王 冕(おう べん、1310年 - 1359年)は、中国元代末期の画家・詩人・篆刻家。字は元章、号は煮石山農・飯牛翁・会稽外史・梅花屋主など。越州諸曁県の出身。
科挙試験を受けたものの合格せず、その後印綬を帯びること(官僚になること)をあきらめて全国を放浪し、絵を売りながら暮らしたといわれている。このためか、同じく科挙に落ちた清の小説家の呉敬梓の政治諷刺小説『儒林外史』にも登場する。

元末を代表する画家で、殊に花鳥画の発展に大きく貢献した。梅の花を画題として好み、満開の梅を華麗に表現しきったその作風は、中国はおろか日本の南画家たちにも強い影響を与えた。

詩人としても活躍し、時の政治に対する不満を詠むなどしている。

また偶然「花乳石」という石を手に入れた際、柔らかく加工しやすいことに気づいて篆刻に使用したと伝えられ、石を用いた篆刻の嚆矢となったといわれている。なお、「花乳石」は青田石のことだといわれている。

晩年は会稽の九里山の麓に「梅花庵」という庵を結び、隠棲生活を送ったという。

作品・著作
「墨梅図」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
『竹斎詩集』
王冕(1287年-1359年),字元章,号竹斋、煮石山农,亦号食中翁、梅花屋主等。诸暨枫桥(今属浙江绍兴)人。元朝画家、诗人、书法家、篆刻家。

王冕出身农家,幼时家贫。年轻时一度热衷功名,屡应举不中,遂绝意仕途,浪迹江湖。王冕曾买舟下东吴,千里远游,历览名山,开拓了视野和胸怀。在京城时,秘书卿泰不华曾荐其官职,辞谢南归,隐居于家乡九里山。后朱元璋进军浙东,与张士诚争夺绍兴,曾请王冕谋划,并授以咨议参军,不久,王冕病卒。王冕一生清贫,靠卖画为生。

王冕工诗善画,尤以墨梅知名。画梅继承宋代仲仁和尚和扬无咎的传统,并有新的创造。其性格孤傲,鄙视权贵,诗作多同情人民苦难、谴责豪门权贵、轻视功名利禄、描写田园隐逸生活之作。王冕一生爱好梅花,种梅、咏梅,又攻画梅。所画梅花花密枝繁,生意盎然,劲健有力,亦对后世产生了较大影响。他还兼擅竹石,长于篆刻,有《梅谱》传世,为早期画梅理论著述。存世代表作有《墨梅图》《南枝春早图》等。另著有《竹斋诗集》。

人物生平

早年生活

王冕自幼好学,白天放牛。七八岁时,父亲叫他在田埂上放牛,他偷偷地跑进学堂,去听学生念书。听完以后,总是默默地记住。傍晚回家,他把放牧的牛都忘记了。王冕的父亲大怒,打了王冕一顿。过后,他仍是这样。他的母亲说:“这孩子想读书这样入迷,何不由着他呢?”王冕从此以后就离开家,寄住在寺庙里。一到夜里,他就暗暗地走出来,坐在佛像的膝盖上,手里拿着书就着佛像前长明灯的灯光诵读,书声琅琅一直读到天亮。佛像多是泥塑的,一个个面目狰狞凶恶,令人害怕。王冕虽是小孩,却神色安然,好像没有看见似的。安阳的韩性听说,觉得他与众不同,将他收作学生,王冕于是学成了博学多能的儒生。但屡应试不第,遂将举业文章付之一炬。

