世の中が足踏みをしたタイミングでは、自分も20代も半ばに来て折り返し、いろいろと落ち着いてゆっくり考える時間がありました。
そしていままで出会ってきた方々からいただいた言葉と改めて向き合い、人生のヒントを得ることができました。
そこで気づかされたのです。
全てに対応して同時多発的に「全力でやる」という選択は、自分に合うやり方では無いのかも、ということをです。
全てに自分の100%の比重を置くことは困難だから、タイミングに応じて「いまは70%くらいの集中で頑張ろう、こっちは30%でも大丈夫」と振り分けていくのです。
確かにいま思い返すと、学生時代のテスト勉強なんかも、「これはここまでで大丈夫、ここはもう少し力を入れないと」とバランスをとってやってきたじゃないかと。
以前にもここで書かせていただいた通り、普段のグループとしてのアーティスト活動と並行して、俳優業に挑戦させて頂いたり、ファッションやアートへの興味、そしてこのような連載のような書くお仕事にも取り組ませて頂いたりしております。
また、日々のボイストレーニングや体づくりに加えて、語学レッスンや殺陣のお稽古などなど、そういったものをどのようにして整理するかに、すごく時間をかけることができた時間でもありました。
ただここで一番大切なことは、常に自分の芯となる一つはブレてはいけないということ。学生の頃のテスト勉強と違うのは、仕事としてお金を頂いているというところ。
自分自身が何を芯に置いて活動していくのか、それをしっかりと軸として据えたうえでさらなる可能性を自分自身で広げられるなんて、なんてラッキーな男なんだ、と今はそう思えています。
2日酔いしないくらいの、お酒のさじ加減も覚えられるようになっていかないといけないのですが。
さて、そんな2020年もあともう少しとなります。
どんな1年でしたか? どのように感じましたか? そして、これからどんな未来が待っているのでしょう?
これは飲みに行って語らう話でも良いかもしれませんが(笑)。
片寄涼太
p1 またエバーフレッシュの花が咲きました。今年のステイホームの1番の変化でもあった観葉植物。これからも良い付き合いをしていきたいです。お家にいてもなにか新しいモノに出会えるのが当たり前の時代になっていくのでしょうか
p2 先日、新曲のMV撮影は天候にも恵まれすごく良い画が撮影できました。写真では小さいですが、富士山と東京タワーが同時に見えるロケーション、なんだか縁起が良さそうです。2021年も良き年になりますように。読者の皆さま、良いお年を
原文地址https://t.cn/A6qlZHYy
片寄は「コロナ禍で往復書簡が始まったのは運命」と振り返って
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡23
こんな時代に、いやこんな時代だからこそこの企画は始まったのではと運命的なものを感じる片寄が2020年を振り返って……。
***
拝啓 小竹正人さま
お褒めのメッセージを頂いたそばから早速、締め切りを過ぎてしまって申し訳ないです(笑)。ライブの準備であったり、仕事が立て込んだりしてくると段々余裕がなくなってくるものですね。。
ですが世の中がなかなか人に会いづらくなるとはまさか想像もしていなかったときに、この往復書簡のお話が実現したのはすごく運命的であり、いまの時代にとてもフィットしたコミュニケーションのカタチであるなと改めて感じます。
人と繋がれたり時間を過ごせたりすることが愛おしく思えるいまだからこそ、すごく良い企画だなあと…。錚々たる方々のご感想を伺うことができ大変嬉しいです。多少意識してしまって、緊張も感じております。汗
さて最近は物事に対する「エネルギーのさじ加減」を考えることが多いです。20代の前半までは「やるか、やらないか」の選択をすることなどが多く、やると決めたら全力でやり切る意識で突っ走った感覚がありました。
