看结成6周年筒管直播,我哭死[苦涩][苦涩][苦涩]
やっば僕たちは何度も言ってるけどアイドルです。…アイドルの定義ってすごい、あやふやだと思うんですよ。「アイドルってなんだろう?」って言われたら意外と答えられなかったりすることだなと思うんですけど…まあ多分…多分みんなが僕たちを応援してくれてるから、僕たちはアイドルでいれて、多分みんながいなかったら僕たちはただの仲がいい6人が…好きな音楽やってるだけの集まりになるんですけど。(中略)みんな頑張る理由みたいなものに、僕たちもなれたらいいなと、思って、常日頃、これからも、みんなに頑張る理由をもらえてるように、僕たちもみんなに頑張る理由を…あげれたらなと思います。
やっばSixTONESっていいグループだな!大好き![抱一抱]
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[话筒]#日本战败投降78周年#
1945年8月15日中午,“日本放送协会”(NHK)播音员和田信贤向听众发出准点播报“玉音放送”(即天皇广播讲话)报告后,放送了日本昭和天皇裕仁先于8月14日宣读录制的《大东亚战争终结/诏书》(简称《终战诏书》)。
《终战诏书》宣布“接受联合公告(按,指美、英、中、苏四国联合的《波茨坦公告》)”、承认“排斥他国之主权、侵犯他国之领土”的战争罪行。同日,日本天皇在“御前会议”宣读了《终战诏书》。东京时间次日正午12点向日本军民播出,以此宣告了日本对外战争的终止。
《终战诏书》中文版原文:
朕深鉴于世界大势及帝国之现状,欲采取非常之措施,收拾时局,兹告尔忠良臣民:朕已饬令帝国政府通告美、英、中、苏四国,愿接受其联合公告。
盖谋求帝国臣民之康宁,同享万邦公荣之乐,斯乃皇祖皇宗之遗范,亦为朕所眷眷服膺者。往年,帝国之所以向美、英两国宣战,实亦为希求帝国之自存于东亚之安定而出此,至如排斥他国之主权,侵犯他国之领土,固非朕之本志。然交战已阅四载,虽陆海将兵勇敢善战,百官有司励精图治,一亿众庶克己奉公,各尽所能,而战局并未好转,世界大势亦不利于我。加之,敌方最近使用残酷之炸弹,频杀无辜,惨害所及,实难逆料。如仍继续作战,则不仅导致我民族之灭亡,且将破坏人类之文明。如此,则朕将何以保安亿兆赤子,陈谢于皇祖皇宗之神灵乎!此朕所以饬帝国政府接受联合公告者也。
朕对于始终与帝国同为东亚解放而努力之诸盟邦,不得不深表遗憾。念及帝国臣民之死于战阵,殉于职守,毙于非命者及其遗属,则五脏为之俱裂。至于负战伤,蒙战祸,失家业者之生计,亦朕所深为轸念者也。今后帝国所受之苦固非寻常,朕亦深知尔等臣民之衷情。然时运之所趋,朕欲忍其所难忍,耐其所难耐,以为万世之太平计耳。
朕于兹得以维护国体,信倚尔等忠良臣民之赤诚,并常与尔等臣民同在。若夫为情所激,妄滋事端,或者同胞互相排挤,扰乱时局,因而迷误大道,失信义于世界,此朕所深戒。宜举国一致,子孙相传,确信神州之不灭。念任重而道远,倾全力于未来之建设,笃守道义,坚定志操,誓必发扬国体之精华,不致落后于世界之进化。望尔等臣民善体朕意。
裕仁
昭和二十年八月十四日
《终战诏书》日文版原文:
朕深く世界の大势と帝国の现状とに鉴み、非常の措置を以て时局を収拾せむと欲し、兹に忠良なる尔臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支苏四国に対し、其の共同宣言を受诺する旨、通告せしめたり。
抑々、帝国臣民の康宁を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遗范にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と东亜の安定とを庶几するに出て他国の主権を排し、领土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。然るに交戦已に四歳を阅し朕が陆海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一亿众庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大势、亦我に利あらず、加之敌は新に残虐なる爆弾を使用して频りに无辜を杀伤し惨害の及ぶ所、真に测るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せむか、终に我が民族の灭亡を招来するのみならず、延て人类の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか亿兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に谢せむや。是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
