【わたし達はおとな】
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
“自分”の範疇を超えていく――木竜麻生&藤原季節に訪れた、カメラの存在を完全に忘れた瞬間
――本作には、どのような経緯で参加することになったのでしょうか? 木竜さんは、加藤監督とは初タッグとなりました。
木竜:送られてきた脚本を読ませていただき、すぐにマネージャーさんと話したんです。「(脚本が)面白い。この作品はやろう」と。脚本は、最初から最後まで面白いと、純粋に感じましたし「2人(=優実と直哉)の事を見てみたい」と思いました。
――藤原さんは、加藤監督が演出した舞台「まゆをひそめて、僕を笑って」(2017)、「貴方なら生き残れるわ」(18)、「誰にも知られず死ぬ朝」(20)、「ぽに」(21)に出演されていますよね。
藤原:加藤さんとは付き合いが長いですね。「わたし達はおとな」に関しては、舞台の本番と重なっていて、元々出演することができなかったんです。「主人公は木竜さんに決まった」と加藤さんから報告を受けて「おめでとうございます。あとは相手役だけですね」と励ます立場だったんですが……参加するはずだった舞台が、コロナの影響で中止になったんです。それで加藤さんから声をかけていただき、すぐに脚本を読みました。
――どのように感じられましたか?
藤原:直哉を演じられるのは「僕しかいないな」と思いましたね(笑)。
一同:爆笑
藤原:脚本が本当に面白かった。「『面白い』。しかし、こんなことを言ってしまってもいいのだろうか」と感じる面白さがありましたね。二つ返事で出演が決まりました。
――では、クランクイン前に準備をしていたことはありますか?
藤原:加藤さんがリハーサルの機会を用意してくれて、何度も何度も繰り返していました。本作はラストに向かって、優実と積み上げていくものが必要になります。それには、役を演じる本人同士のコミュニケーションも大切です。なので、リハーサルの最中には、木竜さんと頻繁にコミュニケーションをとっていました。そういう時間は、加藤さんが用意してくれたんです。
木竜:今回の現場には、加藤監督と普段から仕事をしている方々が何人もいらっしゃったんです。リハーサルでは、共通言語を作る時間もとっていただけましたし、皆さんの作る“空気”に巻き込んでもらいながらセッションさせていただいた、という感じでした。
藤原:このリハーサルには、カメラも入っていたんです。まずは芝居の中で、僕たちが動きを作っていく。その後“カメラを何処に置けば、必要最低限のカットで、優実の表情の変化を撮れるのか”という点を、加藤さんたちが計算しながら探っていく。その一方で、僕らは芝居の精度を高める。スタッフと俳優のリハーサルが同時に行われているような感じだったんです。
――このリハーサルは、かなり重要な機会だったんですね。ちなみに、おふたりは初共演ですよね?
木竜:はい。でも、共通の友達がいるので、お互いの事を知ってはいたんです。
――“顔見知り”ではあったわけですね。では、今回の共演を通じて感じた「俳優・藤原季節」について教えていただけますか?
木竜:お芝居をすることに対して、何よりもまっすぐで強い。そんな印象を受けました。こんなにも芝居に対して夢中になれるのか……そんな風に感じてしまう方です。それは今回、実際に共演してみて強く思ったこと。「私も頑張らないと」「負けたくないな」という思いと、「でも、敵わないんだろうな」という考えが同時によぎってしまう俳優さんだと思っています。
――藤原さんは、いかがでしょうか?
藤原:木竜さんの出演作はほとんど見ています。ガラスのハートのように繊細なものを持ちながらも、それを突き抜ける“俳優としての強度”があるんです。同世代だと他に例がない。そうでなければ「菊とギロチン」のヒロインなんてできませんよ。
木竜:この事、いつも言ってくれるんですよ(笑)。
藤原:いやいや、誰にでもできる事じゃないから。“強度のある俳優”だということは、周知の事実だと思っています。
――では、加藤監督とのやりとりに話を転じましょう。木竜さんは、どのような対話を経て、優実の人物像を作り上げていきましたか?
