百里奚
放浪の旅
百里奚は楚の出身と言われているが、1世代前の時代に許の国に百里という名の大夫がいたことが『春秋左氏伝』に記されており、そこから百里奚の出身地は許との説もある。[要出典]
その後、百里奚は斉へと向かうが、入国した後に飢えで倒れたところを斉の人の蹇叔(中国語版)に助けられる。そこで世話になった百里奚は、当時の斉公(桓公の兄の襄公か、従兄弟の公孫無知のいずれか)に仕官しようとするが、蹇叔に止められる。後に斉公は臣下に弑されたことから、百里奚は危機を上手く回避できたことになる。
次に百里奚は、周王朝の王子頽(中国語版)(恵王の叔父)に仕えようとするが、ここでも蹇叔に止められる。王子頽は紀元前675年に恵王を追い、一時的に王位に就くが、2年後の紀元前673年に敗死したため、ここでも百里奚は危機を回避できたのである。
その次に百里奚は、周王室に連なる虞(姫姓、文王の伯父・虞仲(雍)の系統)へと仕官しようとするが、ここでまた蹇叔に止められる。しかし百里奚は彼の諌めを聞かずに虞の大夫として仕官し、それ以降蹇叔とは音信不通になってしまう。
虞の大夫時代
紀元前655年冬に、晋の献公が虞侯に璧と名馬を贈り、虞の親戚に当たる霍(開祖は武王の異母弟の霍叔処)と虢(開祖は文王の弟の虢仲)を討伐する時にその街道を通過してよいかと虞侯に要求した。これに対し百里奚は、賢臣として名高い宮之奇(中国語版)と共に虞侯を諌めたが、虞侯は両人の耳を貸さずに、献公の要求に快く応じてしまう。
果たして献公は虢と霍を壊滅したその帰途に突如、虞を襲撃してこれを滅ぼして、虞侯を初めとして百里奚らを捕虜として、下僕とした(いわゆる仮道伐虢の故事)。まさに蹇叔が懸念した通りの事態に陥ってしまったのである。
下僕として秦に
百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し、楚で捕虜となった。穆公の家臣に見つけ出され、穆公は楚の里人に「私の家臣の百里奚を引き渡してもらいたい」と依頼し、メヒツジの皮5枚(五羖)を謝礼として里人に与えた。こうして百里奚は秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった。
秦の宰相に
穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。百里奚は「わたしは亡国の家臣に過ぎません。宰相はご辞退したい」と言ったが、穆公は「虞が滅んだのはあなたの罪ではない、あなたの意見を取り上げない愚かな虞侯の責任だ」として、百里奚を宰相とした。ときに百里奚70余歳。
百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。
また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。[要出典]更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。
穆公三十二年、秦の穆公が鄭国から内通する者の連絡を受け、百里奚の息子の孟明視を大将として出陣させた。しかし、百里奚・蹇叔は遠征に反対し、「遠征して勝てたためしがない」と泣いて止めたが、穆公は出撃させ、敗北した。
百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだときは100歳近かっただろうといわれる。死因は定かでないが、『史記』蒙恬伝に「蒙毅曰く『昔、わが秦の穆公は、三良(3人の立派な臣)を殺し(殉死させ)、百里奚を処罰されましたが、罪を犯したわけではありませんでした。それゆえ号(諡号)を繆(穆と同じ:誤ると同義)と申し上げるのです』」とあり、処刑された可能性を記している。穆公は過ちを認識し、それ故に子の孟明視を重用したとも考えられる。百里奚が没すると秦の男女はみな涙を流し、子供たちも歌声をあげなかったとされている。
子の孟明視や親友の蹇叔も百里奚の死後、宰相となって穆公をよく補佐した。孟明視は敗北を許され、後に晋を攻めて大勝した。『新唐書』宰相世系五下によれば、のちの秦の武安君白起は百里奚の子孫であり、更に白起の子孫からは唐の詩人白居易が出ているという。
