外交部「春節は中国のものであり、世界のものでもある」
第78回国連総会で22日、春節(旧正月)を国連の休日とする決議が全会一致で採択されたことについて、外交部(外務省)の毛寧報道官は25日、「春節は中国のものであり、世界のものでもある。概算では、20ヶ国近くが春節を法定祝休日とし、世界人口の約5分の1が様々な形で旧正月を祝っている。春節の民俗行事はすでに200近くの国や地域に広まり、世界的な文化イベントとなり、各国の人々に楽しみをもたらしている」とした。
毛報道官はさらに、「春節のめでたさと和やかさは、春の祝福と温もりを表しており、親睦・調和・平和という中華文化の精神的核心を体現してもいる。我々は世界と共に春節を祝うことを望んでおり、様々な文明が調和し、互いに成果を挙げ、交流し、参考にし合い、各国の人々が互いを理解し、親交を結び、手を携えて共に歩み、人類運命共同体を共同で構築することを希望している」とした。(編集NA)
「人民網日本語版」2023年12月26日
第78回国連総会で22日、春節(旧正月)を国連の休日とする決議が全会一致で採択されたことについて、外交部(外務省)の毛寧報道官は25日、「春節は中国のものであり、世界のものでもある。概算では、20ヶ国近くが春節を法定祝休日とし、世界人口の約5分の1が様々な形で旧正月を祝っている。春節の民俗行事はすでに200近くの国や地域に広まり、世界的な文化イベントとなり、各国の人々に楽しみをもたらしている」とした。
毛報道官はさらに、「春節のめでたさと和やかさは、春の祝福と温もりを表しており、親睦・調和・平和という中華文化の精神的核心を体現してもいる。我々は世界と共に春節を祝うことを望んでおり、様々な文明が調和し、互いに成果を挙げ、交流し、参考にし合い、各国の人々が互いを理解し、親交を結び、手を携えて共に歩み、人類運命共同体を共同で構築することを希望している」とした。(編集NA)
「人民網日本語版」2023年12月26日
清乾隆 青花秋葵瑞芝如意耳瓶
本品圆唇,束颈,两侧饰钩首如意耳,溜肩,胸圆鼓,身下收至下腹略微外撇,青花满饰,唇下一周如意云头纹,如意耳身钩花朵,颈部一周连枝纹将颈腹分开,而上下纹饰皆为缠枝秋葵纹,缠枝之上蔓生灵芝及莨苕纹,底部一周仰式如意头及简化蕉叶纹,青花勾勒清楚,分水鲜明,发色雅致,而明暗有度,花纹姿态婉转,曼妙如生,底部正中篆书“大清乾隆年制款”。此瓶形态优美,绘艺卓绝,完美融合成化青花宫碗之设计和西方绘画之技法,为乾隆本朝瓷器登峰造极之作。
瓶身线条优美,源自雍正朝之橄榄瓶,可参考一件北京故宫藏“清雍正 青花缠枝花纹双耳瓶”,惟双耳方环,见《故宫博物院藏文物珍品全集·青花釉里红(下)》,香港,2010年,编号85。清宫旧藏一件“清乾隆 黄地紫绿彩勾莲纹瓶”,其形制与该瓶类似,唯无双耳设计,见《故宫博物院藏文物珍品大系:杂釉彩·素三彩》,上海,2009年,编号132。另参考清宫旧藏一件“清乾隆 斗彩花卉纹双耳活环瓶”,著录于《故宫博物院藏文物珍品大系:五彩·斗彩》,上海,2007年,编号252。此瓶青花发色淡雅,形制一开先河,皆有乾隆早期瓷器的特点,或由唐英(1682-1756)在景德镇督造而成。
蜀葵因最早于四川地区发现而得名,《百卉部·卷一》载傅玄《蜀葵赋序》曰:蜀葵,其苗如瓜瓠。常种之,一名引苗,而生华,经二年,春乃发。
《左传·成公十七年》:初,鲍国去鲍氏而来为施孝叔臣。施氏卜宰,匡句须吉。施氏之宰,有百室之邑。与匡句须邑,使为宰。以让鲍国,而致邑焉。施孝叔曰:(子实吉。)对曰:(能与忠良,吉孰大焉!)鲍国相施氏忠,故齐人取以为鲍氏后。仲尼曰:(鲍庄子之知不如葵,葵犹能卫其足。)孔子评论说:“鲍牵的聪明不如葵菜,葵菜还能保护自己的脚。”又蜀葵虽然五颜六色却向阳而开,故后人蜀葵为忠心之花。清 王武《忠孝图》,李鳝等以蜀葵为题材创作诸多《忠孝图》,故蜀葵又有忠孝之花的美名。
瓶身所绘缠枝花纹可谓中西结合的典范。秋葵纹饰取材自明代成化青花宫碗,然而其明暗对比,清晰准确的花瓣经络,婉转立体的形态,则受益于雍乾时期供职内府的西方传教士。他们将西画的技法带入中式设计,与成化瓷器所见中国传统的“双钩平涂”相结合,呈现出立体雅致的效果。可比较一件大阪东洋陶瓷馆所藏成化青花连枝秋葵宫碗,历经Lindsay Hay及R.E.R. Luff、安宅递藏,见《皇帝の磁器:新発见の景德镇官窑》,大阪,1995年,编号229;台北故宫亦藏一件类似的成化青花秋葵纹宫碗,见《蓝白辉映:院藏明代青花瓷展》,台北,2016年,编号59。