今年に入ってコロナの影響で世の中が足踏みをしたタイミングでは、自分も20代も半ばに来て折り返し、いろいろと落ち着いてゆっくり考える時間がありました。
そしていままで出会ってきた方々からいただいた言葉と改めて向き合い、人生のヒントを得ることができました。
そこで気づかされたのです。
全てに対応して同時多発的に「全力でやる」という選択は、自分に合うやり方では無いのかも、ということをです。
全てに自分の100%の比重を置くことは困難だから、タイミングに応じて「いまは70%くらいの集中で頑張ろう、こっちは30%でも大丈夫」と振り分けていくのです。
確かにいま思い返すと、学生時代のテスト勉強なんかも、「これはここまでで大丈夫、ここはもう少し力を入れないと」とバランスをとってやってきたじゃないかと。
以前にもここで書かせていただいた通り、普段のグループとしてのアーティスト活動と並行して、俳優業に挑戦させて頂いたり、ファッションやアートへの興味、そしてこのような連載のような書くお仕事にも取り組ませて頂いたりしております。
また、日々のボイストレーニングや体づくりに加えて、語学レッスンや殺陣のお稽古などなど、そういったものをどのようにして整理するかに、すごく時間をかけることができた時間でもありました。
ただここで一番大切なことは、常に自分の芯となる一つはブレてはいけないということ。学生の頃のテスト勉強と違うのは、仕事としてお金を頂いているというところ。
自分自身が何を芯に置いて活動していくのか、それをしっかりと軸として据えたうえでさらなる可能性を自分自身で広げられるなんて、なんてラッキーな男なんだ、と今はそう思えています。
2日酔いしないくらいの、お酒のさじ加減も覚えられるようになっていかないといけないのですが。
さて、そんな2020年もあともう少しとなります。
どんな1年でしたか? どのように感じましたか? そして、これからどんな未来が待っているのでしょう?
これは飲みに行って語らう話でも良いかもしれませんが(笑)。
片寄涼太
p1 またエバーフレッシュの花が咲きました。今年のステイホームの1番の変化でもあった観葉植物。これからも良い付き合いをしていきたいです。お家にいてもなにか新しいモノに出会えるのが当たり前の時代になっていくのでしょうか
p2 先日、新曲のMV撮影は天候にも恵まれすごく良い画が撮影できました。写真では小さいですが、富士山と東京タワーが同時に見えるロケーション、なんだか縁起が良さそうです。2021年も良き年になりますように。読者の皆さま、良いお年を
原文地址https://t.cn/A6qlZHYy
#往復書簡#
「これが私の天職だ!」って思いながら働いている人ってどのくらいいるのだろう
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡20
片寄からのメッセージにあった「天職」について。小竹はこれまで受けたインタビューでのエピソードから掘り下げて綴る。
***
拝啓 片寄涼太様
3年前、初めての歌詞&エッセイ集『あの日、あの曲、あの人は』を上梓した際、インタビューが苦手な私にしては珍しくたくさんの媒体のインタビューを受けた。
なぜ私がインタビューが苦手か? よく知らない人に会って質問されるのが嫌だとかではなく、ついつい喋りすぎて疲れちゃうから苦手なのである。
顔出しもしないSNSもやらない私は取材を受ける際、ここぞとばかりに余計なサービス精神を出してしまう。
インタビュアーの人を楽しませよう! と意気込んだり、より深いところを掘り下げようとして逆にとんちんかんな方向に話題を持っていったり。
30分の予定で組んでいたインタビューが2時間以上になってしまったこともあるくらい。何なら、予定時間内にインタビューを終えたことは1度もないと思う。勝手に張り切って勝手にエネルギーを消耗して、とにかく疲労困憊でへとへとになるのが常。