百里奚(约公元前725—前621年),姜姓,春秋时期虞国(今山西平陆北)人,百里氏,名奚,字子明,号五羖大夫。春秋时期著名政治家、思想家。
百里奚本是虞国大夫。晋献公假途伐虢后,灭亡了虞国,俘获百里奚。作为秦穆公夫人(穆姬)的陪嫁奴隶送到秦国。百里奚逃离秦国,跑到楚国宛邑。秦穆公用五张黑羊皮从市井之中换回后,进入秦国成为大夫,人称“五羖大夫”。主持秦国国政期间,百里奚“谋无不当,举必有功”,辅佐秦穆公倡导文明教化,实行“重施于民”的政策,内修国政,外图霸业,开地千里,称霸西戎,统一西北地区,促进了秦国的崛起。这一时期,秦孝公称之为“甚光美”的时代。史载百里奚“三置晋国之君”“救荆州之祸”“发教封内,而巴人致贡;施德诸侯,而八戎来服”,使秦国成为春秋五霸之一,为秦国崛起和统一六国奠定了牢固基础,堪称一代名相。
秦穆公三十九年,百里奚去世。
放浪の旅
百里奚は楚の出身と言われているが、1世代前の時代に許の国に百里という名の大夫がいたことが『春秋左氏伝』に記されており、そこから百里奚の出身地は許との説もある。[要出典]
その後、百里奚は斉へと向かうが、入国した後に飢えで倒れたところを斉の人の蹇叔(中国語版)に助けられる。そこで世話になった百里奚は、当時の斉公(桓公の兄の襄公か、従兄弟の公孫無知のいずれか)に仕官しようとするが、蹇叔に止められる。後に斉公は臣下に弑されたことから、百里奚は危機を上手く回避できたことになる。
次に百里奚は、周王朝の王子頽(中国語版)(恵王の叔父)に仕えようとするが、ここでも蹇叔に止められる。王子頽は紀元前675年に恵王を追い、一時的に王位に就くが、2年後の紀元前673年に敗死したため、ここでも百里奚は危機を回避できたのである。
その次に百里奚は、周王室に連なる虞(姫姓、文王の伯父・虞仲(雍)の系統)へと仕官しようとするが、ここでまた蹇叔に止められる。しかし百里奚は彼の諌めを聞かずに虞の大夫として仕官し、それ以降蹇叔とは音信不通になってしまう。
虞の大夫時代
紀元前655年冬に、晋の献公が虞侯に璧と名馬を贈り、虞の親戚に当たる霍(開祖は武王の異母弟の霍叔処)と虢(開祖は文王の弟の虢仲)を討伐する時にその街道を通過してよいかと虞侯に要求した。これに対し百里奚は、賢臣として名高い宮之奇(中国語版)と共に虞侯を諌めたが、虞侯は両人の耳を貸さずに、献公の要求に快く応じてしまう。
果たして献公は虢と霍を壊滅したその帰途に突如、虞を襲撃してこれを滅ぼして、虞侯を初めとして百里奚らを捕虜として、下僕とした(いわゆる仮道伐虢の故事)。まさに蹇叔が懸念した通りの事態に陥ってしまったのである。
下僕として秦に
百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し、楚で捕虜となった。穆公の家臣に見つけ出され、穆公は楚の里人に「私の家臣の百里奚を引き渡してもらいたい」と依頼し、メヒツジの皮5枚(五羖)を謝礼として里人に与えた。こうして百里奚は秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった。
秦の宰相に
穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。百里奚は「わたしは亡国の家臣に過ぎません。宰相はご辞退したい」と言ったが、穆公は「虞が滅んだのはあなたの罪ではない、あなたの意見を取り上げない愚かな虞侯の責任だ」として、百里奚を宰相とした。ときに百里奚70余歳。
百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。
また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。[要出典]更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。
