【わたし達はおとな】
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー(1)
理解し合えないまま生きること、を考える。
突如として訪れる関係性の破綻。あれだけ親密な時間があったのに、修復しようと努めたのに、一体どこで間違えたのか…。私たちの多くが思っている、「話し合えばわかりあえる」という考えは誤解なのかもしれません。
大学でデザインの勉強をする大学生と演劇サークルに所属する大学生の恋愛模様が描かれる映画『わたし達はおとな』(2022年6月10日公開)。どこにでもいる恋人たちの日常風景の中にある、コミュニケーションのすれ違いや、言っていることとやっていることのズレ、見えない本音など、少しずつ積み重なっていく二人の齟齬を、俯瞰した視点から描き出します。
今回主人公の優美を演じた木竜麻生さんと、優美と恋人関係のようになっていく直哉を演じた藤原季節さん、本作がオリジナル脚本による監督デビュー作となった加藤拓也監督に、映画を観た残るザラッとした違和感を出発点にお話を伺いました。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー
私たちの「日常」を覗き見すると、見えてくるもの
映画で描かれるのは、かつての自分にも思い当たるような、一見すると「何気ない大学生の日常風景」です。しかし、観終わったあと、「おもしろかった」で済ましていいのか迷ってしまいました。
藤原その感想、めちゃくちゃわかります。体感としては、109分が一瞬で過ぎ去っちゃうくらいおもしろいんですが、おもしろいでは片付けられないというか。「この作品をおもしろいって言ってるやつ、大丈夫?」ってなりますよね(笑)。だけどやっぱり、おもしろいっていう感想になってしまうんですけど…。
覗き見するように人間を客観視してみると、行動とか言葉とか突っかかるし、納得できないところがこんなにあるんだなって。その不思議さなんですかね。「恋愛も人間もおもしろいな」と思いました。
木竜人がいて、生活があって、映画の中の出来事を見つめられる映画ですよね。私は、自分が出ているのに、他人を見ているような感覚になったんです。これまで、そんなことはほとんどなかったので、驚きました。
撮影中はどんなお話をされていたんですか? 繊細なやりとりが交わされるシーンが多かったので、監督と話し合うことも多かったのでしょうか。
藤原くだらない話ばかりしてました。
加藤ここで思い出せないくらい、どうでもいい話しかしてないです。
木竜個々に「ここは話しておきたい」という場面はあったと思うんですけど、3人揃って真面目に話す、ということはなかったですね。
藤原核心には触れられないですよね。核心に触れちゃうと、「これです」って決まっちゃうじゃないですか。かっこいいこと言っちゃったな(笑)。
加藤わかんないけど僕が「このシーンは、こう」って外側のことを言い切ってしまうと、僕の代わりを演じることになってしまうじゃないですか。僕の役割は、あくまで役者が考えたり行動したりするきっかけを演出すること。
ある花を咲かせたいと思っていたとして、どれだけ水をあげて、太陽に当てて、どんな肥料を与えるかっていうことはするけれど、結果花の咲き方みたいなものは俳優次第。
藤原そうですね。一緒に中華料理食べに行ったりしたけど、会話の内容は一つも覚えてない。
木竜私もまったく覚えてないです。
加藤僕が、頼んだメニューの3/4くらい残したんですよ。それを、季節が全部食べてくれて。
木竜そうそう、加藤さんが全然食べきれなくて。
藤原僕は、加藤さんが残したものを食べることがよくあります。加藤さんが脚本・演出を務める「劇団た組」の公演には何度か出させてもらっているので、ご飯に行くことも多いんですけど、よく残すんですよ。そういう話を延々してました。
加藤木竜さんは、撮影中にどんどん痩せていきましたね。
木竜意識的にというより無意識に、どんどん役に入り込んでしまったんですよね。
大学生の優美は直哉と半同棲状態になるものの、突然別れを告げられるなど関係性は不明瞭なまま。そんな中で予期せぬ妊娠がわかり、優美はどんどん体調を崩していきます。その過程で、痩せてしまったんですね。
木竜ふたりは「食べな!」と言ってくれてたんですけど、お弁当も2、3口とかしか食べられなくて。これまでの現場で、一番痩せてしまいました。
加藤似顔絵を台本に描たりしました。10日目くらいかな、砂時計みたいな女の子を描きました。
木竜ふたりはよく一緒に作品を作っているから、やり方もわかっているし、本番に入っていくスイッチングもほぼ同時なんですよ。
藤原さんは、加藤監督主宰「劇団た組」の舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)『貴方なら生き残れるわ』(18)『誰にも知られず死ぬ朝』(20)『ぽに』(21)に出演されていて、加藤監督も「僕の現場や作品におけるトーン&マナーみたいなことを十分理解してくれている」とコメントされていました。
木竜ふたりは控え室でたくさん盛り上がっていたのに、急に本番モードになる。それを1週間毎日やられると情緒がおかしくなりそうで、ほんとにやめてほしくて。初めて監督という存在に言いました、「バーカ!」って(笑)。
でも、そういうことを正直に言えるくらい信頼していました。藤原さんも知っていたので、ふたりを信頼して、身を委ねて現場に立てたのは大きかったと思います。
正常と異常は両極端ではない。
重なり合ったり、近くに存在したり。
映画では何度もふたりでコミュニケーションを図るシーンが描かれているのに、演じているふたりもボロボロになるぐらい、ふたりの関係性が破綻していきます。おふたりは「わかりあうこと」について、どう思われますか? 役を演じる中で、考えられたことはありますか。
藤原映画の中のふたりは、自分たちでは「理解し合っている」と思っているんですよ。第三者的に見ている僕たちからしたら「全然、わかりあえていないな」って思うけれど。だけど、優実と直哉にもわかりあえないことも愛しい、もしかしたらわかりあえていたかもしれない幸せな時間があった、というのが大事なことなんだと思います。
わかりあえない方ばかりに目が行きがちですけど、ふたりがわかりあえない互いを理解して、心を通わせていた時間もたしかにあったので。幸せな時間も忘れちゃいけないなって思います。
木竜そうですね。それはきっと、いろんな人間関係があるからで。優実にも恋人以外に、友人、家族といった人間関係が描かれて、それぞれ気持ちや立ち振る舞いが違う。だけど、時々別のグループに別の私を持ち込んでしまうから、理解できないことが生まれるのかもしれないですよね。
藤原つまり、「わかりあうこと」について考えるきっかけになるということ?
