#目黑莲[超话]#
Snow Man・东京巨蛋速报
目黒さん「本日はどうもありがとうございます。そうですね…僕たちのパフォーマンス、どうでしたか!?よかったですか?ヨシ!(大きめのガッツポーズ)今みたいなみなさんの声が生で聞けて、この初のドームツアーを一緒に楽しみを共有できて、本当に嬉しいです。皆さま、本当に本当にどうもありがとうございます」
目黑:“今天非常感谢。是啊…我们的表演怎么样? !好吗?好!(大大的握拳)能像现在这样在现场听到大家的声音,和大家一起享受这次的巨蛋之旅,我真的很高兴。谢谢大家。”
Snow Man・东京巨蛋速报
目黒さん「本日はどうもありがとうございます。そうですね…僕たちのパフォーマンス、どうでしたか!?よかったですか?ヨシ!(大きめのガッツポーズ)今みたいなみなさんの声が生で聞けて、この初のドームツアーを一緒に楽しみを共有できて、本当に嬉しいです。皆さま、本当に本当にどうもありがとうございます」
目黑:“今天非常感谢。是啊…我们的表演怎么样? !好吗?好!(大大的握拳)能像现在这样在现场听到大家的声音,和大家一起享受这次的巨蛋之旅,我真的很高兴。谢谢大家。”
なぜ孫尚香(孫夫人)は、歴史の闇に消えながら「劉備の愛妻」として復活したのか?
前回は劉備の妻、とくに甘夫人(かんふじん)と麋夫人(びふじん)の両名を紹介した。今回は、4人の正室のひとりで様々な「三国志」作品にもよく登場する、孫(そん)夫人について紹介したいと思う。
「男勝りで武装好き」史実の設定が、そのまま生かされる
孫夫人(孫尚香)を象った中国の剪紙
映画『新解釈・三国志』では出番がなかったが、『レッドクリフ』や、ゲーム「真・三國無双」などの創作作品では「孫尚香」(そんしょうこう)という名の女性が活躍する。このひとは、れっきとした実在の人物だ。「赤壁(せきへき)の戦い」(208年)のあと、劉備に嫁いだ孫夫人(孫権の妹)がモデルとなっている。
孫尚香とは、後世に京劇で使われるようになった名前なのだが、女性らしく響きも良いからか、好んで使われる傾向にある。また彼女自身も「男勝りで武装好き」という歴史上での設定があるだけに、映画やゲームにも生かしやすい。女性がほとんど出てこない三国志の世界においては、創り手にとって有難い存在のようである。本項も「孫尚香」で進めたい。
歴史的にみれば、孫尚香はよくある政略結婚の道具にすぎなかった。正史を見回しても『先主伝』『趙雲別伝』『法正伝』に彼女の記述が少しずつある程度だが、それがなかなかに目を引く内容だ。
才気・剛勇において兄たち(孫策・孫権)の面影があり、孫権の妹であることを鼻にかけていて、傲慢で軍律を守らなかった。あまりの我がままぶりに困った劉備は、趙雲(ちょううん)を監視役につけたという。実はこのころ、劉備の愛妾・甘夫人が亡くなったばかりで、奥向きには彼女を抑える人がいなかったのだろう。当然、夫婦関係も最悪だ。劉備はそのころ50歳ぐらい。孫権が劉備より21歳年下だから、妹の尚香は20代~10代後半。年齢差だけならまだ良いが、彼女は100人ほど連れてきた侍女たちに武装させていた。
劉備は奥に入るとき「いつも心底から恐怖を覚え、びくびくした」とあるのだ。「いつも」とある以上、何度か機嫌をとろうとしたのだろうが、尚香が心までをも許したかどうか。
「東方では孫権に圧迫され、近くでは孫夫人が変事を起こさぬかと心配しておられた」という、諸葛亮(しょかつりょう)の台詞からも緊迫した夫婦関係が窺いしれよう。
劉備は恐妻家を通り越して本当に身の危険を感じたのだろう。子どもができないどころか、しまいに尚香は甘夫人の遺児・劉禅を呉へ連れ帰ろうとまでした。劉禅だけは趙雲らに連れ戻されたが、尚香はそのまま帰国してしまった。
そのとき蜀へ向かっていた劉備が、尚香が国へ帰ったと聞いて何か言ったとの記録もない。「あ、そう・・・」とばかり、いつもの家族に対する冷淡な態度で済ませたのではなかろうか。
こんな有様だったから、蜀の歴史家や陳寿(ちんじゅ)も、尚香を「劉備夫人」と認めなかった。だから列伝にも彼女を入れずに法正のエピソードで、ちょっと触れるだけに留めたようだ。
帰国後の消息も不明だ。評判が散々だったからか、彼女は「歴史の闇に消えた」あるいは「消された」ような存在であった。
「三国志演義」では、愛妻としてよみがえる
だが、三国時代から約1000年後に成立した『三国志演義』では、孫尚香の扱いが格段に上がる。政略結婚の道具にされるのは同じだが、史実では冷めていたはずの夫婦仲は良好なものに描かれる。呉に帰るのは生母の危篤という知らせを受けてのためで、孫権の陰謀で夫婦仲を無理やり裂かれたことになっている。「演義」で聖人化・正義化した劉備に対し、孫権は悪役なので、劉備に忠実であろうとした女性像としてちょうど良かったのだろう。
さらに『三国志演義』の定番本(毛宗崗本)では、その最期までもが追加されるに至った。
「このとき、孫夫人は呉にあったが、劉備が戦死したという噂を信じ、長江の流れに身を投げて死んだ。」(第84回)
夷陵の戦い(222年)に敗れた劉備が死んだ、という誤報を真に受けて「殉死」するのである。物語では脇役に過ぎないが、劉備という忠義の人に殉じたという点で、女性の登場人物としては破格ともいえる扱いを受けるにいたったのである。
前回は劉備の妻、とくに甘夫人(かんふじん)と麋夫人(びふじん)の両名を紹介した。今回は、4人の正室のひとりで様々な「三国志」作品にもよく登場する、孫(そん)夫人について紹介したいと思う。
「男勝りで武装好き」史実の設定が、そのまま生かされる
孫夫人(孫尚香)を象った中国の剪紙
