秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。
混乱と滅亡
紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官の趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。

政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。
経済
始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

華蓋集  題記

鲁迅

 大晦日の深夜、この年の雑感を整理したら、「熱風」の丸四年分より多かった。大部分はもとのような意見だが、態度はそれほど素直ではない。措辞もいつも回りくどく、議論も往々にして、数件の小さなことに拘泥し、見識家の笑い物とされるに十分だ。しかし他に何の手だてがあろう。今年はこうした小さなことに出会い、小さなことにこだわる癖がついてしまったようだ。
 偉大な人(ブッダ)は三世を見通し、一切を観照し、大苦悩を嘗め、大歓喜を得て、大慈悲を発す、という。だが私はこれを成すには、深く山林に入り、古樹の下に坐して、静観黙想し、天眼通を会得し、ひとの世から遠く離れれば離れるほど、ひとの世をより広く認識できるということを知っている。そこでその言説が、より高度なものになれば、更に偉大になり、天人の師となるということも、知っている。私は小さい頃、空を飛べるようになるのを夢想したけれど、今なお地上におり、小さな切り傷も救えないから、広い心で、公正妥当な議論を展開し、公平に道理に通じる「正人君子」のようなことをするヒマなど、どこにあろうか。まさしく水に濡れた小蜂は、ただ泥の上を這いまわるだけで、洋館に住んでいる“通”の人たちと競争しようなど決して考えない。
だが、私は自分の持つ悲しみ苦しみ、憤激は決して洋館の通の人々の会得できるものではない。
 この病の痛さの根底は、私がこの世に生きているからで、そして一個の常人で、“華蓋の運”にめぐり合えたからだ。
 これまで運勢学を勉強したことは無いが、老人の話では、ひとは時に“華蓋の運”に会うそうだ。この華蓋は彼らの発音は大概「鑊蓋(ほーがい)」と訛っているので訂正する。
この運は和尚にとっては幸運で、頭上に華蓋があれば、成仏して開祖になる兆しだが、俗人は不運で、華蓋が頭上でかぶさっていると、釘付けのようで頭が上がらないという。
 今年、雑感を始めたら、二回大きな釘に打たれた。
一つは「文字の詮索」もう一つは「青年必読書」。署名入りと匿名の豪傑諸士の罵倒の手紙が山のようになり、書架の下に突っ込んである。このあと、又突如として所謂学者、文士、正人君子等に会ったが、彼らは異口同音、公正な話をし、公理を談じ、“同じ仲間と徒党を組み、異見者を打倒す”というのは良くないと言う。残念ながら私と彼らとは大きな違いがある。それゆえ彼らには何回か打たれたのだが、これはもちろん“公理”の為で、私の“党同伐異”とは違うからである。
 かくして今に至るも完結せず、“来年まで待とう”とするほかない。
またある人は私に、このような短評はもう書くなと勧めて呉れる。その好意には大変感謝し、決して創作の貴重なことを知らないではない。しかしこのような事をする時は、やはりこのような事をしなければならない。もし芸術の殿堂にこんな面倒な禁令があるのなら、行かない方がましだ。やはり砂漠に立ち、飛砂流石を見、楽しかったら大笑し、悲しかったら大いに泣き叫び、憤れば大いに罵る。たとえ砂礫に打たれてボロボロになり、頭が傷つき血が流れても、ときどき自分の凝血をさすって、もしそれが花模様のように見えたら、
中国の文士たちとシェークスピアの御相伴で、バター付きパンを食べる愉しさよりましだろう。
 しかるに一方で私の視界が狭いと怨みに思う。中国だけ取り上げてもこの一年、大事件もたくさんあったが、往々にしてそこにも言及しなかったので、なんの感触も無いように思われるだろう。私はかねてから、中国の青年が立ちあがって、中国の社会、文明に何ら忌憚のない批評をしてほしいと望み、「莽原週刊」を出して発言の場としたが、投稿者はたいへん少なかった。他の刊行物は大抵は反抗者に対する攻撃で、これは実に私にとっては、このまま続けられるか心配だった。
 今、一年の最後の深夜、夜も尽きようとし、我が生命も少なくとも一部はすでにこの無聊の中に費消され、私の得た物は自分の魂の荒涼とすさんだ姿だ。しかし私はいささかもこれらを憚ったりしないし、隠そうとも思わない。実際、それらを愛おしくすら思う。これは私が輾転と風砂の中で、暮らしてきた結果だから。自分が風砂の中で、輾転と生活してきたと感じたから、この意味が会得できた。
「熱風」を編集したとき、遺漏以外は数編削除した。今回はこれと異なり、一時の雑感一類のものは全てここに収めた。
 一九二五年十二月三十一日夜 緑林書屋東壁の下で 