木竜「わかりあえないこと」についても考えられる。両方の側面があるかな。
藤原監督はどうですか?
木竜どうですか?
加藤いや、「わかりあう/わかりあえない」ということではなくて大前提、他人のことは絶対にわからないですよね。その「わからない」ということを、理解しているかどうかが大事なのではないかと思います。
藤原他人のことはわからなくて、当然?
加藤わからないでしょう。
木竜たしかにこの映画は、「“理解し合えないまま生きていること”は大前提としてある」を考えるきっかけになりますよね。
お互いに本音をずっと言わないから、理解し合えないのではないかと考えていました。
木竜優実はあけすけに本音を話すような子ではなかったと思います。話す相手がどんな人で、どんな状態か、他人を探る女の子だと思いました。ただ、どんな人も、今話したことが「ほんとの本音か」わからないと思うので、優実みたいな人はいっぱいいますよね。
藤原直哉も、本音はほぼ話さない。自分が悪者にならないように、計算し尽くした本音を相手にぶつけるんです。一度相手の意見に同意して、それから自分の意見を言う。
木竜肯定しているようで、してないんだよね。
藤原そうそう。「仮にそうだったとして、でも〜」って、自分の意見をうまく通そうとするんですよ。
監督の作品のベースには「伝えたいことと言っていることとやっていることは違う」という考えがあると拝見しました。今作のように日常生活を覗き見すると、日常にあるズレが浮かび上がり、こんなにも「異常」があることを感じました。
藤原僕も加藤さんの作品を観ていると、普通の延長に異常があるなっていうのは思います。この前まで上演されていた舞台『もはやしずか』でも、成人男性が包丁を振り回すシーンがあったんですけど、明日は我が身だと思わされるような場面で。
そこだけ切り取れば異常なんだけど、普通の延長に異常とされる行動があるんだと思いました。あと、普段から僕自身が「行動が異常」って言われます。
加藤水を飲んでいたら、急に吐き出したりするんですよ。
藤原みんなが笑うから、楽しくて(笑)。木竜さんは言われますか?
木竜私は「異常」と言われたことはないですけど、正常と異常が両極端に位置しているわけじゃなくて、実は重なり合ったりものすごく近くに存在していたりするんだなってことは思います。監督の舞台を観ても、そう思いました。
加藤僕は異常だとも、普通だとも思ってないです。普通だとか異常だとかカテゴライズはしてないし、そう思うことはあまりないです。
今回の映画は、恋愛で、しかも望まない妊娠をした女性とその恋人という何度も描かれてきたテーマでした。そうしたものを書くときに、加藤監督として決めていたことはありますか?
加藤ラブストーリーという主題は依頼としてあったので、そこから僕が思う「ラブストーリー」を書いた感じです。決めていたことを聞かれると難しいですね。
藤原何度も描かれてきたテーマですけど、描かれているものは極めて個人的な気がします。正常も異常も、人によって価値観や視点が全然違いますから。
その違いを真摯に見つめて、一人の人間を描いた結果、他人から見ると異常に見えるのかもしれない。人によっては、普通に見えるかもしれない。普通に見える女子大生のお腹には子どもが宿っていて、そこに正常や異常では片付けられない感情があるってことですよね。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー(1)
理解し合えないまま生きること、を考える。
突如として訪れる関係性の破綻。あれだけ親密な時間があったのに、修復しようと努めたのに、一体どこで間違えたのか…。私たちの多くが思っている、「話し合えばわかりあえる」という考えは誤解なのかもしれません。
大学でデザインの勉強をする大学生と演劇サークルに所属する大学生の恋愛模様が描かれる映画『わたし達はおとな』(2022年6月10日公開)。どこにでもいる恋人たちの日常風景の中にある、コミュニケーションのすれ違いや、言っていることとやっていることのズレ、見えない本音など、少しずつ積み重なっていく二人の齟齬を、俯瞰した視点から描き出します。
今回主人公の優美を演じた木竜麻生さんと、優美と恋人関係のようになっていく直哉を演じた藤原季節さん、本作がオリジナル脚本による監督デビュー作となった加藤拓也監督に、映画を観た残るザラッとした違和感を出発点にお話を伺いました。
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 インタビュー
私たちの「日常」を覗き見すると、見えてくるもの
映画で描かれるのは、かつての自分にも思い当たるような、一見すると「何気ない大学生の日常風景」です。しかし、観終わったあと、「おもしろかった」で済ましていいのか迷ってしまいました。
藤原その感想、めちゃくちゃわかります。体感としては、109分が一瞬で過ぎ去っちゃうくらいおもしろいんですが、おもしろいでは片付けられないというか。「この作品をおもしろいって言ってるやつ、大丈夫?」ってなりますよね(笑)。だけどやっぱり、おもしろいっていう感想になってしまうんですけど…。
覗き見するように人間を客観視してみると、行動とか言葉とか突っかかるし、納得できないところがこんなにあるんだなって。その不思議さなんですかね。「恋愛も人間もおもしろいな」と思いました。
木竜人がいて、生活があって、映画の中の出来事を見つめられる映画ですよね。私は、自分が出ているのに、他人を見ているような感覚になったんです。これまで、そんなことはほとんどなかったので、驚きました。
撮影中はどんなお話をされていたんですか? 繊細なやりとりが交わされるシーンが多かったので、監督と話し合うことも多かったのでしょうか。
藤原くだらない話ばかりしてました。
加藤ここで思い出せないくらい、どうでもいい話しかしてないです。
木竜個々に「ここは話しておきたい」という場面はあったと思うんですけど、3人揃って真面目に話す、ということはなかったですね。
藤原核心には触れられないですよね。核心に触れちゃうと、「これです」って決まっちゃうじゃないですか。かっこいいこと言っちゃったな(笑)。
加藤わかんないけど僕が「このシーンは、こう」って外側のことを言い切ってしまうと、僕の代わりを演じることになってしまうじゃないですか。僕の役割は、あくまで役者が考えたり行動したりするきっかけを演出すること。