王冕行事异于常人,时戴高帽,身披绿蓑衣,足穿木齿屐,手提木制剑,引吭高歌,往返于市中。或骑黄牛,持《汉书》诵读,人以狂生视之。著作郎李孝光欲荐作府吏,冕宣称:“我有田可耕,有书可读,奈何朝夕抱案立于庭下,以供奴役之使!”遂下东吴,入淮楚,历览名山大川。游大都,老友秘书卿泰不华欲荐以官职,力辞不就,南回故乡。隐居会稽九里山,种梅千枝,筑茅庐三间,题为“梅花屋”,自号梅花屋主,以卖画为生,制小舟名之曰“浮萍轩”,放于鉴湖之阿,听其所止。又广栽梅竹,弹琴赋诗,饮酒长啸。
拒绝为官
朱元璋平定婺州,攻取越州,屯兵九里山,闻其名,物色得之,置幕府,授以谘议参军,未就。元惠宗至正十九年(1359年),朱元璋以兵请冕为官。冕以出家相拒,并扩室为白云寺。旋卒于兰亭天章寺。
王冕后来游历在北方,王冕看到了那些耀武扬威的统治者后,内心怒火更不可抑制,遂赋诗倾泄郁怀:“唤鹰羌郎声似雷,骑马小儿眼如电。总是无知痴呆相,也逞虚威拈弓箭。老儒有识何以为?空指云山论文献。君不闻,一从赵高作丞相,吾道凋零如袜线。”(《有感》)
他从塞北回大都后,他的爱民族爱祖国的思想感情,更鲜明地流露出来,有一天,他画了一幅梅花,贴在墙壁上,并题诗说:“冰花个个团如玉,羌笛吹它不下来。”(《列朝诗集小传》)表示自己不愿给外族统治者作画,对权贵予以无情的讽刺,使见者缩首咋舌,不敢与语,因而触痛了统治者的疮疤,他们想逮捕他。他就在至正八年(1348)偷偷地逃回南方(《无声诗史》、张辰《王冕传》)。
南归的途中,又遇黄河决堤,沿河州县,田园房舍淹没。而官府不管,百姓只好四散逃荒,好不凄凉。王冕见此光景,自然内心苦楚,就对他的朋友张辰说:“黄河北流,天下自此将大乱,我也只好南归,以遂吾志。”(朱彝尊《王冕传》《诸暨县志》)
这时他听到他的杭州朋友卢生死在滦阳(河北迁安县西北),留有二个幼女一个男孩,无人抚养,他就到滦阳,安葬了卢生,带了二女一男回来,留养在家。宋濂的《王冕传》说有家僮使养,实际上就是这几个人。
路过淮河地方时,又发表了自己的感想,认为自己孤傲正直的胸怀是和残酷的现实相违背的。他在《南归》一诗中写道:“去岁离南去,今年自北归。过淮浑酒贱,出水白鱼肥。磊落同谁语,孤高与世违。最怜谯国子,潦倒说兵机。”
这次游历,使他更清楚地看破了人情势利。他知道功名已成镜中之花,水中之月,便改途易辙,学南阳诸葛亮的耕隐生活,隐居于九里山的水南村,自号“老龙”,把草堂取名“耕读轩”。白天参加体力劳动,种植稻、粱、桑、麻,晚上作画,过其“淡泊以明志”的半饥不饱的生活。
家庭生活
王冕做山农以后,生活日益窘迫,乡里人蔑视他,使他心境悲戚不堪,更使他不忍心的,是不能供养父母。他在《自感》一诗中说:“世俗鄙我微,故旧嗤我愚。赖有父母慈,倚门复倚闾。我心苦凄戚,我情痛郁纡。山林竞蛇虺,道路喧豺貙。荒林落日阴,羞见反哺乌。乌鸦有如此,吾生当何如?”
不幸他父亲在贫病交迫下逝世了,他悲痛之余,仍过其“酸辛甘自爱,褴褛愧妻儿”的生活。他送母亲到绍兴城里疗养,他的朋友著作郎李孝光,想荐他为府吏,王冕道:“我有田可耕,有书可读,岂肯送公文做人家的使唤吗?”(《诸暨县志》)再一次拒绝了为统治阶级服务。他养成了诙谐风趣放诞的性格。他母亲想归故乡,他在《楚辞图》上看见画的屈原衣冠,便自造了一顶极高的帽子,一件极阔的衣服,买一乘牛车,载了母亲,戴了高帽,穿了阔衣,执着鞭子,挂着木剑,唱着山歌,从村上走过,使得一群孩子跟着他笑,他也不在乎地向他们笑(宋濂《王冕传》)。
他的老师、同乡王艮,对他的品行很推崇。王艮曾亲自登门拜访过他的母亲,后来王艮做了江浙检校。王冕曾经身穿褴褛衣服,脚踏破鞋,去拜望王艮,王艮见到这副样子,马上替他洗尘,赠他鞋子,劝他做官,王冕笑而不答,放下鞋子离去(朱彝尊《王冕传》)。
不几年,他的母亲也逝世了,他悲痛万分过了三年的守孝生活。
宋濂云:“冕既归越,复言天下将乱,时海内无事,或斥为妄。冕曰:‘妄人非我,谁当为妄哉!’乃携妻孥隐于九里山。种豆三亩,粟倍之,树梅花千,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本,引水为池,种鱼千余头。结草庐三间,自题为‘梅花屋’。”
寥寥数语,可见王冕平日的言论与当时人们对他的态度了。在王冕的诗中,时常批评元朝政治的不良,北游归来后又公开宣传天下将乱,在朝廷看来一定会认为他是妖言惑众的人,是不容他存在的。所以他归家后要隐居九里山,显然与这类话有关系。
“去城悬九里,夹地出双溪。长年无客到,终日有猿啼。乌鸢虽见忌,麋鹿自相亲。”从这几句诗也可看出,他是因世人见忌而避入山中的。
隐居山林
王冕隐居在山明水秀的老家诸暨枫桥镇北九里山的水南村。村上共有三户人家,一年到头辛苦过活。一条溪水像带似的流过,挺秀的山峦耸立在屋后,山上竹木茂盛,一片葱茏。山光水色相映,景色秀丽,环境清幽,正如他诗篇中所说:“青山隐隐带江流,江上轩窗面面幽。”他在此地“种豆三亩,粟倍之,梅千树,桃杏居其半,芋一区,薤韭各百本;引水为池,种鱼千余头”(《芝园后集》卷十)。王冕一生的大部分时间,就是在这么一个充满着诗情画意的山村中度过的。朴实的生活与清幽的山水孕育了他的热爱生活、热爱劳动人民的性格,赋予他的诗画创作以浓厚的生活气息。