如意耳目前所见为乾隆一朝独创,多饰于珐琅彩瓷器,如清宫旧藏一件粉彩绿地勾莲纹如意耳瓶和一件粉彩紫地勾莲纹如意耳瓶,皆乾隆款,见《故宫博物院藏文物珍品全集珐琅彩·粉彩》,香港,2009年,编号118及127。
尺寸:高27.5cm
来源:北京保利2023《禹贡Ⅱ—御制洋彩“八仙庆寿”江山一统尊中国古美术的千年之旅》
本品圆唇,束颈,两侧饰钩首如意耳,溜肩,胸圆鼓,身下收至下腹略微外撇,青花满饰,唇下一周如意云头纹,如意耳身钩花朵,颈部一周连枝纹将颈腹分开,而上下纹饰皆为缠枝秋葵纹,缠枝之上蔓生灵芝及莨苕纹,底部一周仰式如意头及简化蕉叶纹,青花勾勒清楚,分水鲜明,发色雅致,而明暗有度,花纹姿态婉转,曼妙如生,底部正中篆书“大清乾隆年制款”。此瓶形态优美,绘艺卓绝,完美融合成化青花宫碗之设计和西方绘画之技法,为乾隆本朝瓷器登峰造极之作。
瓶身线条优美,源自雍正朝之橄榄瓶,可参考一件北京故宫藏“清雍正 青花缠枝花纹双耳瓶”,惟双耳方环,见《故宫博物院藏文物珍品全集·青花釉里红(下)》,香港,2010年,编号85。清宫旧藏一件“清乾隆 黄地紫绿彩勾莲纹瓶”,其形制与该瓶类似,唯无双耳设计,见《故宫博物院藏文物珍品大系:杂釉彩·素三彩》,上海,2009年,编号132。另参考清宫旧藏一件“清乾隆 斗彩花卉纹双耳活环瓶”,著录于《故宫博物院藏文物珍品大系:五彩·斗彩》,上海,2007年,编号252。此瓶青花发色淡雅,形制一开先河,皆有乾隆早期瓷器的特点,或由唐英(1682-1756)在景德镇督造而成。
蜀葵因最早于四川地区发现而得名,《百卉部·卷一》载傅玄《蜀葵赋序》曰:蜀葵,其苗如瓜瓠。常种之,一名引苗,而生华,经二年,春乃发。
《左传·成公十七年》:初,鲍国去鲍氏而来为施孝叔臣。施氏卜宰,匡句须吉。施氏之宰,有百室之邑。与匡句须邑,使为宰。以让鲍国,而致邑焉。施孝叔曰:(子实吉。)对曰:(能与忠良,吉孰大焉!)鲍国相施氏忠,故齐人取以为鲍氏后。仲尼曰:(鲍庄子之知不如葵,葵犹能卫其足。)孔子评论说:“鲍牵的聪明不如葵菜,葵菜还能保护自己的脚。”又蜀葵虽然五颜六色却向阳而开,故后人蜀葵为忠心之花。清 王武《忠孝图》,李鳝等以蜀葵为题材创作诸多《忠孝图》,故蜀葵又有忠孝之花的美名。
瓶身所绘缠枝花纹可谓中西结合的典范。秋葵纹饰取材自明代成化青花宫碗,然而其明暗对比,清晰准确的花瓣经络,婉转立体的形态,则受益于雍乾时期供职内府的西方传教士。他们将西画的技法带入中式设计,与成化瓷器所见中国传统的“双钩平涂”相结合,呈现出立体雅致的效果。可比较一件大阪东洋陶瓷馆所藏成化青花连枝秋葵宫碗,历经Lindsay Hay及R.E.R. Luff、安宅递藏,见《皇帝の磁器:新発见の景德镇官窑》,大阪,1995年,编号229;台北故宫亦藏一件类似的成化青花秋葵纹宫碗,见《蓝白辉映:院藏明代青花瓷展》,台北,2016年,编号59。
如意耳目前所见为乾隆一朝独创,多饰于珐琅彩瓷器,如清宫旧藏一件粉彩绿地勾莲纹如意耳瓶和一件粉彩紫地勾莲纹如意耳瓶,皆乾隆款,见《故宫博物院藏文物珍品全集珐琅彩·粉彩》,香港,2009年,编号118及127。
尺寸:高27.5cm
来源:北京保利2023《禹贡Ⅱ—御制洋彩“八仙庆寿”江山一统尊中国古美术的千年之旅》
鳥山石燕
生涯
正徳2年(1712年)頃に幕府の御坊主の家に生まれた。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は不詳。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信(かのう ちかのぶ。cf.)および玉燕に付いて絵を学び、御用絵師であったと伝わるが、詳しい事蹟は不明な点も多い。俳諧は東流斎燕志の門人であった。
画業としては肉筆作品(美人画など)や鬼子母神(東京都雑司ヶ谷)の『大森彦七図』、円融寺(埼玉県秩父市)の『景清牢破りの図』などの奉納額が主なものであった。奉納額の絵に歌舞伎役者の似顔を用いたことで評判をあつめた。浮世絵師のひとりと目されているが美人画や役者絵として版行された錦絵作品(一枚絵)はほとんど確認されておらず、版本としての作品が多い。浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも・1774年)であると伝えられている。
俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。
弟子は多く著名な人物では、喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜、歌川豊春などを育てており、のちにそれぞれ浮世絵師・戯作者などとして大きく成長している。
