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“儚い熱を追い求めては今も亂れるこの世に、
逃れる術(すべ)を探すばかりの孤獨な星。”

-若太過執著追求虛幻之影,
-今日也不過是顆一味尋找逃離這混世的孤獨的星。

ଲ .。.:*・°ଲ .。.:*・°ଲ .。.:*・°ଲ .。.:*

妖館裡掉毛最嚴重的一個角落。

“雖然是很喜歡毛茸茸、但未免有點擁擠了……”
“喂!!聽到了嗎、她說喜歡我喔?”
“…”在醞釀一些把對面丟進壁爐尾巴毛燒光光的計劃。

“突然想看什麼東西爆炸。”
“她說想看你爆炸。”
“是殉情的一種嗎!樂意之至…!”

姑且算是熱熱鬧鬧地跨年了…_(:з)∠)_

*夾心餅乾初放送!!!是百鬼夜行pa!!!
*大家2024快樂!!新的一年也要一起玩(›´ω`‹ )

#小治赶海#

島左近(嶋左近)の歴史
筒井家家臣時代
筒井順慶家臣時代
島左近は1540年(天文9年)、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)に生まれました。

いつから「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えていたか定かではありませんが、少なくとも1570年(元亀元年)頃には仕えていたと言われています。

島左近は、筒井家の猛将として、大和国を巡って「松永久秀」(まつながひさひで)と激闘を繰り広げました。

1577年(天正5年)、「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で松永久秀を倒し、筒井順慶は大和を平定。

その後、島左近は「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)の援軍として、播磨(現在の兵庫県)攻めに参戦。毛利軍に包囲され、「山中鹿介」(やまなかしかのすけ)が籠城する「上月城」への救援に参加しています。

1579年(天正7年)には、謀反を起こした「荒木村重」(あらきむらしげ)が籠城する「有岡城」攻めに参加。

「本能寺の変」後、筒井順慶は、豊臣秀吉に対する態度をはっきりさせなかったことを理由に苦しい立場に立たされましたが、大和一国は安堵されました。

1583年(天正11年)、島左近は筒井順慶に従い、滝川一益(たきがわかずます)を攻めるために伊勢(現在の三重県)に出陣。その後、「柴田勝家」軍と戦うために近江(現在の滋賀県)へ。敗れた柴田勝家は、「北ノ庄城」で自刃しました。

1584年(天正12年)頃、島左近は椿井城主となります。また同年、小牧・長久手で豊臣秀吉と「徳川家康」が交戦中に、筒井順慶が死去。養子「筒井定次」(つついさだつぐ)が跡を継ぎました。
翌年、豊臣秀吉は畿内を羽柴一門で固めるため、大規模な国替えを敢行。筒井家は大和から伊賀(現在の三重県)へ移封されます。

筒井家との決別
伊賀における島左近についての記録は、ほとんど残っていませんが、筒井家が伊賀へ移封されてから数年のうちに筒井家を去ったという説が有力です。

その理由としては、2つの有力な説が唱えられています。筒井定次の水不足に対する裁定への不服と、筒井定次への絶望です。

水不足対策裁定への不服
発端は、夏の水不足でした。「中坊飛騨」(なかのぼうひだ)が用水路をせき止め、自分の領地内の田に水が回るようにしてしまったことで、島左近の領地の田には水が回ってきません。困った領民達は、島左近のもとに対応の陳情に訪れました。
島左近はまず、中坊飛騨に用水路のせき止めをやめるよう依頼。中坊飛騨が断ったため、新しい用水路を作って自分の領地の田に水が流れるようにしました。その結果、自分の領地の田に水が回ってこなくなった中坊飛騨は、主君・筒井定次に直訴。対処を求めたのです。

筒井定次と中坊飛騨は、昵懇(じっこん:打ち解けて付き合う仲であること)の間柄でした。そのため、訴えを聞いた筒井定次は、今回の一件について、島左近に非があると裁定。新しく作った用水路を壊すよう命令します。水不足自体は、その後の降雨によって解消されましたが、島左近にとって決別を決めるのには十分な出来事だったと言えるのです。
筒井定次への絶望
筒井順慶の跡を継いだ筒井定次は、色欲に溺れていたと言われています。島左近は、そんな筒井定次を諫めていました。
しかし、筒井定次もその取り巻きも耳を貸すことはなく、そんな状況に愛想を尽かし、島左近は筒井家を去ったと言われています。