映画『新解釈・三国志』では出番がなかったが、『レッドクリフ』や、ゲーム「真・三國無双」などの創作作品では「孫尚香」(そんしょうこう)という名の女性が活躍する。このひとは、れっきとした実在の人物だ。「赤壁(せきへき)の戦い」(208年)のあと、劉備に嫁いだ孫夫人(孫権の妹)がモデルとなっている。
孫尚香とは、後世に京劇で使われるようになった名前なのだが、女性らしく響きも良いからか、好んで使われる傾向にある。また彼女自身も「男勝りで武装好き」という歴史上での設定があるだけに、映画やゲームにも生かしやすい。女性がほとんど出てこない三国志の世界においては、創り手にとって有難い存在のようである。本項も「孫尚香」で進めたい。
歴史的にみれば、孫尚香はよくある政略結婚の道具にすぎなかった。正史を見回しても『先主伝』『趙雲別伝』『法正伝』に彼女の記述が少しずつある程度だが、それがなかなかに目を引く内容だ。
才気・剛勇において兄たち(孫策・孫権)の面影があり、孫権の妹であることを鼻にかけていて、傲慢で軍律を守らなかった。あまりの我がままぶりに困った劉備は、趙雲(ちょううん)を監視役につけたという。実はこのころ、劉備の愛妾・甘夫人が亡くなったばかりで、奥向きには彼女を抑える人がいなかったのだろう。当然、夫婦関係も最悪だ。劉備はそのころ50歳ぐらい。孫権が劉備より21歳年下だから、妹の尚香は20代~10代後半。年齢差だけならまだ良いが、彼女は100人ほど連れてきた侍女たちに武装させていた。
劉備は奥に入るとき「いつも心底から恐怖を覚え、びくびくした」とあるのだ。「いつも」とある以上、何度か機嫌をとろうとしたのだろうが、尚香が心までをも許したかどうか。
「東方では孫権に圧迫され、近くでは孫夫人が変事を起こさぬかと心配しておられた」という、諸葛亮(しょかつりょう)の台詞からも緊迫した夫婦関係が窺いしれよう。
劉備は恐妻家を通り越して本当に身の危険を感じたのだろう。子どもができないどころか、しまいに尚香は甘夫人の遺児・劉禅を呉へ連れ帰ろうとまでした。劉禅だけは趙雲らに連れ戻されたが、尚香はそのまま帰国してしまった。
そのとき蜀へ向かっていた劉備が、尚香が国へ帰ったと聞いて何か言ったとの記録もない。「あ、そう・・・」とばかり、いつもの家族に対する冷淡な態度で済ませたのではなかろうか。
こんな有様だったから、蜀の歴史家や陳寿(ちんじゅ)も、尚香を「劉備夫人」と認めなかった。だから列伝にも彼女を入れずに法正のエピソードで、ちょっと触れるだけに留めたようだ。
帰国後の消息も不明だ。評判が散々だったからか、彼女は「歴史の闇に消えた」あるいは「消された」ような存在であった。
「三国志演義」では、愛妻としてよみがえる
だが、三国時代から約1000年後に成立した『三国志演義』では、孫尚香の扱いが格段に上がる。政略結婚の道具にされるのは同じだが、史実では冷めていたはずの夫婦仲は良好なものに描かれる。呉に帰るのは生母の危篤という知らせを受けてのためで、孫権の陰謀で夫婦仲を無理やり裂かれたことになっている。「演義」で聖人化・正義化した劉備に対し、孫権は悪役なので、劉備に忠実であろうとした女性像としてちょうど良かったのだろう。
さらに『三国志演義』の定番本(毛宗崗本)では、その最期までもが追加されるに至った。
「このとき、孫夫人は呉にあったが、劉備が戦死したという噂を信じ、長江の流れに身を投げて死んだ。」(第84回)
夷陵の戦い(222年)に敗れた劉備が死んだ、という誤報を真に受けて「殉死」するのである。物語では脇役に過ぎないが、劉備という忠義の人に殉じたという点で、女性の登場人物としては破格ともいえる扱いを受けるにいたったのである。
「武田家が滅亡」裏切り者が続出した“きっかけ” 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
■同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。
そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。
■織田信長は高天神城の降伏を認めず
しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。
『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。
彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。
『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。
『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
■武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
甲斐の府中(甲府市)に人質としてあった梅雪の妻子は、雨夜に紛れて密かに脱出させたという(2月25日)。梅雪は武田一族であり(生母は武田信玄の姉)、その裏切りは武田勝頼にとってショックだっただろう。
■重臣にも裏切られた勝頼
梅雪が織田方に降ったことによって、甲斐への進軍は容易となった。勝頼は新府に戻るが、館に火をかけ(3月3日)、重臣の小山田信茂を頼ろうとした。しかし、信茂にも裏切られて、3月11日、追い詰められた勝頼は、妻子とともに田野(甲州市)で自害して果てる。名族・武田家はついに滅亡した。
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家
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