朕は帝国と共に终始东亜の解放に协力せる诸盟邦に対し、遗憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦阵に死し、职域に殉し、非命に毙れたる者、及び其の遗族に想を致せば五内为に裂く。且、戦伤を负ひ、灾祸を蒙り家业を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く轸念する所なり。惟ふに今後、帝国の受くべき苦难は固より寻常にあらず。尔臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は时运の趋く所、堪へ难きを堪へ、忍ひ难きを忍ひ、以て万世の为に太平を开かむと欲す。
朕は兹に国体を护持し得て、忠良なる尔臣民の赤诚に信倚し、常に尔臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、漤に事端を滋くし、或は同胞排挤互に时局を乱り为に大道を误り、信义を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孙相伝へ、确く神州の不灭を信じ、任重くして道远きを念ひ、総力を将来の建设に倾け、道义を笃くし志操を巩くし誓って国体の精华を発扬し、世界の进运\に後れざらむことを期すべし。尔臣民其れ克く朕が意を体せよ。
御名御玺
昭和二十年八月十四日
#日本宣布无条件投降78周年#
#日本终战诏书绝口不提投降#
1945年8月15日中午,“日本放送协会”(NHK)播音员和田信贤向听众发出准点播报“玉音放送”(即天皇广播讲话)报告后,放送了日本昭和天皇裕仁先于8月14日宣读录制的《大东亚战争终结/诏书》(简称《终战诏书》)。
《终战诏书》宣布“接受联合公告(按,指美、英、中、苏四国联合的《波茨坦公告》)”、承认“排斥他国之主权、侵犯他国之领土”的战争罪行。同日,日本天皇在“御前会议”宣读了《终战诏书》。东京时间次日正午12点向日本军民播出,以此宣告了日本对外战争的终止。
《终战诏书》中文版原文:
朕深鉴于世界大势及帝国之现状,欲采取非常之措施,收拾时局,兹告尔忠良臣民:朕已饬令帝国政府通告美、英、中、苏四国,愿接受其联合公告。
盖谋求帝国臣民之康宁,同享万邦公荣之乐,斯乃皇祖皇宗之遗范,亦为朕所眷眷服膺者。往年,帝国之所以向美、英两国宣战,实亦为希求帝国之自存于东亚之安定而出此,至如排斥他国之主权,侵犯他国之领土,固非朕之本志。然交战已阅四载,虽陆海将兵勇敢善战,百官有司励精图治,一亿众庶克己奉公,各尽所能,而战局并未好转,世界大势亦不利于我。加之,敌方最近使用残酷之炸弹,频杀无辜,惨害所及,实难逆料。如仍继续作战,则不仅导致我民族之灭亡,且将破坏人类之文明。如此,则朕将何以保安亿兆赤子,陈谢于皇祖皇宗之神灵乎!此朕所以饬帝国政府接受联合公告者也。
朕对于始终与帝国同为东亚解放而努力之诸盟邦,不得不深表遗憾。念及帝国臣民之死于战阵,殉于职守,毙于非命者及其遗属,则五脏为之俱裂。至于负战伤,蒙战祸,失家业者之生计,亦朕所深为轸念者也。今后帝国所受之苦固非寻常,朕亦深知尔等臣民之衷情。然时运之所趋,朕欲忍其所难忍,耐其所难耐,以为万世之太平计耳。
朕于兹得以维护国体,信倚尔等忠良臣民之赤诚,并常与尔等臣民同在。若夫为情所激,妄滋事端,或者同胞互相排挤,扰乱时局,因而迷误大道,失信义于世界,此朕所深戒。宜举国一致,子孙相传,确信神州之不灭。念任重而道远,倾全力于未来之建设,笃守道义,坚定志操,誓必发扬国体之精华,不致落后于世界之进化。望尔等臣民善体朕意。
裕仁
昭和二十年八月十四日
《终战诏书》日文版原文:
朕深く世界の大势と帝国の现状とに鉴み、非常の措置を以て时局を収拾せむと欲し、兹に忠良なる尔臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支苏四国に対し、其の共同宣言を受诺する旨、通告せしめたり。