「こんなに楽しいインタビュー、初めてでした!」と女性誌の編集の方に言ってもらい、「えっ、やった!」などとおちゃらけて返す私。
どちらかと言うと暗い歌詞ばかり書いている私には、気難しそうとか神経質そうとか無口そうとかのイメージがあるらしく、「小竹さんがこんなに明るい人だとは思いませんでした」と満面の笑みで言われたことも数知れず。
笑いをとって、自分や自分の歌詞のイメージを自分で崩壊させて、あんたの職業一体何なんだよ? ってハナシだね、ホント。
ところで、そのインタビューラッシュの際に、私は何人ものインタビュアーの方に「作詞家って小竹さんにとって天職ですね」と言われた。
その都度、「えっ!?」と、妙に驚いたのを覚えている。もちろんありがたかった。しかし、素直に「ありがとうございます」とは言えず、「そうだったら嬉しいですね」とお茶を濁した。
世の中に、「これが私の天職だ!」って思いながら働いている人ってどのくらいいるのだろう。
若気の至りからその職業の酸いも甘いもまだ熟知せずにそう言っている人って結構いそうだし、やっていてただただ楽しいからそれを天職だと思い込んでいる人もいるだろう。
ひとつだけ確かなのは、楽しいだけの仕事=天職ではないということ。どんな仕事だって、その仕事を長く(これ絶対条件)真摯にやっていたら、辛くて仕方のない瞬間がきっとあるし、辞めてしまいたいと思うことだって少なからずあるはずだ。
自分のやりがいや喜びや収入、他人からの評価だけではなく、他者には計り知れない苦悩の部分も含めてその生業を「天職」と胸を張って言えるのなら、それはもう本当にそうなのだと思う。
私自身、作詞という仕事は心から大好きだし相当な遣り甲斐があるけれど、幾度も苦い汁をゴボゴボ飲んできたし、執筆を放り出したくなったことだって1度や2度じゃない。しかも、作詞以外の作詞家としての仕事(打ち合わせ、レコーディング、諸々の確認事など)が苦手ときている。
更に、同じ30年くらいの社会人としてのキャリアを持つ君の父上(テレビ電話でお話ししたことがあるね)が持っているような勤勉さや実直さがなかった私は、ひどくダラダラと作詞家初期を過ごしていた。
いわゆる「プロ意識」を持っていなかったのだ。「職業は作詞家です!」と堂々と言えるようになったのはここ10年くらい。そんな私が「天職は作詞家です!」といけしゃあしゃあ高らかに宣言できるわけがない。一生無理かも。
私は、人間って生まれた瞬間にその人が生きる年月と同じ分くらいページ数のある「人生の問題集」みたいなものを神様から渡されて、その問題集を解き続けながら生きているのでは? と思うことがある。
私の問題集には序盤のページのあたりから、言葉や歌詞や文章の難問がたくさん出題されていて、頭を抱えながらそれを解いているうちに「学ぶこと」や「成果が出ること」に喜びを見出した気がする。
だからこそ私はどんどん悪くなっていく視力と戦いながらもずっと「書く」のをやめられないのだと思う。
作詞を生業として早30年、相変わらず目には見えない問題集を抱えながらも、「私の天職って実はベビーシッターでは?」と本気で思いがちな近頃だが(それくらい周りに子供が多いし、その子たちは私に懐いてくれるんです)、作詞家を引退するまでには今世の問題集を自分なりに完遂して、そこからふわふわとした余生を謳歌できたら。
今までに私が読んできた数千冊に及ぶと思われる本や漫画で特に好きだったものを読み返したり、何かしらつれづれと執筆したりしながら、最期には安らかな気持ちで「作詞家って私にとって天職だったな。ありがとう人生!」と悟りたい。
その頃には、活躍の幅を更に広げているであろう君をメディアで見て、「涼太、大人になったなあ。なんか美味しいものをご馳走してくれないかなあ」なんて呟いたりしてね。こんな、君の倍くらいの歳の大人になるとさ、これはもう「夢」ではなく、「切実な願い」です。
