敬请常念 南无阿弥陀佛
人苦日在烦恼中,尚不知是烦恼;若知是烦恼,则烦恼便消灭矣。(心本是佛。由烦恼未除,枉作众生。但能使烦恼消灭,本具佛性,自然显现。见正编复袁闻纯书。)譬如窃贼,认做家人,则所有家财,悉被彼窃;若知是贼,彼即逃去。金不炼不纯,刀不磨不利。不于烦恼中经历过,一遇烦恼之境,便令心神失所。能识得彼无什势力,其发生劳扰心神者,皆吾自取。经云:若知我空,谁受谤者?今例之云:若知无我,烦恼何生?古云:万境本闲,唯心自闹;心若不生,境自如如。——《印光法师文钞》• 复陈飞青书
人苦日在烦恼中,尚不知是烦恼;若知是烦恼,则烦恼便消灭矣。(心本是佛。由烦恼未除,枉作众生。但能使烦恼消灭,本具佛性,自然显现。见正编复袁闻纯书。)譬如窃贼,认做家人,则所有家财,悉被彼窃;若知是贼,彼即逃去。金不炼不纯,刀不磨不利。不于烦恼中经历过,一遇烦恼之境,便令心神失所。能识得彼无什势力,其发生劳扰心神者,皆吾自取。经云:若知我空,谁受谤者?今例之云:若知无我,烦恼何生?古云:万境本闲,唯心自闹;心若不生,境自如如。——《印光法师文钞》• 复陈飞青书
《類經》
【類經三卷】
藏象类(六)
天年常度(《灵枢.天年篇》全O十四)
黄帝问于岐伯曰:原闻人之始生,何气筑为基?何立而为楯?何失而死?何得而生?(基,扯也。楯,材具也。O楯音巡。)
岐伯曰:以母为基,以父为楯,失神者死,得神者生也。(人之生也,合父母之精而有其身。父得乾之阳,母得坤之阴,阳一而施,阴两而承,故以母为基,以父为楯。譬之稼穑者,必得其地,乃施以种。种劣地优,肖由乎父;种优地劣变成乎母;地种皆得而阴阳央序者,虽育无成也。故三者相合,而象变斯无穷矣。夫地者基也,种者楯也,阴阳精气神也,知乎此则知人生之所以然矣。)
黄帝曰:何者为神?岐伯曰:血气已和,营卫已通,五脏已成,神气舍心,魂魄毕具,乃成为人。(神者,阴阳合德之灵也。二气合而生人,则血气营卫五脏,以次相成,神明从而见矣。惟是神之为义有二:分言之,则阳神为魂,阴神曰魄,以及意志思虑之类皆神也。合言之,则神藏于心,而凡情志之属,惟心所统,是为吾身之全神也。夫精全则气全,气全则神全,未有形气衰而神能旺者,亦未有神既散而形独存者,故曰失神者死,得神者生,至于魂魄之义,如前《本神篇》曰:随神往来谓之魂,并精而出入者谓之魄。及诸家得理之论,再附于下,以详其义。O唐.孔氏曰:人之生也,始变化为形,形之灵曰魄,魄内自有阳气,气之神之名,初生时耳目心识手足运动,此魄之灵也;又其精神性识渐有知觉,此则气之神也。O乐祁曰:心之精爽是谓魂魄,魄属形体,魂属精神。精又是魄,魄是精之神;神又是魂,魂是气之神。O邵子曰:气形盛则魂魄盛,气形衰则魂魄亦从而哀。魂随气而变,魄随形而化,故形存则魄存,形化则魄散。O朱子曰:魂神而魄灵,魂阳而魄阴,魂动而魄静。生则魂载于魄,而魄检其魂;死则魂游散而归于天,魄沦坠而归于地。运用动作底是魂,不运用动作底是魄。魄盛则耳目聪明,能记忆,老人目昏耳瞆记事不得者,魄衰也。又日:人生则魂魄相交,死则各相离去。月之黑晕是魄,其光是魂,魂是魄之光焰,魄是魂之根柢。火是魂,镜是魄,灯有光焰,物来使烧,镜虽照见,却在里面。火日外景,金水内景,火日是魂,金水是魄,阴主藏受,故魄能记忆在内;阳主运用,故魂能发用出来。二物本不相离,精聚则魄聚,气聚则魂聚,是为人物之体;至于精竭魄降,则气散魂游而无所知矣。)
黄帝曰:人之寿夭各不同,或夭寿,或卒死,或病久,愿闻其道。
岐伯曰:五脏坚固,血脉和调,肌肉解利,皮肤致密,营卫之行,不央其常,呼吸微徐,气以度行,六腑化谷,津液布扬,各如其常,故能长久。(坚固者不易损,和调者不易乱,解利者无可留滞,致密者可免中伤。营卫之行不失其常者,经脉和也。呼吸微徐气以度行者,三焦治也。六腑化谷,津液布扬,则脏腑和平精神充畅,故能长久而多寿也。)
黄帝曰:人之寿百岁而死,何以致之?岐伯曰:使道隧以长,基墙高以方,通调营卫,三部三里起,骨高肉满,百岁乃得终。(《礼记》:百岁谓之期颐。使道,指七窍而言,谓五脏所使之道路,如肺气通于鼻,肝气通于目,心气通于舌,肾气通于耳,是即五宫之道路也。隧,深邃貌。基墙,指面部而言。骨胳为基,蕃蔽为墙,义见脉色类三十一、二等篇。凡营卫部里及骨高肉满若此者,邵致寿之道,故得百岁而终。)
黄帝曰:其气之盛衰,以至其死,可得闻乎?
