秦の統一戦争
統一戦争
鄴の戦い:趙との戦い
詳細は「鄴の戦い (紀元前236年)」を参照
紀元前236年、秦は中華の統一に本腰を入れ始めた。趙の将軍の龐煖が燕に侵攻し、国内が手薄になっている隙を狙い趙へ侵攻した。総大将は王翦、副将は桓齮、末将は楊端和である。

まず、鄴の周辺の9城を落とした。そして、全軍を1軍として閼与と轑陽を落とした。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍の10分の2の精鋭部隊を率い、鄴や安陽を落とす。。

平陽の戦い:趙との戦い
詳細は「平陽の戦い (紀元前234年)」を参照
紀元前234年、桓齮は平陽に直行した。趙は扈輒を将とし平陽へ救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った。翌紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った。この2戦で趙は10万以上の兵を失った。

肥下の戦い:趙との戦い
詳細は「肥下の戦い」を参照
紀元前233年、桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り、赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区の西南)を占領した。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した。また『戦国策』によると桓齮は討ち死にしたとある。趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた。
番吾の戦い:趙との戦い
詳細は「番吾の戦い」を参照
紀元前232年、秦王政は兵を大挙し、趙に侵攻した。軍は鄴城に到着し、その後太原に到着した。秦軍は狼孟と番吾を占領したが、李牧が秦軍を撃破した。さらに李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還した。

韓攻略
詳細は「韓攻略」を参照
紀元前230年、内史騰が10万の軍を率いて黄河を南下した。韓の国都新鄭を落とし、韓王安は降伏し、韓は滅亡した。韓の旧領は秦の潁川郡となった。

趙攻略
詳細は「趙攻略」を参照
紀元前229年、斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害 につけこまれ、秦に侵攻された。秦によって買収された悼襄王お気に入りの重臣郭開の讒言により秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された。幽繆王は趙葱(ちょうそう)・顔聚(がんしゅう)を率いて迎え撃ったが、敗れ趙葱は戦死した。

紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。趙幽繆王と顔聚が捕虜となり趙は滅亡した。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で趙幽繆王の兄の趙公子嘉を擁立し代国とした。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。

秦王政の暗殺未遂、燕の策略
詳細は「荊軻」を参照
背景
燕は弱小な国であった。太子丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり12年間、咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。

両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。

荊軻
荊軻は衛の人であった。読書と剣術を好んで修行、日々酒を酌み交わし、若くして諸国を放浪して遊説術を学んでいた。
荊軻は、諸国の旅から衛に帰国した後に官僚を志して、衛の君主である元君に謁見し、旅で学んだ遊説術に基づいた国家議論を大いに述べたが、元君は全く聞き容れなかった。こうして荊軻は挫折しそれ以来遊侠に身を投じた。ある時に剣術論のことで智蓋聶(ち こうじょう)という者と言い争って喧嘩になりかけたが、智蓋聶が荊軻を睨むと荊軻はすぐに退散した。また邯鄲を訪れたとき、六博の規定をめぐって魯句践(ろ こうせん)という者と喧嘩になりかけたが、魯句践が凄んで荊軻に対して大声を出すと荊軻はすぐに退散した。こうして荊軻は臆病者と笑われたが、荊軻はいたずらに些細な事で命を落とす危険を冒すことはしなかった。

その後、燕に入り、一人の狗殺人と高漸離という筑(ちく、弦楽器の一種)を良く奏でる者と親しくつきあった。燕の市に行っては酒を飲み酔いしれ、高漸離の筑の伴奏で市中で歌い楽しみ、やがては泣き始めるという有様は、あたかも周りに誰も存在しないかのようであった(傍若無人)。酒飲みとつきあう状況でも荊軻は読書を好み、各地の賢人や豪傑・有徳者たちと相結び、やがて当地の実力者の田光に賓客として遇された。

刺客
政に対して刺客を送ることを考えた丹は田光に相談し、田光は荊軻を推挙した。丹が帰る時に「この事はご内密に」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「太子に疑念を持たせたのは私の不徳の為すところだ」と自ら首をはねた。
刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い政に謁見するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃な土地である督亢(とくごう、現在の河北省保定市涿州市・高碑店市)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、政が提案した軍の少数精鋭化に対し諫めたために政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期(はん おき)の首を差し出すこと。