あれっ、なんか「最後の手紙」みたいになっているが、未熟者の私はまだまだ踏ん張って問題を解き続け、まだまだ君を隠れ家的名店に連れて行けるよう頑張りますよ。はい。
小竹正人
敬具
p1 道を歩いていたらまさかの偶然、キミの相方(数原龍友)にバッタリ!会うのは数ヶ月ぶりで妙に嬉しかった。こんなご時世だから尚更。しかし、こんなご時世じゃなければ絶対にハグしてた
p2 人間のとんでもない醜態を暴いたあとに、思いもよらぬ感動で読者を泣かせる。いつだってそれを、せせらぎみたいに淡々とした文章でやってのける吉田修一氏。私が生涯で一番好きな作家です
原文链接https://t.cn/A6q735O6
「これが私の天職だ!」って思いながら働いている人ってどのくらいいるのだろう
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡20
片寄からのメッセージにあった「天職」について。小竹はこれまで受けたインタビューでのエピソードから掘り下げて綴る。
***
拝啓 片寄涼太様
3年前、初めての歌詞&エッセイ集『あの日、あの曲、あの人は』を上梓した際、インタビューが苦手な私にしては珍しくたくさんの媒体のインタビューを受けた。
なぜ私がインタビューが苦手か? よく知らない人に会って質問されるのが嫌だとかではなく、ついつい喋りすぎて疲れちゃうから苦手なのである。
顔出しもしないSNSもやらない私は取材を受ける際、ここぞとばかりに余計なサービス精神を出してしまう。
インタビュアーの人を楽しませよう! と意気込んだり、より深いところを掘り下げようとして逆にとんちんかんな方向に話題を持っていったり。
30分の予定で組んでいたインタビューが2時間以上になってしまったこともあるくらい。何なら、予定時間内にインタビューを終えたことは1度もないと思う。勝手に張り切って勝手にエネルギーを消耗して、とにかく疲労困憊でへとへとになるのが常。
「こんなに楽しいインタビュー、初めてでした!」と女性誌の編集の方に言ってもらい、「えっ、やった!」などとおちゃらけて返す私。
どちらかと言うと暗い歌詞ばかり書いている私には、気難しそうとか神経質そうとか無口そうとかのイメージがあるらしく、「小竹さんがこんなに明るい人だとは思いませんでした」と満面の笑みで言われたことも数知れず。
笑いをとって、自分や自分の歌詞のイメージを自分で崩壊させて、あんたの職業一体何なんだよ? ってハナシだね、ホント。
ところで、そのインタビューラッシュの際に、私は何人ものインタビュアーの方に「作詞家って小竹さんにとって天職ですね」と言われた。
その都度、「えっ!?」と、妙に驚いたのを覚えている。もちろんありがたかった。しかし、素直に「ありがとうございます」とは言えず、「そうだったら嬉しいですね」とお茶を濁した。
世の中に、「これが私の天職だ!」って思いながら働いている人ってどのくらいいるのだろう。
若気の至りからその職業の酸いも甘いもまだ熟知せずにそう言っている人って結構いそうだし、やっていてただただ楽しいからそれを天職だと思い込んでいる人もいるだろう。
ひとつだけ確かなのは、楽しいだけの仕事=天職ではないということ。どんな仕事だって、その仕事を長く(これ絶対条件)真摯にやっていたら、辛くて仕方のない瞬間がきっとあるし、辞めてしまいたいと思うことだって少なからずあるはずだ。
自分のやりがいや喜びや収入、他人からの評価だけではなく、他者には計り知れない苦悩の部分も含めてその生業を「天職」と胸を張って言えるのなら、それはもう本当にそうなのだと思う。
私自身、作詞という仕事は心から大好きだし相当な遣り甲斐があるけれど、幾度も苦い汁をゴボゴボ飲んできたし、執筆を放り出したくなったことだって1度や2度じゃない。しかも、作詞以外の作詞家としての仕事(打ち合わせ、レコーディング、諸々の確認事など)が苦手ときている。