穆公三十二年、秦の穆公が鄭国から内通する者の連絡を受け、百里奚の息子の孟明視を大将として出陣させた。しかし、百里奚・蹇叔は遠征に反対し、「遠征して勝てたためしがない」と泣いて止めたが、穆公は出撃させ、敗北した。
百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだときは100歳近かっただろうといわれる。死因は定かでないが、『史記』蒙恬伝に「蒙毅曰く『昔、わが秦の穆公は、三良(3人の立派な臣)を殺し(殉死させ)、百里奚を処罰されましたが、罪を犯したわけではありませんでした。それゆえ号(諡号)を繆(穆と同じ:誤ると同義)と申し上げるのです』」とあり、処刑された可能性を記している。穆公は過ちを認識し、それ故に子の孟明視を重用したとも考えられる。百里奚が没すると秦の男女はみな涙を流し、子供たちも歌声をあげなかったとされている。
子の孟明視や親友の蹇叔も百里奚の死後、宰相となって穆公をよく補佐した。孟明視は敗北を許され、後に晋を攻めて大勝した。『新唐書』宰相世系五下によれば、のちの秦の武安君白起は百里奚の子孫であり、更に白起の子孫からは唐の詩人白居易が出ているという。
百里奚(约公元前725—前621年),姜姓,春秋时期虞国(今山西平陆北)人,百里氏,名奚,字子明,号五羖大夫。春秋时期著名政治家、思想家。
百里奚本是虞国大夫。晋献公假途伐虢后,灭亡了虞国,俘获百里奚。作为秦穆公夫人(穆姬)的陪嫁奴隶送到秦国。百里奚逃离秦国,跑到楚国宛邑。秦穆公用五张黑羊皮从市井之中换回后,进入秦国成为大夫,人称“五羖大夫”。主持秦国国政期间,百里奚“谋无不当,举必有功”,辅佐秦穆公倡导文明教化,实行“重施于民”的政策,内修国政,外图霸业,开地千里,称霸西戎,统一西北地区,促进了秦国的崛起。这一时期,秦孝公称之为“甚光美”的时代。史载百里奚“三置晋国之君”“救荆州之祸”“发教封内,而巴人致贡;施德诸侯,而八戎来服”,使秦国成为春秋五霸之一,为秦国崛起和统一六国奠定了牢固基础,堪称一代名相。
秦穆公三十九年,百里奚去世。
方苞《方望溪文集》中,三則關乎樂律者選。
《書樂書序後》《又書樂書序後》《詁律書一則》
《書樂書序後》
武帝席文景之盛不能損满持盈極情縱欲窮兵四遠佚而不思其終,安而不惟其始,故首述虞氏,君臣相勅,次及成王之恐懼,善守以為非,大德莫能如斯也,其曰悔,內人道益深,其德益至,所樂者益異,蓋謂不樂淫侈,而樂損減,與眾人之情異耳,君子能樂損,減以自節其所樂,然後民得沐浴膏澤,歌詠勤苦,此海內之人,道所以益深,而君德以斯為至也,其序律書,終於文帝之煙火萬里,可謂和樂,用此義焉耳,先王知助流政敎,莫善於樂,而聲之邪正,其感各以類應,故制雅頌之聲,以導之,治定功成,禮樂乃興,故漢興,高、惠、文景,皆未暇遑,武帝不能以此時興,道致治修禮正樂,而信方士舉慝禮,寵嬖倖,為新聲,夜祠郊壇,男女雜歌,以流星為瑞應則與,夫躬明堂陳雅樂而萬民咸蕩滌邪穢,以飾厥性者異矣,夫六國及秦二世不過以鄭聲自為娛,而武帝乃次馬歌薦於宗廟汲黯,所謂先帝、百姓豈知其音,蓋痛哉其言之也,然自仲尼不能與齊優並容於魯,黯言雖切,安能遏帝之侈心,而辨延年等之妄哉,嗚呼,秦之衰,李斯猶能直諫而弘,乃以黯為當族,則視趙高而又甚矣,股肱不良,萬事墮壞,此可為流涕者與,序樂至此,則更無可言者矣,而少孫乃疑其辭,事之未終而續焉,夫平準著,天變人禍,皆由興利之臣,故以烹弘羊乃雨,終而此書,痛弘以讒佞陷其君,故以虞氏之君臣相勅,始是二書之義法也,而少孫未之或知邪?
《又書樂書序後》
班史載,武帝采詩夜誦,有趙代秦楚之謳,河閒獻王,獻雅樂俾樂官存,肄而不常御,所常御及郊廟,皆非雅聲,而內有掖庭材人,外有上林樂府,皆鄭聲,故是書於鄭聲之禍,獨寓意於《春秋》六國及秦二世,而武帝所興新樂,僅載十九章,且稱其多《爾雅》之文,然於其中,特舉四時之歌,則舍是無足論者矣,自鄭音之興,厯數百年更三代,而時君世主,無不流沔於此,故曰,德至者,所樂益異,謂與《春秋》六國,秦漢之君異也,河閒獻王,所獻雅樂,弘嘗謂其音中正雅,乃不能輔帝,薦之郊廟,反因論馬歌,以陷直臣,方是時,凡帝過舉,皆弘以諛佞成之,股肱不良,萬事墮壞,所目擊而心痛也,不然則有虞氏之賡歌,何為讀之而流涕哉?