抑々、帝国臣民の康宁を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遗范にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と东亜の安定とを庶几するに出て他国の主権を排し、领土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。然るに交戦已に四歳を阅し朕が陆海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一亿众庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大势、亦我に利あらず、加之敌は新に残虐なる爆弾を使用して频りに无辜を杀伤し惨害の及ぶ所、真に测るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せむか、终に我が民族の灭亡を招来するのみならず、延て人类の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか亿兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に谢せむや。是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
朕は帝国と共に终始东亜の解放に协力せる诸盟邦に対し、遗憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦阵に死し、职域に殉し、非命に毙れたる者、及び其の遗族に想を致せば五内为に裂く。且、戦伤を负ひ、灾祸を蒙り家业を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く轸念する所なり。惟ふに今後、帝国の受くべき苦难は固より寻常にあらず。尔臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は时运の趋く所、堪へ难きを堪へ、忍ひ难きを忍ひ、以て万世の为に太平を开かむと欲す。
朕は兹に国体を护持し得て、忠良なる尔臣民の赤诚に信倚し、常に尔臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、漤に事端を滋くし、或は同胞排挤互に时局を乱り为に大道を误り、信义を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孙相伝へ、确く神州の不灭を信じ、任重くして道远きを念ひ、総力を将来の建设に倾け、道义を笃くし志操を巩くし誓って国体の精华を発扬し、世界の进运\に後れざらむことを期すべし。尔臣民其れ克く朕が意を体せよ。
御名御玺
昭和二十年八月十四日
#日本宣布无条件投降78周年#
#日本终战诏书绝口不提投降#
“酒乱”に“放火”…芹沢鴨、傍若無人な振る舞いの果てのあまりに無残な死にざま
幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
【狼藉の末に捕縛も】芹沢鴨が暗殺されるまで
芹沢鴨が30数人の隊士を率いて、生糸商・大和屋庄兵衛方を襲い、大小7つの土蔵に火を放ったのは、文久三年(1863)八月十二日の夜から翌日の夜にかけてのことだった。
江戸時代、放火は重罪で、公儀の御用といえども火の取り扱いには万全の注意が求められていた。大和屋は御所の中立売御門から西へ800mほどの地点にあり、この暴挙に朝廷は激怒した。
これを受けて会津藩は近藤勇を呼び出し、芹沢の「所(処)置」(『新撰組始末記』)を命じている。処置とは排除であり、つまりは殺害である。これまでも酒乱とされる芹沢の傍若無人な行動に手を焼いていた近藤に、これを断る理由はなかった。
その後、八月十八日の政変、それにともなう残務処理で実行は遅れていたが、九月十六日に新選組が島原の角屋で総会を開き、ついに決行されることとなる。総会が終わり、一座に酒が振る舞われると、午後6時頃に芹沢は席を立った。屯所としていた壬生の八木邸で飲みなおすのだという。これに同行したのが芹沢の身内というべき平山五郎と平間重助で、土方歳三も彼らに従った。平山と平間は、それぞれ芸妓を連れており、芹沢は愛妾のお梅を八木邸に呼んでいた。
そこで彼らは盃を交わすのだが、土方が同行した目的は、芹沢らを酔いつぶすことにあった。やがて酔いが回った芹沢は酒宴を切り上げ、式台(玄関の上がり口)の北にある八畳間の一室に屏風を仕立てて区切りとし、その北側の床に芹沢とお梅、南側に平山と相方が入った。平間と相方は式台の西隣にある四畳半を寝所とした。
土方は彼らが寝入ったのを確認すると屯所の前川邸に戻り、もう一度、様子をうかがいにやってきた。そして、それから20分ばかりもしたときに、式台から抜刀した4人の男が飛び込んでくる。八木家の三男の為三郎は、刺客には確かに沖田総司と原田左之助がいて、山南敬助もいたようだという、現場を目撃した母親の話を『新選組遺聞』に語り遺しているが、土方もこれに加わっていた。