岐伯曰:人生十岁,五脏始定,血气已通,其气在下,故好走。(天地之气,阳主乎升,升则向生;阴尘乎降,降则向死。故幼牟之气在下者,亦自下而升也。)二十岁,血气始盛,肌肉方长,故好趋。三十岁,五脏大定,肌肉坚固,血脉盛满,故好步。(盛满则不轻捷,故好步矣。)四十岁,五脏六腑十二经脉,皆大盛以平定,腠理始疏,荣华颓落,发颇斑白,平盛不摇,故好坐。(天地消长之道,物极必变,盛极必衰,日中则昃,月盈则亏,人当四十,阴气已半,故发颇斑白而平盛不摇好怜者,衰之渐也。)五十岁,肝气始衰,肝叶始薄,胆汁治减,目始不明。六十岁,心气始衰,苦忧悲,血气懈惰,故好卧。七十岁,脾气虚,皮肤枯。八十岁,肺气衰,魄离,故言善误。九十岁,肾气焦,四脏经脉空虚。百岁,五脏皆虚,神气皆去,形骸独居而终矣。(魄离者,形体衰败也。肾气焦者,真阴亏竭也。此与前篇《上古天真论》女尽七七男尽八八互相发明。彼从七八言者,言阴阳之限数;此以十言者,言人生之全数。然则人之气数,固有定期;而长短不齐者,有出于禀受,有因于人为。故惟智者不以人欲害其天真,以自然之道养自熊之寿,而善终其天年,此圣智之所同也。今之人非惟不能守其所有,而且欲出尘逃数,解脱飞升,因人惑己,因己惑人,是焉知无则无极,有则有尽,而固窃窃然自以为觉也亦甚矣。)
黄帝曰:其不能终寿而死者,何如!(谓不及天数而殁者也。)岐伯曰:其五脏皆不坚,使道不长,(使道如上文。不长,短促也。)空外以张,(九窍张露也。)喘息暴疾,(喘息者气促,暴疾者易伤,皆非延寿之征也。)又卑基墙,薄脉少血,其肉不石,(石,坚也。)数中风寒,血气虚,脉不通,真邪相攻,乱而相引,(数中风寒,表易犯也。血气虚,中不足也。脉不道,经络多滞也。故致真邪易于相坟。然正本拒邪,正气不足,邪友随之而入,故曰相引。O数音朔。)故中寿而尽也。(凡此形体血气,既已异于上寿,则其中寿而尽,固有所由,此先天之禀受然也。夫人生器局,既禀于有生之初,则其一定之数,似不可以人力强者。笫禀得其全而养合道,必将更寿;禀央其全而养复违和,能无更夭。故知之者下可以希中,中可以希上;不知者上仅得其次,次仅得其下矣。所谓天定则能性人,人定亦能牲天也。夫禀受者,先天也,修养者,先天也,修养者,后天也,先尺责在父母,后天责在吾心。)待述……!