ある花を咲かせたいと思っていたとして、どれだけ水をあげて、太陽に当てて、どんな肥料を与えるかっていうことはするけれど、結果花の咲き方みたいなものは俳優次第。
藤原そうですね。一緒に中華料理食べに行ったりしたけど、会話の内容は一つも覚えてない。
木竜私もまったく覚えてないです。
加藤僕が、頼んだメニューの3/4くらい残したんですよ。それを、季節が全部食べてくれて。
木竜そうそう、加藤さんが全然食べきれなくて。
藤原僕は、加藤さんが残したものを食べることがよくあります。加藤さんが脚本・演出を務める「劇団た組」の公演には何度か出させてもらっているので、ご飯に行くことも多いんですけど、よく残すんですよ。そういう話を延々してました。
加藤木竜さんは、撮影中にどんどん痩せていきましたね。
木竜意識的にというより無意識に、どんどん役に入り込んでしまったんですよね。
大学生の優美は直哉と半同棲状態になるものの、突然別れを告げられるなど関係性は不明瞭なまま。そんな中で予期せぬ妊娠がわかり、優美はどんどん体調を崩していきます。その過程で、痩せてしまったんですね。
木竜ふたりは「食べな!」と言ってくれてたんですけど、お弁当も2、3口とかしか食べられなくて。これまでの現場で、一番痩せてしまいました。
加藤似顔絵を台本に描たりしました。10日目くらいかな、砂時計みたいな女の子を描きました。
木竜ふたりはよく一緒に作品を作っているから、やり方もわかっているし、本番に入っていくスイッチングもほぼ同時なんですよ。
藤原さんは、加藤監督主宰「劇団た組」の舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)『貴方なら生き残れるわ』(18)『誰にも知られず死ぬ朝』(20)『ぽに』(21)に出演されていて、加藤監督も「僕の現場や作品におけるトーン&マナーみたいなことを十分理解してくれている」とコメントされていました。
木竜ふたりは控え室でたくさん盛り上がっていたのに、急に本番モードになる。それを1週間毎日やられると情緒がおかしくなりそうで、ほんとにやめてほしくて。初めて監督という存在に言いました、「バーカ!」って(笑)。
でも、そういうことを正直に言えるくらい信頼していました。藤原さんも知っていたので、ふたりを信頼して、身を委ねて現場に立てたのは大きかったと思います。
正常と異常は両極端ではない。
重なり合ったり、近くに存在したり。
映画では何度もふたりでコミュニケーションを図るシーンが描かれているのに、演じているふたりもボロボロになるぐらい、ふたりの関係性が破綻していきます。おふたりは「わかりあうこと」について、どう思われますか? 役を演じる中で、考えられたことはありますか。
藤原映画の中のふたりは、自分たちでは「理解し合っている」と思っているんですよ。第三者的に見ている僕たちからしたら「全然、わかりあえていないな」って思うけれど。だけど、優実と直哉にもわかりあえないことも愛しい、もしかしたらわかりあえていたかもしれない幸せな時間があった、というのが大事なことなんだと思います。
わかりあえない方ばかりに目が行きがちですけど、ふたりがわかりあえない互いを理解して、心を通わせていた時間もたしかにあったので。幸せな時間も忘れちゃいけないなって思います。
木竜そうですね。それはきっと、いろんな人間関係があるからで。優実にも恋人以外に、友人、家族といった人間関係が描かれて、それぞれ気持ちや立ち振る舞いが違う。だけど、時々別のグループに別の私を持ち込んでしまうから、理解できないことが生まれるのかもしれないですよね。
藤原つまり、「わかりあうこと」について考えるきっかけになるということ?
木竜「わかりあえないこと」についても考えられる。両方の側面があるかな。
藤原監督はどうですか?
木竜どうですか?
加藤いや、「わかりあう/わかりあえない」ということではなくて大前提、他人のことは絶対にわからないですよね。その「わからない」ということを、理解しているかどうかが大事なのではないかと思います。
藤原他人のことはわからなくて、当然?
加藤わからないでしょう。
木竜たしかにこの映画は、「“理解し合えないまま生きていること”は大前提としてある」を考えるきっかけになりますよね。
お互いに本音をずっと言わないから、理解し合えないのではないかと考えていました。
木竜優実はあけすけに本音を話すような子ではなかったと思います。話す相手がどんな人で、どんな状態か、他人を探る女の子だと思いました。ただ、どんな人も、今話したことが「ほんとの本音か」わからないと思うので、優実みたいな人はいっぱいいますよね。
藤原直哉も、本音はほぼ話さない。自分が悪者にならないように、計算し尽くした本音を相手にぶつけるんです。一度相手の意見に同意して、それから自分の意見を言う。
木竜肯定しているようで、してないんだよね。
藤原そうそう。「仮にそうだったとして、でも〜」って、自分の意見をうまく通そうとするんですよ。
監督の作品のベースには「伝えたいことと言っていることとやっていることは違う」という考えがあると拝見しました。今作のように日常生活を覗き見すると、日常にあるズレが浮かび上がり、こんなにも「異常」があることを感じました。
藤原僕も加藤さんの作品を観ていると、普通の延長に異常があるなっていうのは思います。この前まで上演されていた舞台『もはやしずか』でも、成人男性が包丁を振り回すシーンがあったんですけど、明日は我が身だと思わされるような場面で。
そこだけ切り取れば異常なんだけど、普通の延長に異常とされる行動があるんだと思いました。あと、普段から僕自身が「行動が異常」って言われます。
加藤水を飲んでいたら、急に吐き出したりするんですよ。
藤原みんなが笑うから、楽しくて(笑)。木竜さんは言われますか?
木竜私は「異常」と言われたことはないですけど、正常と異常が両極端に位置しているわけじゃなくて、実は重なり合ったりものすごく近くに存在していたりするんだなってことは思います。監督の舞台を観ても、そう思いました。
加藤僕は異常だとも、普通だとも思ってないです。普通だとか異常だとかカテゴライズはしてないし、そう思うことはあまりないです。
今回の映画は、恋愛で、しかも望まない妊娠をした女性とその恋人という何度も描かれてきたテーマでした。そうしたものを書くときに、加藤監督として決めていたことはありますか?
