マラトンの戦い
背景
西方への勢力を拡大しつつあったペルシア王国は、イオニアの反乱を鎮圧し、エーゲ海東岸から北岸の諸都市を攻略した。これらの地域の都市国家を征服した後、ペルシア王国がギリシア本土へ侵攻してくることは誰の目にも明らかだったが、ギリシアの都市国家はこれに対して有効な手を打つことができず、陸軍国スパルタは王位継承問題を抱えて内紛を起こし、同じ海洋国家であるアテナイとアイギナはペルシアに対する路線の違いと利権争いで相互に略奪を繰り返す有り様であった。
ダレイオス1世の命を受けたペルシア王国の司令官ダティス、およびアルタプレネスは、ヘロドトスによれば600隻の艦隊でキリキアを出立し、途上キクラデス諸島の都市国家ナクソス島、デロス島、エウボイア島のエレトリアを陥落させつつアテナイに迫った。
ペルシア軍は、騎馬部隊の展開しやすい場所であるというヒッピアスの助言によってマラトンに上陸したとされるが、当の騎馬部隊が戦闘で全く活躍していないことから、ヒッピアスはかつて父ペイシストラトスとともにアテナイに帰国して成功した時のルートを通って縁起をかつごうとしたとする説もある。
また、当時アイギナの略奪行為によってファレロン湾を完全に掌握できなかったアテナイが、マラトンを黒海沿岸部への輸出中継地としていたことから上陸地として選ばれたとする説もある。
ペルシア軍の動きを察知していたアテナイは、ミルティアデスをはじめとする10人の将軍を選出、プラタイアからの援軍と合流した重装歩兵部隊をマラトンに派遣し、スパルタにも援軍の使者を出した。
経過
ダレイオス1世の命を受けたペルシア遠征軍は、ヘロドトスによれば三段櫂船600隻によって輸送されており、兵力の推定は2万以下と考えられている。遠征軍はスコイニア湾に上陸し、軽装歩兵、重装歩兵、騎兵を展開し、中央部に主力を配して陣を張った。対して、 アテナイ兵約9,000、プラタイア兵約600の連合軍は、マラトン南部の街道から侵入し、同地のヘラクレス神域に布陣して、ペルシア軍と対峙した。
アテナイ・プラタイア連合軍を指揮していた将軍たちはここで会議を開いたが、スパルタからの援軍を待つか戦闘を行うかで意見が割れた。しかし、ミルティアデスは、ポレマルコス・アルコン(軍事長官)に就任していたカリマコスを口説き落として主戦論を押し通した。全軍の総指揮官は10人の将軍が日替わりで就任していたが、ミルティアデスは自分の総指揮官の順番がまわってくると、ペルシア軍との開戦に踏み切った。
早朝、ほぼ全軍を重装歩兵でかため、最右翼にカリマコス率いる主力部隊を、最左翼にプラタイアの主力部隊を配置したギリシア軍は、ペルシア軍に総攻撃を仕掛けた。アテナイ・プラタイア連合軍は敵陣と同じ長さの戦線を確保したため、中央部はわずか数列の厚みしかなく最大の弱点であった。しかし、ペルシア軍の戦法を知っていたミルティアデスは、ペルシア軍に駆け足で突撃するという奇襲戦法を用いた。これについては、
敵陣までの8スタディオン(約1,480メートル)を一気に駆け抜けた
弓の射程まで徒歩で接近し、突然駆けだした
ペルシア軍が行軍してきたところに駆け足で突撃した
といった説が提唱されている。この行為をペルシア軍は自殺行為と侮ったが、白兵戦に持ち込んだギリシア軍は、重装歩兵密集陣を駆使して長時間にわたって戦い抜いた。戦線を拡張したため、数列しか編成されなかった アリステイデス率いる中央軍はペルシア歩兵に押し込まれたが、両翼は十分な厚みを持っていたため逆にペルシア軍を敗走させた。両翼の軍は敗走する敵を追わず、そのまま中央部のペルシア軍を包囲して壊滅させ、撤退する敵軍を追撃した。この時、カリマコスを含むギリシア軍の死者192人に対して、ペルシア軍の死者は6,400人に達したとされる。また、ペルシア艦艇7隻が拿捕された。
スパルタの増援約2,000人は、出立してからわずか2日でアテナイに到着したとされる(アテナイ-スパルタ間の距離は200キロ以上)が、これは全てが終結した後であった。
影響
マラトンの勝利は、アテナイに大きな自信を与えた。マラトンで戦った市民軍はマラトーノマカイと呼ばれ、アテナイ戦士像の理想となり、古典期の陶芸芸術のモティーフとして大きな影響を及ぼした。また、プルタルコスによれば、エウクレス(Eukles)なる兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」とエウアンゲリオン(良い知らせ)を告げて絶命したという(他の伝承では走者の名をフィリッピデス(Philippides)とするものもある)。これらは後世の創作である可能性もあるが[1]、これをもとに第1回近代オリンピックでは、アテナイ-マラトン間の走行競技が行われた。
アテナイは、遠征軍を撃退したことによってペルシア宥和政策を完全に放棄し、紀元前488年頃には、僭主残党のヒッパルコス(ヒッピアスの友人であるが、僭主政治には加担していない)が陶片追放され、翌年には、マラトンの戦いでペルシア軍と内通し、盾で合戦の合図を送ったとの風説が流れたアルクメオン家(ペルシア宥和派の一族)の中心人物メガクレスがやはり陶片追放された。