木竜:リハーサルの最初から最後まで言われていたのは「今回は、どれだけ隠せるかが大切」ということです。心の中で思っている事、感情の動き、言いたい事、言えない事、言いたくはない事……これらをどれだけ隠せるのか。現場では、それらについて「出過ぎかな」「もう少しだけ出そう」と微調整を行ってもらったり、丁寧に強弱をつけていただいていました。もうひとつ言われていたのは「今回は暮らしを撮る。生活のある映画になる」ということ。この指針は、自分の中に持ち続けていたと思います。
――藤原さんは、前述の通り、加藤監督とは何度もご一緒されていますよね。加藤監督の魅力は、どのような点に表れていると思いますか?
藤原:“変化し続ける男”といえばいいんでしょうか……作品のカラーが、毎回異なる。そこがすごいですよね。でも、共通していることもあります。「善、悪」「好き、嫌い」「付き合う、付き合わない」「結婚する、結婚しない」という形では白黒がつけられない、“名前がつく前の曖昧な部分”を表現し続けているんだなと思っています。
――「映画の現場」だからこそ感じられた面白みはありましたか?
藤原:ワンカット・長回しを多用しているので、そういう意味では演劇に近いんです。演劇は“再現”をしないといけないので「感情をどこで出すか」という点は、稽古の時点で決まっていきます。「わたし達はおとな」のラストシーンは、ワンカット1発勝負をかけたところなんです。舞台上での“ライブ感”をそのまま生かした、たった1回のチャンス。俳優から何が出てくるのかは、誰もわからない。ここで感じた緊張感というのは、演劇の時よりも上だったかもしれません。どんなに良い芝居が撮れたとしても、例えば救急車の音が入ってしまったら、NGになってしまいますから。木竜さんの演技を見ているうちに「このワンカットで決まる。これは最後までいかないと、撮り直しがきかない」と感じたんです。だからこそ、ラストシーンは“目撃”してほしいんです。
――木竜さんの芝居を見て「ワンカットで決まる」と感じられた。それは、どのようなタイミングだったのでしょうか?
藤原:「わたし達はおとな」は、優実の物語なんです。優実が目的地まで運ばれるために、直哉と加藤さんという存在がいる。僕たちはラストシーンに勝負をかけていましたが、最後に戦うのは木竜さんひとり。最終的には、サポートできる部分が無くなっていくんです。カメラが回ってしまえば、任せるしかない。その時、木竜さんがしっかりと自分の足で立ち、優実になりきっている姿を見ました。それは木竜さんの範疇を超えているというか……。僕が演じている直哉も、僕の範疇から抜け出していく。次第に、優実と直哉の物語になる。木竜さんと僕はどこかに行ってしまった――そういう瞬間が、本番中にあったんです。
木竜:仰っていることが、とてもよくわかります。時間の感覚がない感じというか……。時間が止まっているわけでもなく、進んでいるわけでもないんです。
藤原:カメラの存在を、完全に忘れていますから。
木竜:そう、忘れていました! 映像を見返してみると、信じられない間(ま)ができていたり。でも、そんな間(ま)を作ろうという意識はなかったんです。初号試写を見た時に感じたのですが、自分の知らない声や顔がたくさんありました。(全編に)そういう自分がちらばっていて、少し変な感じだったんです。物語の後半になればなるほど、優実は直哉に思いの丈をぶつけていきます。藤原さんには、それを全部受け止めてもらいましたし、加藤組の皆さんの“芝居中の見守り方”も素晴らしかったんです。委ねることができた自分が、そこにいた――そう思えたのは、とても幸せな事でした。
藤原:芝居をする上では、全てが整っていた現場だったと思います。穏やかで、完璧でした。
――では、最後の質問とさせていただきます。「わたし達はおとな」というタイトルは“ヤングアダルトの時期”の象徴として付けられています。このタイトルは、改めて「おとな(=大人)」について考えるきっかけになりました。「おとなは『私はおとなだ』とは言わないのかもしれない」「『自分はおとなだ』と発言しなくなった頃から、本当の意味でおとなになるのではないか……?」等々。お二人にとって“おとなになる”とは、どういうことだと思いますか?