これをすれば政も喜んで荊軻に会うだろうと丹に提案するが、丹は領地割譲はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断った。彼の苦悩をおもんぱかった荊軻は直接、樊於期に会い「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた。

丹は暗殺に使うための鋭い匕首を天下に求め、遂に古代中国の越国にいた伝説的な刀匠徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。この匕首に毒で焼きを入れさせ死刑囚で試し斬りを行なったところ、斬られて死なぬ者はいなかった。

旅立ち
紀元前227年、丹は刺客の相棒として秦舞陽(しん ぶよう)と言う者を荊軻に付けようとした。秦舞陽は13歳で人を殺し、壮士として有名であったが、荊軻は秦舞陽のことを頼りにならぬ若造だと見抜き、遠くに住む旧友[注 7] を同行者に加えようと待機していた。しかし丹が荊軻の出発をたびたび急かし、怖気づいたのではないかと疑いはじめたため、荊軻は仕方なく秦舞陽を連れて出発することに決めた。

やがて出発の日が訪れる。丹をはじめ、事情を知る見送りの者は全て喪服とされる白装束を纏い、易水(えきすい、黄河の北を流れる)のほとりまで荊軻たちにつき従った。彼らは全て涙を流し、荊軻の親友の高漸離は筑を奏でて見送った。この時に荊軻が生還を期さない覚悟を詠んだ

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
という詩句は、史記の中で最も有名な場面の一つされる。
これを聴いた士たちは、だれもが感情の昂ぶりの余りに凄まじい形相となった。そして荊軻は車に乗って去り、ついに後ろを振り向くことは無かった。
秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者の樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった。秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[24][46]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた。二人のいつわりの使者は処刑された。

燕の壊滅
秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。紀元前226年、国都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願った。しかしその講和もつかの間のものに過ぎなかった。

魏攻略
詳細は「魏攻略」を参照
紀元前225年、王翦の子の王賁が60万の兵を率いて、魏を攻めた。魏王假は国都大梁に籠城し、水攻めを受けた。魏王假は降伏し、魏は滅亡した。

楚攻略
詳細は「楚攻略」を参照
紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」で充分だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。

李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した。

さらに、李信と蒙恬は、楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。

しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い)。

紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となり、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡し、九江郡となった。

紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。

燕と代の滅亡
紀元前222年に王賁が遼東に燕と代を滅ぼすため侵攻した。代王嘉と燕王喜は捕虜となり代と燕は滅んだ。この時点で趙の滅亡とすることもある。

斉攻略
詳細は「斉攻略」を参照
前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后(中国語版)が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。田建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった。
五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊は西部の辺境に集結した。前221年、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した。田建は降伏し、斉は滅亡した。田建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した。斉の地に斉郡と瑯琊郡を置いた。秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった。

《孙子兵法》
九章:行軍篇
孫子は言う。およそ軍隊を配置し、敵情を偵察するのに、

山を越えるには谷沿いに進み、敵よりも高い位置を占め、戦う時に低地から高地へ攻め上ってはいけない。これは山岳地帯で戦う時の注意である
川を渡り終えたならば、必ずその川から遠ざかる。敵が川を渡って攻撃してきたときには、敵軍がまだ川の中にいる間に迎え撃ったりせず、敵兵の半数を渡ったところで攻撃するのが有利である。川の近くで戦う場合、上流の位置を占め、下流から川の流れに逆らってはならない。これは河川の近くで戦う時の注意である
沼沢地を越える場合には、素早く通過するようにして休息してはならない。やむをえず、沼沢地の中で戦う場合は、水草の近くで森林を背に配して布陣せよ。これは沼沢地で戦う時の注意である
平地では、足場のよい平坦な場所を占めて、高台を背後と右におき、低地を前方に配して布陣せよ。これは平地で戦う時の注意である
この四種の地勢で上手く戦ったからこそ、黄帝は四方の敵に打ち勝ったのである。