オデュッセウス
概要
オデュッセウスはトロイ攻めに参加した他の英雄たちが腕自慢の豪傑たちであるのに対して頭を使って勝負するタイプの知将とされ、「足の速いオデュッセウス」「策略巧みなオデュッセウス」と呼ばれる。ホメーロス以来、女神アテーナーの寵厚い英雄として書かれる。

イタケー王ラーエルテースとアンティクレイアの子で、妻はペーネロペー、息子はテーレマコスである。なお、シーシュポスが父とする説もある。

トロイア戦争ではパラメーデースの頓智でアカイア勢に加勢させられ、アキレウスの死後はその武具を大アイアースと争って勝利した。また、木馬の策を立案し、アカイア勢を勝利に導いた。

オデュッセウスの貴種流離譚である長い帰還の旅にちなみ、長い苦難の旅路を「オデュッセイ、オデュッセイア」という修辞で表すこともある。啓蒙や理性の奸智の代名詞のようにもいわれ、テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」でも取り上げられる。

オデュッセウスが難破して裸体でスケリア島に漂着したところを助けた、純粋無垢の代表としての清らかな王女ナウシカアに対置されることもある。姦計としての理性対愛という対立構造で近世市民社会の論理を語るのに、オデュッセウスとナウシカアを対置させた哲学者も存在する。

トロイア戦争以前
誕生時にイタケーを訪れていた母方の祖父アウトリュコスが孫への命名を頼まれ、 「自分は今まで多くの人間に憎まれてきた(オデュッサメノス)ので、憎まれ者(オデュッセウス)がよい」と名付けたという。

