日本語を好きの一つ原因は繊細な感情を表現できることだ。僕今日は英語の「I miss you」はどうやって日本語で表現するかよく考えた。「会いたかった」は僕の答えです。「会いたい」の過去形だけではなく、もう会ったことがある、ずっとずっと君のことを想っているの気持ちがありますでしょう。いつの間に、僕の内OSは中国語と日本語両方を考えることはできなった。これは奇妙な感覚だ、面白いではないか。

江戸の化物
岡本綺堂

池袋の女

 江戸の代表的怪談といえば、まず第一に池袋の女というものを挙げなければなりません。
 今日の池袋の人からは抗議が出るかもしれませんが、どういうものか、この池袋の女を女中などに使いますと、きっと何か異変があると言い伝えられて、武家屋敷などでは絶対に池袋の女を使わないことにしていたということです。また、町家などでも池袋の女を使うことを嫌がりましたので、池袋の女の方でも池袋ということを隠して、大抵は板橋とか雑司ヶ谷とかいって奉公に出ていたのだそうです。
 それも、女が無事におとなしく勤めている分には別になんの仔細もなかったのですが、もし男と関係でもしようものなら、忽ち怪異が頻々ひんぴんとして起こるというのです。
 これは、池袋の女が七面様の氏子なので、その祟たたりだ[#「祟たたりだ」は底本では「崇たたりだ」]といわれていましたが、それならば不埓ふらちを働いた当人、即ち池袋の女に祟れば[#「祟れば」は底本では「崇れば」]よさそうなものですが、本人にはなんの祟も[#「祟も」は底本では「崇も」]なくて、必ずその女の使われている家へ祟る[#「祟る」は底本では「崇る」]のだそうです。まったく理窟では判断がつきませんが、まず家が揺れたり、自然に襖ふすまが開いたり、障子の紙が破れたり、行灯あんどんが天井に吸い付いたり、そこらにある物が躍おどったり、いろいろの不思議があるといいます。
 こういうことがあると、まず第一に池袋の女を詮議することになっていましたが、果してその蔭には必ず池袋の女が忍んでいたということです。
これは私の父なども親しく見たということですが、麻布の龍土町(いまの港区六本木七丁目六~八番)に内藤紀伊守の下屋敷がありました。この下屋敷というところは、多く女子供などが住んでいるのです。
 ある夜のことでした。何処からとなく沢山の蛙が出て来てぴょこぴょこと闇に動いていましたが、いつとはなしに女たちの寝ている蚊帳かやの上にあがって、じっとつくばっていたということです。それを見た女たちの騒ぎは、どんなであったでしょう。
 すると、こんどは家がぐらぐらとぐらつき出したので、騒ぎはますます大きくなって、上屋敷からも武士が出張するし、また他藩の武士の見物に行った者などが交じって、そこらを調べて見ましたが、さっぱり訳が判りません。そこで狐狸こりの仕業ということになって屋敷中を狩り立てましたが、狐や狸はさておき、かわうそ一疋も出なかったということです。で、その夜は十畳ばかりの屋敷に十四、五人の武士が不寝番ねずのばんをすることになりました。
 ところが、夜もだんだん更けゆくにつれ、行灯の火影も薄暗くなって、自然と首が下がるような心持になると、どこからとなく、ぱたりぱたりと石が落ちてくるのです。皆の者がしゃんとしている間は何事もないのですが、つい知らずに首が下がるにつれて、ぱたりぱたりと石が落ちてくるので、「これはどうしても狐狸の仕業に相違ない。ためしに空鉄砲を放してみよう」といって、井上某が鉄砲を取りに立とうとすると、ぽかりと切石が眉間みけんに当たって倒れました。
 こんどは他の者が代わって立とうとすると、また、その者の横鬢よこびんのところに切石が当たったので、もう誰も鉄砲を[#「鉄砲を」は底本では「鉄砲に」]取りに行こうという者もありません。互いに顔を見合わせているばかりでしたが、ある一人が「石の落ちてくるところは、どうも天井らしい」と、いい終わるか終わらぬうちに、ぱっと畳の間から火を吹き出したそうです。
 こういうような怪異のことが、約三月くらい続いているうちに、ふとかの地袋の女ということに気がついて、下屋敷の女たちを厳重に取調べたところが、果して池袋から来ている女中があって、それが出入りの者と密通していたということが知れました。
 で、この女中を追い出してしまいますと、まるで嘘のように不思議なことが止んだということです。
 これも塚原渋柿園じゅうしえんの直話じきわですが、牛込の江戸川橋のそばに矢柄やがら何某という槍の先生がありました。この家に板橋在の者だといって住み込んだ女中がありましたが、どうも池袋の女らしいので、そのことを細君から主人に告げて、今のうちに暇を出してしまいたいといいますと、さすがは槍の先生だけあって、「実は池袋の女の不思議を見たいと思っていたのだが、ちょうど幸いである。そのままにしておけ」ということで、細君も仕方なしに知らぬ振りをしていましたが、別になんのこともなかったそうです。
 ところがある日、主人公が食事をしている時でした。給仕をしている細君があわてて飯櫃めしびつを押さえていますので、どうしたのかと聞くと、飯櫃がぐるぐる廻り出したというのです。
 矢柄先生はそれを非常に面白がられて、ぐるぐると廻っている飯櫃をじっと見ていましたが、やがて庭の方の障子を開けますと、飯櫃はころころと庭に転げ落ちて、だんだん往来の方へ転げて行きます。で、稽古に来ている門弟たちを呼んでそのあとをつけさせますと、飯櫃は中の橋の真ん中に止まって、逆様さかさまに伏せって動かなくなったので、それを取ってみますとすっかり飯が減っていたということです。
 これを調べて見ると、その池袋の女中が近所の若い者といたずらをしていたということが判りました。女中も驚いて自分から暇を取ろうとしましたが、先生は面白がってどうしても暇をやらなかったので、とうとういたたまらなくなって、女も無断で逃げていってしまったということです。この種の怪談が江戸時代にも沢山ありました。
天狗や狐憑き、河童など