島左近が筒井家を去った大きな理由として伝わっているのはこの2つ。いずれにしても、島左近は筒井定次が主君として仕えるべき人物であるのかということに疑問を感じ、筒井家を去ったことに違いありません。

筒井家との決別後
筒井家を去ったあとの島左近の消息は、はっきりしていないのが実情です。伊勢の「蒲生氏郷」(がもううじさと)に仕えたという資料もありますが、「羽柴秀長」(はしばひでなが)に仕えたという資料も存在。

また、筒井家を去ったあとすぐに「石田三成」に仕えたという資料もあります。このあと、島左近が次に歴史の表舞台に登場するのは、小田原征伐のときです。

石田三成に仕える
破格の条件
島左近が石田三成の家臣になった時期については諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

一説には、石田三成が水口(現在の滋賀県)4万石の知行をもらっているときに、島左近をその半分にあたる2万石の知行で召し抱えたという話が伝えられています。

また、石田三成が1595年(文禄4年)近江・佐和山(現在の)19万石の大名になったときに、島左近に2万石与えたとの説も存在。石田三成の知行が増えた場合には、それに応じて俸禄を増やすという提案に対し、島左近は「このままでけっこうでございます」と答えました。このやり取りを聞いた周囲は「この主君にしてこの家臣あり」だと感心したと言われています。
石田三成の補佐役
島左近については、武人としてのイメージが強いことは確かです。しかし、石田三成が事務方の奉行を務めていた関係から、島左近も槍働きばかりではなく、奉行の仕事を補佐することが多かったと言われています。

こうした働きについては証明できるだけの史料が残っていませんが、大和の検地奉行や、佐和山城下の整備などの手伝いをしていたという説が有力です。

波乱含みの晩年
豊臣秀吉の死
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。絶対的な権力者だった天下人の死によって、戦国大名が勢力拡大に向けてうごめくなど、国内は不穏な空気に包まれます。
豊臣秀吉の忘れ形見、「豊臣秀頼」を補佐する「五大老」の筆頭格に指名されていた徳川家康もそのひとり。

徳川家康は、石田三成ら「文治派」と「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「武断派」の対立に目を付け、武断派の武将に接近するなど、動き始めました。

まず、豊臣秀吉が禁止していた大名間の婚姻を無断で敢行。伊達氏、福島氏らの武将と姻戚関係を結びました。この規則違反に対し、石田三成らが五大老のひとりだった「前田利家」(まえだとしいえ)に報告。これを受けた前田利家の指摘に対し、徳川家康は謝罪したと言われています。豊臣秀吉とは幼馴染で、側近中の側近でもあった前田利家の存在は、徳川家康にとっても、無視できないものでした。

1599年(慶長4年)前田利家が死去すると、徳川家康の天下人への「野心」が表面化し始めます。その象徴とも言えたのが、「五奉行」のひとりである石田三成を政権から「追放」した出来事でした。

石田三成と対立を深めていた武断派の七将が、石田三成の館を襲撃します。石田三成は、徳川家康の館に逃げ込み、仲裁を依頼。徳川家康は、仲裁する条件として石田三成の佐和山への蟄居(ちっきょ:閉門して、屋敷の部屋から出ないこと)を挙げました。この条件を受け入れたことで、石田三成は政権から離れることとなったのです。
徳川家康殺害を進言
島左近は石田三成に対し、複数回に亘って徳川家康殺害を進言したことが伝えられています。武断派七将による襲撃をきっかけとして、石田三成が佐和山に蟄居する際、島左近は、徳川家康を殺害するなら今しかないと進言。しかし、石田三成の同意を得られなかったことで、徳川家康殺害計画は実現しませんでした。

徳川家康殺害が実行に移されたものの、「未遂」に終わったことも。「常山紀談」、「東照宮御実紀」によると、徳川家康が会津征伐に向かう際に、「長束正家」(なつかまさいえ)が城主を務める「水口城」に立ち寄ります。

これを聞きつけた島左近は、夜襲による徳川家康殺害を石田三成に進言。数度の説得の末、石田三成の許可を取り付け、水口城に向かいます。しかし、島左近らが到着したとき、徳川家康の姿はありませんでした。