更に、同じ30年くらいの社会人としてのキャリアを持つ君の父上(テレビ電話でお話ししたことがあるね)が持っているような勤勉さや実直さがなかった私は、ひどくダラダラと作詞家初期を過ごしていた。
いわゆる「プロ意識」を持っていなかったのだ。「職業は作詞家です!」と堂々と言えるようになったのはここ10年くらい。そんな私が「天職は作詞家です!」といけしゃあしゃあ高らかに宣言できるわけがない。一生無理かも。
私は、人間って生まれた瞬間にその人が生きる年月と同じ分くらいページ数のある「人生の問題集」みたいなものを神様から渡されて、その問題集を解き続けながら生きているのでは? と思うことがある。
私の問題集には序盤のページのあたりから、言葉や歌詞や文章の難問がたくさん出題されていて、頭を抱えながらそれを解いているうちに「学ぶこと」や「成果が出ること」に喜びを見出した気がする。
だからこそ私はどんどん悪くなっていく視力と戦いながらもずっと「書く」のをやめられないのだと思う。
作詞を生業として早30年、相変わらず目には見えない問題集を抱えながらも、「私の天職って実はベビーシッターでは?」と本気で思いがちな近頃だが(それくらい周りに子供が多いし、その子たちは私に懐いてくれるんです)、作詞家を引退するまでには今世の問題集を自分なりに完遂して、そこからふわふわとした余生を謳歌できたら。
今までに私が読んできた数千冊に及ぶと思われる本や漫画で特に好きだったものを読み返したり、何かしらつれづれと執筆したりしながら、最期には安らかな気持ちで「作詞家って私にとって天職だったな。ありがとう人生!」と悟りたい。
その頃には、活躍の幅を更に広げているであろう君をメディアで見て、「涼太、大人になったなあ。なんか美味しいものをご馳走してくれないかなあ」なんて呟いたりしてね。こんな、君の倍くらいの歳の大人になるとさ、これはもう「夢」ではなく、「切実な願い」です。
あれっ、なんか「最後の手紙」みたいになっているが、未熟者の私はまだまだ踏ん張って問題を解き続け、まだまだ君を隠れ家的名店に連れて行けるよう頑張りますよ。はい。
小竹正人
敬具
p1 道を歩いていたらまさかの偶然、キミの相方(数原龍友)にバッタリ!会うのは数ヶ月ぶりで妙に嬉しかった。こんなご時世だから尚更。しかし、こんなご時世じゃなければ絶対にハグしてた
p2 人間のとんでもない醜態を暴いたあとに、思いもよらぬ感動で読者を泣かせる。いつだってそれを、せせらぎみたいに淡々とした文章でやってのける吉田修一氏。私が生涯で一番好きな作家です
原文链接https://t.cn/A6q735O6
连用形的中顿法和名词法
为使一个叙述不完全断句,只形成一个停顿的时候,用言或者助动词要采用连用形,日本语法书叫做中止法。例如:
①父が 田を 耕し、息子が 草を とる。父亲耕田,儿子除草。
②午前は 学校に 行き、午後は 自宅で 研究する。上午到学校去,下午在自己家里做研究。
③西郊公園は 動物園でも あり、植物園でも ある。西郊公园是动物园也是植物园。
④冬は 夜が 長く、昼が 短い。冬天夜长昼短。
⑤兄は 大学教授で、弟は 電気技師だ。哥哥是大学教授,弟弟是电气工程师。
⑥これは 一個 15銭で、それは 20錢です。这样的每个一毛五,那样的两毛。
⑦一日中 休みも せず、一生懸命 勉強して いる。整天不休息,拼命用功。
注:で是助动词だ的连用形,ず是否定助动词す的连用词。
动词的连用形可以当做名词使用。这个用法叫做名词法。(
めいしほう)。例如:
⑧行きは 歩いて 帰りは バスに のった。去的时候走着去,回来的时候坐公交车。
⑨それは 少し 考えが 足りなかったですね。那真是一点也考虑不周啊。
⑩場内までの バス代は行き帰り 60錢 かかる。去城头的公交车来回要八毛。