襲撃を受けて傷を負った芹沢は素早く布団を抜け出し、廊下を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。しかし、入口でつまずき、倒れたところを切り刻まれて絶命する。芹沢と寝ていたお梅は首が落ちそうなほどに斬られ、平山の首は落ちていた。平山の相方は襲撃時に厠に立っていたため無事だったと伝わる。
平間らは無傷だった。免許皆伝だった芹沢・平山に対し、平間の腕前は目録であり、平間を生かしておいても復讐される恐れはないとして、殺害の対象から外していたのだろう。
暗殺は長州藩によるものとされた。翌々日、芹沢と平山の葬儀が行われ、壬生村共同墓地に埋葬された。墓碑には「十八日卒」と刻まれているが、この日に埋葬されたのである。
前出の為三郎は、決行日は雨天だったとしていて、市中の公家や商人の日記にも降雨と記録されている。しかし、十八日には降雨の記録はないのである。
命拾いした平間は京都を脱し、明治七年(1874)に郷里の常陸国芹沢村で死亡している。
○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から
幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。
【狼藉の末に捕縛も】芹沢鴨が暗殺されるまで
芹沢鴨が30数人の隊士を率いて、生糸商・大和屋庄兵衛方を襲い、大小7つの土蔵に火を放ったのは、文久三年(1863)八月十二日の夜から翌日の夜にかけてのことだった。
江戸時代、放火は重罪で、公儀の御用といえども火の取り扱いには万全の注意が求められていた。大和屋は御所の中立売御門から西へ800mほどの地点にあり、この暴挙に朝廷は激怒した。
これを受けて会津藩は近藤勇を呼び出し、芹沢の「所(処)置」(『新撰組始末記』)を命じている。処置とは排除であり、つまりは殺害である。これまでも酒乱とされる芹沢の傍若無人な行動に手を焼いていた近藤に、これを断る理由はなかった。
その後、八月十八日の政変、それにともなう残務処理で実行は遅れていたが、九月十六日に新選組が島原の角屋で総会を開き、ついに決行されることとなる。総会が終わり、一座に酒が振る舞われると、午後6時頃に芹沢は席を立った。屯所としていた壬生の八木邸で飲みなおすのだという。これに同行したのが芹沢の身内というべき平山五郎と平間重助で、土方歳三も彼らに従った。平山と平間は、それぞれ芸妓を連れており、芹沢は愛妾のお梅を八木邸に呼んでいた。
そこで彼らは盃を交わすのだが、土方が同行した目的は、芹沢らを酔いつぶすことにあった。やがて酔いが回った芹沢は酒宴を切り上げ、式台(玄関の上がり口)の北にある八畳間の一室に屏風を仕立てて区切りとし、その北側の床に芹沢とお梅、南側に平山と相方が入った。平間と相方は式台の西隣にある四畳半を寝所とした。
土方は彼らが寝入ったのを確認すると屯所の前川邸に戻り、もう一度、様子をうかがいにやってきた。そして、それから20分ばかりもしたときに、式台から抜刀した4人の男が飛び込んでくる。八木家の三男の為三郎は、刺客には確かに沖田総司と原田左之助がいて、山南敬助もいたようだという、現場を目撃した母親の話を『新選組遺聞』に語り遺しているが、土方もこれに加わっていた。
襲撃を受けて傷を負った芹沢は素早く布団を抜け出し、廊下を伝って隣の部屋に逃げ込んだ。しかし、入口でつまずき、倒れたところを切り刻まれて絶命する。芹沢と寝ていたお梅は首が落ちそうなほどに斬られ、平山の首は落ちていた。平山の相方は襲撃時に厠に立っていたため無事だったと伝わる。
平間らは無傷だった。免許皆伝だった芹沢・平山に対し、平間の腕前は目録であり、平間を生かしておいても復讐される恐れはないとして、殺害の対象から外していたのだろう。
暗殺は長州藩によるものとされた。翌々日、芹沢と平山の葬儀が行われ、壬生村共同墓地に埋葬された。墓碑には「十八日卒」と刻まれているが、この日に埋葬されたのである。
前出の為三郎は、決行日は雨天だったとしていて、市中の公家や商人の日記にも降雨と記録されている。しかし、十八日には降雨の記録はないのである。
命拾いした平間は京都を脱し、明治七年(1874)に郷里の常陸国芹沢村で死亡している。
○監修・文 菊地明(きくち・あきら)/1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から
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