 天狗に攫さらわれるということも、随分沢山あったそうです。もちろんこれには嘘もあり、本当もあり、一概にはいえないのですが、とにかくに天狗に攫われるような者は、いつもぼんやりして意識の明瞭を欠いていた者が多かったそうです。従って、「あいつは天狗に攫われそうな奴だ」というような言葉があったくらいです。これは十日くらいの間、行方不明になっていて、どこからかふらりと戻って来るのです。
 これらは科学的に説明すれば、いろいろの解釈がつくのですが、江戸時代ではまず怪談の一つとして数えていました。
 狐憑きつねつき、これもなかなか多かったようですが、一種の神経衰弱者だったのでしょう。この時代には「狐憑」もあれば、「狐使い」もありました。狐を使う者は飯綱いいづなの行者だと言い伝えられていました。そのほかに管狐くだぎつねを使う者もありました。
 管狐というのは、わざわざ伏見の稲荷へ行って管の中へ狐を入れて来るので、管の中へ入れられた狐は管から出してくれといって、途中で泣き騒いでいたということですが、もう箱根を越すと静かになるそうです。
 昔は狐使いなどといって、他に嫌がられながらも一方にはまた恐れられ、種々の祈祷料などをもらっていたのですが、今日では狐を使う行者などは跡を絶ちました。
 この狐憑は、狐が落ちさえすればけろりと治ってしまいますが、治らずに死ぬ者もありました。
 河童かっぱは筑後の柳川が本場だとか聞いていますが、江戸でも盛んにその名を拡めています。これはかわうそと亀とを合併して河童といっていたらしく、川の中で足などに搦からみつくのは大抵は亀だそうです。
 この河童というものが、江戸付近の川筋にはよく出たものです。どういう訳か、葛西かさいの源兵衛(源兵衛堀―いまの北十間じっけん川のこと)が名所になっています。
 徳川の家来に福島何某なにがしという武士がありました。ある雨の夜でしたが、虎の門の濠端ほりばたを歩いていました。この濠のところを俗にどんどんといって、溜池の水がどんどんと濠に落ちる落口になっていたのです。
 その前を一人の小僧が傘もささずに、びしょびしょと雨に濡れながら裾を引き摺って歩いているので、つい見かねて「おい、尻を端折はしょったらどうだ」といってやりましたが、小僧は振り向きもしないので、こんどは命令的に「おい、尻を端折れ」といいましたが、小僧は振り向きもしないので、こんどは命令的に「おい、尻を端折れ」といいましたが、小僧は相変わらず知らぬ顔をしています。で、つかつかと寄って、後ろから着物の裾をまくると、ぴかっと尻が光ったので、「おのれ」といいざま襟に手をかけて、どんどんの中へ投げ込みました。
 が、あとで、もしそれが本当の小僧であっては可哀相だと思って、翌日そこへ行って見ましたが、それらしき死骸も浮いていなければ、そんな噂もなかったので、まったくかわうそだったのだろうと、他に語ったそうです。
 芝の愛宕山の下〔桜川の大溝〕などでも、よくかわうそが出たということです。
 それは多く雨の夜なのですが、差している傘の上にかわうそが取りつくので、非常に持ち重りがするということです。そうして顔などを引っ掻かれることなどがあったそうですが、武士などになると、そっと傘を手許に下げておよその見当をつけ、小柄こづかを抜いて傘越しにかわうそを刺し殺してしまったということです。
 中村座の役者で、市川ちょび助という宙返ちゅうがえりの名人がありました。やはり雨の降る晩でしたが、芝居がはねて本所の宅へ帰る途中で遭ったそうです。差している傘が石のように重くなって、ひと足も歩くことができなくなったので、持前の芸を出して、傘を差したまま宙返りをすると、かわうそが大地に叩きつけられて死んでいた、ということです。
 日比谷の亀も有名でした。桜田見附から日比谷へ行く濠の底に大きい亀が棲すんでいたということで、この亀が浮き出すと濠一杯になったと言い伝えられています。亀が浮くと、龍たつの口くちの火消屋敷の太鼓を打つことになっていました。その太鼓の音に驚いて、大亀は沈んでしまうといいます。しかし、その亀を見た者はないようです。