加藤ラブストーリーという主題は依頼としてあったので、そこから僕が思う「ラブストーリー」を書いた感じです。決めていたことを聞かれると難しいですね。
藤原何度も描かれてきたテーマですけど、描かれているものは極めて個人的な気がします。正常も異常も、人によって価値観や視点が全然違いますから。
その違いを真摯に見つめて、一人の人間を描いた結果、他人から見ると異常に見えるのかもしれない。人によっては、普通に見えるかもしれない。普通に見える女子大生のお腹には子どもが宿っていて、そこに正常や異常では片付けられない感情があるってことですよね。
1、人生在世,无法预知未来。
2、菩萨不与法缚,不求法缚。
3、心静,才能听见自己的内心。
4、人生不懂反省,等于停止进步。
5、对人恭敬,就是在庄严你自己。
6、念离真,皆为妄想。佛经名言。
7、放开执念,随缘是最好的生活。
8、今日的执著,会造成明日的后悔。
9、佛本是心自作,哪得向文字中求。
10、尽其心知其性,知其性则知其天。
11、心态好的人,处处圆融,处处圆满。
12、悟心容易息心难,息得心缘到处闲。
13、愚人除事不除心,智者除心不除事。
14、智者任物不任己,愚人任己不任物。
15、本净明心非别处,惟在众生妄心中。
16、烦恼放下成菩提,心情转念即晴天。
17、若欲求佛但求心,只这心心心是佛。
18、一切无心无住着,世出世法莫不皆尔。
19、人之所以痛苦,在于追求错误的东西。
20、人生的真理,只是藏在平淡无味之中。
21、你希望掌握永恒,那你必须控制现在。
22、物随心转,境由心造,烦恼皆由心生。
23、不见一物名为见道,不行一物名为行道。
24、求趣无上菩提者,要净自心,福田方净。
25、不懂得自爱的人,是没有能力去爱别人的。
26、凡夫取境,道人取心,心境双忘乃是真法。
27、佛说,苦非苦,乐非乐,只是一时执念而已。
28、天上天下,唯我独尊,自观自在,守本真心。
29、念动急觉,觉之即无,久久收摄,自然心正。
30、不自重者取辱,不自足者博学,不自满者受益。
31、若不修内行,唯只外求,希望获福,无有是处。
32、默默的关怀与祝福别人,那是一种无形的布施。
33、一切法相,皆是假名,本来即非,盖生即无生也。
34、不以得为喜,不以失为忧,顺其自然,随遇而安。
35、你可以拥有爱,但不要执著,因为分离是必然的。
36、生命中那些得不到的、握不住的,都要学会放下。
37、白白的过一天,无所事事,就像犯了窃盗罪一样。
38、佛祖奚以异于人,而所以异于人者,能自护心念耳。
39、用伤害别人的手段来掩饰自己缺点的人,是可耻的。
40、若能自识本心,念念磨练;莫住者,即自见佛性也。
41、恰恰用心时,恰恰无心用,无心恰恰用,常用恰恰无。
42、永远不要浪费你的一分一秒,去想任何你不喜欢的人。
43、疾苦在身,宜善摄心,不为外境所摇,中心亦不起念。
44、菩提本无树,明镜亦非台,本来无一物,何处惹尘埃。
45、赤肉团上,人人古佛家风。毗卢顶门,处处祖师巴鼻。
46、当你对自己诚实的时候,世界上没有人能够欺骗得了你。
47、向外驰求,不知摄心返照回光,如是学佛,殊难得其实益。
48、根身器界一切镜相,皆是空花水月,迷著计较,徒增烦恼。
49、人生在世如身处荆棘之中,心不动,人不妄动,不动则不伤。
50、但能无心,便是究竟。若不直下无心,累劫修行,终不成道。
51、凡所有相皆是虚妄。虚妄者,言其是假非真,非谓绝对没有。
52、一切如来本起因底,皆依圆照清净觉相,永断无明,方成佛道。
53、不见他非我是,自然上敬下恭,佛法时时现前,烦恼尘尘解脱。
54、依无住本,立一切法无住之本本乎无住,若能彻住则万法一如。
55、修行要使妄相由多而少,由强而弱。定功由暂而久,由脆而坚。
56、来是偶然的,走是必然的。所以你必须,随缘不变,不变随缘。
57、笑看花开,是一种宁静的喜悦;静赏花落,是一份随缘的自在。
58、诸行是常,无有是处;汝但一切处无心,即无诸行,亦无无行。
59、道人非同善人,如鹤立鸡群,劲挺自持,不顺人情,超群脱俗。
60、所谓无上正等正觉者非他,即是真如本性,亦名自性清静心是也。
61、参须实参,见需实见,用须实用,证须实证,若纤毫不实即落虚也。
62、能常省察,则一句亦有余,不能省察,纵将一大藏经用完也无用处。
63、发菩提心者,非为己利,原为尽十方遍法界,一切极苦有情之所依怙。
64、不与万法为侣是什么人,回光自照看,待汝一口吸尽西江水,即向汝道。
65、做工夫不但不起凡情,亦不起圣解,所谓行起解绝,不令知解才绕心中。
66、学道犹如守禁城,昼防六贼夜惺惺,将军主帅能行令,不动干戈致太平。
67、你不要一直不满人家,你应该一直检讨自己才对。不满人家,是苦了你自己。
68、同样的瓶子,你为什么要装毒药呢?同样的心里,你为什么要充满着烦恼呢?
69、说话不要有攻击性,不要有杀伤力,不夸已能,不扬人恶,自然能化敌为友。
70、良心是每一个人最公正的审判官,你骗得了别人,却永远骗不了你自己的良心。
71、佛法无多子,长远心难得,学道如初心,作佛也有余,始终总不变,真是大丈夫。
72、如果你不给自己烦恼,别人也永远不可能给你烦恼。因为你自己的内心,你放不下。
73、当你快乐时,你要想这快乐不是永恒的。当你痛苦时,你要想这痛苦也不是永恒的。
74、狂妄的人有救,自卑的人没有救,认识自己,降伏自己,改变自己,才能改变别人。
75、要了解一个人,只需要看他的出发点与目的地是否相同,就可以知道他是否真心的。
76、不洗澡的人,硬擦香水是不会香的。名声与尊贵,是来自于真才实学的。有德自然香。
77、不离当处常湛然,亲切无过此语,觅则知君不可见,但于当处湛然,二边坐断使平稳。
78、不要刻意去猜测他人的想法,如果你没有智慧与经验的正确判断,通常都会有错误的。
79、你永远要宽恕众生,不论他有多坏,甚至他伤害过你,你一定要放下,才能得到真正的快乐。
80、根本不必回头去看咒骂你的人是谁?如果有一条疯狗咬你一口,难道你也要趴下去反咬他一口吗?