こうして、徳川家康殺害が遂行されないうちに、石田三成を巡る状況は大きく変化。のちの日本を二分した、天下分け目の「関ヶ原の戦い」へとつながっていくのです。

石田三成挙兵
会津征伐が行なわれるきっかけとなったのは、1通の書状だったと言われています。それは「直江兼続」(なおえかねつぐ)が作成したと言われる「直江状」です。

上杉家に謀反の気配があるという噂が広まる中、徳川家康は上杉景勝に上洛して申し開きをするよう促しましたが、拒否されます。

その後、使者を介して再度上洛を促した徳川家康に対する返信と共に届けられたのがこの書状です。この内容に激怒した徳川家康は、会津征伐を決意しました。

「大谷吉継」(おおたによしつぐ)も、徳川家康による会津征伐に参加するため、領国・敦賀(現在の福井県)から軍勢を率いて東国に出発。途中で石田三成のいる佐和山に寄りました。そのとき、石田三成は徳川家康に対する挙兵の意思を大谷吉継に伝えます。

これに対し、大谷吉継はやめるように何度も説得しましたが、石田三成の意思は変わりません。一緒に挙兵して欲しいと依頼された大谷吉継は、「西軍」の総大将を「毛利輝元」(もうりてるもと)にすることを条件に受諾したと言われています。

大谷吉継の承諾を取り付けた石田三成は大坂へ赴き、徳川家康の罪状を記した檄文(内府ちがひの条々)を作成。徳川家康に対して反旗を翻したのです。
関ヶ原の戦い
関ヶ原へ進軍開始
9月14日未明、西軍は関ヶ原に向けて進軍を開始します。石田三成軍は、笹尾山に本陣を設け、その200~300m東に島左近と「蒲生頼郷」(がもうよりさと)を配置しました。

小早川秀秋は、関ヶ原が一望でき戦の様子が良く見える松尾山に布陣。不穏な動きを見せる小早川秀秋を見張るかのように、大谷吉継が松尾山の麓に布陣します。

開戦
「松平忠吉」(まつだいらただよし)軍の発砲で合戦が開始。福島隊と宇喜多隊が激突する中、石田三成軍については、ちょっとした戦闘はあったものの、大きな戦闘には発展していません。

そこで、石田三成は島左近と蒲生頼郷に黒田長政隊への突撃を命じます。対する黒田長政隊は、迂回して石田三成軍の側面から鉄砲を乱射。この攻撃を受けた島左近は、ひとまず退却することを余儀なくされました。
西軍、機能せず
石田三成軍の横に布陣していたのは島津軍でした。しかし、島津軍は、ただ時間が経つのを待っているだけという感じで同じ場所で動く気配がありません。
たまりかねた石田三成が使者を送り、馬上から進撃するように伝えますが、島津義弘は、馬上からものを言われたことを無礼だとして、使者を追い返してしまいました。

その後、石田三成は直接、島津義弘に進撃を依頼しましたが、「戦の勝敗はもうついているから勝手にさせてもらう」と、要請を断られます。

島津義弘は、並の武将ではありません。西軍の戦いぶりを見て、東軍に勝つのは難しいと感じていたとも考えられます。加えて、前述したような、石田三成による数々の「不義理」が積み重なっていた経緯もあり、島津義弘は「動かない」という選択をしたのです。

石田三成が頼りにしていた「小西行長」(こにしゆきなが)隊も開始早々に戦線離脱します。懸命に戦っているのは宇喜多隊、大谷隊、石田軍くらい。残りの部隊は、東軍部隊が攻めてくれば応戦する程度だったと言われています。毛利隊、小早川隊という西軍の中で大規模だった部隊は、全く戦闘に参加する気配がありませんでした。
小早川秀秋の裏切り
宇喜多隊や大谷隊の奮闘で、西軍は優勢に戦を進めていました。東軍の総大将・徳川家康は、思わぬ苦戦にしびれを切らし、小早川隊に寝返りの決断を促す射撃をするように命じます。

驚いた小早川秀秋は、寝返ることを決め、大谷軍に突撃を開始。小早川秀秋の裏切りを知った、脇坂、朽木、小川、赤座の各部隊も続き、一斉に大谷隊に襲い掛かりました。大谷隊も必死に応戦しましたが、徐々に押され始め、大谷吉継は自刃しました。