《詁律書一則》
神生於無形,成於有形,然後數,形而成聲,故曰神使氣,氣就形,形理如類,有可類或未形而未類,或同形而同類,類而可班,類而可識,聖人從天地識之別,故從有以至未有,以得細若氣微,若聲然,聖人因神而存之,雖妙必效情句,核其華句,道者明矣,非其其當作具聖心以乘聰明,孰能存,天地之神而成形之情哉,神者,物受之而不能知,及其去來,故聖人畏,而欲存之,唯欲存之,神之亦存,其欲存之者,故莫貴焉。
神者,樂之精華,所以動天地,感萬物之實理也,生於無形者,太虛之絪緼也,成於有形者,播於樂器,然後聲生,而神寓也。數者,十二律,三分損益之數也,播於有形之樂器,然後其自然之數,一一形見,而成宫商角徵羽之聲也,神使氣者,以天地之神而運於人之氣也,氣就形者,以人之氣而就乎樂器也,凡音之高下疾徐,皆以人氣之大小緩急,調劑而成,故日就也,旣播於有形之樂器,則其理如物類之羣分,而有可別矣,方其未播於樂器,初無宫商淸濁之可別,所謂未形而未類也,旣播於樂器,則鐘磬管絃,凡同形者,音必相似,所謂同形而同類也,然雖同形同類,而一器之中,其音之淸濁高下,又各自有別類,而可班者,制器而可別其度也,類而可識者,審音而可識,其分也凡此,皆天地陰陽之理,自然而有別者也,聖人知天地之理,而識其所以別者,故能從有,以至未有,而得細於氣,微於聲者,所謂神也,有者,器數之旣形也,未有者器數之未形也,聲氣辨於旣有器數之後,而神存於未有器數之先,故從有以至未有,然後可以探聲氣之本,而得其神也,然聖人雖識天地之神,而苟無以存之,衆人不能用也,故制為器數以存之,則其理雖微妙,必因器數而各效其情矣,效者,呈也,情者,實也,華者,器數之形,道者,神理之運也,核其器數而無差忒,則神理之運,亦可得而明矣,非天地之神本具於聖人之心而作律之,聖人又乘其聰明之獨擅以核乎器數之分,豈能存天地之神,而使聲氣之實理,各効於器數之中哉,聖人辨器數,以著聲音之實理,所謂成形之情也,神者,天地之所以鼓物,故神之去來,物之衰旺,視焉,而物常受之而不能知,如聞聲知勝負,而勝者、負者不自知也,審樂知興亡,而興者、亡者不自知也,而其情畢効於聲樂,故聖人畏而欲存之,唯欲存之,故設為器數,而神亦於是乎存,其欲存之者,聖心聰明之所寓也,故莫貴焉。 https://t.cn/A6tdlOY8
《書樂書序後》《又書樂書序後》《詁律書一則》
《書樂書序後》
武帝席文景之盛不能損满持盈極情縱欲窮兵四遠佚而不思其終,安而不惟其始,故首述虞氏,君臣相勅,次及成王之恐懼,善守以為非,大德莫能如斯也,其曰悔,內人道益深,其德益至,所樂者益異,蓋謂不樂淫侈,而樂損減,與眾人之情異耳,君子能樂損,減以自節其所樂,然後民得沐浴膏澤,歌詠勤苦,此海內之人,道所以益深,而君德以斯為至也,其序律書,終於文帝之煙火萬里,可謂和樂,用此義焉耳,先王知助流政敎,莫善於樂,而聲之邪正,其感各以類應,故制雅頌之聲,以導之,治定功成,禮樂乃興,故漢興,高、惠、文景,皆未暇遑,武帝不能以此時興,道致治修禮正樂,而信方士舉慝禮,寵嬖倖,為新聲,夜祠郊壇,男女雜歌,以流星為瑞應則與,夫躬明堂陳雅樂而萬民咸蕩滌邪穢,以飾厥性者異矣,夫六國及秦二世不過以鄭聲自為娛,而武帝乃次馬歌薦於宗廟汲黯,所謂先帝、百姓豈知其音,蓋痛哉其言之也,然自仲尼不能與齊優並容於魯,黯言雖切,安能遏帝之侈心,而辨延年等之妄哉,嗚呼,秦之衰,李斯猶能直諫而弘,乃以黯為當族,則視趙高而又甚矣,股肱不良,萬事墮壞,此可為流涕者與,序樂至此,則更無可言者矣,而少孫乃疑其辭,事之未終而續焉,夫平準著,天變人禍,皆由興利之臣,故以烹弘羊乃雨,終而此書,痛弘以讒佞陷其君,故以虞氏之君臣相勅,始是二書之義法也,而少孫未之或知邪?