この命名の逸話自体は『オデュッセイア』作中の第19歌で語られるところであるが、考証学上は「オデュッセウス」の語源はギリシャ語ではなく、インド・ヨーロッパ語族以外の異民族言語によるものと考察され、ホメロスの時代までにギリシャ語の似た言葉にあわせて逸話がつくりあげられたと推測されている。
テュンダレオースの娘ヘレネーの結婚に際してギリシア中から多くの求婚者が集まったが、テュンダレオースは誰が選ばれても残りの男たちの恨みを買うだろうと恐れた。そこでオデュッセウスはテュンダレオースに妙案を授ける代わりに、ヘレネーの従姉妹で付き添いをしていたペーネロペーとの結婚を取り持って欲しいと提案した。テュンダレオースは承諾し、オデュッセウスの案に従い「誰が選ばれても、夫となったものが困難に陥ったならば求婚者全員で助ける」という誓いが結ばれた。テュンダレオースは約束通りオデュッセウスの結婚に協力し、オデュッセウスはペーネロペーと結婚することができた。

ヘレネーがパリスに連れ去られたことで、メネラオスはかつての求婚者たちに誓いに基づき、彼女を奪還するのに協力するよう求めた。オデュッセウスは戦への参加を厭い、狂気を装った。神託が予言するには、もし戦に出たならば、故郷に帰るのはずっと後になるということだったからである。オデュッセウスは、ロバと雄牛に鋤を引かせ(歩幅が異なるので鋤の効率が悪くなる)、地に塩を蒔いた。パラメーデースは、アガメムノンの要請により、オデュッセウスの狂気を明かそうとして、鋤の正面にオデュッセウスの幼い息子テーレマコスを置くと、オデュッセウスの鋤は息子を避けたので、狂気の扮装は暴露された。それゆえ、オデュッセウスは、故郷から引き離される原因となったパラメーデースを戦争中も憎んだ。
オデュッセウスと他のアガメムノンの使節は、スキュロスに赴き、アキレウスを仲間に加えようと望んだ。というのも、彼を欠いては、トロイアは陥落しないと予言されていたからである。しかし、アキレウスの母テティスは、アキレウスを女装させ、アカイア勢の目を逃れようとしていた。なぜなら、神託によると、アキレウスは、平穏無事に長生きするか、もしくは永遠の名声を得る代わりに若くして死ぬかのいずれかであると予言されていたからである。

しかし、オデュッセウスは、前に立つ女性たちの誰がアキレウスなのかを見出すことに成功した。他の女性は装飾品にしか目を向けなかったものの、アキレウスだけ武器に興味を示したからである。さらに、オデュッセウスは、戦のホルンを鳴らし、アキレウスが武器を握りしめて戦士としての本来の性格を見せるのを鼓舞した。アキレウスの扮装もまた暴露されたので、アガメムノンらのアカイア勢に参加することになった。

トロイの木馬
トロイの木馬を立案し、これによって10年間続いたトロイア戦争に終止符を打った。トロイの木馬には、ネオプトレモス、メネラーオス、オデュッセウス、ディオメーデース、ピロクテーテース、小アイアースなどの猛将たちが乗り込んだ。木馬の準備が完了すると、アカイア軍は、陣営を焼き払って撤退を装い、敵を欺くためにシノーンだけを残して、近くのテネドス島へと待機した。シノーンはトロイア人に捕まり、拷問にかけられるが「ギリシア人は逃げ去った。木馬はアテーナーの怒りを鎮めるために作ったものだ。そして、なぜこれほど巨大なのかといえば、この木馬がイーリオス城内に入ると、この戦争にギリシア人が負けると予言者カルカースに予言されたためである」と説明してトロイア人を欺き通し、木馬を戦利品として城内に運び込むように誘導した。この計画は、木馬を怪しんだラーオコーンとカッサンドラーによって見破られそうになるが、アカイア勢に味方するポセイドーンが海蛇を送り込んでラーオコーンとその息子たちを殺したため、神罰を恐れて木馬を破壊しようとする者はいなくなった。