小早川秀秋の裏切りによって、形勢は一気に東軍有利に傾きます。奮闘していた石田三成軍でしたが、東軍の勢いに負け、徐々に押され始めました。島左近は、石田三成を戦場から逃がそうと、敵軍に突撃。最後は銃弾を浴びて死んだと言われています。

韓信

なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。

生涯
生い立ち
淮陰(現在の江蘇省淮安市淮陰区)の人。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった[2]。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけ。お礼なんていいわよ」と語ったという。

ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。

秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中(華北では中郎(中佐))となったが、たびたび行った進言が項羽に用いられることはなかった。

劉邦配下として
紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも連敖(接待係)というつまらぬ役しかもらえなかった。
ある時、韓信は罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま刑場に劉邦の重臣の夏侯嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を助命し劉邦に推薦した。

劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。自らの才能を認めて欲しい韓信は、漢軍の兵站の責任者である蕭何と何度も語り合い、蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違います。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠です」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する上将軍に任命して、軍権を委ねることにした。

韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち、

項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。
兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。
関中の三秦の王は20万の兵を見殺しにした元将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。
と説いた。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。

劉邦はこの年の8月に関中攻略に出兵、油断していた章邯を水攻めで撃破して、桃林で自害に追い詰め、さらに司馬欣・董翳も撃破した。そして関中を本拠地として、韓王の鄭昌を降して項羽との対決に臨んだ。

その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し、項羽の本拠地・彭城を陥落させた。しかし連合故に統率が甘く更に油断しきっていたため、斉から引き返して来た項羽軍の3万に奇襲され大敗。劉邦は命からがら滎陽に逃走した(彭城の戦い)。韓信も敗戦した漢の兵をまとめて滎陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を京・索の中間周辺で迎撃。楚軍をこれ以上西進させなかった。

躍進
体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と将軍の曹参とともに討伐に送り出した。

魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信はその対岸に囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。
その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行う(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。20万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余を泜水で、趙王歇を襄国で斬った(井陘の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車を探し出して捕らえ、上座を用意して李左車を先生と賞し、これからのことを相談した。李左車は「『敗軍の将は兵を語ってはならず、亡国の臣は国家の存続を計ってはならない』と聞きます。私は敗軍の将、亡国の臣です」と初め自分の考えを述べることに躊躇したが、韓信は「趙が敗れたのは、先生の策を入れなかった趙王と陳余にあり、先生にあるのではありません。もし先生の策が用いられていれば、私はここに居ないでしょう」と更に賞した。これに李左車は「『智者も千慮に一失有り。愚者も千慮に一得有り』とあります」と愚者の策であると前置きした上で、「次に進むとすれば燕ですが、このままでは敗れます。兵が疲労しきっているからです。まずは趙兵の遺族を慰撫し、その返礼と十分な休息を兵に与えます。燕は趙軍を少数の兵で下した漢軍を非常に恐れており、趙兵の遺族を使者として送り、利を説けば降るでしょう。降らなければ、休息十分な兵を向ければよいのです」と燕を下す策を与えた。そしてその策に従い、労せずして燕(河北省北部)の臧荼を降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出て、これを認められた。
この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の劉邦に対して幾度も兵を送っていた。しかし、それでも苦境にあった劉邦は、楚に包囲された成皋から脱出し黄河を渡ると、夏侯嬰らとともに韓信たちがいた修武(現在の河南省焦作市修武県の西北)へ赴いた。その際、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。韓信は、起き出して仰天した。劉邦は張耳ら諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じて曹参とともに斉を平定するように命じた。

ところが劉邦は、韓信を派遣した後で気が変わり、儒者の酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。この時、韓信の軍中にいた弁士蒯通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、このまま斉に攻め込むべきです。酈食其は舌だけで斉を降しており、このままでは貴方の功績は一介の儒者に過ぎない酈食其より劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い)と見られることでしょう」と進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は酈食其を釜茹でに処して高密に逃亡した。
斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且と副将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い濰水という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。この時、韓信は決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参の捕虜となった。

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない人物でありますから、貴方にとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。その後、蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてきます」と天下三分の計を献策された。韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。裏切ることができようか」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。


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