【類經三卷】
藏象类(六)
天年常度(《灵枢.天年篇》全O十四)
黄帝问于岐伯曰:原闻人之始生,何气筑为基?何立而为楯?何失而死?何得而生?(基,扯也。楯,材具也。O楯音巡。)
岐伯曰:以母为基,以父为楯,失神者死,得神者生也。(人之生也,合父母之精而有其身。父得乾之阳,母得坤之阴,阳一而施,阴两而承,故以母为基,以父为楯。譬之稼穑者,必得其地,乃施以种。种劣地优,肖由乎父;种优地劣变成乎母;地种皆得而阴阳央序者,虽育无成也。故三者相合,而象变斯无穷矣。夫地者基也,种者楯也,阴阳精气神也,知乎此则知人生之所以然矣。)
黄帝曰:何者为神?岐伯曰:血气已和,营卫已通,五脏已成,神气舍心,魂魄毕具,乃成为人。(神者,阴阳合德之灵也。二气合而生人,则血气营卫五脏,以次相成,神明从而见矣。惟是神之为义有二:分言之,则阳神为魂,阴神曰魄,以及意志思虑之类皆神也。合言之,则神藏于心,而凡情志之属,惟心所统,是为吾身之全神也。夫精全则气全,气全则神全,未有形气衰而神能旺者,亦未有神既散而形独存者,故曰失神者死,得神者生,至于魂魄之义,如前《本神篇》曰:随神往来谓之魂,并精而出入者谓之魄。及诸家得理之论,再附于下,以详其义。O唐.孔氏曰:人之生也,始变化为形,形之灵曰魄,魄内自有阳气,气之神之名,初生时耳目心识手足运动,此魄之灵也;又其精神性识渐有知觉,此则气之神也。O乐祁曰:心之精爽是谓魂魄,魄属形体,魂属精神。精又是魄,魄是精之神;神又是魂,魂是气之神。O邵子曰:气形盛则魂魄盛,气形衰则魂魄亦从而哀。魂随气而变,魄随形而化,故形存则魄存,形化则魄散。O朱子曰:魂神而魄灵,魂阳而魄阴,魂动而魄静。生则魂载于魄,而魄检其魂;死则魂游散而归于天,魄沦坠而归于地。运用动作底是魂,不运用动作底是魄。魄盛则耳目聪明,能记忆,老人目昏耳瞆记事不得者,魄衰也。又日:人生则魂魄相交,死则各相离去。月之黑晕是魄,其光是魂,魂是魄之光焰,魄是魂之根柢。火是魂,镜是魄,灯有光焰,物来使烧,镜虽照见,却在里面。火日外景,金水内景,火日是魂,金水是魄,阴主藏受,故魄能记忆在内;阳主运用,故魂能发用出来。二物本不相离,精聚则魄聚,气聚则魂聚,是为人物之体;至于精竭魄降,则气散魂游而无所知矣。)
黄帝曰:人之寿夭各不同,或夭寿,或卒死,或病久,愿闻其道。
岐伯曰:五脏坚固,血脉和调,肌肉解利,皮肤致密,营卫之行,不央其常,呼吸微徐,气以度行,六腑化谷,津液布扬,各如其常,故能长久。(坚固者不易损,和调者不易乱,解利者无可留滞,致密者可免中伤。营卫之行不失其常者,经脉和也。呼吸微徐气以度行者,三焦治也。六腑化谷,津液布扬,则脏腑和平精神充畅,故能长久而多寿也。)
黄帝曰:人之寿百岁而死,何以致之?岐伯曰:使道隧以长,基墙高以方,通调营卫,三部三里起,骨高肉满,百岁乃得终。(《礼记》:百岁谓之期颐。使道,指七窍而言,谓五脏所使之道路,如肺气通于鼻,肝气通于目,心气通于舌,肾气通于耳,是即五宫之道路也。隧,深邃貌。基墙,指面部而言。骨胳为基,蕃蔽为墙,义见脉色类三十一、二等篇。凡营卫部里及骨高肉满若此者,邵致寿之道,故得百岁而终。)
黄帝曰:其气之盛衰,以至其死,可得闻乎?