藤原:「おとな」と「こども」。自分の中には、その両方が存在しているんです。「おとな」の部分は、自分自身のことで悩まなくなったこと。僕はそんな「おとな」を嫌っていたんです。でも、そうやって嫌っていた存在に、きちんとなりつつある。それと同時に、自分はまだまだ「こども」なんだろうなと思うこともある。具体例を出すとなると、すぐには思いつきませんが……。役者という職業は、結局、現実逃避の延長線上にあると思っているんです。これしかできないという時点で、永遠に「こども」のままなのかもしれない。この感覚を失ってしまうと、ただのふざけた「おとな」になってしまうんです。映画に対する憧れ、純粋な気持ちを失うと、毎回毎回同じような芝居を繰り返し、それで満足するようになってしまう。それは全く“楽しくない”こと。表現というものには、きちんと向き合っていきたいんです。
木竜:わかりやすい点でいうと、頼る人の数が減ったのかなと思います。以前までは、幅広い関係性の中で甘えたり、頼ったりしていたと思うんです。でも、自分でしっかりと考えて、頼ってもいいと思える人を選択するようになりました。この変化が「おとな」になったのかなと思うんです。でも、誰かに頼ったり、甘えたりする自分を許容している部分は、まだまだ「こども」だなと思います。藤原さんが仰った「自分のことで悩まない」という点、私は「おとな」だなと感じました。私は、どうしても自分にベクトルが向きやすいタイプなので……。自分自身の「こども」の部分、そこもそうなのかなと思いました。
《甲乙经》卷十一
【寒气客于经络之中发痈疽风成发厉浸淫第九】(下)
黄帝问曰:病之生时,有喜怒不测,饮食不节,阴气不足,阳气有余,营气不行,乃发为痈疽,阴阳气不通,而热相薄,乃化为脓,小针能取之乎?
岐伯对曰:夫致使身被痈疽之疾,脓血之聚者,不亦离道远乎。痈疽之生,脓血之成也,积聚之所生。故圣人自治于未形也,愚者遭其已成也。
其已有形,脓已成,为之奈何?
曰:脓已成十死一生。曰:其已成有脓血,可以少针治呼?
曰:以小治小者其功少,以大治大者其功大,以小治大者多害大,故其已成脓血者,其惟砭石䤵锋之所取也。
曰:多害者,其不可全乎?曰:在逆顺焉耳。曰:愿闻顺逆。曰:已为伤者,其白晴青黑,眼小是一逆也;内药而呕,是二逆也;腹痛渴甚,是三逆也;肩项中不便,是四逆也;音嘶色脱,是五逆也。除此五者为顺矣。
邪之入于身也深,其寒与热相摶,久留而内着,寒胜其热则骨疼肉枯,热胜其寒则烂肉腐肌为脓。内伤骨为骨蚀。有所疾前,筋屈不得伸,气居其间而不反,发为筋瘤也。有所结,气归之,卫气留之,不得复反,津液久留,合而为肠(一本作疡)疽,留久者数岁乃成,以手按之柔。有所结,气归之,津液留之,邪气中之,凝结日以易甚,连以聚居,为昔瘤,以手按之坚。有所结,气深中骨,气因于骨,骨与气并息,日以益大,则为骨疽。有所结,气中于肉,宗气归之,邪留而不去,有热则化为脓,无热则为肉疽。凡此数气者,其发无常处而有常名。
曰:病痈肿,颈痛,胸满腹胀,此为何病?