城門は、木馬を通すには狭かったので、一部を破壊して通し、アテーナーの神殿に奉納した。その後、トロイア人は、市を挙げて宴会を開き、全市民が酔いどれ眠りこけた。守衛さえも手薄になっていた。市民たちが寝静まった夜、木馬からオデュッセウスたちが出てきて、計画通り松明でテネドス島のギリシア勢に合図を送り、彼らを引き入れた。その後、ギリシア勢は、イーリオス市内で暴れ回った。酔って眠りこけていたトロイア人たちは、反撃することができず、アイネイアースなどの例外を除いて討たれてしまった。トロイアの王プリアモスもネオプトレモスに殺され、ここにトロイアは滅亡した。
トロイア戦争以後
トロイア戦争に勝利したオデュッセウスは故国イタケーを目指して航海を開始したが、トロイア戦争よりも長く辛い旅路が彼を待ち受けていた。本来彼は北に航路を取るべきだったが、激しい嵐に見舞われて遥か南のリビアの方へと流されてしまった。これが苦難の始まりであり、ホメロスの『オデュッセイア』で語られるところである。以下では『オデュッセイア』を下に記述する。

ロートパゴス族
リュビアーの西部に住んでいたロートパゴス族は、ロートスの木というナツメに似た木の果実を食べて生活していた。漂着した土地を探索していたオデュッセウスの部下たちはロートパゴス族と遭遇し、彼らからロートスの果実(一説には花)をもらって食した。すると、ロートスがあまりに美味だったので、それを食べた部下はみなオデュッセウスの命令も望郷の念も忘れてしまい、この土地に住みたいと思うようになった。ロートスの果実には食べた者を夢の世界に誘い、眠ること以外何もしたくなくなるという効力があった。このためオデュッセウスは嫌がる部下たちを無理やり船まで引きずって行き、他の部下がロートスを食べないうちに出航した。

キュクロープスの島
オデュッセウス一行が1つ目の巨人キュクロープスたちの住む島に来た時、彼らはキュクロープスたちによって洞窟に閉じ込められた。部下たちが2人ずつ食べられていくうち、オデュッセウスは持っていたワインをキュクロープスの1人ポリュペーモスに飲ませて機嫌を取った。これに気をよくしたポリュペーモスは、オデュッセウスの名前を尋ね、オデュッセウスが「ウーティス」(「誰でもない」の意)と名乗ると、ポリュペーモスは「おまえを最後に食べてやろう」と言った。

ポリュペーモスが酔い潰れて眠り込んだところ、オデュッセウスは部下たちと協力してポリュペーモスの眼を潰した。ポリュペーモスは大きな悲鳴を上げ、それを聞いた仲間のキュクロープスたちが集まってきたが、誰にやられたと聞かれてポリュペーモスが「ウーティス(誰でもない)」と答えるばかりであったため、キュクロープスたちは皆帰ってしまった。

オデュッセウスたちは羊の腹の下に隠れて洞窟を脱出し、船に戻って島から離れた。この時、興奮したオデュッセウスが本当の名を明かしてキュクロープスを嘲笑したため、ポリュペーモスはオデュッセウスに罰を与えるよう父ポセイドーンに祈り、以後ポセイドーンはオデュッセウスの帰還を何度も妨害することになった。ポリュペーモスがオデュッセウスによって眼を潰されることは、エウリュモスの子テーレモスによって予言されていたという。
アイオロスの島
ポセイドーンによって嵐を送り込まれ、オデュッセウスは風の神アイオロスの島であるアイオリア島に漂着した。アイオロスは彼を歓待し、無事に帰還できるように西風ゼピュロスを詰めた革袋を与えた。航海の邪魔になる荒ぶる逆風たちは別の革袋に封じ込めてくれた。西風のおかげでオデュッセウスは順調に航海することができたが、部下が逆風を封じ込めた革袋を空けてしまい、再びアイオリア島に戻ってしまった。今度はアイオロスは「神々の怒りを受けている」とし、オデュッセウスを冷酷に追い返してしまった。