奇襲戦法を思いついたミルティアデスはこの勝利で自信をつけたのか、パロス島遠征を決行するものの失敗する。陶片追放にはならなかったが、市民を欺いたとして高額の罰金を支払わされ、さらにそのショックで戦傷が悪化し、死亡したという。プルタルコスによれば、アテナイ人はマラトンの勝利をペルシア戦争の終結と看做したが、ひとりテミストクレスのみは、これを新たな闘争の始まりと看破したとされる。
马拉松战役,是发生在公元前490年的一场战役,是希腊城邦联军抵抗波斯帝国的入侵,最终由雅典领导的希腊联军获胜。希腊联军方面参战的一万一千人全部是重装步兵,他们按照惯例在马拉松平原的西侧排出八行纵深的密集方阵。此时正值雨季,马拉松平原只有中间地势较高,两边都是泥沼地,希腊利用地形靠智谋获得了胜利。波斯军队共阵亡6400人,希腊方面仅仅阵亡192人。双方阵亡数字的悬殊差距充分体现了希腊密集阵对波斯方阵的压倒性优势。
背景
西方への勢力を拡大しつつあったペルシア王国は、イオニアの反乱を鎮圧し、エーゲ海東岸から北岸の諸都市を攻略した。これらの地域の都市国家を征服した後、ペルシア王国がギリシア本土へ侵攻してくることは誰の目にも明らかだったが、ギリシアの都市国家はこれに対して有効な手を打つことができず、陸軍国スパルタは王位継承問題を抱えて内紛を起こし、同じ海洋国家であるアテナイとアイギナはペルシアに対する路線の違いと利権争いで相互に略奪を繰り返す有り様であった。
ダレイオス1世の命を受けたペルシア王国の司令官ダティス、およびアルタプレネスは、ヘロドトスによれば600隻の艦隊でキリキアを出立し、途上キクラデス諸島の都市国家ナクソス島、デロス島、エウボイア島のエレトリアを陥落させつつアテナイに迫った。
ペルシア軍は、騎馬部隊の展開しやすい場所であるというヒッピアスの助言によってマラトンに上陸したとされるが、当の騎馬部隊が戦闘で全く活躍していないことから、ヒッピアスはかつて父ペイシストラトスとともにアテナイに帰国して成功した時のルートを通って縁起をかつごうとしたとする説もある。
また、当時アイギナの略奪行為によってファレロン湾を完全に掌握できなかったアテナイが、マラトンを黒海沿岸部への輸出中継地としていたことから上陸地として選ばれたとする説もある。
ペルシア軍の動きを察知していたアテナイは、ミルティアデスをはじめとする10人の将軍を選出、プラタイアからの援軍と合流した重装歩兵部隊をマラトンに派遣し、スパルタにも援軍の使者を出した。
経過
ダレイオス1世の命を受けたペルシア遠征軍は、ヘロドトスによれば三段櫂船600隻によって輸送されており、兵力の推定は2万以下と考えられている。遠征軍はスコイニア湾に上陸し、軽装歩兵、重装歩兵、騎兵を展開し、中央部に主力を配して陣を張った。対して、 アテナイ兵約9,000、プラタイア兵約600の連合軍は、マラトン南部の街道から侵入し、同地のヘラクレス神域に布陣して、ペルシア軍と対峙した。
アテナイ・プラタイア連合軍を指揮していた将軍たちはここで会議を開いたが、スパルタからの援軍を待つか戦闘を行うかで意見が割れた。しかし、ミルティアデスは、ポレマルコス・アルコン(軍事長官)に就任していたカリマコスを口説き落として主戦論を押し通した。全軍の総指揮官は10人の将軍が日替わりで就任していたが、ミルティアデスは自分の総指揮官の順番がまわってくると、ペルシア軍との開戦に踏み切った。
早朝、ほぼ全軍を重装歩兵でかため、最右翼にカリマコス率いる主力部隊を、最左翼にプラタイアの主力部隊を配置したギリシア軍は、ペルシア軍に総攻撃を仕掛けた。アテナイ・プラタイア連合軍は敵陣と同じ長さの戦線を確保したため、中央部はわずか数列の厚みしかなく最大の弱点であった。しかし、ペルシア軍の戦法を知っていたミルティアデスは、ペルシア軍に駆け足で突撃するという奇襲戦法を用いた。これについては、
敵陣までの8スタディオン(約1,480メートル)を一気に駆け抜けた
弓の射程まで徒歩で接近し、突然駆けだした
ペルシア軍が行軍してきたところに駆け足で突撃した
といった説が提唱されている。この行為をペルシア軍は自殺行為と侮ったが、白兵戦に持ち込んだギリシア軍は、重装歩兵密集陣を駆使して長時間にわたって戦い抜いた。戦線を拡張したため、数列しか編成されなかった アリステイデス率いる中央軍はペルシア歩兵に押し込まれたが、両翼は十分な厚みを持っていたため逆にペルシア軍を敗走させた。両翼の軍は敗走する敵を追わず、そのまま中央部のペルシア軍を包囲して壊滅させ、撤退する敵軍を追撃した。この時、カリマコスを含むギリシア軍の死者192人に対して、ペルシア軍の死者は6,400人に達したとされる。また、ペルシア艦艇7隻が拿捕された。