岐伯曰:人生十岁,五脏始定,血气已通,其气在下,故好走。(天地之气,阳主乎升,升则向生;阴尘乎降,降则向死。故幼牟之气在下者,亦自下而升也。)二十岁,血气始盛,肌肉方长,故好趋。三十岁,五脏大定,肌肉坚固,血脉盛满,故好步。(盛满则不轻捷,故好步矣。)四十岁,五脏六腑十二经脉,皆大盛以平定,腠理始疏,荣华颓落,发颇斑白,平盛不摇,故好坐。(天地消长之道,物极必变,盛极必衰,日中则昃,月盈则亏,人当四十,阴气已半,故发颇斑白而平盛不摇好怜者,衰之渐也。)五十岁,肝气始衰,肝叶始薄,胆汁治减,目始不明。六十岁,心气始衰,苦忧悲,血气懈惰,故好卧。七十岁,脾气虚,皮肤枯。八十岁,肺气衰,魄离,故言善误。九十岁,肾气焦,四脏经脉空虚。百岁,五脏皆虚,神气皆去,形骸独居而终矣。(魄离者,形体衰败也。肾气焦者,真阴亏竭也。此与前篇《上古天真论》女尽七七男尽八八互相发明。彼从七八言者,言阴阳之限数;此以十言者,言人生之全数。然则人之气数,固有定期;而长短不齐者,有出于禀受,有因于人为。故惟智者不以人欲害其天真,以自然之道养自熊之寿,而善终其天年,此圣智之所同也。今之人非惟不能守其所有,而且欲出尘逃数,解脱飞升,因人惑己,因己惑人,是焉知无则无极,有则有尽,而固窃窃然自以为觉也亦甚矣。)
黄帝曰:其不能终寿而死者,何如!(谓不及天数而殁者也。)岐伯曰:其五脏皆不坚,使道不长,(使道如上文。不长,短促也。)空外以张,(九窍张露也。)喘息暴疾,(喘息者气促,暴疾者易伤,皆非延寿之征也。)又卑基墙,薄脉少血,其肉不石,(石,坚也。)数中风寒,血气虚,脉不通,真邪相攻,乱而相引,(数中风寒,表易犯也。血气虚,中不足也。脉不道,经络多滞也。故致真邪易于相坟。然正本拒邪,正气不足,邪友随之而入,故曰相引。O数音朔。)故中寿而尽也。(凡此形体血气,既已异于上寿,则其中寿而尽,固有所由,此先天之禀受然也。夫人生器局,既禀于有生之初,则其一定之数,似不可以人力强者。笫禀得其全而养合道,必将更寿;禀央其全而养复违和,能无更夭。故知之者下可以希中,中可以希上;不知者上仅得其次,次仅得其下矣。所谓天定则能性人,人定亦能牲天也。夫禀受者,先天也,修养者,先天也,修养者,后天也,先尺责在父母,后天责在吾心。)待述……!
俳優・高良健吾さん、日常を離れ、アナログな「時」を楽しむ旅 【前編】
これまでやりたくても「時間」がなくてできなかったことに挑戦する「時間」をセイコー プレザージュが提供するこの企画。
昨年の「瀬戸内しまなみ海道」での自転車旅に続いて、俳優の高良健吾さんが再び旅立った。2日間、自然の中へ——。旅の目的は、「やりたかったことをすべて叶(かな)える」こと。とかく情報過多になりがちな日常を抜け出して、アナログな時間の流れに身を置いた高良さんは、何を感じ、どんな思いを抱いたのか。今回お届けする前編では、都会の喧噪(けんそう)から離れ、兵庫県北部の山間(やまあい)で自然をゆるりと楽しむ様子を追った。
腕時計と地図。アナログなツールでドライブへ
とある初夏の一日、高良さんが訪れたのは山間に佇(たたず)む古民家宿。やりたかったことをすべて叶える、今回の旅の拠点だ。大きな窓のあるメインルームでソファに座り、高良さんは持参した文庫本をしばし読みふける。
「本は好きです。こんな何百円で、人の考えに触れられるなんてすごいですよね。手に取らないと出会えないような言葉だったり、生き方だったり、そういうものを知ることができる。ある意味、ちょっとした旅だと思います」
そしてふと顔を上げ、明るい光が入り込む大きな窓から、山々を見つめる高良さん。そろそろ出発の時間だ。日常から離れるために、スマートフォンは置いていく。ルートは地図で、時間は腕時計で確認するアナログな旅の始まりだ。
「自分は基本アナログ。家にパソコンはないし、映画館に行くときはスマホを家に置いていくこともよくあります。スマホを気にしない分、別のものが見えてくる。こういう自然の中なら周囲をよく見るようになるし、いつもと違うアンテナも張れます」。地図を眺め、腕時計に目を向けてから、高良さんは車へ乗り込んだ。
小一時間、車を走らせて訪れたのは、歴史ある寺院。しっかりとした足取りで、初めて訪れる寺の山門をくぐる。
