トルイ
生涯
チンギス・カンの治世
『元朝秘史』には、幼少期にチンギス・カンによって滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニと、ジェルメとジェデイによって救われたという逸話が伝えられている。1206年にモンゴル帝国が建国された後、チンギス・カンは自らの諸子諸弟に民を分け与えたが、「末子」のトルイのみはチンギス・カン自らが率いる民を相続することが予定されていた。ただし、『元朝秘史』の記述などからジェデイ、バラらの率いる千人隊がチンギス・カンの生前から分与されていたようである。賈シラの伝記などから、トルイの領地はハンガイ・ダバー(杭海荅班)すなわちハンガイ山脈地方にあったと考えられている。

1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。特に、野狐嶺の戦い後の1212年にチグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、『元朝秘史』をはじめ諸史料で特筆されている。
1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。

1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。
監国期
1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。トルイ監国期の政策としては、チンギス・カン死後に反モンゴル運動を始めた地域へのタンマチ派遣が知られる。タンマチは後にモンゴル帝国の国境地帯に広く派遣されたが、その中でもイランに派遣されたチョルマグンと遼東に派遣されたサリクタイはトルイ監国期に派遣を開始されている[9]。そしてチンギス・カンの死から2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。

諸史料によると、トルイは1229年春に帝国の諸王・功臣にクリルタイを開くことを布告し、予定通り同年9月には新帝を決めるクリルタイが開催された。『世界征服者史』によると、最初に三日三晩にわたる大宴会が開かれた後、右翼諸王の代表であるチャガタイと、左翼諸王の代表であるテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトゥルイが祝杯を捧げるという儀式を経てオゴデイが即位したとされる[12]。
なお、かつては『元朝秘史』の記述に基づいてトルイは4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴデイに自身のウルスの大部分の指揮権を譲ったと考えられていたが、現在ではこれは誤りでトルイはオゴデイの即位後も帝国内で最大の勢力を有したままであったと考えられている。

オゴデイ・カアンの治世
オゴデイが即位すると、即位後最初の大事業として第二次金朝遠征(モンゴル帝国の金朝征服)が実施された。この遠征においてトルイは一将軍として右翼軍を率いたが、これは帝国で最大の勢力を有するトルイと配下の諸将を引き離すオゴデイの意図があったと考えられている。トルイは右翼軍の司令官として金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。

しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した[15]。深酒のためと言われるが、『集史』、『元史』といったモンゴル時代の基本史料はいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。『集史』および『元史』の原史料である『元朝実録』はいずれもトルイの子孫の政権で編まれた史料で、なおかつほぼ同時期に編纂された「国家編纂物」であり、「政権運営に大過なかったオゴデイを明確に否定はしないが、トルイ家こそが正統な支配者であると強調する」トルイ一族の見解が反映されたものと指摘されている。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。

