少林医馆国际見康中心
少林医馆在针灸、导引手法上讲究气意神合,刚柔相济,在施术过程中要求医者“同体大悲”“痛定思痛”,与病者之间建立心相通、意相解的菩萨境界。佛医中的导引针灸,并非是单纯的运动肌肉筋骨,而是强调当下的心境能量信息的传递。一指禅、二指禅及掌禅、拳禅等摩穴手法的运用,旨在手到病除。佛医的养生在于养心,养心先安神,神安才有魂,有魂就有魄,这就是少林延岐说的“天地人的境界”。
五明林医馆私人見康事务所
作者✍️延岐
少林医馆在针灸、导引手法上讲究气意神合,刚柔相济,在施术过程中要求医者“同体大悲”“痛定思痛”,与病者之间建立心相通、意相解的菩萨境界。佛医中的导引针灸,并非是单纯的运动肌肉筋骨,而是强调当下的心境能量信息的传递。一指禅、二指禅及掌禅、拳禅等摩穴手法的运用,旨在手到病除。佛医的养生在于养心,养心先安神,神安才有魂,有魂就有魄,这就是少林延岐说的“天地人的境界”。
五明林医馆私人見康事务所
作者✍️延岐
#盛世修典#—— “中国历代绘画大系”成果展 Part 26
图1~图2 (元)赵孟頫《幽篁戴胜图》
石渠宝笈续编·贮御书房
现藏故宫博物院
引首:足真态
乾隆十九年(1754)
赵孟頫幽篁戴胜图
降桑传月令,如箦咏风诗。
何事辞双侣,翩然借一枝。
剧观得神际,遥想掞毫时。
磔裂陈纑地,恒新墨妙垂。
乾隆甲戌御题
图3~图5 (元)任仁发《张果见明皇图》
秘殿珠林续编·贮乾清宫
现藏故宫博物院
乾隆二十九年(1764)
题任仁发张果仙踪图
中条山色郁参差,中有幽人道术奇。
未许世间知里系,忽从朝宁谒威仪。
坐如鹤瘦神犹逸,放出驴驰意不羁。
可惜虽曾仙药进,霓裳惊破那能医。
甲申夏六月上瀚御题
图5~图8 (元)赵孟頫《水村图》
石渠宝笈初编·贮养心殿
现藏故宫博物院
引首:清华(某校自称我大清的原因找到了(bushi
乾隆四年(1739)
题赵孟頫水村图手卷
屈子卜居后,潭边渔父逢。
沧浪鼓枻去,烟水自重重。
己未暮春御题
乾隆三十五年(1770)
登澄景楼
(御制诗三集卷八十九 附带注释)
拾级楼栏上一层,沧波墙外见空澄。
水村图问谁家好,佳景王孙示我曾。
(石渠宝笈有赵孟頫水村图真迹神品)
春巡驻左各庄行馆,登澄景楼,见各村风物澄鲜,宛然松雪图中景,行箧适携此卷,书诗帧间,以当题句。
庚寅御笔
四年跟三十五年的字确实差好多哈哈哈[允悲]
一看见某领导吃喝玩乐就想去对对同一天干的正事,把行程交代这么明白的题跋不多。逮住机会就得对[偷笑]然后就发现这天某领导主打一个一边逛街一边发钱,散财童子[坏笑]
乾隆三十五年三月十二 庚寅
○上阅文安堤
○清理庶狱。予以自新。亦恩施所宜逮。所有直隶省军流以下人犯。著该督饬属查核案情。分别减等发落。
○此次办差文武官员。任内所有降级、罚俸、住俸之案。俱著开复。其无此等案件者。各加一级
○此次办差绿营兵丁。著给两月钱粮
○朕恭奉皇太后巡幸天津。业经降旨、将天津府属、及经过州县、节年尾欠灾缓各项。概行豁免。并将直隶通省。未完尾欠银谷等项。普予蠲除。用敷庆泽。
○著再加恩、将直隶通省自乾隆三十一年、至三十三年、因灾缓带徵银十二万四千九百余两。谷豆八千二百余石。改折银一千二百余两。普行蠲免。
图1~图2 (元)赵孟頫《幽篁戴胜图》
石渠宝笈续编·贮御书房
现藏故宫博物院
引首:足真态
乾隆十九年(1754)
赵孟頫幽篁戴胜图
降桑传月令,如箦咏风诗。
何事辞双侣,翩然借一枝。
剧观得神际,遥想掞毫时。
磔裂陈纑地,恒新墨妙垂。
乾隆甲戌御题