黄英(下)
田中貢太郎

間もなく主人が出てきた。果して陶であった。馬はひどく喜んで別れてからの後の話をして、とうとうそこに泊った。馬は陶に、
「姉さんも待ちかねている、ぜひいっしょに帰ろう」
 と言った。陶は言った。
「金陵は僕の故郷ですから、ここで結婚しようと思ってるのです、すこしばかり金がありますから、姉さんにやってください、年末になったら、ちょっと往きますから」
 馬は、
「とにかく一度帰ろう、姉さんも待ちかねてるから」
 と言って聴かなかった。そしてしきりに帰ることをすすめて、そのうえで言った。
「家は幸いに金があるから、ただ坐ってくらしておればいいのだ、もう商売なんかしなくてもいい」
 馬はそこで肆の中へ坐って、肆の男に価あたいを言わして、やすねで売ったので、数日のうちに売りつくした。馬はそれから陶に逼せまって旅準備たびじたくをして、舟をやとうてとうとう北へ帰ってきた。そして我家へ帰ってみると、黄英はもう家の掃除をして、牀榻ねだいと裀褥ふとんの用意をしてあった。それはあらかじめ弟の帰るのを知っていたかのように。
 陶は帰って旅装束を解くと、人をやとうて亭園ていえんをしつらえさした。そして毎日馬と棋きをやったり酒を飲んだりして、他に一人の友達もつくらなかった。馬は陶に結婚させようとしたが承知しなかった。黄英は二人の婢を陶の寝所につけたが、三四年たって一人の女の子が生れた。
陶は素もとから酒が強かったから、従ってぐでぐでに酔うことはなかった。馬の友人に曾そうという者があったが、これも酒豪で相手なしときていた。ある日その曾が馬の所へきたので馬は陶と飲みっくらをさした。二人はほしいままに飲んでひどく歓び、知りあいになるのが晩おそかったことを恨んだほどであった。辰の刻から飲みはじめて夜の二時比まで飲んだが、数えてみるとそれぞれ百本の酒を飲んでいた。曾は泥なまこのようにぐにゃぐにゃに酔っぱらって、そこに寝込んでしまった。陶は起って寝に帰ったが、門を出て菊畦を践ふんでゆくうちに、酔い倒れて衣きものを側にほうりだしたが、そのまま菊になってしまった。その高さは人位で十あまりの花が咲いたが、皆拳よりも大きかった。馬はびっくりして黄英に知らした。黄英は急いで往って、菊を抜いて地べたに置いて、
「なぜこんなにまで酔うのです」
 と言って、衣をきせ、馬を伴れて帰って往ったが、
「見てはいけないですよ」
 と言った。朝になって往ってみると陶は畦のへりに寝ていた。馬はそこで二人が菊の精だということを悟ったのでますます二人を敬い愛した。
 そして陶は自分の姿を露わしてからは、ますます酒をほしいままに飲むようになって、いつも自分から手紙を出して曾を招よんだ。で、二人は親しい友達となった。
 二月十五日の花朝かちょうの日のことであった。曾が二人の僕に一甕ひとかめの薬浸酒やくしんしゅを舁かつがしてきたので、二人はそれを飲みつくすことにして飲んだが、甕の酒はもうなくなりかけたのに、二人はなおまだ酔わなかった。馬はそこでそっと一瓶の酒を入れてやった。二人はまたそれを飲んでしまったが、曾は酔ってつかれたので、僕が負って帰って往った。
 陶は地べたに寝てまた菊となったが、馬は見て慣れているので驚かなかった。型の如く菊を抜いてその傍に番をしながら、もとの人になるのを待っていたが時間がたってから葉がますます萎しおれてきた。馬はひどく懼おそれて、はじめて黄英に知らした。黄英は知らせを聞いて驚いて言った。
「しまった」
 奔はしって往ってみたが、もう根も株も枯れていた。黄英は歎き悲しんで、その梗くきをとって盆の中に入れ、それを持って居間に入って、毎日水をかけた。馬は悔い恨んでひどく曾を悪にくんだが、二三日して曾がすでに酔死したということを聞いた。
 盆の中の花はだんだん芽が出て、九月になってもう花が咲いた。短い幹に花がたくさんあって、それを嗅ぐと酒の匂いがするので、酔陶と名をつけて、酒をかけてやるとますます茂った。
 後に女むすめは成長して家柄のいい家へ嫁入した。
 黄英はしまいに年をとったが、べつにかわったこともなかった。