⑩①この 勝負は 君の 、方が まけだ。这场比赛是你输了。
由名词法形成的名词可以和其他名词复合起来构成新名词。例如:
夏休み 魚釣 釣竿
手押し車
⑩②洗い物は みな 洗濯屋に 出して います。要洗的东西经常要交给洗衣店。
⑩③酒のみは 脳溢血に かかり やすい。酗酒的人容易脑溢血。
日译汉
鯨を 追う 捕鯨船
水なぎの 海に 鳥の 群れが 乱舞して いる。ところが 鳥の 群の あたりの 波が とつぜん むくむくと 盛り上がる。見張りの 人が はっと なる。
ざあっと 海が 避けて 黒い 頭が 浮かび 上がり いきおいよく 潮を 吹きあげる。
“出たぞう、出たぞう”と 叫ぶ 見張の 声に 船員達が 看板に
飛び出してくる。何も 知らない くじらは
ゆうゆうと 呑気に 泳いで いろ。船は 急に 速力を まして 追跡する だんだん 距離が 縮まって 行くが、くじらは まだ 氣が つかない。次第に スピードを 落とし、まじかに なって 黒と エンジンを 止めて 忍び足で 近づく。
砲手は きっと 緊張し、砲身を くじらに 向けたまま、ちっとも 動かない。
みんな 息を 呑んで じっと 見て いる。ぐっと 引き金を 引く。轟音と 同時に 砲口から 火を はき もりは 長い 綱を 引いて とんで ゆく。
“わっ”と あがる 歓声。もりは 見事に くじらの 心臓部に 命中したのだ。
追捕鲸鱼的捕鲸船
鸟群在没有风浪的海面上乱舞着。然而,突然在鸟群附近汹涌地隆起了波浪。嘹哨员紧张了起来。海面哗啦啦地裂开,露开一个黑色的脑袋,猛烈地喷起海水。
“他来了他来了”在领航员的喊声中,船员们跑上了甲板。一无所有的鲸鱼们悠闲地游动着。船突然增加速度赶上去了。距离一步步地缩短。可是鲸鱼还不知道,捕鲸船逐渐减速,来到跟前的时候就停住引擎,蹑手蹑脚向前逼近。
炮手聚精会神地紧张起来,把炮身朝向鲸鱼,一动也不动。所有人都屏神静气,目不转睛地看着。随着轰隆隆的声音,炮口冒出白烟,鱼镖拖着长绳飞过去了。
突然间欢声四起,鱼镖稳稳滴打中了金鱼的心脏。
汉译日
A教授は 毎日 市内 から バスで 学校へ 来ます。
A教授每天乘公交车从城里来学校。
②電車や バスの 中では 誰も 煙草を のまない。
火车和公交车上谁也不抽烟。
③社会主义一定能战胜资本主义。
社会主義は 必ず 資本主義に 打ち勝つ ことが 出来る。
④我们要站在工人阶级的立场和资产阶级斗争到底。
われわれは 労働者階級の 立場に たって あくまで 資産階級思想と 闘争する。
⑤苍蝇、蚊子、麻雀、老鼠是对我们一点用都没有的动物。
はえ、蚊、ネズミ、雀などは ちっとも 為に ならない 動物だ。
⑥地球365日绕太阳一周。
地球は 365日毎に 太陽を ひと回りする。
⑦下个月15号我们已经在东京了。
来月の 15日には 私たちは もう 東京に います。
⑧一方では 重工業の 発展を はかり、同時に軽工業も 適当に 配慮しなければならない。一方面要发展重工业,一方面要重视轻工业。
⑨日本是海洋国家,也是水产国。
日本は 海洋国家で 世界 有数の 水産国で ある。
⑩他不喝酒,也不抽烟,是一位简朴的人。
あの人は 酒も 飲ます、煙草も 吸わないで、大変 質素な 人だ。#周震南父亲回应#
为使一个叙述不完全断句,只形成一个停顿的时候,用言或者助动词要采用连用形,日本语法书叫做中止法。例如:
①父が 田を 耕し、息子が 草を とる。父亲耕田,儿子除草。
②午前は 学校に 行き、午後は 自宅で 研究する。上午到学校去,下午在自己家里做研究。
③西郊公園は 動物園でも あり、植物園でも ある。西郊公园是动物园也是植物园。
④冬は 夜が 長く、昼が 短い。冬天夜长昼短。
⑤兄は 大学教授で、弟は 電気技師だ。哥哥是大学教授,弟弟是电气工程师。
⑥これは 一個 15銭で、それは 20錢です。这样的每个一毛五,那样的两毛。