图3~图5 (元)任仁发《张果见明皇图》
秘殿珠林续编·贮乾清宫
现藏故宫博物院
乾隆二十九年(1764)
题任仁发张果仙踪图
中条山色郁参差,中有幽人道术奇。
未许世间知里系,忽从朝宁谒威仪。
坐如鹤瘦神犹逸,放出驴驰意不羁。
可惜虽曾仙药进,霓裳惊破那能医。
甲申夏六月上瀚御题
图5~图8 (元)赵孟頫《水村图》
石渠宝笈初编·贮养心殿
现藏故宫博物院
引首:清华(某校自称我大清的原因找到了(bushi
乾隆四年(1739)
题赵孟頫水村图手卷
屈子卜居后,潭边渔父逢。
沧浪鼓枻去,烟水自重重。
己未暮春御题
乾隆三十五年(1770)
登澄景楼
(御制诗三集卷八十九 附带注释)
拾级楼栏上一层,沧波墙外见空澄。
水村图问谁家好,佳景王孙示我曾。
(石渠宝笈有赵孟頫水村图真迹神品)
春巡驻左各庄行馆,登澄景楼,见各村风物澄鲜,宛然松雪图中景,行箧适携此卷,书诗帧间,以当题句。
庚寅御笔
四年跟三十五年的字确实差好多哈哈哈[允悲]
一看见某领导吃喝玩乐就想去对对同一天干的正事,把行程交代这么明白的题跋不多。逮住机会就得对[偷笑]然后就发现这天某领导主打一个一边逛街一边发钱,散财童子[坏笑]
乾隆三十五年三月十二 庚寅
○上阅文安堤
○清理庶狱。予以自新。亦恩施所宜逮。所有直隶省军流以下人犯。著该督饬属查核案情。分别减等发落。
○此次办差文武官员。任内所有降级、罚俸、住俸之案。俱著开复。其无此等案件者。各加一级
○此次办差绿营兵丁。著给两月钱粮
○朕恭奉皇太后巡幸天津。业经降旨、将天津府属、及经过州县、节年尾欠灾缓各项。概行豁免。并将直隶通省。未完尾欠银谷等项。普予蠲除。用敷庆泽。
○著再加恩、将直隶通省自乾隆三十一年、至三十三年、因灾缓带徵银十二万四千九百余两。谷豆八千二百余石。改折银一千二百余两。普行蠲免。
傷寒論
概要
現伝の『宋版傷寒論』は「辨脈法」「平脈法」「傷寒例」「辨痙湿暍脈證」「辨太陽病脈證并治(上・中・下)」「辨陽明病脈證并治」「辨少陽病脈證并治」「辨太陰病脈證并治」「辨少陰病脈證并治」「辨厥陰病脈證并治」「辨霍亂病脈證并治」「辨陰陽易差病脈證并治」「辨不可發汗病脈證并治」「辨可發汗病脈證并治」「辨發汗後病脈證并治」「辨不可吐」「辨可吐」「辨不可下病脈證并治」「辨可下病脈證并治」「辨發汗吐下後病脈證并治」の篇からなりたっている。
このうち一般に辨太陽病脈證并治~辨厥陰病脈證并治までは「三陰三陽篇」といわれ、辨不可發汗病脈證并治~辨可下病脈證并治までは「可不可篇」といわれる。「三陰三陽篇」では、病気を太陽(たいよう)・陽明(ようめい)・少陽(しょうよう)・太陰(たいいん)・少陰(しょういん)・厥陰(けついん)の6つの時期にわけ、それぞれの病期に合った薬を処方することが特徴的である。
起源
建安という年号が終わって10年にもならない頃(建安元年から10年にもならない頃の説もある。また、建安ではなく建寧であろうとの説もある)に張仲景が、一族の者を傷寒で多く失ったため、記したのが本書と言われる。張仲景の名が張機で、長沙太守だったと唐代にかかれた『名医録』に記載され『宋版傷寒論』の序文に宋臣によって引用された説もあるが、正史である『後漢書』『三国志』にはその名がみられない。自序に「傷寒・雑病の論」とあることから傷寒雑病論(繁体字: 傷寒雜病論; 簡体字: 伤寒杂病论; 拼音: Shānghán zábìng lùn)を原題名とする説や、傷寒卒病論が原題とする説があげられているが、5世紀の『小品方』に『張仲景弁傷寒并方』・『張仲景雑方』と記録されていることから『張仲景方』もしくはそれに類した名称で呼ばれていたのだろうと類推されている。しかし、これらの書は失伝した。