スパルタの増援約2,000人は、出立してからわずか2日でアテナイに到着したとされる(アテナイ-スパルタ間の距離は200キロ以上)が、これは全てが終結した後であった。
影響
マラトンの勝利は、アテナイに大きな自信を与えた。マラトンで戦った市民軍はマラトーノマカイと呼ばれ、アテナイ戦士像の理想となり、古典期の陶芸芸術のモティーフとして大きな影響を及ぼした。また、プルタルコスによれば、エウクレス(Eukles)なる兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」とエウアンゲリオン(良い知らせ)を告げて絶命したという(他の伝承では走者の名をフィリッピデス(Philippides)とするものもある)。これらは後世の創作である可能性もあるが[1]、これをもとに第1回近代オリンピックでは、アテナイ-マラトン間の走行競技が行われた。
アテナイは、遠征軍を撃退したことによってペルシア宥和政策を完全に放棄し、紀元前488年頃には、僭主残党のヒッパルコス(ヒッピアスの友人であるが、僭主政治には加担していない)が陶片追放され、翌年には、マラトンの戦いでペルシア軍と内通し、盾で合戦の合図を送ったとの風説が流れたアルクメオン家(ペルシア宥和派の一族)の中心人物メガクレスがやはり陶片追放された。
奇襲戦法を思いついたミルティアデスはこの勝利で自信をつけたのか、パロス島遠征を決行するものの失敗する。陶片追放にはならなかったが、市民を欺いたとして高額の罰金を支払わされ、さらにそのショックで戦傷が悪化し、死亡したという。プルタルコスによれば、アテナイ人はマラトンの勝利をペルシア戦争の終結と看做したが、ひとりテミストクレスのみは、これを新たな闘争の始まりと看破したとされる。
马拉松战役,是发生在公元前490年的一场战役,是希腊城邦联军抵抗波斯帝国的入侵,最终由雅典领导的希腊联军获胜。希腊联军方面参战的一万一千人全部是重装步兵,他们按照惯例在马拉松平原的西侧排出八行纵深的密集方阵。此时正值雨季,马拉松平原只有中间地势较高,两边都是泥沼地,希腊利用地形靠智谋获得了胜利。波斯军队共阵亡6400人,希腊方面仅仅阵亡192人。双方阵亡数字的悬殊差距充分体现了希腊密集阵对波斯方阵的压倒性优势。
豊臣秀次の歴史
豊臣家に翻弄された豊臣秀次の生涯
養子として諸家を渡り歩いた豊臣秀次
豊臣秀次が生まれたのは、豊臣秀吉が織田家の奉公衆として奮励していた頃の1568年(永禄11年)のこと。豊臣秀吉の姉「とも」と「三好吉房」(みよしよしふさ)の長男として、尾張国知多郡大高村(現在の愛知県名古屋市緑区)で誕生しました。
豊臣秀次の人生は、幼少期の時点で豊臣秀吉によって翻弄されることとなります。
当時、豊臣秀吉は織田信長の近江国(現在の滋賀県)侵攻に伴い、北近江の浅井氏の家臣である「宮部継潤」(みやべけいじゅん)を降伏させるために奔走していました。
豊臣秀吉は宮部継潤との交渉の際に、4歳の豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質に差し出します。
このまま豊臣秀次は宮部家の養子となり、「宮部吉継」(みやべよしつぐ)と名乗るようになりました。そのあと、浅井氏が滅亡すると、宮部継潤は豊臣秀吉の臣下となったため、豊臣秀次も養子ではなくなることに。
しかし、豊臣秀吉は畿内(きない:山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国)での連携を強めるために、今度は河内国(大阪府羽曳野市)の「高屋城」の城主であった「三好康長」(みよしやすなが)のもとへ豊臣秀次を引き渡します。こうして、豊臣秀次は再び他家の養子となり、「三好信吉」(みよしのぶよし)と改名して三好家を相続することとなりました。
2代目関白に就任した豊臣秀次
1583年(天正11年)頃から、豊臣秀次は三好家で家臣団を束ねる地位となっていました。翌年の1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信長の後継として天下統一への道を歩み始めると、豊臣秀次も羽柴姓(当時の豊臣秀吉の姓)に復帰して羽柴信吉と名乗り改め、天下人の甥として期待される存在となっていったのです。
この年に織田・徳川勢力と争った「小牧・長久手の戦い」では、将来を嘱望される豊臣秀次が総大将を務めましたが、有力家臣を失う大敗を喫します。この戦いで失態を演じた豊臣秀次は、豊臣秀吉から激しく叱責を受けたと言われています。
しかし、そのあとの「紀州征伐」と「四国征伐」では副将として活躍を見せ、豊臣秀次は汚名返上を果たすことに。そして、戦功を挙げた豊臣秀次は羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名し、1586年(天正14年)には豊臣秀吉から豊臣姓を授かりました。