曰:病名曰厥逆,灸之则瘖,石之则狂,须其气并,乃可治也,阳气重上(一本作止)有余于上,灸亡阳气入阴,入则瘖;石之阳气虚,虚则狂。须其气并而治之使愈。
曰;病颈痈者,或石治之,或以针灸治之,而皆已,其治何在?
曰:此同名而异等者也。夫痈气之息者,宜以针开除去之;夫气盛血聚者,宜石而泻之。此所谓同病而异治者也。
曰:诸痈肿,筋挛骨痛,此皆安在?
曰:此皆寒气之肿也,八风之变也。
曰:治之奈何?
曰:此四时之病也,以其胜治其俞。
暴痈筋濡(一本作緛),随分而痛,魄汗不尽,胞气不足,治在其经俞。
腋痈大热,刺足少阳五,刺而热不止,刺手心主三,刺手太阴经络者,大骨之会各三。
痈疽,不得顷回。痈不知所,按之不应手,乍来乍已,刺手太阴傍三与缨脉各二。
治痈肿者,刺痈上。视痈大忄深浅刺之,刺大者多而深之,必端内针为故止也(《素问》云:刺大者多血,小者深之,必端内针为故止)。
项肿不可俯仰,颊肿引耳,完骨主之。咽肿难言,天柱主之。䪼肿唇痈,颧窌主之。颊肿痛,天窗主之。头项痈肿不能言,天容主之。身肿,关门主之。胸下满痛,膺肿,乳根主之。马刀肿瘘,渊腋、章门、支沟主之。面肿目痈,刺陷谷出血立已。犊鼻肿,可刺其上,坚勿攻,攻之者死。疽,窍阴主之。
厉风者,索刺其肿上,已刺以吮其处,按出其恶血,肿尽乃止,常食方食,无食他食,脉风成为厉。管疽发厉,窍阴主之。头大浸淫,间使主之。瘃蛘欲呕,大陵主之。痂疥,阳谿主之。
黄帝问曰:愿尽闻痈疽之形与忌日名?
岐伯对曰:痈发于嗌中,名曰猛疽。不急治化为脓,脓不泻塞咽,半日死;其化为脓者,脓泻已,则合泵膏,冷食三日已。其状大而赤黑,不急治则热气下入渊腋,前伤任脉,内熏肝肺,熏则十余日死矣。阳气大发,消脑溜顶,名曰脑烁。其色不乐,脑项痛如刺以针,烦心者,死不治。
发于肩及臑,名曰疵疽,其状赤黑,急治之。此令人汗出至足,不害五脏,痈发四五日,逆焫之。
发于腋下,赤坚者,名曰米疽,治之以砭石,欲细而长,疎砭之,涂以豕膏,六日已,勿裹之。其痈坚而不溃者,为马刀挟瘿,以急治之。
发于胸,名曰井疽,其状如大豆,三四日起,不早治,下入腹,不治,七日死。
发于膺,名曰甘疽,色青。其状如谷实瓜萎,常苦寒热。急治之,去其寒热;不急治,十岁死,死后出脓。
痈发于胁,名曰败疵,此言女子之病也,灸之。其状大痈脓,其中乃有生肉大如赤小豆,治之以䔖翘草根及赤松子根谷一升,以水一斗六升,煮之令竭得三升,即强饮,厚衣坐于釜上,令汗至足已。
发于股胫(一作胻),名曰股胫疽,其状不甚变色,痈脓内薄于骨,急治之,不急治,四十日死。
发于尻,名曰锐疽,其状赤坚大,急治之,不治,三十日死。发于股阴,名曰赤驰。不治,六十日死;在两股之内,不治,十日死。
发于膝,名曰疵疽,其状大痈,色不变,寒热而坚者,勿石,石之者即死;须其色异柔,乃石之者生。
诸痈之发于节而相应者不可治,发于阳者,百日死,发于阴者四十日死。
发于胫,名曰兔啮,其状如赤豆至骨,急治之,不急治杀人。
发于内踝,名曰走缓。其状痈,色不变,数石其俞而止其寒热,不死。
发于足上下,名曰四淫。其状大痈,不急治之,百日死。
发于足傍,名曰厉痈。其状不大,初从小指发,急治去之,其状黑者不可消,辄益不治,百日死。
发于足指,名曰脱疽。其状赤黑者,死不治;不赤黑者不死。治之不衰,急斩去之,不去则死矣。
黄帝问曰:何为痈?