傷寒論は数多くの治療家に編纂・校訂された。そしていつ頃か、傷寒を扱った部分と雑病を扱った部分に分かれた。前者は『(張仲景)傷寒論』と題され、唐代に医師の国家試験テキストとされた。
西晋の王叔和が撰した『脈経』には、現伝の『宋版傷寒論』と一致する条文が多くみられる。宋改を経た『脈経』は明の何大任倣宋本が日本に現存する。
『太平御覧』に引用された『養生論』に「王叔和 性沈静 好著述 考覈遺文 采摭群論 撰成脈経十巻 編次張仲景方論 編為三十六巻 大行於世」とあり、王叔和が『張仲景方論』を編したことが記されているがこの書は失伝した。
唐代の孫思邈が著した『千金方』第九には、傷寒が収められている。宋改を経た『備急千金要方』は南宋版が日本に現存する。
唐代の孫思邈が『千金方』の不備を扶翼する目的で撰述したとして仮託される『千金翼方』巻九・巻十には傷寒が収められている。この部分は、一般に『唐本傷寒論』と呼ばれる。宋改を経た『千金翼方』が元大徳本として日本に現存する。
北宋の開宝年間(968年 - 975年)、高継沖が宋朝に帰順し宋朝としての武寧軍節度使に任ぜられた際、傷寒論を宋政府に献上した。その後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(992年)、高継沖本がとり入れられたと考えられている。この『太平聖恵方』中の傷寒部分は、『淳化本傷寒論』と呼ばれ、日本に現存する。
傷寒論として一般に知られているものが北宋の時代に林億(りんおく)・孫奇(そんき)たち(宋臣ら)が校正医書局において校正・復刻(宋改)した傷寒論である。大字本および小字本が出版された。宋改では、宋臣により大規模改変・変更が行われ刊行された。それ故、宋改を受けた書から直接、それ以前の書を知ることは大変困難である。これら宋改を経た大字本および小字本はまとめて『宋版傷寒論』といわれるが、失伝した。
宋改本の原本『宋版傷寒論』は現在に伝わっていないが、小字本の宋改本系にあたるものとして、明の趙開美刻『仲景全書』(1599年)の中の『翻刻宋版傷寒論』全10巻22篇が日本および中華人民共和国に現存している。この書は『趙開美本傷寒論』と一般にいわれる。
『金匱玉函経』も、傷寒論の異本として、校正医書局において校正・復刻(宋改)されている。宋臣らは『傷寒論』に引き続き翌年にこの『金匱玉函経』を世に送り出しており、その重要性を認識していたと思われる。だが、『金匱玉函経』の宋改版が出た後、清朝の康熙56年(1717年)上海の陳世傑が『金匱玉函経』を刊行するまで650年以上にわたり、この『金匱玉函経』が出された記録は見つかっていない。日本においても1746年、清水敬長によって『金匱玉函経』が翻刻されただけで、流布した本は少ないとされる。陳世傑本が、日本および中華人民共和国に現存している。