安永5年(1776年)に版本として刊行された妖怪画集『画図百鬼夜行』が高評を得て、3年後の安永8年(1779年)には続篇として『今昔画図続百鬼』を刊行。以後さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した。
天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
妖怪画
鳥山石燕は壮年以後に出版された『画図百鬼夜行』をはじめとする版本で特にその名を知られるようになり、代表作となる。石燕の描く妖怪画は、後年葛飾北斎や歌川豊国・歌川豊広が合巻や読本などで描いている恐怖心や嗜虐性をいたずらにかきたてる種類のものではなく、『百鬼夜行絵巻』などの妖怪絵巻や赤本の「化物づくし」などに見られてきた、むしろ微笑みや奇妙さを誘う作風であるのが特徴である。
石燕の妖怪画は後世の画家たちにも多くの影響を与えており、石燕による作品がそのまま「妖怪」そのものを示すデザインとして用いられたりすることも多い。
昭和以降の日本あるいは日本人のもつ妖怪のイメージは漫画家・水木しげるに拠るところも大きいが、水木自身も妖怪画を石燕作品に取材したものが多く、日本人の思い描く妖怪の一角は水木を経ても石燕の著作によって大きく占められている。
俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。
生涯
正徳2年(1712年)頃に幕府の御坊主の家に生まれた。姓は佐野(さの)、諱は豊房(とよふさ)。字は不詳。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。
狩野派門人として狩野周信(かのう ちかのぶ。cf.)および玉燕に付いて絵を学び、御用絵師であったと伝わるが、詳しい事蹟は不明な点も多い。俳諧は東流斎燕志の門人であった。
画業としては肉筆作品(美人画など)や鬼子母神(東京都雑司ヶ谷)の『大森彦七図』、円融寺(埼玉県秩父市)の『景清牢破りの図』などの奉納額が主なものであった。奉納額の絵に歌舞伎役者の似顔を用いたことで評判をあつめた。浮世絵師のひとりと目されているが美人画や役者絵として版行された錦絵作品(一枚絵)はほとんど確認されておらず、版本としての作品が多い。浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも・1774年)であると伝えられている。
俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。
弟子は多く著名な人物では、喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜、歌川豊春などを育てており、のちにそれぞれ浮世絵師・戯作者などとして大きく成長している。
安永5年(1776年)に版本として刊行された妖怪画集『画図百鬼夜行』が高評を得て、3年後の安永8年(1779年)には続篇として『今昔画図続百鬼』を刊行。以後さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した。
天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。
妖怪画
鳥山石燕は壮年以後に出版された『画図百鬼夜行』をはじめとする版本で特にその名を知られるようになり、代表作となる。石燕の描く妖怪画は、後年葛飾北斎や歌川豊国・歌川豊広が合巻や読本などで描いている恐怖心や嗜虐性をいたずらにかきたてる種類のものではなく、『百鬼夜行絵巻』などの妖怪絵巻や赤本の「化物づくし」などに見られてきた、むしろ微笑みや奇妙さを誘う作風であるのが特徴である。
石燕の妖怪画は後世の画家たちにも多くの影響を与えており、石燕による作品がそのまま「妖怪」そのものを示すデザインとして用いられたりすることも多い。
昭和以降の日本あるいは日本人のもつ妖怪のイメージは漫画家・水木しげるに拠るところも大きいが、水木自身も妖怪画を石燕作品に取材したものが多く、日本人の思い描く妖怪の一角は水木を経ても石燕の著作によって大きく占められている。
俳人としても広く活動し、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。
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