作品原文

马子才,顺天人。世好菊,至才尤甚。闻有佳种,必购之,千里不惮。 一日,有金陵客寓其家,自言其中表亲有一二种,为北方所无。马欣动, 即刻治装,从客至金陵。客多方为之营求,得两芽,裹藏如宝。归至中途, 遇一少年,跨蹇从油碧车,丰姿洒落。渐近与语。少年自言:“陶姓。” 谈言骚雅。因问马所自来,实告之。少年曰:“种无不佳,培溉在人。” 因与论艺菊之法。马大悦,问:“将何往?”答云:“姊厌金陵,欲卜居 于河朔耳。”马欣然曰:“仆虽固贫,茅庐可以寄榻。不嫌荒陋,无 烦他适。”陶趋车前,向姊咨禀。车中人推帘语,乃二十许绝世美人也。 顾弟言:“屋不厌卑,而院宜得广。”马代诺之,遂与俱归。
第南有荒圃,仅小室三四椽,陶喜,居之。日过北院,为马治菊。菊已 枯,拔根再植之,无不活。然家清贫,陶日与马共食饮,而察其家似不举火。马妻吕,亦爱陶姊,不时以升斗馈恤之。陶姊小字黄英,雅善谈, 辄过吕所,与共纫绩。陶一日谓马曰:”君家固不丰,仆日以口腹累知 交,胡可为常。为今计,卖菊亦足谋生。”马素介,闻陶言,甚鄙 之,曰:“仆以君风流高士,当能安贫,今作是论,则以东篱为市井, 有辱黄花矣。”陶笑曰:“自食其力不为贪,贩花为业不为俗。人固不 可苟求富,然亦不必务求贫也。”马不语,陶起而出。自是,马所 弃残枝劣种,陶悉掇拾而去。由此不复就马寝食,招之始一至。未几,菊将 开,闻其门嚣喧如市。怪之,过而窥焉,见市人买花者,车载肩负,道 相属也。其花皆异种,目所未睹。心厌其贪,欲与绝;而又恨其私秘佳本, 遂款其扉,将就诮让。陶出,握手曳入。见荒庭半亩皆菊畦,数椽之外无旷 土。劚去者,则折别枝插补之;其蓓蕾在畦者,罔不佳妙:而细认 之,尽皆向所拔弃也。陶入屋,出酒馔,设席畦侧,曰:“仆贫不能守清戒,连朝幸得微资,颇足供醉,”少间,房中呼“三郎”,陶诺而去。俄 献佳肴,烹饪良精。因问:“贵姊胡以不字?”答云:“时未至。“问:“何 时?”曰:“四十三月。”又诘:“何说?”但笑不言。尽欢始散。过宿, 又诣之,新插者已盈尺矣。大奇之,苦求其术。陶曰:“此固非可言传;且 君不以谋生,焉用此?”又数日,门庭略寂,陶乃以蒲席包菊,捆载数车而 去。逾岁,春将半,始载南中异卉而归,于都中设花肆,十日尽售,复 归艺菊。问之去年买花者。留其根,次年尽变而劣,乃复购于陶。陶由此日 富:一年增舍,二年起夏屋。兴作从心,更不谋诸主人。渐而旧日花畦,尽 为廊舍。更于墙外买田一区,筑墉四周,悉种菊。至秋,载花去,春尽 不归。而马妻病卒。意属黄英,微使人风示之。黄英微笑。意似允许,惟专 候陶归而已。年馀,陶竟不至。黄英课仆种菊,一如陶。得金益合商贾,村 外治膏田二十顷,甲第益壮。忽有客自东粤来,寄陶生函信,发之,则 嘱姊归马。考其寄书之日,即妻死之日;回忆园中之饮,适四十三月也。大 奇之。以书示英,请问“致聘何所”。英辞不受采。又以故居陋,欲使就南 第居,若赘焉。马不可,择日行亲迎礼。黄英既适马,于间壁开扉通南第, 日过课其仆。