布陣するには、高地がよく、低地は避けるべきである。 日当たりの良いところを選び、日当たりの悪い所は避ける。健康に留意して、水や草の豊かな場所に布陣し、軍隊に疾病が起こらないのを必勝の軍と呼ぶ。丘陵や堤防などでは、日当たりの良い場所に布陣し、丘陵や堤防が背後と右手となるようにする。そうすることで戦いにプラスに働き、地形の助けを受けることができる。上流が雨で、川が泡だって流れているときは、洪水の恐れがあるから、その流れの落ち着くのを待ってから渡河するべきである。

およそ地形に、絶壁の挟まれた谷間・四方が切り立った自然の井戸のような地形・三面を囲まれた自然の牢獄のような地形・草木が生い茂って自然の取り網のような場所・自然の落とし穴のような地形・狭い洞穴状の天然の隙間がある時、速やかにそこを立ち去って近づいてはならない。自軍はその地を避け、敵は近づくように仕向ける。自軍はこれらの地形を正面に見て、敵は背後になるように仕向ける。
軍の近くに、険しい地形・池や窪地・芦の茂った場所・山林・草木が茂った場所があれば、必ず注意深く捜索せよ。これらは伏兵が潜んでいる場所である。

敵が自軍の近くにいながら平然と静まり返っているのは、彼らが占める地形の険しさを頼りにしているのである。遠くにいる敵がわざわざ攻めてくるのは、こちらが進軍することを望んでいるからである。平地に布陣しているのは、彼らの地形が有利だからである。木々がざわめくのは、敵軍が森林の中を移動して進軍しているからである。 草を覆い被せてあるのは、伏兵の存在を疑わせようとしているからで、草むらから鳥が飛び立つのは、伏兵がそこにいるからである。 獣が驚いて走り出てくるのは、潜む敵軍が奇襲攻撃をしようとしているからである。

砂塵が高く舞い上がって、その先端が尖っているのは、戦車部隊が進撃してくるからで、砂塵が低く垂れ込めて、広がっているのは、歩兵部隊が進撃してくるからである。砂塵があちこちに散らばって細長いのは、薪を集めているからで、 砂塵の量が少なくて行ったり来たりするのは、軍営を張る作業をしている。
敵の使いがへりくだっていて、守備を固めているのは、進撃をしようとしている。 敵の使いの態度が強硬で、敵軍の先鋒が侵攻してくるのは、退却の準備をしている。 隊列から軽戦車が抜け出して、側面についているのは、陣立てをしている。行き詰まっていないのに和睦を求めてくるのは、なんらかの策謀である。伝令があわただしく走り回って、各部隊を整列させているのは、決戦を決意している。敵の部隊が進んだり退いたりを繰り返しているのは、こちらを誘い出そうとしている。

兵士が杖をついて立っているのは、全軍が飢えている。 兵が水を見つけた時、真っ先に水をくんで飲むのは、その軍が飲み水に困っている。 利益がある状況で進撃してこないのは、兵が疲労している。鳥がたくさん集まっているのは、その陣はもぬけの殻である。夜に叫ぶ声がするのは、兵が臆病で怖がっている。軍営の騒がしいのは、将軍に威厳がない。旗が落ち着かないのは、軍が乱れている。役人が腹を立てているのは、軍がくたびれているからだ。 馬に兵糧米を食べさせ、兵士が軍馬を食べ、軍の鍋釜の類はみな打ち壊して、その幕舎に帰ろうとしないのは、切羽詰まった敵である。指揮官がねんごろに兵士たちを諭しているのは、みんなの心が離れている。むやみに賞を与えているのは、士気が上がらず困っている。 むやみに罰しているのは、その軍が疲れている。最初、乱暴に扱っておきながら、兵士たちの離反を恐れて下手に出るのは、考えの行き届かない極みである。わざわざ贈り物を持ってきて休戦を申し出るのは、しばらく軍を休めたいからだ。敵軍がいきり立って向かってきたのに、いつまでたっても戦端を開かず、撤退もしない時は、注意深く状況を観察すべきである。