岐伯对曰:营气积留于经络之中,则血泣而不行,不行则卫生归之,归而不通,拥遏而不得行,故曰热。大热不止,热胜则肉腐,,肉腐则为脓。然不能陷肌肤于骨髓,骨髓不为焦枯,五脏不为伤,故名曰痈。
曰:何谓疽?
曰:热气纯盛,下陷肌肤筋髓骨肉,内连五脏,血气竭绝,其其痈下筋骨,良肉皆无余,故名曰疽。疽者,其上皮夭瘀以坚,状如牛领皮;痈者,其皮上薄而以泽,此其候也。
曰:有疽死者奈何?
曰:身有五部:伏菟一,腨(《灵枢》作腓)二,背三,五脏之俞四,项五。此五部有疽死也。
曰:身形应九野奈何?
曰:请言身形之应九野也。左手(一作足)应立春,其日戊寅己丑;左胸(一作胁)应春分,其日乙卯;左足应立夏,其日戊辰己巳;膺喉头首应夏至,其日丙午;右手应立秋,其日戊申己未;右胸(一作胁)应秋分,其日辛酉;右足应立冬,其日戊戍己亥;腰尻下窍应冬至,其日壬子;六府及鬲下三脏应中州,其日大禁,太乙所在之日,及诸戊己。凡此九者,善候八正所在之处,主左右上下身体有痈肿者,欲治之,无以其所直之日溃治之,是谓尺忌日也。
五子夜半五丑鸡鸣五寅平旦五卯日出五辰食时五巳中五午日㬂中五未日昳五申晡时五酉日久五戍黄昏五亥入定
以上此时得疾者皆不起。
【寒气客于经络之中发痈疽风成发厉浸淫第九】(下)
黄帝问曰:病之生时,有喜怒不测,饮食不节,阴气不足,阳气有余,营气不行,乃发为痈疽,阴阳气不通,而热相薄,乃化为脓,小针能取之乎?
岐伯对曰:夫致使身被痈疽之疾,脓血之聚者,不亦离道远乎。痈疽之生,脓血之成也,积聚之所生。故圣人自治于未形也,愚者遭其已成也。
其已有形,脓已成,为之奈何?
曰:脓已成十死一生。曰:其已成有脓血,可以少针治呼?
曰:以小治小者其功少,以大治大者其功大,以小治大者多害大,故其已成脓血者,其惟砭石䤵锋之所取也。
曰:多害者,其不可全乎?曰:在逆顺焉耳。曰:愿闻顺逆。曰:已为伤者,其白晴青黑,眼小是一逆也;内药而呕,是二逆也;腹痛渴甚,是三逆也;肩项中不便,是四逆也;音嘶色脱,是五逆也。除此五者为顺矣。
邪之入于身也深,其寒与热相摶,久留而内着,寒胜其热则骨疼肉枯,热胜其寒则烂肉腐肌为脓。内伤骨为骨蚀。有所疾前,筋屈不得伸,气居其间而不反,发为筋瘤也。有所结,气归之,卫气留之,不得复反,津液久留,合而为肠(一本作疡)疽,留久者数岁乃成,以手按之柔。有所结,气归之,津液留之,邪气中之,凝结日以易甚,连以聚居,为昔瘤,以手按之坚。有所结,气深中骨,气因于骨,骨与气并息,日以益大,则为骨疽。有所结,气中于肉,宗气归之,邪留而不去,有热则化为脓,无热则为肉疽。凡此数气者,其发无常处而有常名。
曰:病痈肿,颈痛,胸满腹胀,此为何病?