順調に出世を重ねていた豊臣秀次は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の嫡男である「鶴松」(つるまつ)が亡くなったことから、改めて豊臣秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。この頃、朝鮮侵略の「文禄の役」(ぶんろくのえき)を控えていた豊臣秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲り、2代目関白として豊臣秀次は実質的な統治者となっていきました。
切腹に追いやられた「秀次事件」
ところが、1593年(文禄2年)に豊臣秀吉と「淀殿」(よどどの)との間に念願の実子が生まれると、豊臣秀次の運命は大きく転換することとなります。豊臣秀次は天下人後継者としての地位を確立していたにもかかわらず、実子の「お拾」(おひろい:のちの豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉から早々と隠居を促されることに。
豊臣秀吉はお拾を溺愛し、一刻も早く跡を継がせたいあまり、豊臣秀次の娘を生まれたばかりのお拾と婚約させようともしていたのです。こうした豊臣秀吉の対応に不安を募らせた豊臣秀次は、持病の喘息を悪化させ心神喪失状態へと陥っていきます。この頃から豊臣秀吉と豊臣秀次の関係は悪化していきました。
1595年(文禄4年)、豊臣秀次はついに謀反の疑いをかけられ、関白職を剥奪されてしまいます。豊臣秀次はこれを否定しましたが、豊臣秀吉に拝謁することは叶わず、わずかな従者とともに高野山へ追放されることに。
このとき、豊臣秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ、監禁に近いかたちで隠棲の身となってしまったのです。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで、豊臣秀次は切腹を命じられ、28歳で人生の幕を閉じました。
この豊臣秀次の処刑に伴い、妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となり、豊臣秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされています。このように唐突に起きた「秀次事件」は、あまりに残忍な処断であったことから、諸大名や民衆にまで不安は広がり、のちに豊臣政権を崩壊に導くきっかけのひとつとなりました。
「秀次事件」その後の物語
三条河原で処刑された悲運な美少女
天下人の後継として地位を固めていたはずの豊臣秀次が、急転直下して自害することとなった「秀次事件」の真相は判明しておらず、いくつかの仮説が語られてきました。
一説によると、豊臣秀次は隠居を迫られた頃から自暴自棄になり、「殺生関白」と噂されるほど素行に問題があったとも言われています。
豊臣秀吉は切腹した豊臣秀次を三条河原に晒し首にして、そこで家族や家臣達を処刑させました。処刑者の中には、豊臣秀次に側室として嫁ぐ予定だった「最上義光」の娘である「駒姫」(こまひめ)の姿も。
当時、美少女と有名だった駒姫はまだ15歳と若く、正式に側室となる前だったため最上家をはじめとする諸大名から助命嘆願がされていました。この声に対し、豊臣秀吉は駒姫の処刑を免除するよう命じましたが、処刑場まであと一歩のところで間に合わず、他の側室達と同様に駒姫は処刑されてしまったと言われています。
このように、豊臣秀次の近親者は、幼い子どもや女性であっても例外なく許されず、悪人であるという見せしめが行われたのです。秀次事件による駒姫の死は、そのあとに最上家が「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方につくきっかけになったとも考えられています。
丰臣秀次(1568-1595)本名三好信吉,幼名治兵卫、万丸,通称小一郎、孙七郎,日本战国时代政治人物,公卿,尾张城主三好吉房之子,太政大臣丰臣秀吉的养子和外甥。秀吉在织田信长死后,大量任用亲戚,秀次在1583年时参与北伊势与贱岳的战争,之后的小牧长久手之战时,秀次对抗德川家康不仅大败,而且让丰臣秀吉帐下大将池田恒兴阵亡使得秀吉大怒,1585-1590这五年间屡立战功,因功受封清洲城主。次年,舅父丰臣秀吉次子鹤松病逝,秀次遂成为秀吉养子,同年继承关白之位,但在丰臣秀吉第三子秀赖诞生之后,秀吉对秀次便不再信任,秀次后来做出很多不人道之事,以至于得了个杀生关白的绰号,1595年,丰臣秀次被流放至高野山,随即自裁,同年,其妻女共三十八人被丰臣秀吉斩于京都三条河原。
秀次被杀后,太阁极力抹去秀次的痕迹,甚至当初秀吉自己耗费心血建造的聚乐第也因此焚毁。而德川幕府执政时期又极力抹去丰家的痕迹,事情的真相今天确实很难清楚。只是秀次在治政上名声颇佳,又是有良好修养的文化人,当时秀次交厚如山科言经,里村绍巴都是深知文雅的人(里村被称为是连歌史上最后的巨匠),秀次会做出种种逆行确实值得疑惑。