また、翰林学士の王洙は国家の図書館で虫損を受けた古書中に『金匱玉函要略方』を発見した。この書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。この『金匱玉函要略方』を転写して数人の学識者にのみ伝え、書中に処方とその主治証が完備しているものを使用してみたところ、効果は神の如くであった。そこで、宋臣らは下巻にあった処方を各々の相応する証候文の次に配置しなおし、諸家の方書中に散在する仲景の雑病に関する論説と処方の佚文を採取、各篇末に「附方」として補遺し、上巻の傷寒部分は節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までは残し、全25篇として総262方、これを上中下の三巻本に再編成し、これらの部分は大字本では『(新編)金匱方論』とされ、小字本では『(校正)金匱要略方』とされた。『金匱要略』とは、これら『金匱方論』・『金匱要略方』の通称である。
南宋の成無己(せいむき、無已(むい)の説もあり)による『注解傷寒論』(1144年)では、『宋版傷寒論』と比較すると、『宋版傷寒論』の省略改変が行われており、条文の細字注記の省略、可不可篇で三陰三陽篇で重複する条文の削除、『宋版傷寒論』第五篇以降各篇の一字低格下条文を省略し、陰病の下法を「陽明転属」と解釈する等の点で改変を行っている。また、同一条文でも字句の相違が多い。この『注解傷寒論』は、一般に、『成注本』または『成本『傷寒論』』や単に『成本』とも通称される。こういった点があるにも関わらず、『注解傷寒論』は日本の漢方および中医学に多大な影響を残した。現存する『注解傷寒論』としては明倣元刊本が最善本のひとつとされる。この明倣元刊本はかつて日本にあり、考証学派によって躋寿館より和刻された。現在、明倣元刊本は台湾に現存する。
江戸時代の前半、最も流布した傷寒論は『注解傷寒論』系の傷寒論であった。日本の1660年ごろに作られた活字刊印の単経本傷寒論も『注解傷寒論』が底本であった。約半世紀後、同じ手法で『小刻本傷寒論』を香川修庵が1715年に抜粋・刊行し、大流行した。この小刻本『傷寒論』も、『注解傷寒論』系の書である。江戸時代に制作されたと考えられている『康平本傷寒論』・『康治本傷寒論』も『注解傷寒論』の特徴を持ち、『注解傷寒論』系の偽書とされる。
傷寒とは
傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。傷寒論におけるこの意味の扱いの違いは、林億(りんおく)・孫奇(そんき)らの校正・復刻による宋改の結果起こったことで、古典である傷寒論の解釈の違いになってくる。傷寒論のもっとも際立った功績とは、薬物療法を診断学と結びつけたことと湯液つまり煎じ薬を主体に薬物療法を組み立てたことだった。
ちなみに現代中国語ではチフスのことを傷寒という。傷寒とはさまざまな説があるが、現在医学でいうチフス、インフルエンザ、マラリアに似た疾患ともいわれるが、詳細は不明である。
概要
現伝の『宋版傷寒論』は「辨脈法」「平脈法」「傷寒例」「辨痙湿暍脈證」「辨太陽病脈證并治(上・中・下)」「辨陽明病脈證并治」「辨少陽病脈證并治」「辨太陰病脈證并治」「辨少陰病脈證并治」「辨厥陰病脈證并治」「辨霍亂病脈證并治」「辨陰陽易差病脈證并治」「辨不可發汗病脈證并治」「辨可發汗病脈證并治」「辨發汗後病脈證并治」「辨不可吐」「辨可吐」「辨不可下病脈證并治」「辨可下病脈證并治」「辨發汗吐下後病脈證并治」の篇からなりたっている。
このうち一般に辨太陽病脈證并治~辨厥陰病脈證并治までは「三陰三陽篇」といわれ、辨不可發汗病脈證并治~辨可下病脈證并治までは「可不可篇」といわれる。「三陰三陽篇」では、病気を太陽(たいよう)・陽明(ようめい)・少陽(しょうよう)・太陰(たいいん)・少陰(しょういん)・厥陰(けついん)の6つの時期にわけ、それぞれの病期に合った薬を処方することが特徴的である。