《又書樂書序後》
班史載,武帝采詩夜誦,有趙代秦楚之謳,河閒獻王,獻雅樂俾樂官存,肄而不常御,所常御及郊廟,皆非雅聲,而內有掖庭材人,外有上林樂府,皆鄭聲,故是書於鄭聲之禍,獨寓意於《春秋》六國及秦二世,而武帝所興新樂,僅載十九章,且稱其多《爾雅》之文,然於其中,特舉四時之歌,則舍是無足論者矣,自鄭音之興,厯數百年更三代,而時君世主,無不流沔於此,故曰,德至者,所樂益異,謂與《春秋》六國,秦漢之君異也,河閒獻王,所獻雅樂,弘嘗謂其音中正雅,乃不能輔帝,薦之郊廟,反因論馬歌,以陷直臣,方是時,凡帝過舉,皆弘以諛佞成之,股肱不良,萬事墮壞,所目擊而心痛也,不然則有虞氏之賡歌,何為讀之而流涕哉?
《詁律書一則》
神生於無形,成於有形,然後數,形而成聲,故曰神使氣,氣就形,形理如類,有可類或未形而未類,或同形而同類,類而可班,類而可識,聖人從天地識之別,故從有以至未有,以得細若氣微,若聲然,聖人因神而存之,雖妙必效情句,核其華句,道者明矣,非其其當作具聖心以乘聰明,孰能存,天地之神而成形之情哉,神者,物受之而不能知,及其去來,故聖人畏,而欲存之,唯欲存之,神之亦存,其欲存之者,故莫貴焉。
神者,樂之精華,所以動天地,感萬物之實理也,生於無形者,太虛之絪緼也,成於有形者,播於樂器,然後聲生,而神寓也。數者,十二律,三分損益之數也,播於有形之樂器,然後其自然之數,一一形見,而成宫商角徵羽之聲也,神使氣者,以天地之神而運於人之氣也,氣就形者,以人之氣而就乎樂器也,凡音之高下疾徐,皆以人氣之大小緩急,調劑而成,故日就也,旣播於有形之樂器,則其理如物類之羣分,而有可別矣,方其未播於樂器,初無宫商淸濁之可別,所謂未形而未類也,旣播於樂器,則鐘磬管絃,凡同形者,音必相似,所謂同形而同類也,然雖同形同類,而一器之中,其音之淸濁高下,又各自有別類,而可班者,制器而可別其度也,類而可識者,審音而可識,其分也凡此,皆天地陰陽之理,自然而有別者也,聖人知天地之理,而識其所以別者,故能從有,以至未有,而得細於氣,微於聲者,所謂神也,有者,器數之旣形也,未有者器數之未形也,聲氣辨於旣有器數之後,而神存於未有器數之先,故從有以至未有,然後可以探聲氣之本,而得其神也,然聖人雖識天地之神,而苟無以存之,衆人不能用也,故制為器數以存之,則其理雖微妙,必因器數而各效其情矣,效者,呈也,情者,實也,華者,器數之形,道者,神理之運也,核其器數而無差忒,則神理之運,亦可得而明矣,非天地之神本具於聖人之心而作律之,聖人又乘其聰明之獨擅以核乎器數之分,豈能存天地之神,而使聲氣之實理,各効於器數之中哉,聖人辨器數,以著聲音之實理,所謂成形之情也,神者,天地之所以鼓物,故神之去來,物之衰旺,視焉,而物常受之而不能知,如聞聲知勝負,而勝者、負者不自知也,審樂知興亡,而興者、亡者不自知也,而其情畢効於聲樂,故聖人畏而欲存之,唯欲存之,故設為器數,而神亦於是乎存,其欲存之者,聖心聰明之所寓也,故莫貴焉。 https://t.cn/A6tdlOY8
析谢灵运的《辨宗论》