ライストリュゴネス人
風の力を失ったので、オデュッセウス一行は自ら漕いで進まねばならなかった。部下たちは疲れ切り、休ませようと近くの島に寄港することにした。そこは入り江がとても狭く、入ることも出ることも容易ではなかった。部下たちの船は入り江の内側に繋いだが、オデュッセウスの船は入り江の外側に繋いだ。この島は夜が極端に短く、更に巨大で腕力もあるライストリュゴネス人が住んでいた。この巨人は難破した船や寄港した船の船員たちを食べる恐ろしい怪物であった。ライストリュゴネス人は大岩を投げ付けて船を壊し、部下たちを次々と丸呑みにしていった。残った船が出航して逃げようにも入り江が狭くてなかなか抜け出せず、もたもたしている内に大岩を当てられて大破してしまった。この島から逃げ切ることができたのは入り江の外側に繋いでいたオデュッセウスの船だけであり、ライストリュゴネス人によって多くの部下を失った。
魔女キルケーの住む島
多くの部下を失ったオデュッセウスは、イタリア西海岸にあるアイアイエー島へと立ち寄った。この島には魔女キルケーの館があり、強力な魔力を誇る彼女が支配していた。キルケーは妖艶な美女であり、美しい声で男を館に招き入れては、その魔法で動物に変身させていた。偵察に出掛けたオデュッセウスの部下も例外ではなく、オデュッセウスは部下の救出に向かわねばならなかった。その途中でヘルメスから魔法を無効化する薬(モーリュと呼ばれ、花は乳白色、根は漆黒の薬草で、人間には掘り当てることが難しい魔法の薬草であった)を授かり、それを飲んでキルケーの館へと臨んだ。

キルケーはキュケオンという飲み物と恐るべき薬を調合してオデュッセウスに差し出し、彼を動物へと変貌させようとしたが、モーリュの効力により魔法は全て無効化され、動物へと変身することはなかった。魔法の効かないオデュッセウスに驚き、好意を抱いたキルケーは、動物に変じていた部下たちを元の姿に戻し、侍女たちに食事や酒を用意させて心から歓待した。疲れ切っていたオデュッセウス一行もそれを受け入れ、約一年の間この島に留まることとなった。

一年後、故国イタケへの思いが再び起こり、オデュッセウス一行は旅立つことを決意した。キルケーは悲しんだが、強い思いを持つ彼らを送り出すことにした。その際、「冥界にいるテイレシアスという預言者の亡霊と話すように」と助言した。また、冥界へと行く方法も伝授した。

2024.03.08

おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!
Screens 網誌報導https://t.cn/A6Y1N7ii

選んでもらえるメディア作りを〜
東海テレビ『おっパン』Pが語る放送と配信の“これから”

原田泰造主演の土ドラ『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(東海テレビ・フジテレビ系、毎週土曜23:40~)の第1話見逃し配信の再生回数が、1週間(1月7日~1月14日)で約89万回再生(TVerとFOD無料の合計値)を記録。2022年1月放送の『おいハンサム!!』初回の約78万回再生を超え、東海テレビ制作のドラマ初回放送としては歴代1位の再生回数(※配信数はビデオリサーチにて算出)となった。

【動画】『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』TVerで配信中!

本作の主人公である昭和の“おっさん”が新しい“常識”と出会い、少しずつ変わっていく本作。テレビにおいても「放送」や「配信」など、生活者がテレビコンテンツを楽しむ選択肢が増え、従来の視聴スタイルから変化が起きている。本作と重ね合わせながら、『おっパン』のプロデューサーである松本圭右氏にインタビュー。テレビマンとして考える放送と配信のこれからについて伺った。

■ターゲットに向けたリリースを意識
松本氏は東海テレビに入社後、報道部でニュースを担当。その後、ドラマ制作部へと異動となった。当時、東海テレビは“昼ドラ”を制作。先輩プロデューサーのもとでドラマ作りを学んだ。

単発ドラマでプロデューサーデビュー後、昼ドラでは様々なことを経験。現在、45歳の松本氏は「自信と挫折を繰り返しながら、なんだかんだと20年やらせていただいています」と自身の経歴を振り返った。