起源
建安という年号が終わって10年にもならない頃(建安元年から10年にもならない頃の説もある。また、建安ではなく建寧であろうとの説もある)に張仲景が、一族の者を傷寒で多く失ったため、記したのが本書と言われる。張仲景の名が張機で、長沙太守だったと唐代にかかれた『名医録』に記載され『宋版傷寒論』の序文に宋臣によって引用された説もあるが、正史である『後漢書』『三国志』にはその名がみられない。自序に「傷寒・雑病の論」とあることから傷寒雑病論(繁体字: 傷寒雜病論; 簡体字: 伤寒杂病论; 拼音: Shānghán zábìng lùn)を原題名とする説や、傷寒卒病論が原題とする説があげられているが、5世紀の『小品方』に『張仲景弁傷寒并方』・『張仲景雑方』と記録されていることから『張仲景方』もしくはそれに類した名称で呼ばれていたのだろうと類推されている。しかし、これらの書は失伝した。
傷寒論は数多くの治療家に編纂・校訂された。そしていつ頃か、傷寒を扱った部分と雑病を扱った部分に分かれた。前者は『(張仲景)傷寒論』と題され、唐代に医師の国家試験テキストとされた。
西晋の王叔和が撰した『脈経』には、現伝の『宋版傷寒論』と一致する条文が多くみられる。宋改を経た『脈経』は明の何大任倣宋本が日本に現存する。
『太平御覧』に引用された『養生論』に「王叔和 性沈静 好著述 考覈遺文 采摭群論 撰成脈経十巻 編次張仲景方論 編為三十六巻 大行於世」とあり、王叔和が『張仲景方論』を編したことが記されているがこの書は失伝した。
唐代の孫思邈が著した『千金方』第九には、傷寒が収められている。宋改を経た『備急千金要方』は南宋版が日本に現存する。
唐代の孫思邈が『千金方』の不備を扶翼する目的で撰述したとして仮託される『千金翼方』巻九・巻十には傷寒が収められている。この部分は、一般に『唐本傷寒論』と呼ばれる。宋改を経た『千金翼方』が元大徳本として日本に現存する。
北宋の開宝年間(968年 - 975年)、高継沖が宋朝に帰順し宋朝としての武寧軍節度使に任ぜられた際、傷寒論を宋政府に献上した。その後、宋政府が諸家の医方を蒐集して『太平聖恵方』を編纂した時(992年)、高継沖本がとり入れられたと考えられている。この『太平聖恵方』中の傷寒部分は、『淳化本傷寒論』と呼ばれ、日本に現存する。
傷寒論として一般に知られているものが北宋の時代に林億(りんおく)・孫奇(そんき)たち(宋臣ら)が校正医書局において校正・復刻(宋改)した傷寒論である。大字本および小字本が出版された。宋改では、宋臣により大規模改変・変更が行われ刊行された。それ故、宋改を受けた書から直接、それ以前の書を知ることは大変困難である。これら宋改を経た大字本および小字本はまとめて『宋版傷寒論』といわれるが、失伝した。
宋改本の原本『宋版傷寒論』は現在に伝わっていないが、小字本の宋改本系にあたるものとして、明の趙開美刻『仲景全書』(1599年)の中の『翻刻宋版傷寒論』全10巻22篇が日本および中華人民共和国に現存している。この書は『趙開美本傷寒論』と一般にいわれる。