81、你有你的生命观,我有我的生命观,我不干涉你。只要我能,我就感化你。如果不能,那我就认命。
2、菩萨不与法缚,不求法缚。
3、心静,才能听见自己的内心。
4、人生不懂反省,等于停止进步。
5、对人恭敬,就是在庄严你自己。
6、念离真,皆为妄想。佛经名言。
7、放开执念,随缘是最好的生活。
8、今日的执著,会造成明日的后悔。
9、佛本是心自作,哪得向文字中求。
10、尽其心知其性,知其性则知其天。
11、心态好的人,处处圆融,处处圆满。
12、悟心容易息心难,息得心缘到处闲。
13、愚人除事不除心,智者除心不除事。
14、智者任物不任己,愚人任己不任物。
15、本净明心非别处,惟在众生妄心中。
16、烦恼放下成菩提,心情转念即晴天。
17、若欲求佛但求心,只这心心心是佛。
18、一切无心无住着,世出世法莫不皆尔。
19、人之所以痛苦,在于追求错误的东西。
20、人生的真理,只是藏在平淡无味之中。
21、你希望掌握永恒,那你必须控制现在。
22、物随心转,境由心造,烦恼皆由心生。
23、不见一物名为见道,不行一物名为行道。
24、求趣无上菩提者,要净自心,福田方净。
25、不懂得自爱的人,是没有能力去爱别人的。
26、凡夫取境,道人取心,心境双忘乃是真法。
27、佛说,苦非苦,乐非乐,只是一时执念而已。
28、天上天下,唯我独尊,自观自在,守本真心。
29、念动急觉,觉之即无,久久收摄,自然心正。
30、不自重者取辱,不自足者博学,不自满者受益。
31、若不修内行,唯只外求,希望获福,无有是处。
32、默默的关怀与祝福别人,那是一种无形的布施。
33、一切法相,皆是假名,本来即非,盖生即无生也。
34、不以得为喜,不以失为忧,顺其自然,随遇而安。
35、你可以拥有爱,但不要执著,因为分离是必然的。
36、生命中那些得不到的、握不住的,都要学会放下。
37、白白的过一天,无所事事,就像犯了窃盗罪一样。
38、佛祖奚以异于人,而所以异于人者,能自护心念耳。
39、用伤害别人的手段来掩饰自己缺点的人,是可耻的。
40、若能自识本心,念念磨练;莫住者,即自见佛性也。
41、恰恰用心时,恰恰无心用,无心恰恰用,常用恰恰无。
42、永远不要浪费你的一分一秒,去想任何你不喜欢的人。
43、疾苦在身,宜善摄心,不为外境所摇,中心亦不起念。
44、菩提本无树,明镜亦非台,本来无一物,何处惹尘埃。
45、赤肉团上,人人古佛家风。毗卢顶门,处处祖师巴鼻。
46、当你对自己诚实的时候,世界上没有人能够欺骗得了你。
47、向外驰求,不知摄心返照回光,如是学佛,殊难得其实益。
48、根身器界一切镜相,皆是空花水月,迷著计较,徒增烦恼。
49、人生在世如身处荆棘之中,心不动,人不妄动,不动则不伤。
50、但能无心,便是究竟。若不直下无心,累劫修行,终不成道。
51、凡所有相皆是虚妄。虚妄者,言其是假非真,非谓绝对没有。
52、一切如来本起因底,皆依圆照清净觉相,永断无明,方成佛道。
53、不见他非我是,自然上敬下恭,佛法时时现前,烦恼尘尘解脱。
54、依无住本,立一切法无住之本本乎无住,若能彻住则万法一如。
55、修行要使妄相由多而少,由强而弱。定功由暂而久,由脆而坚。
56、来是偶然的,走是必然的。所以你必须,随缘不变,不变随缘。
57、笑看花开,是一种宁静的喜悦;静赏花落,是一份随缘的自在。
58、诸行是常,无有是处;汝但一切处无心,即无诸行,亦无无行。
59、道人非同善人,如鹤立鸡群,劲挺自持,不顺人情,超群脱俗。
60、所谓无上正等正觉者非他,即是真如本性,亦名自性清静心是也。
61、参须实参,见需实见,用须实用,证须实证,若纤毫不实即落虚也。
62、能常省察,则一句亦有余,不能省察,纵将一大藏经用完也无用处。
63、发菩提心者,非为己利,原为尽十方遍法界,一切极苦有情之所依怙。
64、不与万法为侣是什么人,回光自照看,待汝一口吸尽西江水,即向汝道。
65、做工夫不但不起凡情,亦不起圣解,所谓行起解绝,不令知解才绕心中。
66、学道犹如守禁城,昼防六贼夜惺惺,将军主帅能行令,不动干戈致太平。
67、你不要一直不满人家,你应该一直检讨自己才对。不满人家,是苦了你自己。
68、同样的瓶子,你为什么要装毒药呢?同样的心里,你为什么要充满着烦恼呢?
69、说话不要有攻击性,不要有杀伤力,不夸已能,不扬人恶,自然能化敌为友。
70、良心是每一个人最公正的审判官,你骗得了别人,却永远骗不了你自己的良心。
71、佛法无多子,长远心难得,学道如初心,作佛也有余,始终总不变,真是大丈夫。
72、如果你不给自己烦恼,别人也永远不可能给你烦恼。因为你自己的内心,你放不下。
73、当你快乐时,你要想这快乐不是永恒的。当你痛苦时,你要想这痛苦也不是永恒的。
74、狂妄的人有救,自卑的人没有救,认识自己,降伏自己,改变自己,才能改变别人。
75、要了解一个人,只需要看他的出发点与目的地是否相同,就可以知道他是否真心的。
76、不洗澡的人,硬擦香水是不会香的。名声与尊贵,是来自于真才实学的。有德自然香。
77、不离当处常湛然,亲切无过此语,觅则知君不可见,但于当处湛然,二边坐断使平稳。
78、不要刻意去猜测他人的想法,如果你没有智慧与经验的正确判断,通常都会有错误的。
79、你永远要宽恕众生,不论他有多坏,甚至他伤害过你,你一定要放下,才能得到真正的快乐。
80、根本不必回头去看咒骂你的人是谁?如果有一条疯狗咬你一口,难道你也要趴下去反咬他一口吗?