煙草と悪魔(上)
芥川龍之介

 煙草たばこは、本来、日本になかつた植物である。では、何時いつ頃、舶載されたかと云ふと、記録によつて、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあつたり、或は天文年間と書いてあつたりする。が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文禄年間になると、「きかぬものたばこの法度はつと銭法度ぜにはつと、玉のみこゑにげんたくの医者」と云ふ落首らくしゆが出来た程、一般に喫煙が流行するやうになつた。――
 そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、歴史家なら誰でも、葡萄牙ポルトガル人とか、西班牙スペイン人とか答へる。が、それは必ずしも唯一の答ではない。その外にまだ、もう一つ、伝説としての答が残つてゐる。それによると、煙草は、悪魔がどこからか持つて来たのださうである。さうして、その悪魔なるものは、天主教の伴天連ばてれんか(恐らくは、フランシス上人しやうにん)がはるばる日本へつれて来たのださうである。
 かう云ふと、切支丹きりしたん宗門の信者は、彼等のパアテルを誣しひるものとして、自分を咎とがめようとするかも知れない。が、自分に云はせると、これはどうも、事実らしく思はれる。何故と云へば、南蛮の神が渡来すると同時に、南蛮の悪魔が渡来すると云ふ事は――西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云ふ事は、至極、当然な事だからである。
 しかし、その悪魔が実際、煙草を持つて来たかどうか、それは、自分にも、保証する事が出来ない。尤もつともアナトオル・フランスの書いた物によると、悪魔は木犀草もくせいさうの花で、或坊さんを誘惑しようとした事があるさうである。して見ると、煙草を、日本へ持つて来たと云ふ事も、満更嘘だとばかりは、云へないであらう。よし又それが嘘にしても、その嘘は又、或意味で、存外、ほんとうに近い事があるかも知れない。――自分は、かう云ふ考へで、煙草の渡来に関する伝説を、ここに書いて見る事にした。
 天文十八年、悪魔は、フランシス・ザヴイエルに伴ついてゐる伊留満いるまんの一人に化けて、長い海路を恙つつがなく、日本へやつて来た。この伊留満の一人に化けられたと云ふのは、正物しやうぶつのその男が、阿媽港あまかはか何処どこかへ上陸してゐる中に、一行をのせた黒船が、それとも知らずに出帆をしてしまつたからである。そこで、それまで、帆桁ほげたへ尻尾をまきつけて、倒さかさまにぶら下りながら、私ひそかに船中の容子ようすを窺つてゐた悪魔は、早速姿をその男に変へて、朝夕フランシス上人に、給仕する事になつた。勿論、ドクトル・フアウストを尋ねる時には、赤い外套ぐわいたうを着た立派な騎士に化ける位な先生の事だから、こんな芸当なぞは、何でもない。
 所が、日本へ来て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、容子がちがふ。第一、あの旅行記によると、国中至る処、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。これなら、ちよいと磔くるすを爪でこすつて、金きんにすれば、それでも可成かなり、誘惑が出来さうである。それから、日本人は、真珠か何かの力で、起死回生の法を、心得てゐるさうであるが、それもマルコ・ポオロの嘘らしい。嘘なら、方々の井戸へ唾を吐いて、悪い病さへ流行はやらせれば、大抵の人間は、苦しまぎれに当来の波羅葦僧はらいそなぞは、忘れてしまふ。――フランシス上人の後へついて、殊勝らしく、そこいらを見物して歩きながら、悪魔は、私ひそかにこんな事を考へて、独り会心の微笑をもらしてゐた。
が、たつた一つ、ここに困つた事がある。こればかりは、流石さすがの悪魔が、どうする訳にも行かない。と云ふのは、まだフランシス・ザヴイエルが、日本へ来たばかりで、伝道も盛にならなければ、切支丹の信者も出来ないので、肝腎かんじんの誘惑する相手が、一人もゐないと云ふ事である。これには、いくら悪魔でも、少からず、当惑した。第一、さしあたり退屈な時間を、どうして暮していいか、わからない。――
 そこで、悪魔は、いろいろ思案した末に、先まづ園芸でもやつて、暇をつぶさうと考へた。それには、西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持つてゐる。地面は、近所の畠でも借りれば、造作はない。その上、フランシス上人さへ、それは至極よからうと、賛成した。勿論、上人は、自分についてゐる伊留満いるまんの一人が、西洋の薬用植物か何かを、日本へ移植しようとしてゐるのだと、思つたのである。
 悪魔は、早速、鋤すき鍬くはを借りて来て、路ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
 丁度水蒸気の多い春の始で、たなびいた霞かすみの底からは、遠くの寺の鐘が、ぼうんと、眠むさうに、響いて来る、その鐘の音が、如何にも又のどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のやうに、いやに冴えて、かんと脳天へひびく所がない。――が、かう云ふ太平な風物の中にゐたのでは、さぞ悪魔も、気が楽だらうと思ふと、決してさうではない。
彼は、一度この梵鐘ぼんしようの音を聞くと、聖保羅さんぽおろの寺の鐘を聞いたよりも、一層、不快さうに、顔をしかめて、むしやうに畑を打ち始めた。何故かと云ふと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々あいあいたる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行はうと云ふ気にもならずにしまふ。これでは、折角、海を渡つて、日本人を誘惑に来た甲斐かひがない。――掌てのひらに肉豆まめがないので、イワンの妹に叱られた程、労働の嫌な悪魔が、こんなに精を出して、鍬を使ふ気になつたのは、全く、このややもすれば、体にはひかかる道徳的の眠けを払はうとして、一生懸命になつたせゐである。
 悪魔は、とうとう、数日の中に、畑打ちを完をはつて、耳の中の種を、その畦うねに播まいた。
それから、幾月かたつ中に、悪魔の播いた種は、芽を出し、茎をのばして、その年の夏の末には、幅の広い緑の葉が、もう残りなく、畑の土を隠してしまつた。が、その植物の名を知つてゐる者は、一人もない。フランシス上人が、尋ねてさへ、悪魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙つてゐる。
 その中に、この植物は、茎の先に、簇々そうそうとして、花をつけた。漏斗じやうごのやうな形をした、うす紫の花である。悪魔には、この花のさいたのが、骨を折つただけに、大へん嬉しいらしい。そこで、彼は、朝夕の勤行ごんぎやうをすましてしまふと、何時でも、その畑へ来て、余念なく培養につとめてゐた。
 すると、或日の事、(それは、フランシス上人が伝道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出来事である。)一人の牛商人うしあきうどが、一頭の黄牛あめうしをひいて、その畑の側を通りかかつた。見ると、紫の花のむらがつた畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの広い帽子をかぶつた、南蛮の伊留満が、しきりに葉へついた虫をとつてゐる。牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留満へ声をかけた。
 ――もし、お上人様、その花は何でございます。
 伊留満は、ふりむいた。鼻の低い、眼の小さな、如何にも、人の好ささうな紅毛こうまうである。
 ――これですか。
 ――さやうでございます。
 紅毛は、畑の柵によりかかりながら、頭をふつた。さうして、なれない日本語で云つた。
 ――この名だけは、御気の毒ですが、人には教へられません。
 ――はてな、すると、フランシス様が、云つてはならないとでも、仰有おつしやつたのでございますか。
 ――いいえ、さうではありません。
 ――では、一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依きえして居りますのですから。
 牛商人は、得意さうに自分の胸を指さした。見ると、成る程、小さな真鍮しんちゆうの十字架が、日に輝きながら、頸くびにかかつてゐる。すると、それが眩まぶしかつたのか、伊留満いるまんはちよいと顔をしかめて、下を見たが、すぐに又、前よりも、人なつこい調子で、冗談じようだんともほんとうともつかずに、こんな事を云つた。
――それでも、いけませんよ。これは、私の国の掟おきてで、人に話してはならない事になつてゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きつとあたります。あたつたら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。
 牛商人は、伊留満が、自分をからかつてゐるとでも思つたのであらう。彼は、日にやけた顔に、微笑を浮べながら、わざと大仰に、小首を傾けた。
 ――何でございますかな。どうも、殺急さつきふには、わかり兼ねますが。
 ――なに今日でなくつても、いいのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて来ても、かまひません。あたつたら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀ちんたの酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利はらいそてれあるの絵をあげますか。
 牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
 ――では、あたらなかつたら、どう致しませう。
 伊留満は帽子をあみだに、かぶり直しながら、手を振つて、笑つた。牛商人が、聊いささか、意外に思つた位、鋭い、鴉からすのやうな声で、笑つたのである。
 ――あたらなかつたら、私があなたに、何かもらひませう。賭かけです。あたるか、あたらないかの賭です。あたつたら、これをみんな、あなたにあげますから。
 かう云ふ中に紅毛は、何時いつか又、人なつこい声に、帰つてゐた。
 ――よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有おつしやるものを、差上げませう。
 ――何でもくれますか、その牛でも。
 ――これでよろしければ、今でも差上げます。
 牛商人は、笑ひながら、黄牛あめうしの額を、撫でた。彼はどこまでも、これを、人の好い伊留満の、冗談だと思つてゐるらしい。
 ――その代り、私が勝つたら、その花のさく草を頂きますよ。
 ――よろしい。よろしい。では、確に約束しましたね。
 ――確に、御約定おやくぢやう致しました。御主おんあるじエス・クリストの御名にお誓ひ申しまして。