在一年的尽头的深夜中,整理了这一年所写的杂感,竟比收在《热风》里的整四年中所写的还要多。意见大部分还是那样,而态度却没有那么质直了,措辞也时常弯弯曲曲,议论又往往执滞在几件小事情上,很足以贻笑于大方之家。然而那又有什么法子呢。我今年偏遇到这些小事情,而偏有执滞于小事情的脾气。

我知道伟大的人物能洞见三世,观照一切,历大苦恼,尝大欢喜,发大慈悲。但我又知道这必须深入山林,坐古树下,静观默想,得天眼通,离人间愈远遥,而知人间也愈深,愈广;于是凡有言说,也愈高,愈大;于是而为天人师。我幼时虽曾梦想飞空,但至今还在地上,救小创伤尚且来不及,那有余暇使心开意豁,立论都公允妥洽,平正通达,像“正人君子”一般;正如沾水小蜂,只在泥土上爬来爬去,万不敢比附洋楼中的通人,但也自有悲苦愤激,决非洋楼中的通人所能领会。

这病痛的根柢就在我活在人间,又是一个常人,能够交着 “华盖运”。

我平生没有学过算命,不过听老年人说,人是有时要交“华盖运”的。这“华盖”在他们口头上大概已经讹作“镬盖”了,现在加以订正。所以,这运,在和尚是好运:顶有华盖,自然是成佛作祖之兆。但俗人可不行,华盖在上,就要给罩住了,只好碰钉子。我今年开手作杂感时,就碰了两个大钉子: 一是为了 《咬文嚼字》,一是为了《青年必读书》。署名和匿名的豪杰之士的骂信,收了一大捆,至今还塞在书架下。此后又突然遇见了一些所谓学者,文士,正人,君子等等,据说都是讲公话,谈公理,而且深不以“党同伐异”为然的。可惜我和他们太不同了,所以也就被他们伐了几下,——但这自然是为“公理”之故,和我的“党同伐异”不同。这样,一直到现下还没有完结,只好“以待来年”。

也有人劝我不要做这样的短评。那好意,我是很感激的,而且也并非不知道创作之可贵。然而要做这样的东西的时候,恐怕也还要做这样的东西,我以为如果艺术之宫里有这么麻烦的禁令,倒不如不进去;还是站在沙漠上,看看飞沙走石,乐则大笑,悲则大叫,愤则大骂,即使被沙砾打得遍身粗糙,头破血流,而时时抚摩自己的凝血,觉得若有花纹,也未必不及跟着中国的文士们去陪莎士比亚吃黄油面包之有趣。

然而只恨我的眼界小,单是中国,这一年的大事件也可以算是很多的了,我竟往往没有论及,似乎无所感触。我早就很希望中国的青年站出来,对于中国的社会,文明,都毫无忌惮地加以批评,因此曾编印《莽原周刊》,作为发言之地,可惜来说话的竟很少。在别的刊物上,倒大抵是对于反抗者的打击,这实在是使我怕敢想下去的。

现在是一年的尽头的深夜,深得这夜将尽了,我的生命,至少是一部分的生命,已经耗费在写这些无聊的东西中,而我所获得的,乃是我自己的灵魂的荒凉和粗糙。但是我并不惧惮这些,也不想遮盖这些,而且实在有些爱他们了。因为这是我转辗而生活于风沙中的瘢痕。凡有自己也觉得在风沙中转辗而生活着的,会知道这意思。

我编《热风》时,除遗漏的之外,又删去了好几篇。这一回却小有不同了,一时的杂感一类的东西,几乎都在这里面。

一九二五年十二月三十一日之夜,记于绿林书屋东壁下。

#西畑大吾[超话]#
にしはったー 2024/5/3 18:00 更新

KAMIGATA BOYZ…!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

SUPER EIGHT兄さん、
WEST.兄さん
なにわ男子の3組によるウルトラユニット。
突如として世に君臨した治安悪めのゴリゴリ集合写真にティザー映像。

これは…まさか…
関西組のゴリゴリにかっこいいのが来るぞ…と身構えていると…

ドカーンッεε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

「無責任でええじゃないかLOVE」
ゴリゴリの関西ごり押しソングの到来。
ギャップの振り幅に驚愕&ニンマリ。

これだから…
関西好きはやめられないってばよ☺️
関西、大好きや〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

【P1】

昨日の写真からの変化よ。笑
好きすぎる。
昭和テイスト畑。

「無責任でええじゃないかLOVE」
各音楽サイトで配信中です!
MVはStorm LabelsのオフィシャルYouTubeで見れます!
是非!

あの…ガレットって何?笑
ガレット担当なのにガレットを知らなかった西畑でした。
おフランスのお好み焼きです♡


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