81、你有你的生命观,我有我的生命观,我不干涉你。只要我能,我就感化你。如果不能,那我就认命。
【印光文钞】
6.与四明观宗寺根祺师书
(译文来自——印光法师文钞白话公众号)感谢
【原文】
接手书,并显感利冥录,不胜欢喜。知谛公此番讲经,比前次更觉光辉。因逐一看毕,即送余人。多有见闻,深为诧异。私相谓曰,谛公已证圣果,关帝尚未明心。光闻而谓之曰,此事须从白关用心处究,则事理两当,绝无滥圣屈贤之失。白公且置弗论。
【译文】
接到你的信,以及《显感利冥录》这本书,非常欢喜。知道谛闲法师这一次讲经,比上一次更加殊胜。因此将这本书一一看完,随即就送给了其他人。有许多看过这本书的人,都很诧异。私底下互相说:谛闲法师已经证得了圣果,而关圣帝君还没有明了心地。我听到后对他们说:这件事必须从城隍爷白知、护法神关帝二位的用心之处来推究,那么就事理两方面都恰当,绝对没有混滥圣人,委屈贤者的过失了。城隍爷白知暂且不说。
【原文】
夫关帝者,在生时乃富贵不淫,贫贱不移,威武不屈之大丈夫。殁后皈依智者,愿为伽蓝,护持佛法。自智者至今千三百余年。天下丛林之主人,多有法身大士,乘愿宏法者。关帝一一护持亲近,岂至于今,尚有未了,而求抉择开示于谛公。何聪明如帝君,而复愚钝不蒙法益之如是乎。
【译文】
关帝,在生之时就是一个富贵不淫,贫贱不移,威武不屈的大丈夫。死后皈依智者大师,愿意为伽蓝神,来护持佛法。从智者大师到现在有一千三百多年了。天下丛林的住持,有很多是证得法身的大士,乘愿再来,宏扬佛法。关帝都一一护持亲近他们,哪至于到了今天,还有未了的疑问,而求谛闲法师给他决择开示的呢?怎么可能聪明如帝君,而又如此愚钝不能蒙受佛法的利益呢?
【原文】
是大有说。现今时值末法,僧多败类。只知著一件大领,即名为僧。僧之名义事业,多多了无所知。在俗之人有信心者,纵能研究佛法,终皆下视僧侣。其不信者,见彼游行人间,造种种业之僧,遂谓僧皆如是,佛法无益于国,有害于世。
【译文】
这当中是大有说头的。现在正值末法时代,出家僧人大多腐败堕落。只知道穿着一件大领僧衣,就名为僧人。僧的名称意义事业,大多一无所知。世俗有信心的人,纵然能够研究佛法,但终究都轻视出家的僧侣。而不信佛法的人,见到游行人间,造种种罪业的僧人,就认为僧人都是如此,佛法无益于国家,有害于社会。
【原文】
因有此种我慢邪见下劣等知见故,关帝护法心切。以京师乃天下枢机之地,高人名士,咸来莅止。遂现身说法,请谛公之开示。祛彼在家我慢邪见之凡情,振兴劣僧无惭无愧之鄙念。
【译文】
因为有这种我慢、邪见、下劣等知见的缘故,而关帝又护法心切。因为北京是中央政府所在地,社会精英,知名人士,都来到这里。于是关公就现身说法,请谛闲老法师开示,以去除那些在家人我慢邪见的凡情,振兴下劣僧人无惭无愧的不善念。
【原文】
古人称如来不舍穿针之福,曰如八十翁翁作舞,为教儿孙故。光于关帝此举亦然。此虽系盲猜瞎断,若质诸关帝谛公,当皆点头微笑,不露否否不然之声迹矣。
【译文】
龙树菩萨的《大智度论》中,称如来不舍弃为比丘穿针的福报,就如同八十的老翁起舞,是为了教导儿孙的缘故。我对于关帝的这个举动,认为也是这个道理。这虽然是盲猜瞎断,如果去质问关帝、谛闲老法师,他们应当都会点头微笑,不会露出“不是、不是”的声音啊!
【原文】
如上所说,且约迹论。至于关帝谛公之本,唯关帝谛公自知,光何能测度而评论之哉。根敏道心虽切,恐规矩不洞,不解用功法则。祈教以量力而为,不可强勉硬撑,以致心身受病,遂难亲获法利矣。
【译文】
如上面所说,是暂且针对“迹”来说的。至于关帝、谛闲老法师的“本”,唯有关帝、谛公自己知道,我怎能测度评论呢?根敏师的道心虽然迫切,恐怕不懂规矩,不了解修行用功的法则。祈望你教他要量力而为,不可强勉硬撑,以致身心受病,就难以亲身得到佛法利益了。
【原文】
闻某某不善用心,致吐血不止,因而反成废弛。初学人皆须以此意告之。
【译文】
听说某某人不善用心,导致吐血不止,因此反而成了荒废懈怠。初学佛法的人都必须将这个意思告诉他们。
【注释】
[1]【四明观宗寺】四明指浙江宁波,宁波有四明山。民国纪元,谛闲法师最后住持于宁波观宗寺。寺为宋延庆寺观堂旧址,元丰中,四明五世孙介然法师,按照观无量寿佛经,建十六观堂,以修观行,故名观宗。自宋迄清,兴废靡常。自师任住持,遵四明遗法,以三观为宗,说法为用,改称观宗讲寺。
[2]【显感利冥录】《显感利冥录》,是冥界的白城隍和关帝公与谛闲法师的对话。在倓虚法师的《影尘回忆录》中也有记载。谛闲法师和倓虚法师都是民国时期的大德高僧,所以其真实性毋庸置疑。文章又是由冥界的众生亲自述说,所以,实在是我们了解冥界最可靠,又稀有难得的第一手资料。
这是一件与印光大师同时代的公案,民国七年(1918),谛闲大师在北平讲经(以下接录倓虚大师《影尘回忆录》)“那时正赶上北京的乩坛很盛,有一位姓白的白城隍,在西城琉璃胡同钱宅降坛,自言每天到法会去听经,其中有听不懂的地方,拟请谛老亲自到坛上问一问、谈一谈。起初谛老去不去还在犹豫,若以我(倓虚法师自称)的意见,那都是外道门,可以不去。但仁山法师以好奇的心理,无论如何,要怂恿谛老去,我在谛老跟前得算资格浅的人,戒莲更不用提,最后也没拦挡住,谛老就去了。到那里在乩坛里用乩笔与谛老谈话,非常客气,一见面把谛老赞扬了一顿,并自称每天晚上率领许多鬼魂去听经,维护道场,其中已有许多鬼魂闻经听法,受到度化。后来又陈述他部下那些业障重的饿鬼之苦,问教济之法。谛老说:每年七月十五日观宗寺办盂兰法会,晚上放焰口,用观想力量,救拔一切饿鬼,不知能远及北方否?