『金匱玉函経』も、傷寒論の異本として、校正医書局において校正・復刻(宋改)されている。宋臣らは『傷寒論』に引き続き翌年にこの『金匱玉函経』を世に送り出しており、その重要性を認識していたと思われる。だが、『金匱玉函経』の宋改版が出た後、清朝の康熙56年(1717年)上海の陳世傑が『金匱玉函経』を刊行するまで650年以上にわたり、この『金匱玉函経』が出された記録は見つかっていない。日本においても1746年、清水敬長によって『金匱玉函経』が翻刻されただけで、流布した本は少ないとされる。陳世傑本が、日本および中華人民共和国に現存している。
また、翰林学士の王洙は国家の図書館で虫損を受けた古書中に『金匱玉函要略方』を発見した。この書は上巻に傷寒、中巻に雑病、下巻に処方と婦人病が記されたものであった。この『金匱玉函要略方』を転写して数人の学識者にのみ伝え、書中に処方とその主治証が完備しているものを使用してみたところ、効果は神の如くであった。そこで、宋臣らは下巻にあった処方を各々の相応する証候文の次に配置しなおし、諸家の方書中に散在する仲景の雑病に関する論説と処方の佚文を採取、各篇末に「附方」として補遺し、上巻の傷寒部分は節略が多いので削除し、その他の雑病より飲食禁忌までは残し、全25篇として総262方、これを上中下の三巻本に再編成し、これらの部分は大字本では『(新編)金匱方論』とされ、小字本では『(校正)金匱要略方』とされた。『金匱要略』とは、これら『金匱方論』・『金匱要略方』の通称である。
南宋の成無己(せいむき、無已(むい)の説もあり)による『注解傷寒論』(1144年)では、『宋版傷寒論』と比較すると、『宋版傷寒論』の省略改変が行われており、条文の細字注記の省略、可不可篇で三陰三陽篇で重複する条文の削除、『宋版傷寒論』第五篇以降各篇の一字低格下条文を省略し、陰病の下法を「陽明転属」と解釈する等の点で改変を行っている。また、同一条文でも字句の相違が多い。この『注解傷寒論』は、一般に、『成注本』または『成本『傷寒論』』や単に『成本』とも通称される。こういった点があるにも関わらず、『注解傷寒論』は日本の漢方および中医学に多大な影響を残した。現存する『注解傷寒論』としては明倣元刊本が最善本のひとつとされる。この明倣元刊本はかつて日本にあり、考証学派によって躋寿館より和刻された。現在、明倣元刊本は台湾に現存する。
江戸時代の前半、最も流布した傷寒論は『注解傷寒論』系の傷寒論であった。日本の1660年ごろに作られた活字刊印の単経本傷寒論も『注解傷寒論』が底本であった。約半世紀後、同じ手法で『小刻本傷寒論』を香川修庵が1715年に抜粋・刊行し、大流行した。この小刻本『傷寒論』も、『注解傷寒論』系の書である。江戸時代に制作されたと考えられている『康平本傷寒論』・『康治本傷寒論』も『注解傷寒論』の特徴を持ち、『注解傷寒論』系の偽書とされる。
傷寒とは
傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。傷寒論におけるこの意味の扱いの違いは、林億(りんおく)・孫奇(そんき)らの校正・復刻による宋改の結果起こったことで、古典である傷寒論の解釈の違いになってくる。傷寒論のもっとも際立った功績とは、薬物療法を診断学と結びつけたことと湯液つまり煎じ薬を主体に薬物療法を組み立てたことだった。
ちなみに現代中国語ではチフスのことを傷寒という。傷寒とはさまざまな説があるが、現在医学でいうチフス、インフルエンザ、マラリアに似た疾患ともいわれるが、詳細は不明である。
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