谢康乐具文学上之天才,而于哲理则不过依傍道生,实无任何“孤明先发”之处。惟其所著《辨宗论》虽本文不及二百字,而其中提出孔释之不同,折中以新论道士(竺道生)之说,则在中国中古思想史上显示一极重要之事实,似不能不加以表章——汤用彤
东晋高僧竺道生,是鸠摩罗什门下有“四圣十哲”之一,建立“善不受报”、“顿悟成佛”的理论,主张佛性人人“本有”,提出一阐提迦(佛教用来称呼不具信心,断了成佛善根的人)也可成佛,受到“旧学僧党”的攻击,被逐出建康。时任永嘉太守谢灵运的作《辨宗论》,支持竺道生。
《辨宗论》曰:释氏之论,圣道虽远,积学能至,累尽鉴生,方应渐悟。孔氏之论,圣道既妙,虽颜殆庶,体无鉴周,理归一极。有新论道士,以为寂鉴微妙,不容阶级,积学无限,何为自绝?今去释氏之渐悟,而取其能至;去孔氏之殆庶,而取其一极。一极异渐悟,能至非殆庶。故理之所去,虽合各取,然其离孔、释矣。余谓二谈,救物之言,道家之唱,得意之说,敢以折中自许。窃谓新论为然。聊答下意,迟有所悟。
“求宗之悟”,是谢灵运的《辩宗论》的核心思想。“释氏之论”,谓释迦牟尼的佛家。佛家讲修持,而修持方法择灭烦恼循序渐进,主张“圣人可学亦可至”,其成圣的方法是“渐悟”。“孔氏之论”,谓以孔子为代表的儒家。儒家认为圣道玄妙,主张“不可学且不能至”,列“孔门七十二贤”之首的颜回,也只是“殆庶”(接近于究竟)。
“体无鉴周,理归一极”,出自刘遗民与僧肇书云:“夫圣心冥寂,理极同无,体无鉴周,理归一极。”“一极”,意谓一个真实至极(最究竟)的道理。冯友兰《论禅宗》曰:“无”就是“无相”,就是“诸法实相”。对于“诸法实相”的知识,谓之“般若(能证悟空理的智慧)”。“鉴”,鉴照。“周”,周遍。与“无”同体者,普照诸法。故“体无”,则是鉴照、无的境界,就是“涅般(通过修行达到的最高境界)”。涅般与般若,得,一下皆得;不得,皆不得。此即所谓“顿悟成佛”,“顿悟”,是得般若,“成佛”,是得涅般。
“新论道士”,指竺道生。竺道生的“新论”认为,一切众生本有佛性,主张“顿悟论”。慧达《肇论疏》载道生的(大顿悟):“夫称顿者,明理不可分,悟语极照。以不二之悟,符不分之理,理智忘释,谓之顿悟。”诸法实相,无生无灭,玄妙一体,不可能今日悟一部分,明日悟一部分,必然是一次性的突然间的觉悟。顿悟成佛,亦非由积学所成,不容阶级,没有间隔。
“新论”,摒弃佛教“渐悟”,而取其能成“圣”的主张;舍弃了儒家的“不可成圣”,而取其“理归一极”之说,中和了儒佛两家“成圣、成佛”的理论,认为悟理证体不需要过渡阶段,凡修行者皆可顿悟而成佛。(梁)皎慧《高僧传》记载:生(竺道生)既潜思日久,彻悟言外,乃谓然叹曰:“夫象以尽意,得意则象忘;言以诠理,入理则言息。自经典东流,译人重阻,多守滞文,鲜见圆义。若忘筌取鱼,始可与言道矣。”“筌”,捕鱼器。竺道生的“新论”,取自儒释二家,这二家是捕鱼的器具,真正要捕获的鱼是“道”。所以谓“然其离孔释”,“道家之唱,得意之说”。
在我国五大宗教中,道教是唯一发源于中国、由中国人创立的宗教。谢灵运把竺道生的“新论”与道教相结合,儒释道融会一体,“新论”是佛教本土化的滥觞。