はく‐き【白起】
白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国戦国時代末期の秦の武将。公孫起[1]とも表記される。秦国郿の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。王翦・廉頗・李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。

経歴
以下は『史記』白起・王翦列伝による。

昭襄王13年(紀元前294年)、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。

昭襄王14年(紀元前293年)、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。また、魏将の公孫喜を捕え、5城を落とした。

昭襄王15年(紀元前292年)、大良造に任じられ魏を攻め、大小61城を落とした。

昭襄王29年(紀元前278年)、楚を攻め、楚の首都の郢を落とした(鄢・郢の戦い)。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。

昭襄王34年(紀元前273年)、魏の華陽を攻め、韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した(華陽の戦い)。また、趙将の賈偃と戦い、士卒2万を黄河に沈めた。

昭襄王43年(紀元前264年)、韓の陘城を攻め、5城を落とし、5万を斬首した(陘城の戦い)。

昭襄王47年(紀元前260年)、長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした[2][3]。しかし、本国にあった宰相の范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都の邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
昭襄王48年(紀元前259年)、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、昭襄王49年(紀元前258年)には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と昭襄王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。

だが、これがさらに立場を悪くし、昭襄王50年(紀元前257年)、ついに昭襄王によって賜死を受けた。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

評価
司馬遷は、『史記』において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を震わせた)」と評している。一方で、その伝の末尾に「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦と共に優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国魏の将軍の鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある。


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