寺院では本堂に上がり、庭に向かってあぐらをかく。瞑想(めいそう)、これもまた高良さんがこの日、やりたかったことのひとつだ。背筋をぴしりと伸ばし、目をつぶって微動だにしない。葉ずれの音、鳥やカエルの鳴き声が止(や)んだ瞬間は、まるで時が止まっているかのようだ。
高良さんにとって瞑想は、ルーティンのようなものだという。
「だいたい寝る前にやるんです。撮影している期間は日中集中しているので、寝付きが悪かったり、途中で目が覚めたりすることもあるので、眠る前にちょっと心を落ち着かせるという感じ。今日のように自然の音に囲まれた場所だと、家の中で瞑想するよりも入りやすいですね。何も考えない、無理をしない時間が過ごせました」
自然の揺れを感じに。日常にない、贅沢時間
瞑想を終え、「ゴチャゴチャしていたものが整理された」と言う高良さんの次の目的地は、山中の釣り場。川に沿って続く遊歩道を、土の感触を確かめるように泰然と歩いていく高良さん。途中、足を止めて伸びをしたり、思いのままに満喫しているようだ。
こうして自然に囲まれながら思うのは、「自分が落ち着く場所、癒やされる場所は、自然なんだ」ということ。
「原風景が祖父母の田舎なんですよね。阿蘇と北九州の田川。きっと、そういう田舎で遊んでいた、楽しかった記憶があるんだろうと思います。自然の揺れって、見ているだけで落ち着くので、そこを求めに行っている。東京にいると、そういう揺れは風とか、上を見ないと感じられないので」
やがてたどり着いたのが、半径15mほどの滝壺(つぼ)。主にニジマスが釣れるという。海でのルアーフィッシング経験はある高良さんだが、川釣りは初挑戦。竹竿(ざお)にウキという組み合わせも、やはり初めて使う道具だそうだ。照れくさそうに「海ではルアーをなくしてばかりいたし、今回のやりたいことの中では一番自信がない」と言うものの、慣れた手つきで竿を操っている。
糸を垂らし、狙うポイントを変えながら数十分。前日の雨で濁った水面がゆらめく様子を、ただ見つめながら過ごす贅沢(ぜいたく)な時間だ。
「釣れなくても、3時間くらいは平気で過ごせますね。どれだけ時間が経ったかを確認することはあっても、苦ではないです。こうやって自然の中で過ごしている時は、時間の確認は腕時計がいいですね。それもデジタルの数字じゃなくて、針で見るっていうのがいい」
そんな話をするうちに、不意にウキが動き出した。「食いついた!」。そう思った瞬間、必死に暴れる魚の姿が。木漏れ日に輝く銀色の体はかなり大きく、高良さんもしばらく格闘したものの、魚はハリから外れて滝壺の底へと消えていった。その後すぐに再び別の獲物を捕らえるが、今度は糸が切れてしまう事態に。この装備では、少し心許(こころもと)ないようだ。
そろそろ宿に戻ろうか……と諦めかけたところで、またもウキが躍り出す。三度目の正直とばかりに、見事釣り上げた高良さん。「今日に限らず、以前から目の前で逃がしてばかりだったけど、ようやく釣れた!」と、喜びであふれんばかりの笑顔を向けた。
手を掛けるだけ愛着が増す。フォーマルな印象のモデル
「1時間で3匹なら入れ食い状態」と笑みを浮かべながら、宿へと戻ってきた。本日、予定していた夕食は屋外でのバーベキューだった。しかし、天気は下り坂。焚(た)き火台に火を入れ、炎が上がり始めるころには雨も降り出してきたため、部屋の中の囲炉裏に場所を移しての食事となった。
周囲には街灯や民家がなく、夜の帳(とばり)が下りれば辺りは真っ暗に。肉に魚、野菜も焼いて、時折、焚き火を眺めるひととき。
「焚き火って、本当に自然の揺らぎですよね。人間が作り出せない揺れというか。それこそ波だってそうだし、空だって雲の流れだったり、風の流れだったり、それって人間が絶対作り出せない。そういう場所に身を置くことが、自分にとっての癒やしですかね」。そう語る彼を包み込むように、時間はゆったりと過ぎていく。
この日、高良さんの腕で時を刻んだのは、「セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097」。アナログな旅によく似合う、機械式時計だ。
「機械式時計の良さは、自分がちゃんとその時計を扱っていないといけないこと。毎日見て、定期的にちゃんとメンテナンスしてあげることでより愛着が湧きますよね。耳を近付けて音を聞きながらりゅうずを巻くのも、好きな行為ですね」