曰:病名曰厥逆,灸之则瘖,石之则狂,须其气并,乃可治也,阳气重上(一本作止)有余于上,灸亡阳气入阴,入则瘖;石之阳气虚,虚则狂。须其气并而治之使愈。
曰;病颈痈者,或石治之,或以针灸治之,而皆已,其治何在?
曰:此同名而异等者也。夫痈气之息者,宜以针开除去之;夫气盛血聚者,宜石而泻之。此所谓同病而异治者也。
曰:诸痈肿,筋挛骨痛,此皆安在?
曰:此皆寒气之肿也,八风之变也。
曰:治之奈何?
曰:此四时之病也,以其胜治其俞。
暴痈筋濡(一本作緛),随分而痛,魄汗不尽,胞气不足,治在其经俞。
腋痈大热,刺足少阳五,刺而热不止,刺手心主三,刺手太阴经络者,大骨之会各三。
痈疽,不得顷回。痈不知所,按之不应手,乍来乍已,刺手太阴傍三与缨脉各二。
治痈肿者,刺痈上。视痈大忄深浅刺之,刺大者多而深之,必端内针为故止也(《素问》云:刺大者多血,小者深之,必端内针为故止)。
项肿不可俯仰,颊肿引耳,完骨主之。咽肿难言,天柱主之。䪼肿唇痈,颧窌主之。颊肿痛,天窗主之。头项痈肿不能言,天容主之。身肿,关门主之。胸下满痛,膺肿,乳根主之。马刀肿瘘,渊腋、章门、支沟主之。面肿目痈,刺陷谷出血立已。犊鼻肿,可刺其上,坚勿攻,攻之者死。疽,窍阴主之。
厉风者,索刺其肿上,已刺以吮其处,按出其恶血,肿尽乃止,常食方食,无食他食,脉风成为厉。管疽发厉,窍阴主之。头大浸淫,间使主之。瘃蛘欲呕,大陵主之。痂疥,阳谿主之。
黄帝问曰:愿尽闻痈疽之形与忌日名?
岐伯对曰:痈发于嗌中,名曰猛疽。不急治化为脓,脓不泻塞咽,半日死;其化为脓者,脓泻已,则合泵膏,冷食三日已。其状大而赤黑,不急治则热气下入渊腋,前伤任脉,内熏肝肺,熏则十余日死矣。阳气大发,消脑溜顶,名曰脑烁。其色不乐,脑项痛如刺以针,烦心者,死不治。
发于肩及臑,名曰疵疽,其状赤黑,急治之。此令人汗出至足,不害五脏,痈发四五日,逆焫之。
发于腋下,赤坚者,名曰米疽,治之以砭石,欲细而长,疎砭之,涂以豕膏,六日已,勿裹之。其痈坚而不溃者,为马刀挟瘿,以急治之。
发于胸,名曰井疽,其状如大豆,三四日起,不早治,下入腹,不治,七日死。
发于膺,名曰甘疽,色青。其状如谷实瓜萎,常苦寒热。急治之,去其寒热;不急治,十岁死,死后出脓。
痈发于胁,名曰败疵,此言女子之病也,灸之。其状大痈脓,其中乃有生肉大如赤小豆,治之以䔖翘草根及赤松子根谷一升,以水一斗六升,煮之令竭得三升,即强饮,厚衣坐于釜上,令汗至足已。
发于股胫(一作胻),名曰股胫疽,其状不甚变色,痈脓内薄于骨,急治之,不急治,四十日死。
发于尻,名曰锐疽,其状赤坚大,急治之,不治,三十日死。发于股阴,名曰赤驰。不治,六十日死;在两股之内,不治,十日死。
发于膝,名曰疵疽,其状大痈,色不变,寒热而坚者,勿石,石之者即死;须其色异柔,乃石之者生。
诸痈之发于节而相应者不可治,发于阳者,百日死,发于阴者四十日死。
发于胫,名曰兔啮,其状如赤豆至骨,急治之,不急治杀人。
发于内踝,名曰走缓。其状痈,色不变,数石其俞而止其寒热,不死。
发于足上下,名曰四淫。其状大痈,不急治之,百日死。
发于足傍,名曰厉痈。其状不大,初从小指发,急治去之,其状黑者不可消,辄益不治,百日死。
发于足指,名曰脱疽。其状赤黑者,死不治;不赤黑者不死。治之不衰,急斩去之,不去则死矣。
黄帝问曰:何为痈?