马耻以妻富,恒嘱黄英作南北籍,以防淆乱。而家所 需,黄英辄取诸南第。不半岁,家中触类皆陶家物。马立遣人一一赍还之, 戒勿复取。未浃旬,又杂之。凡数更,马不胜烦。黄英笑曰:“陈仲子 毋乃劳乎?”马惭,不复稽,一切听诸黄英。鸠工庀料,土木大作,马不能禁。经数月,楼舍连亘,两第竟合为一,不分疆界矣。然遵马教, 闭门不复业菊,而享用过于世家。马不自安,曰:“仆三十年清德,为 卿所累。今视息人间,徒依裙带而食,真无一毫丈夫气矣。人皆祝 富,我但祝穷耳!”黄英曰:“妾非贪鄙;但不少致丰盈,遂令千载下 人,谓渊明贫贱骨,百世不能发迹,故聊为我家彭泽解嘲耳。然贫者愿富,为难;富者求贫,固亦甚易。床头金任君挥去之,妾不靳也。”马 曰:“捐他人之金,抑亦良丑。”英曰:“君不愿富,妾亦不能贫也。无已, 析君居:清者自清,浊者自浊,何害。”乃于园中筑茅茨,择美婢往侍 马。马安之。然过数日,苦念黄英。招之,不肯至;不得已,反就之。隔宿 辄至,以为常。黄英笑曰:“东食西宿,廉者当不如是。”乌亦自笑, 无以对,遂复合居如初。
会马以事客金陵,适逢菊秋。早过花肆,见肆中盆列甚烦,款朵佳胜, 心动,疑类陶制。少间,主人出,果陶也。喜极,具道契阔,遂止宿焉,要 之归。陶曰:“金陵,吾故土,将婚于是。积有薄资,烦寄吾姊。我岁杪当 暂去。”马不听,请之益苦。且曰:“家幸充盈,但可坐享,无须复贾。” 坐肆中,使仆代论价,廉其直,数日尽售。逼促囊装,赁舟遂北。入门,则 姊已除舍,床榻裀褥皆设,若预知弟也归者。陶自归,解装课役,大修亭园, 惟日与马共棋酒,更不复结一客。为之择婚,辞不愿。姊遣二婢侍其寝处, 居三四年,生一女。
陶饮素豪,从不见其沉醉。有友人曾生,量亦无对。适过马,马使 与陶相较饮。二人纵饮甚欢,相得恨晚。自辰以迄四漏,计各尽百壶。 曾烂醉如泥,沉睡座间。陶起归寝,出门践菊畦,玉山倾倒,委衣于侧, 即地化为菊,高如人;花十馀朵,皆大于拳。马骇绝,告黄英。英急往,拔 置地上,曰:“胡醉至此!”覆以衣,要马俱去,戒勿视。既明而往,则陶 卧畦边。马乃悟姊弟菊精也,益敬爱之。而陶自露迹,饮益放,恒自折柬招 曾。因与莫逆。值花朝,曾乃造访,以两仆舁药浸白酒一坛,约与共 尽。坛将竭,二人犹未甚醉,马潜以一瓻续入之,二人又尽之。曾醉 已惫,诸仆负之以去。陶卧地,又化为菊。马见惯不惊,如法拔之,守其旁 以观其变。久之,叶益憔悴。大惧,始告黄英。英闻骇曰:“杀吾弟矣!” 奔视之,根株已枯。痛绝,掐其梗,埋盆中,携入闺中,日灌溉之。马悔恨 欲绝,甚怨曾。越数日,闻曾已醉死矣。盆中花渐萌,九月既开,短干粉朵, 嗅之有酒香,名之“醉陶”,浇以酒则茂。后女长成,嫁于世家。黄英终老, 亦无他异。
异史氏日:“青山白云人,遂以醉死,世尽惜之,而未必不自以 为快也。植此种于庭中,如见良友,如对丽人,不可不物色之也。”


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