⑦一日中 休みも せず、一生懸命 勉強して いる。整天不休息,拼命用功。
注:で是助动词だ的连用形,ず是否定助动词す的连用词。
动词的连用形可以当做名词使用。这个用法叫做名词法。(
めいしほう)。例如:
⑧行きは 歩いて 帰りは バスに のった。去的时候走着去,回来的时候坐公交车。
⑨それは 少し 考えが 足りなかったですね。那真是一点也考虑不周啊。
⑩場内までの バス代は行き帰り 60錢 かかる。去城头的公交车来回要八毛。
⑩①この 勝負は 君の 、方が まけだ。这场比赛是你输了。
由名词法形成的名词可以和其他名词复合起来构成新名词。例如:
夏休み 魚釣 釣竿
手押し車
⑩②洗い物は みな 洗濯屋に 出して います。要洗的东西经常要交给洗衣店。
⑩③酒のみは 脳溢血に かかり やすい。酗酒的人容易脑溢血。
日译汉
鯨を 追う 捕鯨船
水なぎの 海に 鳥の 群れが 乱舞して いる。ところが 鳥の 群の あたりの 波が とつぜん むくむくと 盛り上がる。見張りの 人が はっと なる。
ざあっと 海が 避けて 黒い 頭が 浮かび 上がり いきおいよく 潮を 吹きあげる。
“出たぞう、出たぞう”と 叫ぶ 見張の 声に 船員達が 看板に
飛び出してくる。何も 知らない くじらは
ゆうゆうと 呑気に 泳いで いろ。船は 急に 速力を まして 追跡する だんだん 距離が 縮まって 行くが、くじらは まだ 氣が つかない。次第に スピードを 落とし、まじかに なって 黒と エンジンを 止めて 忍び足で 近づく。
砲手は きっと 緊張し、砲身を くじらに 向けたまま、ちっとも 動かない。
みんな 息を 呑んで じっと 見て いる。ぐっと 引き金を 引く。轟音と 同時に 砲口から 火を はき もりは 長い 綱を 引いて とんで ゆく。
“わっ”と あがる 歓声。もりは 見事に くじらの 心臓部に 命中したのだ。
追捕鲸鱼的捕鲸船
鸟群在没有风浪的海面上乱舞着。然而,突然在鸟群附近汹涌地隆起了波浪。嘹哨员紧张了起来。海面哗啦啦地裂开,露开一个黑色的脑袋,猛烈地喷起海水。
“他来了他来了”在领航员的喊声中,船员们跑上了甲板。一无所有的鲸鱼们悠闲地游动着。船突然增加速度赶上去了。距离一步步地缩短。可是鲸鱼还不知道,捕鲸船逐渐减速,来到跟前的时候就停住引擎,蹑手蹑脚向前逼近。
炮手聚精会神地紧张起来,把炮身朝向鲸鱼,一动也不动。所有人都屏神静气,目不转睛地看着。随着轰隆隆的声音,炮口冒出白烟,鱼镖拖着长绳飞过去了。
突然间欢声四起,鱼镖稳稳滴打中了金鱼的心脏。
汉译日
A教授は 毎日 市内 から バスで 学校へ 来ます。
A教授每天乘公交车从城里来学校。
②電車や バスの 中では 誰も 煙草を のまない。
火车和公交车上谁也不抽烟。
③社会主义一定能战胜资本主义。
社会主義は 必ず 資本主義に 打ち勝つ ことが 出来る。
④我们要站在工人阶级的立场和资产阶级斗争到底。
われわれは 労働者階級の 立場に たって あくまで 資産階級思想と 闘争する。
⑤苍蝇、蚊子、麻雀、老鼠是对我们一点用都没有的动物。
はえ、蚊、ネズミ、雀などは ちっとも 為に ならない 動物だ。
⑥地球365日绕太阳一周。
地球は 365日毎に 太陽を ひと回りする。
⑦下个月15号我们已经在东京了。
来月の 15日には 私たちは もう 東京に います。
⑧一方では 重工業の 発展を はかり、同時に軽工業も 適当に 配慮しなければならない。一方面要发展重工业,一方面要重视轻工业。
⑨日本是海洋国家,也是水产国。
日本は 海洋国家で 世界 有数の 水産国で ある。
⑩他不喝酒,也不抽烟,是一位简朴的人。
あの人は 酒も 飲ます、煙草も 吸わないで、大変 質素な 人だ。#周震南父亲回应#
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