豊臣家に翻弄された豊臣秀次の生涯
養子として諸家を渡り歩いた豊臣秀次
豊臣秀次が生まれたのは、豊臣秀吉が織田家の奉公衆として奮励していた頃の1568年(永禄11年)のこと。豊臣秀吉の姉「とも」と「三好吉房」(みよしよしふさ)の長男として、尾張国知多郡大高村(現在の愛知県名古屋市緑区)で誕生しました。
豊臣秀次の人生は、幼少期の時点で豊臣秀吉によって翻弄されることとなります。
当時、豊臣秀吉は織田信長の近江国(現在の滋賀県)侵攻に伴い、北近江の浅井氏の家臣である「宮部継潤」(みやべけいじゅん)を降伏させるために奔走していました。
豊臣秀吉は宮部継潤との交渉の際に、4歳の豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質に差し出します。
このまま豊臣秀次は宮部家の養子となり、「宮部吉継」(みやべよしつぐ)と名乗るようになりました。そのあと、浅井氏が滅亡すると、宮部継潤は豊臣秀吉の臣下となったため、豊臣秀次も養子ではなくなることに。
しかし、豊臣秀吉は畿内(きない:山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国)での連携を強めるために、今度は河内国(大阪府羽曳野市)の「高屋城」の城主であった「三好康長」(みよしやすなが)のもとへ豊臣秀次を引き渡します。こうして、豊臣秀次は再び他家の養子となり、「三好信吉」(みよしのぶよし)と改名して三好家を相続することとなりました。
2代目関白に就任した豊臣秀次
1583年(天正11年)頃から、豊臣秀次は三好家で家臣団を束ねる地位となっていました。翌年の1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信長の後継として天下統一への道を歩み始めると、豊臣秀次も羽柴姓(当時の豊臣秀吉の姓)に復帰して羽柴信吉と名乗り改め、天下人の甥として期待される存在となっていったのです。
この年に織田・徳川勢力と争った「小牧・長久手の戦い」では、将来を嘱望される豊臣秀次が総大将を務めましたが、有力家臣を失う大敗を喫します。この戦いで失態を演じた豊臣秀次は、豊臣秀吉から激しく叱責を受けたと言われています。
しかし、そのあとの「紀州征伐」と「四国征伐」では副将として活躍を見せ、豊臣秀次は汚名返上を果たすことに。そして、戦功を挙げた豊臣秀次は羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名し、1586年(天正14年)には豊臣秀吉から豊臣姓を授かりました。
順調に出世を重ねていた豊臣秀次は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の嫡男である「鶴松」(つるまつ)が亡くなったことから、改めて豊臣秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。この頃、朝鮮侵略の「文禄の役」(ぶんろくのえき)を控えていた豊臣秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲り、2代目関白として豊臣秀次は実質的な統治者となっていきました。
切腹に追いやられた「秀次事件」
ところが、1593年(文禄2年)に豊臣秀吉と「淀殿」(よどどの)との間に念願の実子が生まれると、豊臣秀次の運命は大きく転換することとなります。豊臣秀次は天下人後継者としての地位を確立していたにもかかわらず、実子の「お拾」(おひろい:のちの豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉から早々と隠居を促されることに。
豊臣秀吉はお拾を溺愛し、一刻も早く跡を継がせたいあまり、豊臣秀次の娘を生まれたばかりのお拾と婚約させようともしていたのです。こうした豊臣秀吉の対応に不安を募らせた豊臣秀次は、持病の喘息を悪化させ心神喪失状態へと陥っていきます。この頃から豊臣秀吉と豊臣秀次の関係は悪化していきました。
1595年(文禄4年)、豊臣秀次はついに謀反の疑いをかけられ、関白職を剥奪されてしまいます。豊臣秀次はこれを否定しましたが、豊臣秀吉に拝謁することは叶わず、わずかな従者とともに高野山へ追放されることに。
このとき、豊臣秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ、監禁に近いかたちで隠棲の身となってしまったのです。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで、豊臣秀次は切腹を命じられ、28歳で人生の幕を閉じました。