「この『セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097』は、どちらかというとフォーマルな印象でした。白文字盤は持っていなかったんですが、いいですね。スーツのようなキレイめにも合うし、幅広いシーンで使えると思いました。(白文字盤は)似合う年齢が少し上という勝手なイメージがあったんですけど、 身につけてみると、“いや、そんなことないな”って気がしました」
そう言って、「セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097」に視線を落とす高良さん。「静の旅」となった1日が、そろそろ終わろうとしている。明日は一転、「動の旅」と言えるほど、バラエティーに富んだアクティブな旅となる。そちらは後編として次回、改めてご紹介しよう。
(文・石川由紀子 写真・高橋雄大 取材協力・円覚山宗鏡寺、glaminka KAMIKAWA、日高神鍋観光協会、清滝地区コミュニティセンターの皆様)
これまでやりたくても「時間」がなくてできなかったことに挑戦する「時間」をセイコー プレザージュが提供するこの企画。
昨年の「瀬戸内しまなみ海道」での自転車旅に続いて、俳優の高良健吾さんが再び旅立った。2日間、自然の中へ——。旅の目的は、「やりたかったことをすべて叶(かな)える」こと。とかく情報過多になりがちな日常を抜け出して、アナログな時間の流れに身を置いた高良さんは、何を感じ、どんな思いを抱いたのか。今回お届けする前編では、都会の喧噪(けんそう)から離れ、兵庫県北部の山間(やまあい)で自然をゆるりと楽しむ様子を追った。
腕時計と地図。アナログなツールでドライブへ
とある初夏の一日、高良さんが訪れたのは山間に佇(たたず)む古民家宿。やりたかったことをすべて叶える、今回の旅の拠点だ。大きな窓のあるメインルームでソファに座り、高良さんは持参した文庫本をしばし読みふける。
「本は好きです。こんな何百円で、人の考えに触れられるなんてすごいですよね。手に取らないと出会えないような言葉だったり、生き方だったり、そういうものを知ることができる。ある意味、ちょっとした旅だと思います」
そしてふと顔を上げ、明るい光が入り込む大きな窓から、山々を見つめる高良さん。そろそろ出発の時間だ。日常から離れるために、スマートフォンは置いていく。ルートは地図で、時間は腕時計で確認するアナログな旅の始まりだ。
「自分は基本アナログ。家にパソコンはないし、映画館に行くときはスマホを家に置いていくこともよくあります。スマホを気にしない分、別のものが見えてくる。こういう自然の中なら周囲をよく見るようになるし、いつもと違うアンテナも張れます」。地図を眺め、腕時計に目を向けてから、高良さんは車へ乗り込んだ。
小一時間、車を走らせて訪れたのは、歴史ある寺院。しっかりとした足取りで、初めて訪れる寺の山門をくぐる。
寺院では本堂に上がり、庭に向かってあぐらをかく。瞑想(めいそう)、これもまた高良さんがこの日、やりたかったことのひとつだ。背筋をぴしりと伸ばし、目をつぶって微動だにしない。葉ずれの音、鳥やカエルの鳴き声が止(や)んだ瞬間は、まるで時が止まっているかのようだ。
高良さんにとって瞑想は、ルーティンのようなものだという。
「だいたい寝る前にやるんです。撮影している期間は日中集中しているので、寝付きが悪かったり、途中で目が覚めたりすることもあるので、眠る前にちょっと心を落ち着かせるという感じ。今日のように自然の音に囲まれた場所だと、家の中で瞑想するよりも入りやすいですね。何も考えない、無理をしない時間が過ごせました」
自然の揺れを感じに。日常にない、贅沢時間
瞑想を終え、「ゴチャゴチャしていたものが整理された」と言う高良さんの次の目的地は、山中の釣り場。川に沿って続く遊歩道を、土の感触を確かめるように泰然と歩いていく高良さん。途中、足を止めて伸びをしたり、思いのままに満喫しているようだ。
こうして自然に囲まれながら思うのは、「自分が落ち着く場所、癒やされる場所は、自然なんだ」ということ。