岐伯对曰:营气积留于经络之中,则血泣而不行,不行则卫生归之,归而不通,拥遏而不得行,故曰热。大热不止,热胜则肉腐,,肉腐则为脓。然不能陷肌肤于骨髓,骨髓不为焦枯,五脏不为伤,故名曰痈。
曰:何谓疽?
曰:热气纯盛,下陷肌肤筋髓骨肉,内连五脏,血气竭绝,其其痈下筋骨,良肉皆无余,故名曰疽。疽者,其上皮夭瘀以坚,状如牛领皮;痈者,其皮上薄而以泽,此其候也。
曰:有疽死者奈何?
曰:身有五部:伏菟一,腨(《灵枢》作腓)二,背三,五脏之俞四,项五。此五部有疽死也。
曰:身形应九野奈何?
曰:请言身形之应九野也。左手(一作足)应立春,其日戊寅己丑;左胸(一作胁)应春分,其日乙卯;左足应立夏,其日戊辰己巳;膺喉头首应夏至,其日丙午;右手应立秋,其日戊申己未;右胸(一作胁)应秋分,其日辛酉;右足应立冬,其日戊戍己亥;腰尻下窍应冬至,其日壬子;六府及鬲下三脏应中州,其日大禁,太乙所在之日,及诸戊己。凡此九者,善候八正所在之处,主左右上下身体有痈肿者,欲治之,无以其所直之日溃治之,是谓尺忌日也。
五子夜半五丑鸡鸣五寅平旦五卯日出五辰食时五巳中五午日㬂中五未日昳五申晡时五酉日久五戍黄昏五亥入定
以上此时得疾者皆不起。
❄️投稿编号1285
bot好,递八宝糖。
投一对有十年左右(然而很少人真心磕,粮也少)的老牌拉郎,名侦探柯南的本堂瑛佑和世良真纯同学,相当互补,是被作者无意间搞出来的硬币的两面。
经常被提到有共同的身份标签:都是神秘转学生,美国卧底特工家属,眼睛和哥哥姐姐很像,装糊涂黏在柯南旁边,性别错位,喜欢小兰(雾),但是其实还不止这样。比如,
本堂用直率掩饰内心弯弯绕绕,擅长心理方面的诱导,相反世良表面弯弯绕绕但本质直率,擅长行动方面的随机应变。
世良喜欢表现得酷一点,本堂乐于夸人和捧场。
本堂总是平地摔和磕磕碰碰,世良很擅长进行保护。
世良经常有意无意吊人胃口,但本堂接近的人都会因为各种原因进行自曝。
本堂家的人行动时总是先预期友军能开无双,唯独赤井一家的基础配置就是外挂。
赤井家的人投入感情过于认真却又有优先级,也只有本堂一家不会为了任何突发情况而迷茫。
正片里作为配角总是会被动失误,世良用专业的缜密推理却得出错误答案,本堂则是从误打误撞的地方得出正确方向的灵感。但他俩合璧能自组一组神探/特工主角。
就是说本来就很有王牌对王牌的感觉,在一起(也可指组队)之后能互补和双向带飞!但还是经常在对方弱势的方面耍点小心机什么的(明明根本没见过喂都是我妄想的好吧)活的久了说不定能在官方见到他们小时候甚至美国见过几面但因为把对方当同性所以没一见钟情的剧情!(黄梁大梦ing)
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