白城隍听到这话很欢喜,很感谢:说是谛老的观想力量很相应,一定能达到。白城隍临坛讲话之后,不一会儿,关圣帝君又临坛。因为他的神力大,恐怕扶乩的人撑不住,说话时候,让白城隍从中传达。他也很客气,称谛老为先进,谛老不敢当,也称他为先进。彼此客气的谈了一会话,随又谈到他在玉泉山显圣,和他显神通修庙的事。末了关圣帝君还对谛老说:以后不论在何处讲经办道场,都要去拥护。不一会儿周(仓)将军也临坛,他开首就问:我自东吴遇难之后,每过七天,身上就痛苦一次,能不能想一个好的法子,把我这痛苦来解除?谛老答复他的意思大概是说:这是由妄想而成,若能以定的工夫,把妄想涤除;再能常发惭愧心,发忏悔心,把自己的宿业完全忏净,这样痛苦自然会消灭了。说完这话,还与他受戒说法。徐蔚如居士把这事记成一本《显感利冥录》。”
印光法师文钞白话公众号
【注释】
[3]【白关】白:指当时临坛与谛公对话的北京都城隍白知。关:三国蜀将关羽,死后被尊为武圣。归依智者大师,成为佛教护法神。现在寺院的伽蓝菩萨一般都是指关公。
[4]【法身菩萨】又云法身大士。断一分无明而显现一分法性之菩萨也。初地以上之菩萨是也。若依台家四教之位次,则初住以上方名法身菩萨。智度论三十八曰:“法身菩萨断结使得六神通,生身菩萨不断结使,或离欲得五神通。”
[5]【如来不舍穿针之福】阿那律于听佛说法时睡眠,被佛呵责,乃发愤不睡,致目失明。于缝衣时,而作是念:“谁欲求福,与我穿针!”佛以天耳遥闻,即至阿那律前,而告之曰:“你持针来,吾与贯之。”那律白佛:“我谓世间欲求福者;世尊已得无上正觉,福慧已足,何犹求福?”佛言:“世间求福之人,无复过我!如来于六法无有厌足,谓:施、教诫、忍、法说义说、将护众生、求无上道。”(见增一阿含经卷三十一)
[6]【八十翁翁作舞】《大智度论》卷十:“如伎家百岁老翁而舞。有人呵之言。老翁年已百岁何用是舞。翁答。我不须舞。但欲教子孙故耳。佛亦如是。功德虽满。为教弟子作功德故。”
[7]【本迹二门】本门与迹门并称。又云本地垂迹,略云本迹。本谓久成之本地;迹谓近成之垂迹。即指实体与影现!本门,谓如来于久远往昔即已成道(久远实成之本佛),以显示佛陀之本地、根源、本体说,故谓实体;迹门,指新近示现之佛陀(伽耶始成),以显示本佛为教化众生,而自本地应化垂迹之说,故谓应迹、影现。
6.与四明观宗寺根祺师书
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接手书,并显感利冥录,不胜欢喜。知谛公此番讲经,比前次更觉光辉。因逐一看毕,即送余人。多有见闻,深为诧异。私相谓曰,谛公已证圣果,关帝尚未明心。光闻而谓之曰,此事须从白关用心处究,则事理两当,绝无滥圣屈贤之失。白公且置弗论。
【译文】
接到你的信,以及《显感利冥录》这本书,非常欢喜。知道谛闲法师这一次讲经,比上一次更加殊胜。因此将这本书一一看完,随即就送给了其他人。有许多看过这本书的人,都很诧异。私底下互相说:谛闲法师已经证得了圣果,而关圣帝君还没有明了心地。我听到后对他们说:这件事必须从城隍爷白知、护法神关帝二位的用心之处来推究,那么就事理两方面都恰当,绝对没有混滥圣人,委屈贤者的过失了。城隍爷白知暂且不说。
【原文】
夫关帝者,在生时乃富贵不淫,贫贱不移,威武不屈之大丈夫。殁后皈依智者,愿为伽蓝,护持佛法。自智者至今千三百余年。天下丛林之主人,多有法身大士,乘愿宏法者。关帝一一护持亲近,岂至于今,尚有未了,而求抉择开示于谛公。何聪明如帝君,而复愚钝不蒙法益之如是乎。
【译文】
关帝,在生之时就是一个富贵不淫,贫贱不移,威武不屈的大丈夫。死后皈依智者大师,愿意为伽蓝神,来护持佛法。从智者大师到现在有一千三百多年了。天下丛林的住持,有很多是证得法身的大士,乘愿再来,宏扬佛法。关帝都一一护持亲近他们,哪至于到了今天,还有未了的疑问,而求谛闲法师给他决择开示的呢?怎么可能聪明如帝君,而又如此愚钝不能蒙受佛法的利益呢?
【原文】
是大有说。现今时值末法,僧多败类。只知著一件大领,即名为僧。僧之名义事业,多多了无所知。在俗之人有信心者,纵能研究佛法,终皆下视僧侣。其不信者,见彼游行人间,造种种业之僧,遂谓僧皆如是,佛法无益于国,有害于世。
【译文】
这当中是大有说头的。现在正值末法时代,出家僧人大多腐败堕落。只知道穿着一件大领僧衣,就名为僧人。僧的名称意义事业,大多一无所知。世俗有信心的人,纵然能够研究佛法,但终究都轻视出家的僧侣。而不信佛法的人,见到游行人间,造种种罪业的僧人,就认为僧人都是如此,佛法无益于国家,有害于社会。
【原文】
因有此种我慢邪见下劣等知见故,关帝护法心切。以京师乃天下枢机之地,高人名士,咸来莅止。遂现身说法,请谛公之开示。祛彼在家我慢邪见之凡情,振兴劣僧无惭无愧之鄙念。
【译文】
因为有这种我慢、邪见、下劣等知见的缘故,而关帝又护法心切。因为北京是中央政府所在地,社会精英,知名人士,都来到这里。于是关公就现身说法,请谛闲老法师开示,以去除那些在家人我慢邪见的凡情,振兴下劣僧人无惭无愧的不善念。
【原文】
古人称如来不舍穿针之福,曰如八十翁翁作舞,为教儿孙故。光于关帝此举亦然。此虽系盲猜瞎断,若质诸关帝谛公,当皆点头微笑,不露否否不然之声迹矣。
【译文】
龙树菩萨的《大智度论》中,称如来不舍弃为比丘穿针的福报,就如同八十的老翁起舞,是为了教导儿孙的缘故。我对于关帝的这个举动,认为也是这个道理。这虽然是盲猜瞎断,如果去质问关帝、谛闲老法师,他们应当都会点头微笑,不会露出“不是、不是”的声音啊!