この豊臣秀次の処刑に伴い、妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となり、豊臣秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされています。このように唐突に起きた「秀次事件」は、あまりに残忍な処断であったことから、諸大名や民衆にまで不安は広がり、のちに豊臣政権を崩壊に導くきっかけのひとつとなりました。
「秀次事件」その後の物語
三条河原で処刑された悲運な美少女
天下人の後継として地位を固めていたはずの豊臣秀次が、急転直下して自害することとなった「秀次事件」の真相は判明しておらず、いくつかの仮説が語られてきました。
一説によると、豊臣秀次は隠居を迫られた頃から自暴自棄になり、「殺生関白」と噂されるほど素行に問題があったとも言われています。
豊臣秀吉は切腹した豊臣秀次を三条河原に晒し首にして、そこで家族や家臣達を処刑させました。処刑者の中には、豊臣秀次に側室として嫁ぐ予定だった「最上義光」の娘である「駒姫」(こまひめ)の姿も。
当時、美少女と有名だった駒姫はまだ15歳と若く、正式に側室となる前だったため最上家をはじめとする諸大名から助命嘆願がされていました。この声に対し、豊臣秀吉は駒姫の処刑を免除するよう命じましたが、処刑場まであと一歩のところで間に合わず、他の側室達と同様に駒姫は処刑されてしまったと言われています。
このように、豊臣秀次の近親者は、幼い子どもや女性であっても例外なく許されず、悪人であるという見せしめが行われたのです。秀次事件による駒姫の死は、そのあとに最上家が「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方につくきっかけになったとも考えられています。
丰臣秀次(1568-1595)本名三好信吉,幼名治兵卫、万丸,通称小一郎、孙七郎,日本战国时代政治人物,公卿,尾张城主三好吉房之子,太政大臣丰臣秀吉的养子和外甥。秀吉在织田信长死后,大量任用亲戚,秀次在1583年时参与北伊势与贱岳的战争,之后的小牧长久手之战时,秀次对抗德川家康不仅大败,而且让丰臣秀吉帐下大将池田恒兴阵亡使得秀吉大怒,1585-1590这五年间屡立战功,因功受封清洲城主。次年,舅父丰臣秀吉次子鹤松病逝,秀次遂成为秀吉养子,同年继承关白之位,但在丰臣秀吉第三子秀赖诞生之后,秀吉对秀次便不再信任,秀次后来做出很多不人道之事,以至于得了个杀生关白的绰号,1595年,丰臣秀次被流放至高野山,随即自裁,同年,其妻女共三十八人被丰臣秀吉斩于京都三条河原。
秀次被杀后,太阁极力抹去秀次的痕迹,甚至当初秀吉自己耗费心血建造的聚乐第也因此焚毁。而德川幕府执政时期又极力抹去丰家的痕迹,事情的真相今天确实很难清楚。只是秀次在治政上名声颇佳,又是有良好修养的文化人,当时秀次交厚如山科言经,里村绍巴都是深知文雅的人(里村被称为是连歌史上最后的巨匠),秀次会做出种种逆行确实值得疑惑。
朝倉義景の歴史
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。
越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。
そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。
若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。
そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。
この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。
朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。
時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。
朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。
そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。
そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。
朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。
その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。
織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。
しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。
そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。
しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。
これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。
これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。
それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。
さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。
このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。
武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。
そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。
これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。
一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。
そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。
越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。
そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。
若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。
そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。
この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。
朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。
時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。
朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。
そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。
そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。
朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。
その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。
織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。
しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。
そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。
しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。
これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。
これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。
それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。
さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。
このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。
武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。
そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。
これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。
一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。
そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。
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