軍は兵員が多いほどよいというものではない。猛進しないようにして、戦力を集中して敵情をよく考えて行動すれば勝てる。よく考えることもしないで敵を侮っている者は、きっと敵の捕虜にされてしまうだろう。兵士たちがまだ将軍に懐いていないのに懲罰を行なうと、彼らは心服しない。心服しないと十分に働かせることができない。反対に、兵士たちがもう懐いているのに懲罰を行なわないでいると、規律が乱れて、彼らを働かせることはできない。だから、兵を指導するにあたっては「暖かさ」 をもって行い、命令するにあたっては「厳しさ」をもって行う。これを必勝の軍という。法令が普段からちゃんと守っていれば、命令しても民は従うものだ。法令を普段から守っていなければ、命令しても民も従わない。法令を普段から誠実に守る者は、民衆と心が一つになっているのである。

【行军篇】

孙子曰:凡处军相敌:绝山依谷,视生处高,战隆无登,此处山之军也。绝水必远水;客绝水而来,勿迎之于水内,令半济而击之,利;欲战者,无附于水而迎客;视生处高,无迎水流,此处水上之军也。绝斥泽,惟亟去无留;若交军于斥泽之中,必依水草而背众树,此处斥泽之军也。平陆处易,而右背高,前死后生,此处平陆之军也。凡此四军之利,黄帝之所以胜四帝也。

凡军好高而恶下,贵阳而贱阴,养生而处实,军无百疾,是谓必胜。丘陵堤防,必处其阳,而右背之。此兵之利,地之助也。

上雨,水沫至,欲涉者,待其定也。

凡地有绝涧、天井、天牢、天罗、天陷、天隙,必亟去之,勿近也。吾远之,敌近之;吾迎之,敌背之。

军行有险阻、潢井、葭苇、山林、蘙荟者,必谨覆索之,此伏奸之所处也。

敌近而静者,恃其险也;远而挑战者,欲人之进也;其所居易者,利也。

众树动者,来也;众草多障者,疑也;鸟起者,伏也;兽骇者,覆也;尘高而锐者,车来也;卑而广者,徒来也;散而条达者,樵采也;少而往来者,营军也。

辞卑而益备者,进也;辞强而进驱者,退也;轻车先出居其侧者,陈也;无约而请和者,谋也;奔走而陈兵车者,期也;半进半退者,诱也。

杖而立者,饥也;汲而先饮者,渴也;见利而不进者,劳也;鸟集者,虚也;夜呼者,恐也;军扰者,将不重也;旌旗动者,乱也;吏怒者,倦也;粟马肉食,军无悬缻,不返其舍者,穷寇也;谆谆翕翕,徐与人言者,失众也;数赏者,窘也;数罚者,困也;先暴而后畏其众者,不精之至也;来委谢者,欲休息也。兵怒而相迎,久而不合,又不相去,必谨察之。
兵非益多也,惟无武进,足以并力、料敌、取人而已。夫惟无虑而易敌者,必擒于人。

卒未亲附而罚之,则不服,不服则难用也。卒已亲附而罚不行,则不可用也。故令之以文,齐之以武,是谓必取。令素行以教其民,则民服;令不素行以教其民,则民不服。令素行者,与众相得也。

夏目漱石
帰国後は教職を務める

1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になった(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。川田順のように「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に転じた学生もいた。

また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。漱石は、藤村に関し『草枕』の中で言及・批評を行っている。
こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居した。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務めた(月給30円)。

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを執筆
その年の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博した。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆した。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていった。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたしはじめ、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになった(1906年10月8日付書簡によれば、10月11日から。)。

朝日新聞社に入社
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始めた。

同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられた。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。

1909年(明治42年)、親友だった南満州鉄道総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行した。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。

同年10月、満韓旅行からの帰途、大阪で暮らす長谷川如是閑を訪ねる。この折、浜寺の料理店にも行く。

『三四郎』『それから』『門』の前期三部作

1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。

同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養した。しかしそこで胃疾患になり、800 gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥った。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。

この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられた。
『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作
1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。

1912年(大正元年)9月、痔の再手術を受けた。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶した。

1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされた。

1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続いた。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。

死去
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れた。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされた。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した。50歳没(49歳10か月)。

最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最期の言葉ともされる。

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖された。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。

1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。


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