【原文】
如上所说,且约迹论。至于关帝谛公之本,唯关帝谛公自知,光何能测度而评论之哉。根敏道心虽切,恐规矩不洞,不解用功法则。祈教以量力而为,不可强勉硬撑,以致心身受病,遂难亲获法利矣。
【译文】
如上面所说,是暂且针对“迹”来说的。至于关帝、谛闲老法师的“本”,唯有关帝、谛公自己知道,我怎能测度评论呢?根敏师的道心虽然迫切,恐怕不懂规矩,不了解修行用功的法则。祈望你教他要量力而为,不可强勉硬撑,以致身心受病,就难以亲身得到佛法利益了。
【原文】
闻某某不善用心,致吐血不止,因而反成废弛。初学人皆须以此意告之。
【译文】
听说某某人不善用心,导致吐血不止,因此反而成了荒废懈怠。初学佛法的人都必须将这个意思告诉他们。
【注释】
[1]【四明观宗寺】四明指浙江宁波,宁波有四明山。民国纪元,谛闲法师最后住持于宁波观宗寺。寺为宋延庆寺观堂旧址,元丰中,四明五世孙介然法师,按照观无量寿佛经,建十六观堂,以修观行,故名观宗。自宋迄清,兴废靡常。自师任住持,遵四明遗法,以三观为宗,说法为用,改称观宗讲寺。
[2]【显感利冥录】《显感利冥录》,是冥界的白城隍和关帝公与谛闲法师的对话。在倓虚法师的《影尘回忆录》中也有记载。谛闲法师和倓虚法师都是民国时期的大德高僧,所以其真实性毋庸置疑。文章又是由冥界的众生亲自述说,所以,实在是我们了解冥界最可靠,又稀有难得的第一手资料。
这是一件与印光大师同时代的公案,民国七年(1918),谛闲大师在北平讲经(以下接录倓虚大师《影尘回忆录》)“那时正赶上北京的乩坛很盛,有一位姓白的白城隍,在西城琉璃胡同钱宅降坛,自言每天到法会去听经,其中有听不懂的地方,拟请谛老亲自到坛上问一问、谈一谈。起初谛老去不去还在犹豫,若以我(倓虚法师自称)的意见,那都是外道门,可以不去。但仁山法师以好奇的心理,无论如何,要怂恿谛老去,我在谛老跟前得算资格浅的人,戒莲更不用提,最后也没拦挡住,谛老就去了。到那里在乩坛里用乩笔与谛老谈话,非常客气,一见面把谛老赞扬了一顿,并自称每天晚上率领许多鬼魂去听经,维护道场,其中已有许多鬼魂闻经听法,受到度化。后来又陈述他部下那些业障重的饿鬼之苦,问教济之法。谛老说:每年七月十五日观宗寺办盂兰法会,晚上放焰口,用观想力量,救拔一切饿鬼,不知能远及北方否?白城隍听到这话很欢喜,很感谢:说是谛老的观想力量很相应,一定能达到。白城隍临坛讲话之后,不一会儿,关圣帝君又临坛。因为他的神力大,恐怕扶乩的人撑不住,说话时候,让白城隍从中传达。他也很客气,称谛老为先进,谛老不敢当,也称他为先进。彼此客气的谈了一会话,随又谈到他在玉泉山显圣,和他显神通修庙的事。末了关圣帝君还对谛老说:以后不论在何处讲经办道场,都要去拥护。不一会儿周(仓)将军也临坛,他开首就问:我自东吴遇难之后,每过七天,身上就痛苦一次,能不能想一个好的法子,把我这痛苦来解除?谛老答复他的意思大概是说:这是由妄想而成,若能以定的工夫,把妄想涤除;再能常发惭愧心,发忏悔心,把自己的宿业完全忏净,这样痛苦自然会消灭了。说完这话,还与他受戒说法。徐蔚如居士把这事记成一本《显感利冥录》。”
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【注释】
[3]【白关】白:指当时临坛与谛公对话的北京都城隍白知。关:三国蜀将关羽,死后被尊为武圣。归依智者大师,成为佛教护法神。现在寺院的伽蓝菩萨一般都是指关公。
[4]【法身菩萨】又云法身大士。断一分无明而显现一分法性之菩萨也。初地以上之菩萨是也。若依台家四教之位次,则初住以上方名法身菩萨。智度论三十八曰:“法身菩萨断结使得六神通,生身菩萨不断结使,或离欲得五神通。”
[5]【如来不舍穿针之福】阿那律于听佛说法时睡眠,被佛呵责,乃发愤不睡,致目失明。于缝衣时,而作是念:“谁欲求福,与我穿针!”佛以天耳遥闻,即至阿那律前,而告之曰:“你持针来,吾与贯之。”那律白佛:“我谓世间欲求福者;世尊已得无上正觉,福慧已足,何犹求福?”佛言:“世间求福之人,无复过我!如来于六法无有厌足,谓:施、教诫、忍、法说义说、将护众生、求无上道。”(见增一阿含经卷三十一)
[6]【八十翁翁作舞】《大智度论》卷十:“如伎家百岁老翁而舞。有人呵之言。老翁年已百岁何用是舞。翁答。我不须舞。但欲教子孙故耳。佛亦如是。功德虽满。为教弟子作功德故。”
[7]【本迹二门】本门与迹门并称。又云本地垂迹,略云本迹。本谓久成之本地;迹谓近成之垂迹。即指实体与影现!本门,谓如来于久远往昔即已成道(久远实成之本佛),以显示佛陀之本地、根源、本体说,故谓实体;迹门,指新近示现之佛陀(伽耶始成),以显示本佛为教化众生,而自本地应化垂迹之说,故谓应迹、影现。
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