谢康乐具文学上之天才,而于哲理则不过依傍道生,实无任何“孤明先发”之处。惟其所著《辨宗论》虽本文不及二百字,而其中提出孔释之不同,折中以新论道士(竺道生)之说,则在中国中古思想史上显示一极重要之事实,似不能不加以表章——汤用彤
东晋高僧竺道生,是鸠摩罗什门下有“四圣十哲”之一,建立“善不受报”、“顿悟成佛”的理论,主张佛性人人“本有”,提出一阐提迦(佛教用来称呼不具信心,断了成佛善根的人)也可成佛,受到“旧学僧党”的攻击,被逐出建康。时任永嘉太守谢灵运的作《辨宗论》,支持竺道生。
《辨宗论》曰:释氏之论,圣道虽远,积学能至,累尽鉴生,方应渐悟。孔氏之论,圣道既妙,虽颜殆庶,体无鉴周,理归一极。有新论道士,以为寂鉴微妙,不容阶级,积学无限,何为自绝?今去释氏之渐悟,而取其能至;去孔氏之殆庶,而取其一极。一极异渐悟,能至非殆庶。故理之所去,虽合各取,然其离孔、释矣。余谓二谈,救物之言,道家之唱,得意之说,敢以折中自许。窃谓新论为然。聊答下意,迟有所悟。
“求宗之悟”,是谢灵运的《辩宗论》的核心思想。“释氏之论”,谓释迦牟尼的佛家。佛家讲修持,而修持方法择灭烦恼循序渐进,主张“圣人可学亦可至”,其成圣的方法是“渐悟”。“孔氏之论”,谓以孔子为代表的儒家。儒家认为圣道玄妙,主张“不可学且不能至”,列“孔门七十二贤”之首的颜回,也只是“殆庶”(接近于究竟)。
“体无鉴周,理归一极”,出自刘遗民与僧肇书云:“夫圣心冥寂,理极同无,体无鉴周,理归一极。”“一极”,意谓一个真实至极(最究竟)的道理。冯友兰《论禅宗》曰:“无”就是“无相”,就是“诸法实相”。对于“诸法实相”的知识,谓之“般若(能证悟空理的智慧)”。“鉴”,鉴照。“周”,周遍。与“无”同体者,普照诸法。故“体无”,则是鉴照、无的境界,就是“涅般(通过修行达到的最高境界)”。涅般与般若,得,一下皆得;不得,皆不得。此即所谓“顿悟成佛”,“顿悟”,是得般若,“成佛”,是得涅般。
“新论道士”,指竺道生。竺道生的“新论”认为,一切众生本有佛性,主张“顿悟论”。慧达《肇论疏》载道生的(大顿悟):“夫称顿者,明理不可分,悟语极照。以不二之悟,符不分之理,理智忘释,谓之顿悟。”诸法实相,无生无灭,玄妙一体,不可能今日悟一部分,明日悟一部分,必然是一次性的突然间的觉悟。顿悟成佛,亦非由积学所成,不容阶级,没有间隔。
“新论”,摒弃佛教“渐悟”,而取其能成“圣”的主张;舍弃了儒家的“不可成圣”,而取其“理归一极”之说,中和了儒佛两家“成圣、成佛”的理论,认为悟理证体不需要过渡阶段,凡修行者皆可顿悟而成佛。(梁)皎慧《高僧传》记载:生(竺道生)既潜思日久,彻悟言外,乃谓然叹曰:“夫象以尽意,得意则象忘;言以诠理,入理则言息。自经典东流,译人重阻,多守滞文,鲜见圆义。若忘筌取鱼,始可与言道矣。”“筌”,捕鱼器。竺道生的“新论”,取自儒释二家,这二家是捕鱼的器具,真正要捕获的鱼是“道”。所以谓“然其离孔释”,“道家之唱,得意之说”。
在我国五大宗教中,道教是唯一发源于中国、由中国人创立的宗教。谢灵运把竺道生的“新论”与道教相结合,儒释道融会一体,“新论”是佛教本土化的滥觞。
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