そんな松本氏が手がけているのが『おっパン』である。LINEマンガで連載中、脚本家の藤井清美氏に教えてもらったことをきっかけにドラマ化へと動いた。藤井氏は本ドラマの脚本を担当している。

改めて、松本氏にどんな作品なのかを問うと「常識に囚われた堅物の昭和のおじさん・沖田誠(原田)​​が、ある青年との出会いによって、自分の常識を(現代に合わせて)アップデートしていきます。アップデートする理由のひとつが、愛する家族のことを理解したいし、傷つけたくないという思いなんです。本作は、多様性というテーマのもと、LGBTQから、推し活、オタク活動など、趣味嗜好も取り扱っていますが、根本は人と人との結びつきの物語です。自分としては、おじさんが成長するロールプレイングドラマ、という印象で作らせていただいています」と述べた。

原作者の練馬ジム​​先生には、長文のメールで思いを伝えドラマ化が決定。松本氏は「原作では、言語化できていなかった感情、モヤッとしたものを明快に見させていただきました。答えというよりも、“どうしたらいいんだろう”と思えるきっかけをもらえたんです」と熱く語る。

東海テレビ制作のドラマ初回放送としては歴代1位の再生回数だった本作。新たに実施した施策はあったのだろうか。

「地上波テレビは一度しか流れませんが、配信があると、見てもらえる土壌が増えますよね。作り手としては、多くの人に見ていただいた方が嬉しいので、リリース作りを意識しました。放送前のリリースは4つに分け、原作ファン、ドラマファン、キャストファンなど、すべて違うターゲットに向けて作りました」

キャスティングも光った。「主演の原田さんをはじめ、FANTASTICSの中島颯太さん、東啓介さんなど、“この人が出ていたら見る”というファンを持っていらっしゃる方も多かったので、事前及びその俳優さんが注目される回の前には、告知だけではなく、キャストの声も届くリリース作りを意識しました。また、視聴者が感情移入できるポジションにいて、ファンも多い富田靖子さんと松下由樹さんは、デビュー作が一緒で、ガッツリお芝居をするのは40年ぶりだったそうなんです。せっかくなので、リリース用に対談を組ませていただきました。そうしてたくさんの入り口を設け、どこから入っても面白みを感じていただけるリリース作りを意識しましたね」。

とはいえ、内容が伴っていないとここまで結果を出すことができない。ドラマ作りにおいて意識したことはなんだったのだろうか。松本氏は「こういったドラマに陥りがちなのですが……」と前置きしたうえで、こう教えてくれた。

「『説教臭いドラマにだけはしないようにしよう』と言っていました。“こうあるべきだ”という見え方になった瞬間、原作の良さがなくなるし、見ている人たちも肩に力が入って楽しめなくなると思ったんです」

そしてもうひとつ。クランクイン前にキャストへ向けて、あることをしたと教えてくれた。それは“手紙”だった。

「主要レギュラーの方にはお手紙で『こういう企画で、なおかつこういうキャラクターのつもりです』と事前にお伝えさせていただきました。必ずしもその通りにしてほしいわけではなく、作り手としての思いを伝え、あとはお任せします……というかたちなので、そういう意味では、同じ方向を向いてくださったなと思います」

手紙は昼ドラ時代から実施していることで、先輩のやり方を真似たという。「手紙を書きながら、この企画をなぜやったのか、このキャラクターをどういうつもりで作ったのか、もう一度再確認できますし、たとえお渡ししなくても、手紙を書くことに意味があるなと思っています」と仕事をするうえでも、良い作用になっていると明かした。

■“変わる”ことを厭わない世代が作る今後のテレビ
もはや配信でドラマを見るのは当たり前になってきた昨今。制作者として、どんなことを感じているのか。

松本氏は、昭和とは生活様式が変わり、昔のように父親がビールを片手にナイター中継を見る……という時代は二度とないかもしれない、と語る。

「その中でどうやって“選んでもらうメディアになるのか、選んでもらえるソフトを作るのか”ということしかないと思います」

もちろん「自分で探さなくても触れられる」というテレビの良さもあるが、いずれはそういう見方すらもされなくなるかもしれない、と松本氏。「あえてテレビをチョイスしてもらえるものを作らないといけない、というのは、 危機感ではなく、今後あるべき姿としてイメージしています」と未来を見据えた。