「原風景が祖父母の田舎なんですよね。阿蘇と北九州の田川。きっと、そういう田舎で遊んでいた、楽しかった記憶があるんだろうと思います。自然の揺れって、見ているだけで落ち着くので、そこを求めに行っている。東京にいると、そういう揺れは風とか、上を見ないと感じられないので」
やがてたどり着いたのが、半径15mほどの滝壺(つぼ)。主にニジマスが釣れるという。海でのルアーフィッシング経験はある高良さんだが、川釣りは初挑戦。竹竿(ざお)にウキという組み合わせも、やはり初めて使う道具だそうだ。照れくさそうに「海ではルアーをなくしてばかりいたし、今回のやりたいことの中では一番自信がない」と言うものの、慣れた手つきで竿を操っている。
糸を垂らし、狙うポイントを変えながら数十分。前日の雨で濁った水面がゆらめく様子を、ただ見つめながら過ごす贅沢(ぜいたく)な時間だ。
「釣れなくても、3時間くらいは平気で過ごせますね。どれだけ時間が経ったかを確認することはあっても、苦ではないです。こうやって自然の中で過ごしている時は、時間の確認は腕時計がいいですね。それもデジタルの数字じゃなくて、針で見るっていうのがいい」
そんな話をするうちに、不意にウキが動き出した。「食いついた!」。そう思った瞬間、必死に暴れる魚の姿が。木漏れ日に輝く銀色の体はかなり大きく、高良さんもしばらく格闘したものの、魚はハリから外れて滝壺の底へと消えていった。その後すぐに再び別の獲物を捕らえるが、今度は糸が切れてしまう事態に。この装備では、少し心許(こころもと)ないようだ。
そろそろ宿に戻ろうか……と諦めかけたところで、またもウキが躍り出す。三度目の正直とばかりに、見事釣り上げた高良さん。「今日に限らず、以前から目の前で逃がしてばかりだったけど、ようやく釣れた!」と、喜びであふれんばかりの笑顔を向けた。
手を掛けるだけ愛着が増す。フォーマルな印象のモデル
「1時間で3匹なら入れ食い状態」と笑みを浮かべながら、宿へと戻ってきた。本日、予定していた夕食は屋外でのバーベキューだった。しかし、天気は下り坂。焚(た)き火台に火を入れ、炎が上がり始めるころには雨も降り出してきたため、部屋の中の囲炉裏に場所を移しての食事となった。
周囲には街灯や民家がなく、夜の帳(とばり)が下りれば辺りは真っ暗に。肉に魚、野菜も焼いて、時折、焚き火を眺めるひととき。
「焚き火って、本当に自然の揺らぎですよね。人間が作り出せない揺れというか。それこそ波だってそうだし、空だって雲の流れだったり、風の流れだったり、それって人間が絶対作り出せない。そういう場所に身を置くことが、自分にとっての癒やしですかね」。そう語る彼を包み込むように、時間はゆったりと過ぎていく。
この日、高良さんの腕で時を刻んだのは、「セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097」。アナログな旅によく似合う、機械式時計だ。
「機械式時計の良さは、自分がちゃんとその時計を扱っていないといけないこと。毎日見て、定期的にちゃんとメンテナンスしてあげることでより愛着が湧きますよね。耳を近付けて音を聞きながらりゅうずを巻くのも、好きな行為ですね」
「この『セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097』は、どちらかというとフォーマルな印象でした。白文字盤は持っていなかったんですが、いいですね。スーツのようなキレイめにも合うし、幅広いシーンで使えると思いました。(白文字盤は)似合う年齢が少し上という勝手なイメージがあったんですけど、 身につけてみると、“いや、そんなことないな”って気がしました」
そう言って、「セイコー プレザージュ Sharp Edged Series SARX097」に視線を落とす高良さん。「静の旅」となった1日が、そろそろ終わろうとしている。明日は一転、「動の旅」と言えるほど、バラエティーに富んだアクティブな旅となる。そちらは後編として次回、改めてご紹介しよう。
(文・石川由紀子 写真・高橋雄大 取材協力・円覚山宗鏡寺、glaminka KAMIKAWA、日高神鍋観光協会、清滝地区コミュニティセンターの皆様)
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