ここで、ふと疑問が湧いた。まだ配信がなかったテレビの時代を知る松本氏にとって「変わること」に躊躇はなかったのか、ということだ。新しいことへの挑戦は恐怖がつきものであるが、松本氏は歩みを止めない。

「たとえば、主人公の誠はバブル期に片足を突っ込んでいる世代ですが、当時の成功体験もあるので、なかなかそこから抜け出せなかったと思うんです。(過去の誠のように)頑なに変わらない人が周りにいると、“自分は変わらなきゃな”と律することができる、というのはあるかもしれません」

続けて「“変わっていくのが当たり前”というのは、私のような40代前半〜中盤世代の強みかなと思います」と松本氏。「同世代を見ても、“こうでなければいけない”と思っている人間が誰もいないので、変わって当たり前だし、そこに乗るか乗らないかだけだと思うんですよね。今のテレビ業界を苦難とも感じていないですし、“そうなるよな。じゃあどうしよう”と、すぐに頭を切り替えられたのは大きいと思います」。

松本氏が、今回の現場で初めて行ったという「当事者キャスティング」にも触れておきたい。原作には登場しない、誠の娘・萌(大原梓)の大学の友人役に​​、車椅子ユーザーの俳優・田﨑花歩を呼んだのだ。

「ふだん生活をしていても、車椅子の方や白杖を持った方っていらっしゃるじゃないですか。でも、ドラマは、美男美女で作られた美しい世界になりがち。本当の“世界の美しさ”ってそういうことではなくて、いろんなことをひっくるめたリアルな美しさだと思うんです。そこをちゃんと描きたいな、と」

ドラマ的に車椅子であることの理由はない。ただ、そんな友達が大学にいる世界観でこのドラマを作りたかった、と松本Pは語る。

「田﨑さんは、小さい頃、ドラマや舞台を見るのが好きだったけど、ドラマの世界には健常者しかおらず、選択肢として(俳優になる)想像すらしたことがなかった、とおっしゃっていました。すごく重い言葉だなと思いましたね。見せる側が意識していなくても、『あなたたちには無理ですよ』と伝わるような作り方をしていたんだと思ったんです。今後、こうしたキャスティングを続けることで『私にもそういう道があるんじゃないか』と思ってくれる子供たちが1人でも増えれば可能性は広がるし、そういう時代を作っていかなきゃいけないな、と思いました」

終盤に向けて盛り上がっていく『おっパン』。見どころを伺うと、こんな答えが返ってきた。

「こういう人には“こうであるべき”みたいなカテゴライズされた答えなんて1つもなくて、それぞれの対話でいろんな物事が見えてくるドラマになっています。『人と人とのつながりって、めんどくさいけどいいよね』というところを感じてもらえたら嬉しいですね。最後、誠と彼を毛嫌いしていた家族が、一致団結して友達のために頑張るストーリーラインもあるので、沖田家の可愛らしさと頑張りを最後まで見届けていただけたら幸いです」

最後に、テレビマンとしての“今後”についても問うた。

「配信を含め、ものすごく贅沢で楽しい時代だと思うので、その中で選んでもらえるメディアとして生き残れるように頑張りたいです。どんなかたちであれ、面白いものを作れば、そこにはお客さんがいらっしゃると思うので、最後の最後までお客さんに対してだけは誠実にものづくりをやっていきたいです。本当は『おっパン』のような企画が通らない時代が来るのが一番いいなと思っていますね。会社に企画書を出したときに『何を当たり前のことを言ってんだ』と言われる時代になったら、本当の意味で良いのかな、と。せっかくメディアの世界にいるので、お父さん世代も含めて、みんなが生きやすい世の中を作れるといいなと思っています」


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